第58回テーマ館「死」



新・忠臣蔵  切腹 GO [2005/07/10 20:27:39]

1
辞世の短冊の一葉に筆を置いて止むことなく降り注ぐ桜の花びらを仰ぎ見た。その透き
間からは鋭い星が肌を刺すように光っている。
 それを眺めやって、内匠頭長矩は静かに溜息を吐いた。赤穂五万三千石の大名とは思
えぬ粗末な庭に、畳三畳を毛氈で覆い、四方を高張り提灯の明かりが照らしている。こ
れを見た長矩は自らを市井の罪人のように思えて、この片手落ちの公儀の処断に承服し
がたい無念の呪いがこもった。

 が、そのとき、ふっと浮かんだのは、「辞世の歌は風雅を込められてこそ辞世という
ものでござる」と、かって談笑の席で語った室鳩巣を思い出したからである。
 室鳩巣は木下門下の高足として知られ、学者としては水戸光圀の史館であり、歌道に
も俳諧にも優れた才能を発揮していた。その室鳩巣の言葉を思い出して気持ちを鎮める
ように、しばし沈思黙考した。

 辞世の歌は武士として当然の作法であった。いまさら悔いてみたところで詮無いこと
ではあるが、従五位下・内匠頭・赤穂五万三千石の城主たるわが身の血筋を辿った。
 慶長五年から同十六年まで、下野国真岡で二万石であった長重は、浅野長政の三男
で、その父長政が逝くや、亡父の退隠料として徳川家からもらった常陸真壁・五万石を
受け継いで、そこの城主になった。やがて大阪の陣で秀忠にしたがい武勲があって真壁
城から笠間城に移封され、三千石を加増された。

 そのころ播州赤穂城主・池田輝興が飲酒の途中、突然発狂し、その妻を切り殺し、侍
女二人を手負わせた。輝興は徳川家康の次女督姫を母とし、十六歳にして従五位下右近
大夫に叙任した俊才で、秀忠・家光の寵遇を得ていたから誰も信じられないことに眼を
見張った。
 その裏に将軍綱吉の陰謀の臭いを大方の家臣たちは濃厚に感じ取ったのは、貞享元年
の秋、殿中において若年寄稲葉石見守正休が、大老堀田筑前守正俊に刃傷に及んだのを
思い出したからだ。

 綱吉は大老堀田正俊を嫌っていた。いや、これまでの秀忠、家光に仕えてきた全閣老
を忌み嫌った。まして事ある毎に横槍をいれる堀田正俊が憎くてならなかった。これで
は将軍として発言ができない。そこで稲葉正休に命じて惨殺させたというのが、もっぱ
らの評判であった。
 家中一統の推測は当然のごとく将軍綱吉に向けられた。だが逆らうほどの気骨のある
武士たちは一人もいなかった。

 赤穂の地を改易になった池田輝興の後に、浅野長重が常陸国笠間から、播州赤穂に移
ってきた。それが初代長重である。
 思い巡らしてみると、池田輝興が赤穂を改易になったのが三十五歳、綱吉が将軍にな
ったのが三十五歳である。播州赤穂の家臣一統にとって三十五歳という年齢は、吉凶い
ずれにせよ、ただならぬ年齢であっただけに、常に薄氷を踏むような日々におびえた。

 その理由は浅野内匠頭が突如癇癪を起こす痞えの持病を抱えていたからだ。
 その予想は的中した。あろうことか、浅野内匠頭長矩が吉良上野介に刃傷に及んだの
も、何と三十五歳であったからである。

2
あれが吉良上野介との確執の発端になろうとは思いもよらぬ出来事であった。
 長矩はふつふつと湧いてくる事の経緯を怒りの去った静寂の中で反芻した。
 浅野内匠頭長矩に限らず、将軍をはじめ、大名・旗本の家にとっての最大の重大事
は、世継の有無で、各大名衆は正室が一生江戸屋敷で過ごすため、国元にも正室に準ず
るお国御前という側妾を置いておくのが慣わしだった。

 それを知らぬ長矩ではなかったが、その潔癖すぎる性格から側妾の一人も置いていな
かった。それゆえに、いまだ子息が生まれていなかったのを片身の狭い思いで過ごして
いた。
 長矩はまだ青年である。といっても正室阿久里とは天和三年に、十七歳で婚礼の式を
挙げて、早十数年。いまだ懐妊の兆候が全く無いのを家来はもとより、親戚一同も不安
がっていることは知っていた。

 それの噂を聞き知った吉良上野介義央は内匠頭を好機の目で見た。根っからの世話好
きで、自身も長男の弾正綱憲を出羽米沢上杉家に養子に出し、長女の鶴子は薩摩島津修
理太夫綱貴の正室である。このように吉良上野介の親戚は、上杉、島津、津軽、酒井、
保科などの大大名と十重二十重に繋がっていた。

 そのせいもあってか、世話好きは益々講じるばかりで、ついに浅野内匠頭長矩に養子
をすすめはじめたのである。
 その京に高家筆頭の吉良上野介義央が来ていた。
 このころから将軍の名代として御祝儀を奏上し、来年の春にはその返礼として正使・
院使が答礼として江戸に参向し、将軍に帝のお言葉を伝える下準備がなされていた。

 この度は、桂昌院に従一位を賜る綱吉のたっての願いである大切な使者で、その奔走
ぶりは日頃吉良上野介とは思えぬほど年に似合わぬ異常な熱の入れようだった。
 そして宮中の公家たちの度重なる気苦労な折衝をどうにか終えた。
 その疲れも癒えぬままに、もっか参勤交代の途次にある浅野内匠頭を待ち侘びたのは
各大名衆が京の滞在先に挨拶に来るのが通例だったからであるが、特に浅野内匠頭長矩
には養子の話を具体化させたい願望があったからである。

 「殿、吉良様が、今京に在わしますことをご存じ御座りましょうや」と京都留守居役
の役宅に到着すると、駕籠から出た長矩に履物を揃えながら、片岡源五衛門がさりげな
い口調で用件をきり出した。「各大名衆はぞくぞくとご挨拶に立ち寄られておられます
が……」
 高家は大名よりも身分が上である。室町時代から崇められ、下馬衆と称せられ、諸大
名が往還上で出会えば、この高家に対して馬を下りて平伏しなければならなかったの
で、そう呼ばれた。身分地位は将軍よりも上であった。

 「また高野前中納言保春の子息常春を養子にする話であろう。あの老人の世話好きに
は困ったものだ。顔を合わせれば相手は高家だ。断ることもできぬ」と眉をひそめて溜
息を吐くように呟いた。「わが浅野家は武門の家柄である。軟弱な公家などいらぬ。捨
て置くよりほかにあるまい!」
 源五右衛門は長矩の信任厚い三百石の小姓頭で、その長矩の性分は手に取るように分
かっていたが、このときばかりは顔を青冷めさせて朋友たちの顔を見回しては生唾を飲
んで絶句した。

 その朋友とは富森助右衛門二十一歳、近松勘六二十一歳、竹林忠七二十歳、高田郡兵
衛二十三歳である。
 いずれも長矩のお気に入りの小姓だった。その長矩が煩わしいと思っているのも頷け
たが、相手は室町以来の高家である。家臣も公家の養子を迎えるのに反対のものが大勢
を占めてはいても、相手が高家であれば挨拶に出向くのが当然の道理である。それを無
視すれば、如何なる災難が降りかかるか、小姓たちには火をみるよりも明らかだった。
それを片岡源五衛門は冷水をあびたように身を震わせて危惧したのだ。

 長矩にとって、もし養子縁組の件がなければ、あるいは自ら進んで吉良上野介の許に
おもむき、挨拶をしたに相違ない。しかし、あえて京に寄ったのは吉良上野介詣でのた
めではなく、京都留守役の小野寺十内の願いで、松尾芭蕉が滞在しているという書状を
もらったから立ち寄ったまでである。

 小野寺十内とその妻は歌道に優れ、また俳諧にも精通していたので、そういう関係の
知己が多く、松尾芭蕉とも交友があった。
 長矩はぜひ芭蕉翁に逢いたかったのは、野ざらし紀行である奥の細道の行脚を終えて
帰ったばかりであったからだった。その頃の芭蕉は俳諧に新風を起こし、身分上下を問
わず、いずれも優れた句を作っていたからで、世間では俳聖と崇められていた。
 この機会を逃してならば、もはや今生で合間見えることはないであろう。

 浅野内匠頭長矩は己が口下手であるせいもあって、あえて吉良上野介を避けるかのよ
うに京都留守役の小野寺十内の案内で松尾芭蕉と会っていた。
 鴨川に面した風向明媚な一室で、わび茶を喫しつつ、芭蕉翁を上座に置いて、長矩は
痩せ細った芭蕉翁の口から野ざらし紀行が語られるのを膝に手を置き、端座して聞いて
いた。あの奥の細道の文章が長矩の脳裏に蘇った。

 「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり……」それは漂白者としての
最期を迎えたい芭蕉の願望がありありと読み取れる内容だった。長矩は瞑目して奥の細
道の情景を寂寥感の中で静かに思い描いていた。

3
 もはや生きて再び国元へ帰ることのない赤穂を出てから数日、江戸に参向してきた浅
野内匠頭長矩は鉄砲州上屋敷で、迎えに出た江戸家老安井彦衛門が老いの身を窮屈そう
に平伏させて、上目づかいに最初に発したのは次のような言葉だった。
「殿、旅のお疲れも癒えぬとは存じまするが、この彦衛門、ぜひ折り入ってお願いの儀
がござります」

「何か?」と色白の長矩は道中の疲れも見せずに彦衛門に静かに静かな微笑を返した。
「この彦衛門が申すに及ばず、上様のご気性はご存じありましょう。さしたる落ち度も
なく、気まぐれのごとく減封や改易処分を言い出されるお方でございます」
「うん…」と長矩は頷いた。

 事実、将軍綱吉は狂気のように容赦なく大名を次々に改易にした。長矩が知るだけで
も越後高田二十万石を始め、親藩、譜代にかかわりなく何の不始末もなきままに減封や
改易や取り潰しに遭った大名は十指に余るほどだったからだ。
「この彦衛門、赤穂浅野家五万三千石に代えまして申し上げまする。何卒、殿には側妾
を置いて頂きとう御座ります」

「側妾か…」そう返事をする長矩のこめかみが微かに痙攣するのを見せたので、思わず
彦衛門は畳に額を擦り付け、首筋に汗を吹かせた。発作の兆候を感じたからだった。
 将軍綱吉にも子がなかった。綱吉の母は京都堀川通り八百屋仁左衛門の次女で、父親
が死んだのち、母親が関白二条光平の下司である本庄太郎兵衛宗利の妾になってから、
偶然、家光の乳人春日局に見出されて、家光の側室になったのである。その三代将軍家
光が狂死すると尼になって桂昌院となった。

 もともと母親に似て男から男へ淫靡狂いで登りつめただけあって、家光が死んでから
は異常を極めるほどの淫靡振る舞いは公然のものとして誰知らぬものがなかった。
 そういう桂昌院であったから、漁色家の僧隆光だけには特別の狂色に溺れていた。そ
の隆光曰く、家光である大獣院が若いころ、犬百匹以上を新刀試し斬りにした怨霊の祟
りであると進言したことから、生類憐れみの令が発せられた。すべては隆光の勧説であ
った。

 その血を引く綱吉が学問好きといいながらも、これまでの将軍の中でも江戸城を出て
遊びまわった将軍はいなかった。柳沢出羽守吉保の屋敷を訪れては茶会、能楽、四書五
経の講義をし、思うがままにお内儀や子女をもてあそんでは楽しんでいた。母親が母親
なら、子も子で、とても正常な将軍とはいえなかった。

「気まぐれな上様とはいえ、わが赤穂浅野家に改易させるような気配でもあると申す
か?」と長矩は拳を握り締めて震わし、気ぜわしく、高ぶった声で語気を荒げた。
 それは長矩にとっての予感だったのだろうか。ふっと減封、改易、取り潰しの憂き目
に遭った大名たちが脳裏をかすめたのだ。

「滅相も御座りませぬ。いずれのお大名もお国許に御前様をお持ちで御座りますゆえ、
そう申し上げたまでで御座ります」と彦衛門は平伏のまま後すざりした。
「この長矩に子がなくば、舎弟大学がおる。何も心配いたすでない」
 ようやく痞えが下りて、長矩は荒げた息が鎮まると、あとは頑ななまでに口を真一文
字に結んで沈黙した。

 安井彦衛門は冷ややかな主君の拒絶をくらって、そっと退室すると、長矩は脇息に身
を寄せ、雨の上がった葉桜の雫の光に目を向けた。もともと赤穂浅野家は武勇を持って
知られた気骨ある家柄である。

 始祖浅野長政は太閤秀吉の正室同士が姉妹であったから、秀吉が朝鮮の役を起こした
際、それを阻止できなかった五大老筆頭の徳川家康を一喝して頭を下げさせたほどの剛
直な人物で、その気骨は四代を経た今も赤穂浅野家の家風は武勇を誇りとする風潮が歴
然と受け継がれていた。

 だが長矩はおのが持病である痞えを子孫に受け継がせたくはなかった。あの凡庸な舎
弟大学ならば無難であろうと自嘲気味に思った。相続は当主が隠居して、その子が継ぐ
のが家督相続である。当主が急死して子がなければ、当然、その家は廃される。たとえ
妾腹の子でも長矩が思い描く舎弟大学とても、閣議で改易されたり、半地減封、領地換
えはまぬがれなかったからだ。だが上洛して江戸屋敷に到着したからには大学の仮養子
も消滅するのである。

 阿久里が茶を運んで部屋に入って来ると、一年過ぎて見る阿久里はもともとが色白の
美人で、さらに匂い立つような色香を放っていたので、長矩は思わず目を見開いた。そ
れは長矩一人だけでなく、家臣たちにとっても夫婦仲がひとしお睦ましく映った。
「無沙汰をした。大事ないか?」
「はい」
「それならよい」

 しかし阿久里の鬱積した心は晴れなかった。
「殿、この阿久里にご遠慮は無用に御座います。どうぞお国許に御前様をお迎えくださ
りませ」
「何をいうぞ。この長矩には阿久里の他に女子を持つ気はない。愛しいのは阿久里ひと
りである」
 そう言って、長矩は阿久里の手を引き寄せ、流れる着物の裾が割れて太ももが現れ、
長矩を見上げる反った阿久里の睫の瞬きや胸の鼓動をひしと抱き締めたのである。
4
 徳川幕府にとって最大の年中行事は京におわす帝の代理と将軍との挨拶の交換であ
る。吉良上野介を始めとして正使が上洛し、御祝儀を奏上する。それに対して春には答
礼として、勅使が江戸に赴き、将軍に帝のお言葉を伝える。その儀式であった。
 ここは江戸城本丸表御殿の時計の間である。
「義央殿、宮廷でのお働き、ご苦労でござった」と柳沢出羽守吉保は吉良上野介義央を
労った。

「はい。つつがなく相勤めましてございます」と真っ白な高家結いの髪を深々と畳に向
かって身を折ってみせた。
「うむ。来春は桂昌院様が従一位を賜る慶賀の春ゆえ、義央殿のお骨折りもひとかたな
らぬものがござったであろう」
「それもようやく落着いたしましてござりますれば、来春の勅使をお迎えするのが今か
ら楽しみでござります」

「この泰平の世が続く限り、上下を問わず、百般の礼儀が大切と申すもの。まして義央
殿は室町以来の高家でござれば、江戸城内では無くてはならぬ御仁でござる」
「もう戦国の世ではござりませぬ。泰平の定まったいまは、典礼規式の尊厳と武家諸法
度の遵守こそが世を鎮める時代にござりまする」

「うん。それを犯し破るものあらば、たとえ祖先歴代を誇る名門であろうと、容赦なく
処断するつもりである。微塵もの容赦もせぬことによってこそ、幕府の威勢は大いに安
泰でござる」と吉保は頷いて、しばし扇で首筋を叩き、思案げに天井を見上げた。「そ
れで勅旨・院使はどなたでござろうの?」と再び目を吉央に向けて、注視した。
「はい。勅使は高野前中納言様で、院使は清閑寺前大納言様にござります」

「ほう。勅使は高野前中納言でござるか? 確か吉央殿は赤穂浅野内匠頭の養子縁組に奔
走なされておられた御仁ではござらぬか?」
「はい。京都滞在中に内匠頭が訪ねて来られるかと期待いたしましたが、どうやら行き
違いがあったように思えまする」と別に京都で会えなかったからといって不快はなく、
どこまでも世話好きな老人の笑顔であった。

「なるほど。義央殿はの世話好きには、この吉保も感服いたしてござる。これも泰平の
世ならではのこと。よき縁組となれば幸いと申すものでござる」
「さようにござります。よって勅使御馳走人は浅野内匠頭長矩とし、院使は御馳走人は
伊予伊達左京亮村豊がよかろうかと存じまする。この義央にとって高野前中納言保春様
の御子息を浅野殿にご養子のお手伝いが叶いますれば二重の春の喜びと相なりましょ
う」
「なるほど、どちらも二回の供応役を務めておるから粗相もあるまい。よかろう。泰平
の世は有難きものでござる。とくに赤穂浅野内匠頭はさぞ喜ぶことでござろう」
                ж
 それから数日して、赤穂浅野内匠頭長矩は江戸城に呼び出された。
 盛装して大広間に若い伊予伊達左京亮村豊と共に平伏して待っていると、やがて柳沢
吉保が上座に端座し、老中、若年寄、そして高家衆が二人の大名を見下ろすように座っ
た。

 若年寄がやおら立ち上がって、柳沢に一礼してから、「上意!」と声高に叫んだ。浅野
も伊達も両手をついて畳に身を伏せた。
「来春の勅使御馳走人を赤穂浅野内匠頭長矩に命じる。院使御馳走人に伊予伊達左京亮
村豊に命じる。両名共心してお役目を果たされますように」

 勅使・院使の御馳走人に選ばれるのは、大名にとってまたとない栄誉である。それも
五万石から一万石の小大名が選ばれるのが通例で、浅野内匠頭長矩は播州赤穂城五万三
千石の城主、伊達左京亮村豊は伊予吉田城主であったから、両名ともすなおに悦んだ。
「お役目、有難くお受けつかまつりまする」と、さらに身を折って内匠頭と左京亮は畳
に額を擦り付けんばかりに腹の底から感激の声を絞り出した。

「ではお支度もごさろうゆえ、これにて下城なさるがよい」と若年寄の穏やかな声に十
六歳の年若い伊達左京亮が立ちかけたとき、浅野内匠頭はまだ両手を畳についたまま平
服しているのを見て、はて? と眉をひそめた。それは居並ぶ柳沢出羽守も老中、若年
寄、高家衆も同じであった。

「いかがなされた、浅野どの?」と若年寄が身を乗り出すように尋ねた。
 長い沈黙があった。やがて浅野内匠頭は面をわずかに上げ、居並ぶ幕閣たちを上目づ
かいにに眺めて、ようやく口をひらいた。
「一つお尋ねいたしたき儀がござります」

「なんじゃな?」どの幕閣も高家衆も穏やかな微笑を口元に漂わせている。
「勅使はどなた様でござりましょうや」と、やや咳き込むような早口の語気で尋ねた。
「なるほど、こちらの手落ちでござった。ゆるされよ。勅使は高野前中納言保春さまじ
ゃ。院使は清閑寺前大納言様じゃ。浅野殿には養子縁組のご縁のある方よえ、さぞかし
ご満足でござろう」

 浅野内匠頭の顔色がさっと変わった。寝耳に水であった。その鋭い視線が突き刺すよ
うに高家筆頭吉良上野介に向かった。
 おのれ! 京での滞在の折、挨拶に出向かなかった腹いせにかこつけて、この内匠頭長
矩に勅使供応役を押し付け、高野前大納言保春の子息、次男常春との養子縁組を無理強
いするつもりか!

 吉良上野介への怒りが何倍にも膨れ上がって長矩の胸中を痞えの一歩手前まで疼かせ
た。その吉良上野介は満面に優雅な笑顔をたたえて大きく頷いてみせていた。幕閣では
すでに養子縁組は成されたものと長矩は邪推したのである。
 許せぬ!

(つづく)




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