第40回テーマ館「三日月」



上弦の月、下弦の月 いー・あーる [2001/07/12 16:45:39]


 その昔。
 月は毎夜、まあるい姿をしていたという。

 一日は昼と夜とに、きちんと二分されていたという。
 そして、各々を照らす為に、太陽と月が生まれた。
 太陽は昼、月は夜。
 そう、きっちりと決まっていたという。

 ところがある日、月はほんの少しだけ、昇る時間を間違えてしまったという。
 ほんの少し早く昇った月は、今しも隠れんとした太陽の姿を、目に焼き付け
てしまったという。

 溶けるような朱金の色と、その光と。
 空を染め抜く力と、その見事さに。
 月は、太陽を追おうとしたという。

 けれども。

 如何に追いかけても、月は月。
 如何に追いかけても、夜の眷属。
 太陽は月を、振り返りもせんだったという。
 夜に伸びあがり、暁を待ち。
 毎日繰り返し、切なさはつのるばかり。

 だから。
 月はゆっくりと欠けるようになったという。
 その切なさに。
 そのかなしさに。

 そして時には欠けた己の身体に弦を張り、太陽に向けて矢を構えるという。
 構え、そして弓を引き絞り…………

 射る事も出来ず。
 ただはらはらと泣くという。

 だから。
 月は時に昼の空に浮かび、時に暁に先駆けて空を駆け。
 時には命すら狙いながら。
 ……何時までも、太陽を恋うという。

 何時も、何時までも。
 哀しいばかりに恋い慕うという……

   ***

「……んで?」
「で、おしまい」
 ぴゃ、と、手を空に向けて開く仕草をして、彼女は笑った。
「ありがちー」
「……悪かったねっ」
 でも実際、月と太陽の恋物語なんて、ありふれていて。
「しかし、そう考えると、月が女性?」
「……性的偏見と呼んであげよう」
 いいけど、別に。
「最近だと、男性でもいるんじゃない?ストーカーとかさ」
「ストーカー……」
 お月様も、さぞかし一言言いたいに違いない。

 てくてくと、宵の街を歩いてゆく。
 まだ夜は、充分に更けてはいない。
 べたりと、まだ熱を含んだ大気の隙間を、時折夜の風が裂いてゆく。

「でもさ、上弦の月とか、下弦の月って、あれ、半月なんだよね」
「うん」
「どっちかというと、弦っていうなら、三日月の方が似合ってない?」
「まあ……でもあれは、光が切れているところを弦って喩えてるから」
「そうなんだけどさ」
 まあ、言いたいことは判るけど。

 アパートの向こうに、まだ月は隠れている。
 空の色も、まだどこか濁ったような色で。

 とんとん、と、彼女が数歩先に行く。
 とんとん、と、飾り模様の歩道を踏んで。
 とんとん、と、深く俯いたまま。

 そして、ふい、と、空を振り仰いだ。
 あ、と、その口が笑いの形に歪んだから。

 つられて、振り返ろう、として。

「すとーっぷっ」
「は?」
「はいそこ、振り返らないっ」
 ……何なんでしょう?
「出来れば目をつぶってっ」
「だから、何っ」

 くふ、と。
 彼女の笑い声と一緒に、涼しい風が通った。

「今日の月は、上弦の月でしょうか、下弦の月でしょうか?」
「はあっ?!」
「はあ、じゃなくってさ」
 そう言われても…………
「わかんないよ、月見えてなかったんだし」
「時刻から、考えてみてよ」
 くすくすと、笑い混じりに彼女が言う。
「ええっと……」

 あ

「ああ、上弦?」
「そうそう」
 目を開いて、振り返る。

「あ」

 それは、三日月。

 細い弓と。
 目に見えぬ弓弦と。

「太陽を射る弓」
「……うん」
「己が身を、弓にして」

 彼女の手が、ふわりと動く。
 すう、と、軽く頭上に登り、そこからゆっくりと前後に開く。

「太陽を、射る弓」

 ぴしん、と。
 爪先で、架空の矢羽を手放しながら呟く声。
 ……それは奇妙に鋭く響いた。

「己が身を弓にしてしまえば」

 細める目が、太陽を射る月こそを射るように。

「己を射ることは出来ないのにね」

 微かに、嘲笑うような響き。

 やはり空はまだ、うっすらと濁ったような色合いで。
 天蓋にこびりついた太陽光を、名残のように漂わせて。
 彼女はまた小さく笑うと、とんとん、と、数歩前に進んだ。

 今日は三日月。
 そんな夜。そんな宵。


戻る