第38回テーマ館「こんな一日」



こんな1日 夢水龍乃空 [2001/03/08 13:03:53]


 風邪がどうも治り切らない。
 体温計は確かに平常値を指している。しかし頭の中は確実に熱い。熱っぽさはまるで取
れていないのだ。体温計がおかしいのか私の頭がおかしいのか、それは神のみぞ知る。か
もしれない。
 だからというのでもないが、今日もまた寝坊している。確信犯だ。なにせ7時半には一
度目が覚めた。その上でまた寝したのだから、言い訳も何もあったものじゃない。
 9時に起き出して、炊飯器とストーブのスイッチを入れた。3月上旬。まだ充分に寒い。
 9時45分、そろそろいいかと布団から再び這い出て、ちょっと水が多かったらしい炊き
立てのご飯を後悔交じりに見つめながら、目玉焼きをこしらえる。もちろん、卵は2つ
だ。
 と、まあ、平凡な目覚めを無事に迎えた私は、今日もまた平凡に過ぎていくものと信じ
て、ゼミ室へ向かった。到着したのは11時ちょっと前。案の定誰もいない。前日まで大塚
ゼミのゼミ生と院生は、渡良瀬ゼミ生と集まってニセコ山荘へ卒業記念旅行へ行っていた
はず。みんな疲れているのだろう。参加していない山下と左沢、そして参加したくても車
を買ったせいで金がなかった北村には、昨日会っている。マシンの一台には旅行へ行った
組の角方の「学習中」という紙が垂れ下がっていたっけ。学会が近いから、予備実験なの
だろう。私は何も言われていないが、土壇場で実験しろなどとは言ってこないだろうな、
と心配したことを思い出した。
 隠し場所から鍵を持ち出し、ついでにM1の部屋を見たが相馬も笠倉もいない。昨日も昼
過ぎに来ていたから、今日もそうだろう。彼らの部屋はある空間にさえぎられてストレー
トに見えない。私たち大塚ゼミのゼミ室と向かいにある渡良瀬ゼミのゼミ室との間には広
い空間があり、大きなテーブルと何脚かの椅子、ホワイトボードなどなどがそろえられ、
憩いのスペースとして活用されている。先生たちはここを8210教室と名付けている。ここ
のホワイトボードが消え、再び出現するという事件があったことも懐かしい。もう1年近
くも前のことだ。
 鍵を開けながら隣のM2(修士課程2年)の部屋を見れば、小石も大林もいるらしい。マグ
ネットの行き先表示が2人とも「在室」になっている。M1の方は「帰宅」だった。ゼミ生
がいないのも、全員が「帰宅」だから分かるわけだ。
 鍵を隠し場所に戻して玄関へ入る。ここのドアは部屋の内側に向かって開く。廊下が狭
いせいだろう。中へ入り、いつものように靴を脱いで上がろうとして、私はつまづいて転
んでしまった。ここでこけたのはゼミ生活始まって以来だ。
 そこには、スリッパが妙に散乱していた。昨日の夕方帰る時は何事もなかったのに。恨
めしげにそれを見ながら、私は自分のスリッパを棚から取り出し、それをはいて歩き出し
た。おかしなものだ。私のスリッパ以外は大体棚から出ている。
「うぎゃ!」
 今度は思わず声が出てしまった。
 玄関から室内へは、ロッカーとキッチンに挟まれた狭い通路を通る必要があり、さらに
その突端は冷蔵庫のために人1人が通れる隙間しかない。さらに今日はスリッパが気にな
ってぼんやりと後ろを見ていたものだから、それに全く気付かなかった。
 ちょうど冷蔵庫の真ん前、通路を図ったようにふさいで椅子が1つ放置されていたの
だ。私はものの見事に、その椅子に正面衝突し、派手に床に転んでしまったのだった。
「誰だこれは…」
 最も考えられるのは冷蔵庫の隣にあるマシンを使った人間が帰り際、キャスタのあるそ
の椅子を少し転がして向きを変え、そのまま立ち上がって帰っていき、たまたま椅子が通
路にはみ出したという可能性だ。
 全てのマシンにはネットワークの都合から名前があり、それはLEO―獅子座の名称が与
えられていた。LEOの最後のログイン名を調べる。つまり、このマシンを昨日、最後に使
った人間の名前を見るのだ。
「俺かよ」
 私だった。しかし断じて言う。私は椅子をきちんと机側に寄せて立ち去る習慣がある。
自分の仕業ではない。それに、私が帰る時にはまだ山下がいた。通路がふさがれたままに
なるはずがない。この可能性は消えた。
 手掛かりを求めて、私は部屋を見回した。変化が2つある。
 AQUARIUS―水瓶座のマシンにあった角方の「学習中」がなくなっている。
 ごみ箱が、きれいになっている。
「ふざけやがって!」
 私は何もかも理解した。もちろん、犯人の見当もついていた。
「よう。今井は早いな」
 そこへ、手に何枚かのCD-Rと、真新しいCD-Rのケースを持った大林が現れた。以前に焼
いたCD-Rをさらに焼いて複製するつもりらしい。Compact Disk - Recordable。手軽でか
つなかなか容量も大きいために、ダウンロードしたmp3ファイルを持ち帰るなどの用途で
大活躍だ。
「おはようございます」
 私は精一杯の皮肉を込めて言った。
「昨日はどうもお疲れ様でした」
「あ、まあね。大変だったよー。小石は途中で寝ちゃうしさ」
「はあ、だったら間違いないですね」
 決まりだ。
「大林さん、恨みますよ!」
  *
  *
  *
 小石は途中で寝ちゃう。この発言が全てを裏付けた。
 私の推理はこうだ。
 スリッパが散乱しているのは、当然それを使った人間が片付けなかったからだ。学習中
の紙がないことから、角方たち、旅行に行っていたやつらが帰って来て、全員かどうかは
不明だがここへ立ち寄ったことは確かだ。荷物を部屋に放り出して、しばし歓談。そこで
あいつらが、宴会を提案しないわけがない。
 そこで材料を買い集め、8210教室で宴会を始める。肉体的に疲れ果てた酔っ払いどもが
後片付けに気を配るはずがない。とりあえずテーブルの上を片してホットプレートなど使
ったならそれを洗うくらいはしただろう。その際にごみ箱があふれ返り、それは片付けら
れているようだ。そして荷物を持ち、解散となる。当然のように、スリッパは放り出され
たままだ。
 だが、ここで酔っ払いらしいミスが出る。おそらくは8210にあった椅子だけでは足りな
かっただろう。いつものことだ。ゼミ室から出してそれを補う。その椅子を、戻し忘れて
いたのだ。
 誰かが、これは間違いなく最後まで残っていた人物なのだが、それをゼミ室に戻す。ゼ
ミ生が気付くくらいなら最初からやっているから彼らではない。かといって渡良瀬ゼミ生
に立場を変えても、結局は変わらないだろう。となると、旅行へ行っていない相馬と笠倉
は除外。渡良瀬ゼミで旅行に行ったのはゼミ生だけだから、残るは大林と小石の2人しか
いない。
 その2人のどちらかが、椅子を発見しそれをゼミ室に戻した時、面倒くさがって玄関か
ら通路を走らせ、部屋に押し込んだのだ。キャスタがあるわけだし、スリッパの山を見れ
ば乗り越える気は失せただろう。そして運悪く、椅子は通路の突端で止まり、私の行く手
を阻んだ。冷蔵庫の前まで来ていれば、玄関から見れば充分に部屋の中に見えるだろう。
犯人は安心して部屋に鍵を掛けたに違いない。
 大林は、小石が途中で寝たと言った。寝ている人間が椅子を片付けるはずがない。
 犯人は大林真琴、彼しかいないのだ。
「いやあ、届いてなかったんだ。ごめんごめん」
 話をすると、彼は笑ってそう答えた。こっちは怪我をするところだったのだ。笑い事じ
ゃない。
「でもまあ、よく見抜いたよな。さっすが今井くーん」
 何を言ってんだこの人は。
 大林は何事もなかったかのように、CD-Rを焼く作業に入った。私もマシンの電源を入れ
て、今日の仕事を始めることにした。
 まあ、こんな日があってもいいか。いや、いいのか? うーん、深く考えるのは、止め
ておくとしよう。
*
*
完

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