第43回テーマ館「境界線」



境界線 インビ [2002/02/20 17:47:14]


楓は今日も帰らない。

覚めた夕飯を温めて一人で食卓についた時、ふと、そう思った。
時計は9時をさしている。「帰らない」と決め付けるにはまだ早い時間だ。
しかし私は、確信していた。今日、楓が玄関のドアを開けてこの家に足を踏み入れることはもう
ない、という確固たる自信があった。
楓が大学に入って半年がたとうとしている。三ヶ月くらい前から帰りが遅くなる日が増えてき
た。一ヶ月前には家に帰ってくることも少なくなっていた。家に帰らない日は連絡を入れろ、と
言ったのに、今では私の携帯に楓から電話がかかってくることはほとんどない。
寂しいもんだな
心の中で呟いた。寂しいもんだ。この広い家に一人というのは。聞こえてくるのが近くを走る電
車の音だけというのは。
私はおもむろに、仏壇の方に眼をやった。一枚の写真が見える。
お前が生きていればな……と、思った。思ってしまった。最近そう思うことが多くなっている。
瞬間的に、私は眼をそむけた。やや覚めかけた麻婆豆腐を掻き込む。こんなことを考えちゃいけ
ない。お前に頼ろうとしてはだめだ。自分で解決すべきなのだ。娘との間に出来始めた溝は、自
分で修復するのだ。
喉につかえた麻婆豆腐を水で流し込んで、私は携帯電話を手に取った。電話を。楓に電話を…。
向こうがかけてこないならこっちからかけねばなるまい。楓の番号を検索する。あった。その番
号を見た時、心臓が早鐘を打ち始めたのが自分で分かった。一言。一言、言えばいいのだ。今日
は帰るのか帰らないのか、聞けばいいのだ。それだけ。それだけでいいんだ…。
私の右手が脱力感を伴って、だらんと下に垂れた。握り締めた携帯電話がやけに重く感じられ
た。画面には楓の番号が表示されている。電話は……していない。
携帯電話を静かにテーブルに置いた。水をまた、一気に流し込んだ。
娘に電話をするだけで私は緊張し、そんな自分を不甲斐無く思った。時間にしてわずか数分の葛
藤を、情けなく思った。楓と自分との間には、何か見えない壁があるように思えてならなかっ
た。壁……いわば、境界線のような。歳をとってしまった自分の世界と、年頃の楓の世界。この
境界線は、いつ出来たのだろう。三ヶ月前だろうか。大学に入学した時だろうか。それとももっ
と前から…。
私は、もう一度仏壇に顔を向けた。笑っている秋江の姿が眼に入る。ふと、気付く。
そうか…
お前が死んだ時に出来たんだ。お前という、
「橋」がなくなったから…

次に時計を見ると、11時45分だった。私は驚いて、立ち上がった。頭を整理する。どうやら
いつの間にか寝てしまったらしい。
「参ったな…」
声に出して呟き、しばらく辺りを見回した。とりあえず風呂に入ろうと思って、自室に着替えを
取りに行こうとした。その時、テーブルの上に放って置いたままの携帯電話が眼に映った。手に
取ると、画面には楓の電話番号が表示されたままになっていた。ばかだなー…と思いつつ待ち受
け画面に戻そうとした私は、メールが来ている事に気付いた。メールが来るなんて珍しいこと
だ。私は慣れない手つきでメールを開いてみた。そこには……。
ふいに笑みがこぼれたのが自分でも分かった。驚き半分、嬉しさ半分。私はそのメールを見続け
た。
そうか、なるほど…。境界線が出来たからといって諦めることはない
私はメールを打ち始めた。見るからに不器用な手つきで。たった四文字に時間をかけて。
境界線がなくなったわけではないけれど。
やっと出来たメールを送信する。
顔からはしばらく笑みが消えそうもない。困ったな…、と思った。
『今日は友達の家に泊まるので帰りません』
『分かった』

そうして私は自室に向かった。

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