第40回テーマ館「三日月」



三日月の夜 夢水龍乃空 [2001/06/17 19:31:35]


 大塚・渡良瀬ゼミでは、毎年三月から新年度のゼミが開始される。電気工学科の中では、どこ
よりも早いスタートだ。
 何をするかと言えば、その名も数学ゼミ。今年は相馬がゼミ担当となったが、黒板に出て説明
することを極端に嫌がる彼の性格のおかげで、新ゼミ生への講義は主に私、今井が担当すること
になっていた。一年前の記憶を懸命にたどりながら、それでもほとんどはその場でもう一度問題
を考えて、知恵と工夫で問題を解く様々な手法をレクチャーした。疲れる仕事だが、やりがいも
あった。私の気の抜けたような数学講義を、後輩たちはなかなか楽しんでくれているようだっ
た。
 そんなある日、私たちM1の研究室に、渡良瀬ゼミの新ゼミ生である熊田がやって来た。ぼん
やりした目を眼鏡の奥に据えた、ダルマか起き上がり小法師のような体型の、全体としてとぼけ
ている院生希望者だ。
「あのう、今井さん、折り入ってお話が」
 こんな話し方が、彼の特徴の一つだ。
「何?」
「ちょっと、お時間よろしいでしょうか」
「いいよ」
「では、こちらへ」
 春の学会は卒論の内容で発表するので、急ぎのテーマはなかった。かといって暇でもないのだ
が、私は好奇心が強い。何より世話好きである。頼まれると断れないのだ。
 ギャラリーに邪魔されたくないという熊田の希望で、私たちは八号館三階の窓際にある休憩ス
ペースへ向かった。応用電子工学科の島なのだが、知らないものには無関心だろうから、かえっ
て都合がいい。
「あのですねぇ、私実は、ずっと悩んでることがあるんです。そこでですね、ものは相談です
が、ここは一つ先輩の論理的思考でこの謎を解いてやってほしいんです」
 プログラムを放り出した甲斐はあったようだ。早速、私は彼に説明を促した。
 話は、一年前に遡る。
   *
 熊田は弓道部に所属している。四年となった今はもう引退しているが、籍は置いているとい
う。彼は弓道をずっと続けている。だから、高校でも弓道部に所属していた。その古い――とい
うほどでもないが――仲間で集まって、キャンプへ行こうという話が起こった。
 事の起こりは、単に街で偶然誰かと誰かが再会して、それでみんな集めようということだった
らしいが、とにかく熊田は参加した。総勢たったの五人ではあったが、もとより大人数の部活で
もなかった。
 その中には、女子が二名含まれていた。どちらも腕は熊田より上で、いつも負かされていたと
いう。中でも、沢木というのが弓道部のマドンナで、熊田を始め男子はみな彼女に憧れていたの
だそうだ。マドンナとは古風な表現だが、熊田は年齢よりも古い層の流行が標準だ。もちろん彼
は彼女にアタックしてみたが、あっさり振られた。その理由が「私ね、理屈っぽい人って嫌いな
の。もっと詩的な人が好みなのよね」だったそうな。それを熊田は口真似でもする感じで言って
くれたが、その人を知らない私に似ているか否か、判断は不能だった。理屈っぽさなら熊田など
私の足元にも及ぶまい。私もそのマドンナには好かれないだろう。どうでもいいことだが。
 山か海かでもめた挙句、山と決まり、彼らは現地へ向かった。雑草が伸び放題の開けた場所
で、ちゃんとしたキャンプ場ではなかったのだが、知る人ぞ知る穴場らしく、何組かの集団があ
った。その中の一つが、ある学園の天文部だった。
 天気予報では、その日は晴れ。しかし山の天気は変わりやすく、昼間は太陽が照っていたキャ
ンプ地周辺の空は、すでに黒い雲に覆われていた。雨の様子はないが、これでは天体観測どころ
ではないと、そのグループは嘆いていたところだった。
 彼らは意気投合し、それぞれ用意していた焼肉で大いに盛り上がった。
 天文部も男ばかりではなかったが、明らかに沢木へ注意が集まった。どんな時も、彼女が会話
の中心にいる形だった。確かに、高校を卒業して二年、彼女はより美しく成長していた。熊田は
以前に振られたことが大いに悔しかったそうだ。
 そんな折も折り、何時の間にか日付も変わっていたその時に、ふと空を見上げた天文部の一人
が呟いた。
「素敵だ……」
 上里というその部員の見ている先には、金色に輝く三日月が、厚い雲の合間からのぞいてい
た。朧月というのでもなく、くっきりと光を放つその月の周りから、次第に雲が晴れているのが
分かった。
「よし、望遠鏡だ!」
 天文部は待ってましたとばかりに、どうやって収納していたのか分からないほどの大きな天体
望遠鏡をテントの中から担ぎ出し、次々に並べていった。弓道部の熊田たちも、言われるままに
望遠鏡をのぞき、星々の姿を堪能した。沢木があの上里という男の傍に居付いているのが気にな
ったが、熊田はいつしか天体観測に心を捕われていた。
 翌朝。
 朝と言っても昼に近い時間にのそのそと起き出して、簡単に食事をして解散となった。後片付
けをしながら、天文部では前夜の収穫について熱心に語り合っていた。その中で、誰かが上里に
あの月の出は感動的だったな、と話した時、その言葉は生まれた。
「え、月なんてあったっけ?」
 あの時、誰よりも早く月を見付けて素敵だと呟いた上里自身が、まるで全てが夢か幻だったか
のような発言をしたことで、ちょっとした騒ぎになった。
「おいおい、お前が見付けたんだろうが」
「いや、知らないよ。え、何どういうこと?」
 弓道部のメンバーも巻き込んで、あの時あの三日月を発見したのは確かに上里であったことが
確かめられたが、それでも本人は否定した。覚えていない、その一点張りだった。
   *
「ね、おかしいでしょう?」
 熊田は言う。そうかな、と私は言った。
 私は、自分が決して詩人ではないことを知っている。情緒など無縁に近いし、例え自分の書く
小説の中でも、ロジックがメインであり全てである。しかし、なぜか人の心がよく見えるのが、
私としても実に不思議である。
「おかしいですよ。彼が空を見上げた時、確かに月は出てました。それに月の周りを除いて、全
体を雲が覆っていたんですよ。月以外の何を見て美しいと感じるんですか? 間違いなく、彼は
月を見たんです。あの三日月を目にしたんです!」
 体を前かがみにして顔を下に向け、右掌を上にして軽く指を曲げた状態で空中の何かを手の甲
でバシバシと叩くような仕草をしながら、熊田は熱く語った。
「分かってるよ。その上里という人は、確かに月を見たんだろうさ。しかし、どうだろうな、彼
は実際のところ、月は見ていなかったんだと思うよ」
 さて、読者のみなさんはこの謎が解けただろうか。謎は一つ、
『上里はなぜ月が見えなかったのか。』
 論理的な謎解きが私の唯一の趣味なのだが、まあ、たまにはこういうのがあっても、悪くはな
いだろう。
 私は、ちょっとした講義を試みた。
「月が見えなかったのは、どんな理由があるだろうね? ちょっと考えてみようか。
 大きく分けて二つあると思う。物理的に観測できなかったというのと、何らかの精神作用によ
って認識できなかったという二つさ。まずは前者から考察しよう。
 と言っても、開けた場所で視界を妨げるものなんてあるはずもないし、目隠しをしていたので
もなければ、その時だけ脳の視覚連合野にでも障害が出ない限り物理的に見えないということは
無いだろうね。
 だったら、答えは後者にあるんだ。彼の中で何かが起きた。だから、目に入ったその物体が月
であるということを彼は認識できなかった。もっと言えば、目に映ったそれが月でもなんでもな
い別なものとして認識されてしまったから、彼は月を見たという記憶がないんだよ。つまり、彼
が月を何と間違えたのかが分かれば、この謎は解けるんだ」
 ここまでは、論理的であると言えるだろう。熊田も、なるほどと納得している。しかし問題は
次だ。案の定、熊田は気付かない。
「それで、何と間違えたんですか?」
 私は少し、この後輩をいじめてみたくなった。いたずら好きというのも、私という人格の主要
な構成要素の一つだ。
「そのマドンナとは、その後連絡してるの?」
「いいえ。まさかそんな、振られた女にいつまでも固執しませんよ、僕は」
 ちょっとやめとくれよ、といった態度の彼だが、じゃあ連絡先とか分からないよねと言うと、
携帯の番号は知っているという返事だった。いつ聞いたのかと問えば、キャンプの時と言う。現
にさっきの話の中で、振られたのを悔しがっていたではないか。誰が固執しませんよだ、分かり
易いやつめ。
「答えが知りたかったら、その番号にかけて聞いてごらん。上里君とはその後うまくいってるの
かって」
   *
 私の推測は図星だった。熊田が電話すると、マドンナは照れながらもまあねと答えたそうだ。
照れながらというのは、熊田の言い分である。
 三日月を思い浮かべてほしい。古の人は、そこからさらに成長した月を上弦と呼んだ。また、
三日月のような曲線を、弓形(ゆみなり)とは表現しないだろうか。上里には、不意に現れたそ
の月の姿が、矢を番えた弓に見えたのだろう。漲った弓を支えているのは、一体誰だったろう
か。他にあるまい。沢木がそこにいたのだ。
 金色に輝く弓を、まさに射んとする彼女の姿を思い浮かべて、彼はつい素敵だと呟いたのでは
ないかと、私は想像した。あくまでも想像に過ぎないが、ちょっと他に可能性が思い付かなかっ
た。そこで、それを説明する代わりに私は熊田に電話をかけさせた。見当外れな回答しか得られ
なければ、私の想像が間違っていたということになる。しかし結果は見ての通り。私のイマジネ
ーションも捨てたものではないらしい。
 上里は空に浮かんだ沢木の姿だけを強烈に記憶していたために、それが実は単なる三日月に過
ぎないという事実が、全く認識の外に置かれてしまったのだ。だから、彼に『月』は見えなかっ
た。それが、答えだ。
 このことを、電話を終えて余計に混乱を深めた熊田に話してやると、彼はしばらくぽかんと口
を開けて固まった後、おもむろに右手を握りしめ、自分の顔の横へ持ち上げると、腰の辺りで待
ち構えていた左掌目掛けて振り下ろした。納得がいったようだ。
 私は研究室に戻ってから、しばらくこの謎解きの余韻に浸っている。久しぶりに気分のいい出
来事だったから、もう少し煩雑な日常を忘れたかったのだ。
 私は、満天の星空に浮かぶ三日月を思い浮かべた。月の尖った両端に弦を張り、矢を番える。
放たれた矢は流星となり、地表へ降り注ぐ。夜空を翔ける光のその先にはきっと、あの二人が仲
良く寄り添っていることだろう。

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