第40回テーマ館「三日月」



女神の弓 Koh [2001/07/04 16:35:00]


 さっきまでの土砂降りが嘘のように、空は澄み渡っている。三日月を映す水たまりめがけて、
私は小石を蹴った。
 誰もいない小さな公園。太陽の下では子供たちの声が響いているはずのこの場所も、月の光に
照らされている今は、人の影などない。
 私はブランコに腰掛け、錆びた鎖を握りしめた。

 月の光を紡いだような色の真新しいミュール、黒のベロアのワンピース、彼からもらった小さ
な三日月型のダイヤモンドピアス。彼と会うために、精一杯おしゃれした。なぜなら、仕事で海
外に出張していた彼が帰国する特別な日だからだ。
 今日は荷物置いたらどこに行こう?何を食べようか?疲れているかもしれないから、彼のマン
ションで料理を作ってあげてもいいな。
 待ち合わせの場所へ向かう電車の中で、私はいろいろ考えた。しかし、なかなか決まらない。
優柔不断な自分にイライラしながらも、それは彼と一緒に考えよう、という幸せな気持ちに包ま
れていた。窓の外を流れていく景色を見つめながら、思わず浮かんでしまう幸せな笑み。それを
人々から隠すようにこらえながら、駅に降り立った。待ち合わせの時間から少しだけ遅れてい
る。時間より前に行くよりも、少し彼を待たせようと思って、わざと電車を1本遅らせたのだ。
 はやる気持ちを抑えながら、雑踏をかき分け、私は駅前のオブジェを目指した。
 ・・・待ち合わせの場所に着いても、彼はいなかった。時間に遅れることなどない人が、遅れ
ている。しかし、待ち合わせの時間からまだ10分も経っていない。もしかしたら、空港からの電
車に乗り遅れたのかな?私はバッグの中から携帯電話を取り出すと、小さな画面をじっと見つめ
た。彼から遅れるというメールは入っていない。1本か2本乗り遅れたくらいなら、この街では
1時間も2時間も待つということはない。メールをわざわざ入れる必要はないだろう。だが、急
に私は不安になった。慌てて電話してみる。
 繋がらなかった。
 何度も何度もかけたが、どうしても繋がらなかった。
 電波の届かない場所にいるの?
 私はそのままそこで待ち続けた。1時間、2時間・・・。
 雨が降ってきた。今日の天気予報は晴れだったのに、裏切られた気分だ。それでも、私は待っ
た。せっかくのおしゃれが無惨な姿になるのには、それほど時間がかからなかった。それでも諦
めずに、雨に濡れ震える指先で、短縮ボタンを押す。
 やっぱり繋がらない。飽きるほどに聞いた女性のアナウンスが、耳の奥でこだましている。
 そのとき、ビルに備え付けられた巨大な画面に、飛行機墜落事故の速報が入った。私の胸がど
きんと音を鳴らす。
『先ほど入ったニュースです。日本時間今日午前11時頃、ニューヨーク発成田行きの・・・』
 時計は午後6時を過ぎていた。
 なぜ7時間も前の、しかも彼が乗っているはずの便のことをニュースでやってるのだろう。私
は薄れそうになる意識の中でそう思った。だが、冷静に告げるアナウンサーは無情にも繰り返
す。
『・・・連絡が途絶えたため捜査していたところ、つい先ほど太平洋で残骸らしいものが発見さ
れました。見つかった機体の一部には、この航空会社の名前がはっきりと読みとれるものもあ
り、消息不明だった便のものと断定されました。なお、乗員乗客534名の生存は絶望視されてい
ます』
 私は呆然としたまま立ちつくした。

 それからどうやってこの公園までやってきたのか、はっきりと覚えていない。この公園は、彼
のマンションのすぐ近くにあって彼の部屋からも見下ろせるところにある。
 私はぼんやりと彼の部屋を見上げた。暗い窓に月が映っている。
 美しく欠けた細い三日月。
 まるで、欠けた闇(くら)い場所が、彼を私から奪い去ってしまったかのようだ。
 残された弓の部分が、淡い光を地上に投げかけている。
 神話の月の女神は、人間に恋をしたけれどその命を奪ってしまった。彼も女神の放った矢に撃
たれたのだろうか。
 私は溢れる涙を指先でぬぐうと、ブランコから立ち上がった。そして、泥まみれになった月光
のミュールを、帰り道に向けた。
「あ・・・」
 帰り道の向こうに、三日月がいた。優しい光は、私の行くべき道を淡く照らしている。その光
の中、女神の弓を頭上に掲げた人影が、向こうからやってくるのが見えた。
「ああっ!?」
 私は思わず両手で口元を覆った。
 彼だ。彼が還ってきたのだ。
 例えそれが月の気まぐれな幻影だとしても、私は構わなかった。駆け寄る私に気づいた彼は、
その場で立ち止まり私を抱き留めるために両手を大きく広げ・・・ずに、大きな荷物を持ち直し
た。
「こんな時間に何やってんだ?」
 懐かしい声だが、言っている内容は素っ気ない。私は彼の目の前で立ち止まった。
「何って・・・。あなたが乗った飛行機が落ちて、皆死んじゃったって言ってたから、私、寂し
くてここに来たの」
 自分でも何を言ってるのかわからない。支離滅裂な私の言葉に、彼は一瞬の沈黙の後大笑いし
た。
「ああ、あれかー!俺もびっくりしたんだよな。乗るはずで搭乗手続きまでしたのにさー、おみ
やげ買うのに夢中になってたら乗り遅れたんだよ。でもさ、次の便にしたのはいいけど、俺の預
けた荷物、海の藻屑になったんだよなぁ」
「荷物なんていいじゃない!それよりも、どうして連絡してくれなかったの?今日会う約束して
たじゃない!!」
「あ。そういえばそうだったかも。ゴメン。忘れてた」
「ゴメンじゃないわよ。どんなに心配したと思ってるの?」
 私は両手で顔を覆って泣いた。さすがに悪いと思ったのか、彼は私の両肩にまぼろしではない
暖かな手を乗せ、引き寄せて抱きしめようとした。
 月の幻想的な光の下、恋人たちは再会を果たし、月光色のミュールが銀の軌跡を描いて、彼の
スーツに泥色の足跡を残した。
「を・・・。みぞおち、入った・・・」
「そのくらい、我慢しなさいっ!」
 三日月だけが、恋人たちを見つめていた。

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