『テーマ館』 第26回テーマ「さよなら/微笑み」


つぶされたトポス 投稿者:通琉  投稿日:04月02日(金)06時44分07秒

     「おーい!ここにもひとりいるぞ」
       3日たって、俺はようやく発見された。
       衰弱しきった体には3日分の汚れがこびりついていて、まるでゴミくずのように
      なった肉体は、どこかで売っている安物のぬいぐるみのようだった。
       俺は、乗せられた担架の上で、青く透き通った空にむかって力なく微笑む。
       久しぶりに見た空は、高く、大きく、そして限りなく広かった。
       だから、人生にさよならするのはまだまだ先でいい。
       

      「ごふっ」
       意識してないのにいきなり咳が出た。
       直後、右足の踵に激痛が走る。
       うつぶせになっているせいか思うように首がまわらず、痛みのするほうが振り向
      けずイライラする。
       目の前を土ぼこりで薄く染まった空気がどんよりと漂っていた。むやみに吸いこ
      むと肺につまってしまいそうだが、がまんする事ができないので顔をゆがめて歯の
      すきまから慎重に息をする。それだけでも舌に嫌な感触が残った。
       おまけに、腰をほんのちょっと動かしただけでも踵がギリギリと痛む。
       ちくしょう!動けないのが一番イライラするんだ!
       俺はたまらずかんしゃくをおこし、頭が血でつまっていくのを感じた。この世の
      すべてを憎んでも憎みきれないほどのエネルギー。たまらず目から涙がこぼれ落ち
      そうになった。
       わかった、わかったよ。とにかくわかったから、こっから出してくれ。たの
      む…。 
       さっきからずっと、全身を言いようのない怒りがつつんでいる。
       ただはっきりとしていることは、自分はいま生き埋めになって一人もがき苦しん
      でいる、ということ。
       他には何もわからない。 

       引越しの手はずがすべて整って、何もなくなった部屋にポツンとひとり残ったの
      は、おそらくもう二度と訪れることがないであろうこの場所にもう少しだけいたか
      ったからだ。
       ふところからポケットウィスキーを取り出し壁の柱になんかかって足を前に放り
      出すと、昼間の作業の疲れがドッと押し寄せてきて、とたんにだるくなる。たいし
      た量の荷物ではなかったが、普段つかっていない筋肉をところどころ使ったせいで
      腕が張っていた。あとふくらはぎ、腰、なぜか首も。
       そんなうっとうしいあれこれをウィスキーで除去しようと、俺は一息で半分ほど
      をのどに流し込んだ。
       とたんに、胃がヒリヒリと悲鳴をあげる。
      「やっぱなんか運動して体を鍛えておくべきだったかな」
      そんな思いが脳裏をよぎる。だがひょろひょろに痩せ細ったキース・リチャーズの
      勇姿を思い出し、
      「いや、鍛えなくていいんだ。中途半端にビルドアップするぐらいなら、徹底的に
      何もしないほうがいい。首から
      『私は限りなく貧弱な小市民です』
      と書いた札をぶらさげて街を歩く。なまじ腕に自身のある奴はそんな男を襲ったり
      はしない。むしろ恐いのは、ひまをもてあました若い野良犬野郎どもだ。だがやつ
      らには適当に巻いて作ったマリファナもどきを、そっと渡してやればいい。それで
      もだめなら…。」
       次第に「もや」のかかってきた頭でぼんやりと考えながら、つまらないことのあ
      れこれを想像していると、とたんに煙草が吸いたくなり、俺はキャスターに火をつ
      けた。
       携帯も切って、ただひたすらに誰もこないことを祈りながら最後の晩餐を心ゆく
      まで楽しむつもりでいた。酒を飲むときはなるべくひとり。それで気の利いた音楽
      のひとつでもあれば言うことなしだ。わずらわしいことのいっさいを忘れて、ただ
      海の上を漂わせてくれればそれでいい。
       自分は誰よりも小心者で、そのくせいろいろとわかったふりをしていて、頭より
      体が先に動くこともなくて、好きな娘を抱く勇気も性欲もなくて、大家さんにまと
      もにあいさつをすることもできなくて、借りた金をなかなか返さなくて、人のレポ
      ートを写すことだけが勉強と勘違いして、一晩かけて作ったオリジナル曲を人前で
      披露することができなくて、才能だけはあると変な確信をしていて、数え切れない
      ほどの多くの夜を酒とともに過ごし、あげくのはてに大学を2年も留年して、免停
      になって、夜の街でひとり置いてけぼりをくらって、コンタクトレンズを片方なく
      し、大切なCDを踏み割って、あの人と一緒に観に行こうと思っていた映画がいつ
      のまにか終わっていて、バイト先に給料を置いたままにして、人様にかけられるだ
      けの迷惑はかけてきた、そんな男だ。
       だけどここを去れば、自分の残してきた傷跡が時間とともに風化し、修復され、
      また新たな愚か者の手によって作り変えられて行く。それは誰も止めることのでき
      ない大きな法則であって、それがあるからこそみんな生きてゆけるし、死んでいく
      ことも出来る。
       とにかくこの部屋だけをとってみても、あの大家のおばさんのハードディスクで
      は容量不足な、とてつもない量の「あれやこれや」がつまっている。俺は人間につ
      いてはあまりよくわかっていない「人間」で、はなっから自分はたいしたことのな
      い野郎だとタカをくくってはいるが、こんなことを考えているとあながちここでの
      生活も悪くはなかったのではないか、と思えてくる。
       頭の中でなら、たいていのことは丸くおさまるように出来ているんじゃないの
      か?
       だからこうして、眠ることもできる…。

       体を動かさないでいたら、とりあえず痛まないことに気づいた。だいぶ日が高く
      なってきたせいか、あちこちに光のすじが走っている。
       そのどれもが静けさをかもし出すだけの、光のカーテンのように見えた。
       それは同時に、上に人影がないということを物語っている。
       俺はじっとそのすじを見つめていた。
       誰もいないのか…
       幾分か落ち着きをとりもどしたせいか。むしょうに小便がしたいことに気づく。
      いや、むしろ無意識のうちに封じ込めていた感覚が戻ってきた、といった感じだ。
       この避けようのない生理現象に、再びやりばのない怒りが込み上げてきた。
       飲み過ぎは、ほんと体に良くないな…
       そう思いながら俺は、慎重に右腕を下半身に伸ばし、ファスナーをおろしてモノ
      を取り出そうとした。
       その時、指先になにかが触れる感触があった。
       あわてて手探りでその物体をつかむと、痛みをこらえて顔の前にかざす。
       それはまぎれもない、携帯電話だった。

      「やっぱあれかな。年下って、年上の異性に興味持たないの?」
      浜野さんはいきなり俺の方を向いてそういった。
      「え?」
      「野口君からみて、23ってもうおばさん?」
      とんでもない。俺はそう言おうとしたのだが、なんか浜野さんに気があるのを悟ら
      れそうでついつい、
      「会社に気になる後輩でもいるんですか」
      と答えてしまった。
      「いや、そんなたいしたことじゃないんだけど」
      魅力的な微笑みを浮かべながら浜田さんは、イスから立ち上がって店の前のほうに
      出ていった。すこしだけきつい香水のかおりが、俺の鼻につく。
       状況から考えて、今の質問は単なる質問ではないような気がした。たまたま今日
      目の前にいる年下が自分だけ、というのもなくはないが、退屈しのぎの会話にして
      はつっこみすぎているんじゃないか?どっちにしろ、自分は今変に興奮している。
      それだけは言える。
       彼女は会社に内緒でここのバイトをしているので、いつも顔を合わせる機会がな
      い時間帯に入っていた。それに今日のように店がひまなのはめずらしい。
       帰り際彼女は、
      「今度カラオケでも行こうよ」
      と誘ってくれた。
       それだけでも俺はけっこう、うかれていた。

       携帯は多少ほこりを被っていたが、壊れてはいない。アンテナも、伸ばせばかろ
      うじて二本たつし、電池切れの心配もない。俺は、はやる気持ちを押さえることが
      できなかった。
       …日頃の行いの賜物だ。
       尿意をがまんしながら、119番を押す。
       2回コールがなった後、向こうの人が出た。
      「消防庁、火事ですか、救急ですか」
      …緊急です
      「もしもし?お声が遠いようです。火事ですか、緊急ですか」
      …だから緊急なんです…
       俺は愕然とした。
       肝心なところで、声が出ないなんて。

       チャイムが連続でけたたましく鳴り響く。駄目押しにドアがこぶしで何度もたた
      かれる。
       俺は堪忍して、重たい体をもたげるとドアを開けてやった。
      「よぉ。早く出ろよ」
      「…」
      まったく乗り気でなかったが、しかたなく部屋にあげてやる。流しでコップを洗う
      と、冷蔵庫から焼酎をとりだしてトクトクとそれに注いだ。
       振り返ると、神田は押し入れの中のマンガをガサゴソとあさっていた。
      「あれ?これの4巻は?」
      俺は焼酎の入ったコップをいったんテーブルの上に置くと、床に転がっている単行
      本を拾い上げ、無言で彼に渡した。
      「たしか新しいの本屋で見かけたからな」
      どうも「ただ読み」に来たらしいので、ギターを弾いて邪魔することにする。
       テレビを消してアンプのスイッチを入れると、ブチッと蚊をつぶしたような音が
      して電源がはいった。
       練習して覚えたニールヤングの「オハイオ」を、ほんの少しだけディストーショ
      ンのかかった音で弾く。イントロを3フレーズぐらいくりかえしたところで手を止
      め、酒に手をのばした。
       見ると、神田がマンガから目を離してこっちを向いている。
      「それ、なんちゅう曲?」
      「ん。ニールヤングの古い奴なんやけど…」
      「ふ〜ん。どっかで聴いたことあるような気がする」
      そういってまた読みかけのマンガに目を落とすと、今度は顔をあげずにこう行っ
      た。
      「コーヘイもさぁ、女出来りゃあ、変わるのにな」
       余裕の発言だな、と俺は思った。そりゃ、出来たばかりのアンタは幸せだろう
      よ。
       ふと、浜野さんの顔が頭をよぎった。

       携帯って、逆探知とかできるのか。
       なんか向こうの人、ちょっとムッとしていたっぽいな…。
       まさか声が出ないなんて。こんなの初めての経験だ。息はできるっていうのに、
      声帯が震えないなんてことがあるのか。筋肉運動ってのは記憶していなくても体が
      覚えてるってもんなんだぞ。それなのになんでこうも肝心な時に職場放棄するん
      だ、俺ののどは。
       また再び忘れかけていた尿意が復活してきた。体をなんとか横にかたむけて、た
      まらず外に真っ白な小便を出す。かかって汚れては事なので俺はゆっくりと力を込
      めながら放尿した。
       とたんに自分が情けなくなってきた。俺は顔をしかめると息をぐっと止めて、た
      だ静かに射し込む光のすじをにらみつける。
       落ち着いて考えれば、助けを呼ぶ算段が整うはずだ。どのくらい時間がたったの
      か知らないが、被害が大きい可能性は高い。でも消防が生きてるってことはそんな
      悲観的な大惨事でもないはずだ。いまにきっと、ここにも人が来る。
       俺は踵の痛みをこらえながら、両腕を胸の下に敷いた。これで若干呼吸しやすく
      なる。
       そして、頼みの綱の携帯をあごの下に置いて、ひとつひとつ、救いのくもの糸を
      手繰り寄せ始めた。
       無事に傷のつかなかった、自分の脳で。

       神田は一通りマンガを読み終えると、
      「あー。眠たくなってきた」
      と言って、借りたばかりのAVを脇にかかえて自分の家に帰っていった。
       俺はちょっと悪酔いしたので外にジュースを買いに出た。
       夜風が気持ち良かったので、そのまま外で煙草を4本ほど吸いつぶす。ぼーっと
      して頭を揺すっていると、前から見なれた人影が近寄ってきた。
       その日二人目のお荷物は、パタパタとサンダルの音を響かせながら、にやついた
      顔をしたまま勝手に俺の部屋に上がりこむ。
       同じ科の生島。いつもこの時刻になると遅くまで起きている俺を捕まえてひまを
      つぶす、拳法部の副部長だった。
       最近はどうも体育会の会長にまでなったらしく、とにかくなにを考えているかわ
      からないようなやつだった。
       俺は徹夜を覚悟して部屋に戻る。
       中に入ると、さっき神田が手付かずにしたまま残していた焼酎に会長が口をつけ
      てのどをうるおしている。俺はもう飲む気はしなかったので冷蔵庫からあまった分
      をとりだして、テ−ブルの上にどんと置いた。いつもはこんなことしないのだが、
      今日は特別だ。
       だがいつの間にか自分もつられて酒を飲んでいた。
       この日二度目のラリリで、俺は会長からこれまでの彼の半生を聞き出すことに成
      功した。
       この男の父親は自衛隊で、小中高と引越しを繰り返さずを得なかったらしく、そ
      のため会長の悩みは微妙に人と違う色をしていた。彼が言うには、自分はどうも人
      と深い友人関係を結ぶことができない。どこかで一線をひいていて、けっして心を
      許すことがないという。
       うらやましい話だな、と思いながら俺は聞いていた。
      「とにかくここを卒業したらまたどっか知らない土地にいくだろうし、そうやって
      俺は転々としながら生きていくんだ」
      「アメリカに行くようなことになったらどうすんの?」
      「え?そん時はその会社やめてどっかまたべつのところにいくんだよ」
      「そっか?アメリカとかなら行ってもいいんじゃないの」
      「あんな街中でいつも銃ぶっぱなしているような国に行くぐらいなら、俺はその会
      社間違いなくやめるね。そうすると日本国外にでるのはあまり嫌だな。流れ玉に当
      たって死にたくはないしな」
       それから話は、俺は国の為には死ねないだとか、自分の命は絶対自分の為だけに
      使うとかといったほうに転がり、さすが自衛隊の親父を持つだけあって強固な姿勢
      を崩さない会長の一面が浮き彫りになって、いつしか時がたつのも忘れ朝まで語り
      合っていた。
       俺はこの日を境に、国家を現実ではないととらえるようになり、若干個人主義寄
      りの思想をかかげることとなった。
       けど、なにかあったら会長に責任を取らせるつもりでいる。

       当たり前だが、のどがいかれているということは、よくこういう場面でやってい
      るように大声張り上げて助けを呼ぶことが出来ないということだ。
       俺はまず、声の代わりを求めた。
      携帯の着信音設定で、一番遠くまで届きそうな発信音を選び、音量を最大にして鳴
      らす。
       いつもはうるさくてすぐに切ってしまうような音が、このときばかりは心細く感
      じる。それでもこの瓦礫の上に届くだけの威力は十分にありそうだ。音は10秒も
      しないうちに止まってしまったが、あきらめずなんども同じ動作を繰り返す。右手
      を少し高くあげたりして距離を稼いだりもしてみた。音が止まるごとに、上から応
      答がないか耳を済ましてみる。
       ついでに声も出せないものかと唸ってみたが、一向に舌に力が入らない。そんな
      ことを繰り返しやっていると、次第に腕がしびれてきた。たった10秒程度しか続
      かない音では、こっちの体力が持たない。
       非力万歳とはこのことだ…。
       俺は、このときばかりは自分の体力のなさに、愕然とせざるを得なかった。携帯
      を地面に置いて、音だけを鳴らし続けることにする。止まらないように設定できな
      いものかと考えてもみたが、どういじってみてもそんな機能は発見できなかった。
      誰かが自分にかけてこない限り、音は途中で止まってしまう…。
       そう考えて、ふとあるアイデアが浮かんだ。
       なんだ。最初から誰かにこの携帯にかけてもらえばよかったんだ。声がでなくて
      も、携帯でメールを送れば相手に伝わるじゃないか。こんな簡単なことに、なんで
      今まで気づかなかったんだろう、この酔っ払いは。
       近くに住んでいる奴だと、もしかしたら被害にあっているかもしれないので、な
      るべく遠くにいる奴にかけることにした。うまく行けば、そのままそいつが助けに
      くるといった可能性もある。この発見に、俺は今いる立場も忘れて小躍りしたい気
      分になった。
      メモリーの中から適当に5人選び出し、同じ文面のメールをそれぞれに打っていっ
      た。
      「ノグチデスイマジブンノウチノシタニウマッテイマスタスケテ」
       送れる文字数が限られているのでうまく伝わってくれるかどうか心配だったが、
      続きの分は後で送るとして5W1Hの簡潔な文面を慎重に打ちこんだ。
       5人は遠慮しすぎか?
       俺は体裁かまわず、可能な限りの人間にこのSOS信号を飛ばすことにした。
       とにかく早いとこ、ここから出たい一心で。

       浜野さんの運転はちょっと荒っぽい。おまけに車高が低いのでもろに振動が伝わ
      る。
       それでも俺は、この深夜のドライブをいつもとは違った感覚で楽しんでいた。
       俺は普通免許を取っていなかった。さして取るべき理由も見出せず、二輪だけで
      かれこれ5回は捕まっていたのでどうしても自動車学校に通う決心がつかなかった
      のである。そうこうしているうちに時期を逃し、気がついたらまわりで取っていな
      いのは自分だけになっていた。親もたまりかねて入校金を出すと言い出したのだ
      が、そのうち行くの一点張りで押し通した。
       知らず知らずの内に、試験恐怖症になっているせいもあった。いかに免許を取る
      のが簡単だとはいっても、試験と名のつくものからさけて通りたい心境になってい
      たのである。
       それで浜野さんの運転をやゆするのは気が引けてできなかった。
       ただ残念だと思うのは、俺自身の手でホテルに誘導することが出来なかったと言
      うことである。
       もう朝が近い。
       閉じかけたまぶたが、バックミラーから吊りおろされたチェーンの残像を追いか
      けていた。
       花火を持つと振り回してよくやった、光でできる線のように、それはキラキラと
      輝きながら狭い車の中で踊る。
       俺はそのとき、むしょうに彼女の胸に甘えたくなっていた。

       仰向けで寝ると、恐い夢を見やすいという。
       だから自分は物心ついたときから、常にうつぶせになって寝る癖があった。胸板
      がほとんどなくて、薄っぺらなのもそのせいかもしれない。
       結構長い時間が経過したが、誰からも電話はかかってこなかった。
       携帯の時計が狂っていないとしたら、もうすぐ日が暮れて夜になる。
       さっきからずっと踵が痛くてしょうがない。こんな痛みは大学に入って早々、原
      チャリで事故って左足の骨を折ったとき以来だった。
       だからおそらく、俺の足は折れているに違いない。
       長期戦を強いられるのは勘弁してほしいが、電話がかかってこないというのはど
      うしてなんだろう。一回でなく何回かに分けてメールを送ったのだから、どれかひ
      とつは届いていてもおかしくはないはずなのに。電源だって、ほら、まだちゃんと
      ある。
       酔いつぶれて寝ている間に、誰かにここに連れてこられて俺だけ隔離されている
      んじゃないのか?そういうことならこれはすごい。
       大掛かりなセットで、かなり金もかかっているだろう。どこかに小さいカメラで
      も設置していて、いつか泣き出すであろうあわれな小羊をいまかいまかと楽しみに
      待っているのだ。ジムキャリーは大人になるまで気づかなかったが、自分ならそん
      なことになりはしない。ときたまカメラ目線で、余裕の表情を浮かべ、だまされる
      愚かな役をそれとなくこなしてやる。もちろん、ノーギャラで。
       何かの本で読んだことのあるフレーズ。
      「宇宙は大きなひとつのビリヤード台」
       仮に、宇宙全体を大きなビリヤード台だと例えると、ビックバンというブレイク
      ショットによってはじかれた星ぼしは、ニュートンやケプラーによって発見された
      法則にのっとって転がりだし、様々に形を変えながら台の上に絵を描きだす。それ
      は、キューをついた瞬間に始まって、時間軸に終わりがない限り続く、はてしない
      物語だ。
       あまりにもはてしなく、そしておおきい物語。
       とすると、なにもかもが最初から「決まっている」ことであって、俺や神田や会
      長や、近所の野良犬や、いつ聞いてもチンプンカンプンな講義をする退職間近の教
      授や、コンビニエンスストアのおじさんや、空き巣に入ろうとしている泥棒や、ビ
      ルゲイツや、赤塚不二夫先生や、誤って3億円を車ごと奪われた銀行員や、税金対
      策で国からいったん非難したロックバンドや、買ってもらったばかりのおもちゃを
      抱えて笑いながら家に帰る子供や、彼氏に浮気された女や、ヨットで太平洋を横断
      しようとする人や、宝くじに当たって人生が一変してしまった人や、ボーリングで
      ハイスコアを出して喜ぶ若者や、初めて恋人の横で目を覚ました男や、終身刑で刑
      務所にもう20年もぶち込まれている凶悪事件の犯人や、熱愛が発覚したばかりの
      芸能人や、パラシュートが開かなくてめちゃくちゃあせっているスカイダイバー
      や、読みかけの小説をどこまで読んだか忘れてしまった読者や、オリンピックで金
      メダルを獲得した選手や、縁側ですいかを食べる祖父と孫や、宿題をやらないまま
      寝てしまった中学生なんかがどんなに頑張って抵抗したところで、運命は変わりや
      しないということになるのだろうか。
       今まで生きて来た軌跡が、全てなにものかによって組まれたプログラム通りの結
      果で、これからの人生は法則にのっとって動くだけのただの決まりごとに過ぎない
      のか。
       そんなことを「現実」と捉える俺の脳は、次第に空気が抜けてしぼんでいくしか
      ない一個の風船のように、頼りなく意識を失っていった。
       
       神田の借りてきた「座頭市」はひさびさに俺に感銘を与えた。
       話の内容はさる事ながら、「座頭市」と言うのが人の名前ばかりだと思っていた
      勘違いが訂正されただけでも拾い物である。
       主人公の勝新太郎演じる「市」は、盲目のところから、「座頭」がついて、「座
      頭市」と呼ばれる凄腕の剣客であった。
       彼の居合の腕前は、速く、しなやかで、一時の無駄も省かれた瞬殺の剣術に見え
      た。
       時代劇を見て、かっこいいなと思ったのもこれが初めてである。
       彼の心の中がどうなっっているのか、知りたくてしょうがなかった。
       彼の人生に油断の二文字があってはならないことも、どこか悲しげでつらく感じ
      るのだった。

       しばらくして意識が戻った時、俺は、煙草が吸いたくてなんとかならないものか
      と思った。 煙草を吸えば、もう少しこの状態につきあってもいいのにという気が
      した。
       最悪なことに、何気なく目を落とした携帯の電池が、いつのまにか切れている。
       くもの糸の切れる音が聞こえた。 
       ここにきてようやく、絶望感が俺の身を襲う。
       振り払おうとしてきた、あってはならない感情がこれでもかと俺の心を引き裂い
      た。

       できることなら無心になって、何も考えずにいきたいところだったが、わけのわ
      からない言葉の数々が俺の脳裏をよぎっては消えて行く。
       俺は、覚悟を決める一歩手前に自分は来ているんではないかと、本気でそう思っ
      た。
       なんで、なんでこんなことになったんだろう。
       物事には必ず根本となる原因があるらしいが、それなら俺が今いるこの状況とな
      ったそれは一体なんなんだ。
       それは、死んで闇に食われたあとじゃないとわからないことなのか?
       いっぱしの哲学者が、一生考え抜いてもたどり着けない場所に、まるでたいした
      ことのないように転がっている小さい石。その石にびっしりと書きこまれた判別不
      能の文字軍。文字と文字との間に書きこまれた暗号みたいな絵。その絵の表そうと
      している意味。その絵の表そうとしている感情。その絵の表そうとしている恐怖。
      怒り。エロス。
       石は、見たことのない生命体によって拾い上げられ、投げられる。
       もうその石は、どこに飛んでいったのかさえわからなくなり、探し出す事もでき
      なくなる。
       いますぐ、千数えなくてはならない。
       でないと、どんどん時間は過ぎ去って、後に残された自分はどうすることもでき
      なくなってしまう。
       なんか、そんな子供だましの予感。
       

       十字架にはりつけにされた俺は、丘の上から長い道を見下ろしながら、ただ静か
      に流れ去って行くこの時の流れを感じる以外、何もすることができなかった。
       
       もっと、たくさんの草を食べておくべきだったと思いながら。