第58回テーマ館「死」



続新・忠臣蔵   切腹 GO [2005/07/15 01:38:26]

5
 勅使、院使の江戸参向は三月十一日と決定した。明けて元禄十四年は屠蘇を祝う間も
なく、浅野家中は江戸屋敷も、国許も上へ下への大騒ぎであった。
 国元では大石内蔵助が吉良邸におもむき挨拶するように丁重な文をしたためたが、浅
野内匠頭長矩は二月中旬が過ぎても鉄砲洲上屋敷から一歩も出ようとしなかった。
 当然、勅使御馳走人になったからには吉良上野介に教示を受けなければならなかった
ので、国家老の大石内蔵助は頑として聞き入れない主君長矩に気をもむばかりで、歯痒
い思いを江戸家老にまで叱責めいた文をしたためた。

 安井彦衛門は院使御馳走人になった伊予吉田城主・伊達左京亮は大層な進物を携えて
上野介の許へ挨拶に赴いたと聞かされた。
「何ということじゃ」

 吉良上野介とて裕福ではない。昨年、将軍家から一万両を預かったものの、帝をはじ
め、公家衆に桂昌院従一位を賜るための金子をばらまいた。それでは足りず、吉良上野
介の内懐まで負担する金子も多かったから、その借財を補うために浅野家と伊達家から
賄賂を期待していた。当時の賄賂は罪悪ではなく、相手の身分地位、立場に対する敬意
を表すものであり、賄賂こそ形式を踏む常識的な通例であったからだ。

 伊達家のご進物を聞かされて、さすがの彦衛門も慌てためいた。自ら伊達家に劣らぬ
金銀のご進物を携えて駆けつけたが、すべては遅きに失した。吉良上野介は貪欲と虚栄
の権化ではなく、きわめて質素な教養人であった。ただ伊達家では当主左京亮自らが典
礼指南を乞うて頭を下げに来たのに対し、浅野家からは勅使御馳走人が代理を使わすと
は何事かと気分害した。
「浅野は、この上野介に遺恨でもあるのか?」
 いくら温厚な上野介とはいえ、養子縁組の話を期待していただけに、江戸家老では話
にもならなかったのだ。

               *

 二月某日のこと。それも早朝のことである。
 予告もなしにずかずかと慌ただしく廊下を蹴って内匠頭の部屋に入ってきたのは戸田
采女正氏定である。
 氏定の母は内藤飛騨守忠政の娘で、内匠頭の母の姉にあたっていた。氏定は内匠頭よ
り十四も年上で、美濃大垣十万石の城主であるが、従兄弟でもあったから、何の遠慮も
いらなかった。

「挨拶は省く。貴公は吉良上野介殿にご挨拶にも行っておらぬそうじゃな」
 その態度はいまにも掴みかからんばかりだった。
「はい、痞えで臥せっております」
「たわけ!」と氏定は一喝した。「勅使御馳走人に選ばれながら、いまだに吉良邸に挨拶
にも出向かぬとは如何なる料簡じゃ!」
「誰かに頼まれましたか?」と内匠頭は沈痛な面持ちに怒りの朱をまじえて問うた。

「おう。大石内蔵助殿から嘆願の書状が来た。首根っこを引っ掴んでも吉良屋敷まで連
れて行って欲しいとのことじゃ」
「勅使御馳走人は二度目であることは内蔵助とて存じているはずでござりますが……」
と氏定の激しい見幕におそれを為して独語するように長矩は弁明した。
「何を言うか!あの折は大石頼母殿がおられたればこそではないか。其処許はまだ弱冠十
七歳ではなかったか!」

 大石頼母は内蔵助の祖父吉欽の弟で、赤穂に在っては内蔵助良雄の後見職であり、江
戸に在っては主君に落度がないように心を配った。そのおかげで、長矩は勅使饗応役の
大役をはたし得たのである。いわば赤穂浅野家を安泰に導いた大功労者として長直・長
友・長矩の三代を操り人形のように動かし続けた忠臣であった。

 その頼母も、この世にはいない。
「養子縁組の件は聞き及んでおる。しかしの、来月の勅使参向にあたって、御馳走人の
下命を受けたからには、如何なる艱難辛苦に耐えても、吉良邸に挨拶に行かねばならぬ
ぞ。養子縁組など、とかく破談になりやすきものよ。何も心配いたすでない。すぐ吉良
邸に挨拶に出向け!」
 長矩は氏定に叱責されて、しぶしぶ数人の供を連れて駕籠で呉服橋の吉良邸に出向い
ていった。

 しかしながら、対座したままの吉良上野介と浅野内匠頭が言葉を交わすことはなかっ
た。上野介から養子縁組の口火も切られず、長矩もこれまでの確執を胸に抱えて黙り込
んだままであった。両者の双眸は不信と疑惑の色を宙に漂わせて、半時ばかり向き合い
合っていたが、その溝は一層深まった感があった。

6
時に元禄十四年三月十一日の未明、浅野内匠頭は夫人阿久里から投薬を受け取って飲み
干すと、青い顔で庭に出た。そして持病の痞えを必死に我慢して眼眸を上げた。
 見ると江戸在府の片岡源左衛門と大高源五を始めとしてずらりと石畳に膝を突いて両
手を地べたについたままの家来たちが平伏していた。
「殿、首尾よくお勤めを為されますように江戸在府の家来はもとより、国元でも同じよ
うに祈っております」

 昨夜から眠れぬ一夜を過ごした長矩は家来の忠心の形相を眺めやって、「うん」と唇
に微笑を浮かべて頷いて見せた。「なにも心配いたすな。たかが饗応役ではないか。所
詮は三日間だけの辛抱である」
 だが、その長矩の目は混濁としていて定まりがなかった。駕籠に乗るまでふらつく足
許を家来は息を詰めて見つめていた。

 その日の行事は勅使と将軍家との対面であった。
 勅使・院使は朝食をすませると、竜口伝奏屋敷を出る。浅野内匠頭と伊達左京亮は本
丸御殿まで警護するのが、御馳走人の勤めであった。
 その間も駕籠の中から勅使の高野前中納言保春の嗄れた声が聞こえた。

「浅野殿はわが息子を養子にするのはお嫌いでおじゃりまするのか?」
「いえ、そのようなことはござりませぬ」
「吉良殿に聞き申しましたのや。何や公家は好まぬそうやありまへんか? この高野前中
納言保春は貧乏公家やおじゃりませぬぞ。それをお蹴りにならはるとは、お手前は如何
なる公家を養子になさりたい所存でおじゃりますのや?}

「……」
「公家の息子を養子にでけへんとは驚きやな。帝の息子なら承知するとでもいわはりま
すのか?」
 警護道中、こんな陰湿な厭味が駕籠の中から本丸御殿に上がるまで針で刺すように続
いた。

 紫の直垂をまとった将軍綱吉と三家、大紋の譜代大名たちがずらりと居並ぶ中、勅
使・院使が年頭の祝辞を述べる。勅使・院使の御馳走人である浅野内匠頭も伊達左京亮
もみじんの落度があってはならない。それ故に緊張は極に達していた。ことに浅野内匠
頭は痞えの投薬飲んだだけで朝餉を採っていなかったから、その憔悴ぶりは甚だしかっ
た。

 その間も高野前中納言保春の厭味は続いていた。十六歳の若い伊達左京亮は青褪めた
浅野内匠頭をちらりと盗み見ては、その表情が悪夢の中にいるよかのようで、高野前中
納言保春の罵詈雑言に対して怒りをあらわにしながらも、相手が公家では怒りの矛先を
向けるわけにもいかず、浅野内匠頭に対して同情を禁じ得なかった。

「浅野殿、しばらく廊下にでも出て気を吸われてはいかがでござりましょう。ここはそ
れがしにお任せあれ」
「ご迷惑をおかけ致す。何分よろしうにお願い申し上げる……」
 そう断ってふらふらと身を揺らして廊下に出た。後頭部の疼痛の代わりに、脳裏は鉛
を詰め込まれたようでありながら、全神経が針となって鋭く尖っていた。松の廊下の柱
に寄りかかって立っていたが、体が宙に浮いているかのよえうだった。

 そのとき、たまたま通りがかった他門伝八郎が眉をひそめて、異常に蒼い顔の不気味
な内匠頭をちらりと見たが、何も言わずに脇をすり抜けた。一応、月番老中・土屋相模
守直政には伝えた。
 土屋は内匠頭に好意をもっていたので、直接待機場まで足を運んで、「内匠頭殿、何
かと気苦労も御座ろうが、上様のおもてなしなれば、構えて疎漏なきよう願いたい。困
りごとなれば、この土屋が相談に相なるゆえ、何なりと申されよ。伊達殿も内匠頭をよ
ろしゅう頼みいる」と頭を下げた。

 二日目の饗応は能楽であった。
 高砂    観世
 田村    七太夫
 東北    保生
 春日竜神  観世
 祝言    喜内
 狂言    福の神

 これらの饗応は正午で終了し、白書院の上段において、三汁九菜の食事を終えると、
再び伝奏屋敷に浅野内匠頭と伊達左京亮に伴われて高野前中納言保春の愚痴を聞きなが
ら伝奏屋敷まで道中の警護にあたった。
 こうして混濁した意識のうちに二日目がどうにか終わった。

                ж

 その夜、布団をがばりと撥ね除けた内匠頭は、抜刀しざま、そこに魔物でもいるかの
ように振り回した。
「殿、いかがなされました!」
 正室阿久里が腰元を連れて駆けつけたが、その声も聞こえぬらしく、内匠頭は縦横無
尽に刀を振り回し、「おのれ!」と絶叫を続けた。

 文字通りの修羅場が展開されて、阿久里は仰天し、慌てて庭飛び出して家来を呼びに
走った。
 その間も内匠頭は襖や道具類を片っ端から斬りつけた。当然の怒りであった。しかし
相手が公家であれば口に出すことは憚れていたからだ。
「殿、しっかりなされませ!」

 腕を取ったのは片岡源五右衛門だった。
 内匠頭の胸の鼓動が異常に高く、速く鳴っていたが、源五右衛門に腕を取られて、は
っと我に返った。

「殿、お鎮まりなされませ。勅使御馳走人のお役目は明日限りでござりますぞ!」と強い
語調で内匠頭の刀をもぎ取って叫んだ。「このような事で何となされます!」
「すまぬ」と上体のゆらやらする眩暈の症状の中から、内匠頭は小さな声で詫びた。そ
れは源五右衛門への配慮のなさを無にすまいと、自らに言い聞かせたのである。

                ж

 元禄十四年三月十四日。勅使・院使答礼の最終日である。

 白書院の間は江戸城本丸表御殿の西にあった。
 ここは将軍宣下、江戸参向の勅使・院使、堂上公卿の引見、任官叙位、年始や五節句
の賀儀などにおける国主、城主の挨拶にあてがわれる式場として使用される大広間なの
である。

 この日は紀州、尾張、水戸の御三家を始め、存府大小名の総登城で、将軍は紫の直
垂。三家と溜間詰の大名は熨斗目長袴。老中以下の譜代は熨斗目大紋。そして御馳走人
は烏帽子大紋であった。
 内匠頭は卯下刻に伝送屋敷に入って、伊達左京亮とともに勅使・院使に三汁九菜の膳
部を愚痴を聞き流しながら差し出し、両使が摂り終えるのを待って、辰下刻に駕籠の前
を先導して登城し、両使が大広間の間上段で休息するのを見届けてから、急ぎ烏帽子大
紋に着替えた。

 その間、伊達左京亮は内匠頭を見て、「大事ござらりませぬか?」と再三声をかけた。
 血の気がなく蒼白の顔は死人のようで、誰の目にも通常の容体ではなかった。
「これしきのことで倒れるような不甲斐なき赤穂武士ではござらぬ」と内匠頭は神経を
苛立たせ、屈辱感を浴びたように。むっとして十六歳の伊達左京亮を睨んだ。その目が
昼間でも灯火を用いない江戸城の暗らがりから異常なまでに光っていた。

 その内匠頭の上体がゆらゆら揺れている。自邸から続いている呼吸困難が、もはや耐
え難いものになっていた。襖一つ隔てた隣の勅使・院使の声が内匠頭に轟音のように響
いてくる。内匠頭を責める愚痴である。
「内匠頭、しばし廊下でご休息なされてはいかがでごさりましょう」
「すまぬことでござる。失礼つかまつる」

 内匠頭はやっと伊達左京亮に頭を下げて、おぼつかない足取りで廊下に出た。ここは
昨日と同じ松の廊下である。
 それはまさに偶然だった。
 そこへ吉良上野介が通りかかった。
「浅野殿、いかがなされた?」

 その声だけは吉良上野介であることはわかったが、視力を失った目で、さらに双眸を
開き、必死で吉良上野介を見ようとした。
「高野前中納言保春様とは、よき話し合いができ申したかの?」
 その狂気そのものの形相で内匠頭は答えなかったので、上野介は気味悪げに小走りで
通り過ぎようとした。

 その刹那、内匠頭の痞えが発作を起こしたのである。
「上野介、この幾歳月の遺恨、覚えたか!」と、腰の小刀を抜きざま、斬りつけた。
「わっ!」と、その切っ先が背中を走ったので、あわをくらって遁れようとしたため、切
っ先が伸びなかった。

「な、何をなさる!」と振り向いた上野介の頭上に白刃が振り下ろされた。
 切っ先は上野介の烏帽子の金具に当たって額をかすめ、鮮血が散った。
 内匠頭は怒号し、もがき、白刃を宙に振り回したが、上野介は数人の茶坊主に抱えら
れ、遥か向こうの廊下を去って行くばかりで、内匠頭は身動き一つできなかった。がっ
ちりと内匠頭を羽交い締めにしたのは梶川与惣兵衛だった。

「浅野殿、ここは殿中に御座りまするぞ」
 はっと我に返った内匠頭の痞えの発作がおさまり、やや正気にもどると、頭を垂れ、
掴んだ白刃をだらりと下げた。そして一言、「無念」と呟いていた。

7
 内匠頭は中の口の薄暗い茶坊主部屋に屏風で囲まれた内に青褪めた顔ながら、いささ
かもみだれもなく座っていた。
 目付けの大久保権左衛門と多門伝八郎が屏風を広げて入って来た。多門伝八郎は月番
老中土屋相模守から命を受けて言い含められていたのは、内匠頭を必ず乱心と致すよう
にと……。

 土屋相模守は奔走して回った。これは片手落ちの処置である。喧嘩両成敗は徳川家始
祖依頼の不文律ではないかと。だがその諫言は将軍綱吉に届くことはなかった。それで
多門伝八郎に乱心として処置せよと耳打ちしたのであるが、それも内匠頭は断固として
聞き入れることはなかった。

「その方儀、勅使御馳走人ありながら、盛典の殿中もはばからず、高家吉良上野介に刃
傷に及びしは、如何なる存念であったか?」
 大久保権左衛門の言葉に、内匠頭は謹んで両手をついていた。

「身供儀、これまで幾度か……」と言って、はっと言葉に詰まった。帝の名代である高
野前中納言保春の名は言えなかったのだ。生唾をごくりと飲んでから、やおら頭を下げ
て、「吉良殿より恥辱を蒙り、その遺恨相つもって、意趣止み難く、刃傷に及びたるも
のにござります」と息を詰まらせて答えた。

「では意趣による刃傷ならば、正気で小刀を抜いたと申すか? 乱心ではなかったのだ
な?」
「はい、乱心ではござりま゛ぬ」
 内匠頭は自身の痞えによって起こした乱心であったが、それを口にすれば赤穂浅野家
の三代にわたる武門の家柄を汚すばかりでなく、初代長重公対して傷をつけることにな
るからだった。

 多門伝八郎は眉をひそめ、身を寄せて、「乱心でうろう」と再三にわたって問うた
が、内匠頭は黙って首を振るばがりだった。
 意趣による正気であれば、赤穂浅野家は取り潰される。刃傷ならば内匠頭個人の罪と
して認められ、舎弟大学をして再興される考慮も残されていたからである。

「浅野内匠頭長矩、その方儀、本日たたいまより、田村右京太夫において切腹を申しつ
ける。立ちませい!」
 大久保権左衛門が鋭く命じた。

 せっかくの土屋相模守の命も及ばず、多門伝八郎は低い呻き声を漏らしながら、内匠
頭を茶坊主部屋から出し、用意された廊下の駕籠に乗せた。
 外から錠がおろされ、網がかけられるのが内匠頭にはわかった。
 こうして浅野内匠頭は幽徒と化して平川の不浄門から出された。

 その間、内匠頭は半眼の表情で駕籠に揺られた。
 吉良上野介に負わせた傷は死にいたらしめる程のものであったろうか?
 この身が果てても赤穂浅野家は果たして存続を許されるだろうか?
 家中一統はどのような衝撃を受けて、騒然となっているであろうか?

 今朝も鉄砲洲の上屋敷を出るときの妻阿久里をはじめ、片岡源五右衛門や磯貝十郎左
衛門や建部喜六や堀部弥兵衛や原惣衛門や奥村忠右衛門ら家来の顔が浮かんでは消え
た。陽光を受けた塩田の整然と区画されてひろがる瀬戸内の碧い海原が美しく思い出さ
れた。

 おのれの行為がいかに重大で愚かなものであったか、思考力の働きはじめたいまにな
って、内匠頭はやっと気づきはじめたのである。
 そして国許にいる大石内蔵助の磊落な顔が浮かんだとき、内匠頭の双眸から大粒の涙
が盛り上がり、頬を伝って手の甲に跳ねた。
 許せ、内蔵助!

                ж

 浅野内匠頭長矩の幽閉駕籠は平川門を出て、愛宕下を通り、日比谷門から桜田門を過
ぎて、田村右京太夫邸に入った。そこにはすでに鉄砲洲の上屋敷から死に装束の小袖と
麻裃が届けられていた。

 庭には粗末な切腹場所が設えられていた。正使・大久保権左衛門の厳しい顔と副使・
多門伝八郎が並んで検視の座についていた。が、その副使の多門伝八郎の表情は沈鬱で
あった。
 切腹場所に案内する田村家の中小姓・愛沢惣衛門で、廊下の途中まで来て、「ご覧な
されませ。今宵の桜は一段と鮮やかでござります」と指差した。

 内匠頭長矩が目を向けると、宵闇に散る桜の花びらが鮮やかであった。それから目を
木の根元に下ろすと、そこに片岡源五右衛門が超えもなく地べたに両手をつき、身を泳
がすようにして歪めた涙の顔が玉砂利を掻いていた。

 内匠頭長矩は血の気のない顔で頷き、しばらく無言で片岡源五右衛門の顔の筋肉を葉
皺した険しい表情を見つめていたが、やがて内匠頭は田村家の中小姓愛沢惣衛門に、
「ひとり言を申しますが、書き留めてもらえませぬか?」と尋ねた。
「なんなりと申されませ」

 内匠頭長矩はしばらく遠い眼眸になった。
「此段兼ねて知らせ申すべく候得共、今日止むを得ざる事に候故、知らさせ申さず候。
不審に存ずるべく候」
 それは高野前中納言への忍び難き侮辱と、それを仲介しようとした養子縁組の首謀者
である高家筆頭吉良上野介への鎮め難い怒りが込められていた。

 しかし名前は出せなかった。内匠頭長矩の家臣への侘びでもあった。その経過は片岡
源五右衛門の胸にも熱い激流となって染みわたっていた。
 内匠頭は田村家の中小姓愛沢惣衛門がつらに次の言葉を待って筆を明かせていたが、
「それだけで十分にごさります」と内匠頭が言ったので、「さようでぞざりくすか?」と
納得し難い顔で筆を置いて書付を懐に閉まった。

 内匠頭が切腹の座に座ると、田村家中小姓の愛沢惣衛門が短冊の一葉と硯と筆を三方
に乗せて運んできた。
 内匠頭は降り注ぐ桜の花びらを見上げて、ゆるゆると墨を擦り、筆を取った。そのと
き一陣の風が花びらを吹き上げて星々を染めた。
 それを見て内匠頭はさらさらと辞世の一首を短冊にしるし、愛沢惣衛門に三方を下げ
させた。

 風ささそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん

 代わって奉書紙で巻かれた水引の備前長光の小脇差が三方に乗せられて据えられる
と、介錯人・磯田武太夫が背後に立ち、白刃を八双に構えた。
 内匠頭は三方に頭を下げて尻にあてがうと、一気に腹へ突き通した。途端、星が揺ら
めいて散乱し、降り注ぐ桜の花びらが薄れて遮断された。
 内蔵助!

 介錯人・磯田武太夫の気合で、白刃が振り下ろされ、内匠頭の首が喉首の皮一枚を残
して、おのれの膝に落ち、抱き首となった。
 その間も噴き上げる血飛沫は桜の花びらを染め上げ続けた。

                ж

 赤穂浅野邸は血気の面々が喚き立てながら、悲痛な雄叫びで、さながら地鳴りのよう
に騒然となっていた。
 そのさまざまな慟哭をあとに、六人の家来が主君長矩の遺体を引き取るべく田村邸へ
おもむいた。

 用人   粕谷勘左衛門
 内証用人 片岡源五右衛門
 留守居  建部喜六
      田中貞四郎
      磯貝十左衛門
 小納戸役 中村清右衛門

 六人はそれぞれに書院の縁側で田村家の家来と挨拶を交わして、主君の切腹場所に案
内された。
 六人は座敷とばかり思っていたところ、そこは囚人並の庭であった。まだ血の満ちて
いる主君長矩の切腹を描写しながら、がっくりと両手をつき、声を震わし、それを記憶
に留めるように目だけを光らせて、感情の高ぶるままに嗚咽した。
 この公儀の非常な処置に胸をふさがれ、心の臓が憤怒で激しく五体を焼いた。

                 ж

 主君の遺体は赤穂浅野家に還ることなく、そのまま高輪泉岳寺に向かってしずしずと
進んだ。戸田采女生が、「公儀ならびに世情に対してはばかりがあるゆえ、遠慮いた
せ」と差し止められたが、誰ひとり耳を貸す者ははいなかった。

 旧家臣は墓前に整然とぬかずいて、主君の戒名・冷光院殿前朝散太夫吹毛玄利大居士
に住職の醐山潮音和尚の読経を聞き、地を掻いて、すすり泣いた。
 夜が明け、それぞれの家来たちは思いのままに四散したあと、残ったのは主君の遺体
を受け取った面々だけがだった。

 片岡源五右衛門、田中貞四郎、磯貝十郎左衛門、中村清衛門、粕谷勘左衛門、建部喜
六たちである。

 まず片岡源五右衛門が墓前に向かって脇差を抜き、髷のもとどりを切った。主君の墓
前で髷のもとどりを切ることは、殉死を意味していた。
 あとのものがそれに続いた。主君のあとを追って切腹することは、幕府より厳しく禁
じられていたので、もどどりを切るのは、忠誠の心をあらわしたのである。

 それぞれの胸中には、慶長六年、浅野長重が分家大名として百年後、長重の子長直が
常陸笠間から赤穂へ転封して三代、五十六年目のことであった。
 播州赤穂浅野家は、この日、元禄十四年十四日をもって断絶したのである。

 その申下刻、鉄砲洲上屋敷を引き払う直前、二挺の早駕籠が飛び出していった。凶変
を知らせる題一報であった。
 昼夜兼行で東海道を飛ぶように駆けた。まだ雪をいただいた富士の裾野を横切り、箱
根を登り、大井川を渡り、宿場、宿場で交代しながら走り続けた。

 江戸より赤穂まで百五十五里。
 赤穂へ、赤穂へ、大石内蔵助の許へ、猛然と早駕籠は走る。士道、いまだ地に堕ち申
さずの一念を抱いて。……

 その早駕籠を遥か遠くから眺める三人の深編笠の武士があった。その深編笠の下の眉
毛を一本も動かさずに鋭い眼差しで見つめていた。
 上杉家江戸家老・色部又四郎・須田図書、そして付人の小林平八郎であった。
 三人の胸中には、旧赤穂浅野の家来が、亡君の無念をはらさんがため、討ち入って来
るという予感してならなかったからである。
 赤穂浪人ども、来るか!





戻る