『テーマ館』 第23回テーマ「ブロック」


 「ブロック(その2)」   by  昆布ぱん(てふてふ) 


       入国審査の列からその男の顔が上がって来たとたん、私は思わず男に微笑み
      たくなった。「6時のニュースのアナウンサーにそっくりだ」。入国審査官の職業柄
      笑うことはめったにない私も、小さな期待で理由も無くうれしくなった。男は濃紺の
      スーツに青いシャツ、赤いネクタイが妙に合っている。グレーの髪はゆったりと男
      の頭の上の方をバランス良く巻いている。

       「パスポートをお願いします」と私が人一倍丁寧に尋ねると、男は、わからない、
      という素振りを一瞬見せた後、私の顔を凝視した。「パスポートをお願いします」
      私はもう一度繰り返した。男は何故か微笑み、それから意味不明の言語で二言、
      何かを言った。抑揚があるようで無く、ピッチがあるようで無く、母音が十分で無
      いのか、それは昔テレビで見た蛇の唸り声を思い出させた。「パスポートをお願
      いします」私は繰り返した。

       「ふざけないでください」と私がやっと言えるようになったのは十分ほど後だっ
      ただろうか。男が有名人と似ていることで、私の職業的警戒心がわき上がるま
      でに必要以上の時間がかかったからである。男の後ろの人の列は他の台に
      移り、一人で立っている男の周りだけが静かだった。私は上司に連絡し、「談
      話室」という名の取調室に、男を案内した。「談話室」で、上司と私は空港にい
      る世界各国出身の多くの男女に依頼し、男とのインタビューを試みるよう努力
      したものの、手話通訳の力を借りたものの、男はある時は微笑みながら、ある
      時は不愉快な表情をあらわにしながら、ある時は遠くを見つめるように、蛇の
      唸りを続けるのであった。

       六時間が過ぎた。「談話室」に税関職員が男のスーツケースを持ち込んで来
      た時は、上司は席を外し、部屋の中には男と私しかいなかった。男の手荷物で
      あるアタッシュケースの中は空っぽで、男のスーツのポケットにもパスポートは
      おろか男の正体を示すモノは何も存在しなかった。男にスーツケースを開けさせ、
      私は中を調べた。時間をかけて丁寧に調べたからだろうか、最後の期待が裏切
      られたからだろうか、机の上にある、スーツケースの中身の全てを眺めながら、
      私は顔が痛くなるような気がした。

       机の上にあるのは、一個のコンクリートブロックだけでしかない。

       その時、私には男が目の下にあるブロックにお辞儀をしたように見えた。しかし
      頭は止まらず、男の頭はブロックに鈍い音をたてて当たった。男を短く頭を振り
      起すと、すぐに頭を下げ、二回目の鈍い音がそれに続いた。四回目の音が聞こ
      えようとする時、私の体は宙を飛び、次の瞬間、椅子ごと倒された男とともに私
      の体は床の上にあった。しばらくして、抱きかかえる私の両手を振りほどき、男
      は両手で顔を隠すと、大声で泣き始めた。

      「うぉーん...........うぉーんうぉんうぉんうぉん.......」

      床に仰向けになり顔を手で覆いながら泣いているスーツの男はそれから、

      「お母さん、お母さーん、お母さん、お母さん、お母さん.....」

      と明瞭な日本語で言い続けた。

                            *−*−*

       広い青空には何筋かの飛行機雲が広がり、その下の教会の脇の墓地で私は
      母が埋葬されるのを眺めていた。すべてが終わり教会へ戻る短い間に、私は十
      年前の男の事件を思い出していた。「お母さん」と私は自分にささやいてみた。
      顔を上げ辺りを見回すと、そこには黒い服に身を包んだ参列者の、私を哀れむよ
      うに見上げる顔の列しか見当たらなかった。私は両手で顔を覆い泣く真似をした。
      涙が私の顔を濡らすことはなかった。
                                                                      
(投稿日:11月13日(金)10時18分48秒)