『テーマ館』 第26回テーマ「さよなら/微笑み」


卒業 投稿者:ノア  投稿日:04月26日(月)08時22分14秒

      「もうすぐ、か…」

      夕暮れで赤く染まった校舎。暗くなった教室。
      あんなに騒がしかったグランドも、すでに人影は無い。
       教室の窓際に肘をついて、外を眺める。
       止まった時間。
       太陽が地平線に隠れるまでの、現実と夢の狭間を行き来する
      時間。

       この中に溶けてしまいたい。

       今まで当たり前だったことが当たり前でなくなる。
       毎日会っていた彼女や友達が違う道を歩んでいく。
       遠くの町に行く。
       一人暮しが始まる。
       来月から働く会社はどんなだろうか。

       昔は18歳になったらなんでも出来ると思っていた。
       18歳の今は、そのあまりにもちっぽけなことに、もがくことも出
      来ないでいる。
       来年はどうだろうか。
       20歳になったら?
       どんなことが出来るようになっているだろうか。
       等身大の自分のまま、飾らないで生きることが出来てるだろう
      か。

      「風間くん」
      急に声を掛けられたこと、そしてこの時間に人がいることに驚い
      て振り向く。
      「どうしたの?こんな時間に」
      同じクラスの岡村さつきであった。岡村は美人ではなかったが
      雰囲気が柔らかいため、
      男子生徒の間では人気があった。
       俺の隣まで歩いてきて、同じように肘をついて窓の外を眺め
      る。
      「もうここからの景色も、見ることがなくなるのねぇ」
      「俺もそう思って見ていた」
      俺の顔を見て、岡村がニッコリ笑った。
      「今の風間くんって、なんか優しそう」
      「え?」
      「だって目が柔らかいんだもん」
      ちょっとだけ真顔に戻って。
      「いつもは近寄りがたい雰囲気があるんだよ。とっても」
      その口調は優しかった。
      「とっても?」
      「そう、とっても!だって、話し掛けづらいんですもの。私がそう
      なんだから、他の女の子なんて、もっとよ」
      「そうなのか」
      「そうよ」
      またニッコリ笑う。
      「でも私はどっちの風間くんも好きだな。だってどっちもかっこい
      いもん」
      目の前でかっこいいと言われたのは初めてだった。ちょっと戸
      惑って、思わず岡村の顔を正面から見てしまった。
      もしかしたら、顔が赤くなっていたかもしれない。
      「そういえば岡村こそ、どうしてここにいるんだ?」
      照れ隠しの言葉に岡村は微笑んだ。
      「ここから見た景色が好きだから」
      私だって見たいんだぞっ、と笑う。
      「いつも放課後になると一人で見てたのよ」
      気付かなかった。俺がそう言うと、もうっ、クラスの男の子たち、
      私が一人寂しそうに景色見てるのに、誰も気付いてくれないの、
      とちょっと拗ねたようにいう。
      「岡村には彼氏とか、いないのか?」
      「いないわよー。誰も声掛けてくれないの」
      意外だった。
      「彼氏がいるもんだとばっかり思っていた」
      「みんなにそう言われる」
      損よね、とつぶやく。
      「風間くんには、彼女、いるんでしょ?」
      まるで誰にも聞かれたくないかのような小声だった。
      小さくうなずく。
      「そっかぁ、そうだよねー、そんなにかっこいいんだから」
      空を見ながら言った言葉は、溜息まじりだった。
      「でも、もう別れる」
      「え?」
      「彼女がそう言ってきたんだ」
      「どうして?」
      「俺が東京で、弥生は京都に行く。弥生は大学生で、俺は社会
      人になる。まるっきり住む世界がちがくなるから、考え方も合わ
      なくなる。今のうちに別れようって、言ってきた」
      「そうなんだ」
      外はいつのまにか暗くなっていた。街灯がちらほらと明かりをつ
      け始める。
      「弥生さんって、3−Cの?」
      「ああ」
      「そうか、風間くんの彼女って、弥生さんなんだ。弥生さんって、
      美人よね。頭いいし」
      返答に困ってると、岡村はくすっ、と笑った。
      「こういうときは胸を張って、そうだ、美人だよ、って答えるの。遠
      慮することないわ。自分の彼女は誇るべきよ」
      「そうか」
      そういうものよ、と言われた。
      教室の電気はつけていない。中の暗さが増し、外が逆に明るく
      見えてきた。
      「…風間くんは、それでいいの?」
      「彼女のこと?彼女は新しい場所に行くのに未練が残るのは嫌
      だそうだ。俺にも彼女にもそういうの似合わないってさ」
      視線を感じた。
      「別に軽い気持ちで付き合ってたわけじゃないんだ。だけどその
      言葉を聞いたとき、なんとなく、別れたほうがいいな、と思った。
      相手と付き合ってたんじゃなくて、自分の中の理想化された幻
      と付き合ってることに気が付いたから」
      ちょっと笑って岡村の顔を見る。
      「でも、少なくとも俺の方には、未練が残ってる。弥生と付き合っ
      たおかげで成長できたところもあるし。今はまだだけど、その内
      二人に余裕が出来たとき、俺の方から告白しようと思う。今度は
      ちゃんと弥生を見ることが出来ると思うから」
      「そうかー。幸せね、弥生さん」
      一番星が瞬いた。もう暗くてお互いの表情も分からない。
      「…ねえ?」
      「何?」
      「私、あなたの恋人に立候補したいなぁ」
      思わず岡村の顔を見る。
      「嫌な女だと思った?別れたばかりなのに」
      こちらにくるっと振り向いて、見上げた。
      「でも、私、後悔したくないの!」
      その目には涙が光ってるような気がした。
      「もう風間くんとも会えなくなっちゃうかもしれないから。私の想
      いを知ってほしかったから」
      言葉を続ける。
      「弥生さん、あなたと付き合ったほうが幸せになれると思う。風間
      くんも、たぶん、ね。でも、私」
      うつむき、その肩が震えた。
      「私、入学してからずっと、あなたのことを見てたのよ…」
      岡村の体がいつもより細く頼りなく見えた。思わず肩を抱き寄せ
      る。
      「風間くん?」
      ちょっと固くなったが、徐々に体を預けてきた。
      俺の胸に顔をうずめる。柔らかく、甘い香りがした。
       体の震えがおさまってから、しばらくして。
      「岡村。もう少し、待ってくれないか?」
      「…」
      「少し、気持ちを整理したいんだ。弥生と別れてすぐ岡村と付き
      合えるほど、俺、器用じゃないから」
      「え?」
      涙を指で拭ってあげながら言った言葉は、彼女を驚かせたらし
      い。
      下から見上げるあどけない顔が、とてもかわいかった。少し体
      を離す。
      「俺のことが、ずっと、好きだったのか」
      「ええ」
      「俺は卑怯な奴だよ。さっきまでは弥生のことしか考えてなかっ
      たんだ」
      「そこに割って入ったのは私よ」
      「一緒にいると退屈に感じるかもしれないよ。そんなに人に合わ
      せられるほうじゃないから」
      「知ってるわ、風間くんが不器用なこと」
      「それでもいいって言うなら、少し時間がほしい」
      「待ってて、いいの?」
      「ああ」
      「ほんと?うれしい!」
      また胸に飛び込もうとしたが、軽く押しとどめる。
      「もうちょっと待って」
      「あ…ごめんなさい」
      ペロッ、っと舌を出すしぐさは、もういつもの彼女だった。

      学校の門はまだ開いていた。その両脇には枝振りの良い桜が
      アーチを作っていた。
      まだ3月。小さなつぼみが固く閉じ、春を待っている。
      「たまには帰ってきてくれる?」
      「ああ」
      岡村は地元の大学に行くとのことだった。東京と地元では少し
      距離があるが、俺も岡村もあまり気にしていなかった。俺は、弥
      生とさえ今までなかったほど、岡村と心が近くなっていた。この
      思いは錯覚かもしれない。
      だけど、それでもいいと思った。
      二人ともお互いのことを思っていることだけは確かだったから。
      「お願いがあるの」
      「何?」
      「一度だけでいいの。今、一度だけ、私を名前で呼んでほしいの」
      「いいよ…」

      …さつき。

      その響きは、甘い。上気したさつきの顔には、輝きの予感があ
      った。

       まだ季節は肌寒い。しかし微かに、桜の匂いがしたような気が
      した。
      上を見上げると枝が街灯に照らされている。生命の息吹が、俺
      たちをほのかに包む。
       4月になれば俺とさつきは別々の生活が始まる。多分仕事が
      始まれば忙しくなるだろう。
       出会いと別れ、そして始まり。
       春は忙しい。4月。そのとき俺は、桜を見上げる余裕があるの
      だろうか。

       共に帰る夜道は、優しく二人を包んでくれた。
      腕も組まない。手もつながない。
      だけど心だけは、控えめに、しかししっかりと繋がっていた。
       近いうちにさつきと付き合うことになるだろう。
       さつきの心は満たされているだろうか?俺の心は満たされ、
      安らかであった。
        
       桜が手を振った。
      俺は桜に軽くうなずき、あとにした。