第58回テーマ館「死」



文字通り、人生やり直したい人だぁれ?#2 ZAX [2005/09/07 20:03:47]

 熱い水滴が、肌を滴っていく。
 滑らかに落ち行くそれらは、今までならば気にも留めなかったはずだ。が、今はそん
な些細なことさえも、真新しい。

 芝田美樹。これが俺の新しい名前。

 だが、為永慶介だった時の記憶もまだ持っている。

 「かつての過去の記憶は、あなたが自分だった人間の死亡ニュースを見た時に消滅し
ます」

 と、あの無機質な声は告げた。

 だが俺はまだ、そのニュースを見ていない。

 そもそも、いつからここに居るのか。ここはそもそもどこなのか。

 セルリアンブルーの四角いタイル張りの清潔な浴室である。なかなかの広さだ。浴槽
があるところを見ると、少なくともどこかのシャワー室ではないようだ。となると、自
宅しか考えられない。

 為永だった頃のバスルームは、クリーム色をしたなんとも味気ないものだったが、こ
のバスルームは違う。今は朝らしく、すりガラスの窓からは陽光らしき光が燦燦と飛び
込んでくるのだ。痛いくらいのまぶしさだ。

 だが、バスルームに入った記憶が無い。気がついたら既にシャワーを浴びていた、と
言うべきだろう。

 そうなんだ。まだ俺は自分の「顔」を見ていない。

 蛇口を捻り、シャワーを止めた。鏡は水滴に濡れ、その向こうにぼんやりとした輪郭
が、自分の輪郭が見える。

 あれを拭えば、俺は自分の顔を見られるんだな。

 なぜか、躊躇いがあった。なんとなく、悪い冗談のように思えた。

 整理しよう。もう俺は、為永慶介、ではない。あの男は「死んだ」んだ。だが、持ち
合わせの記憶、思考、発想法は、紛れも無い、為永の時のものだ。しかし、鏡に映って
いるであろう男は、為永ではない。

 妙な気分だった。妙を通り越し、不気味でさえあった。

 違う顔をした、昔の俺。

 整形したと思えばいいのか?そうだ。今のところ自分を落ち着かせ、納得させられる
のはこの考えしかない。

 躊躇いが不思議と消えて、右手で鏡を拭う。

 ・・・・・・これが、”俺”?

 鏡の向こう、戸惑いの表情を浮かべた美しい男が居た。だが、阿呆のように口を開け
たままだから少しも美しく見えず、むしろ滑稽にさえ思える。

 頬に手を当てた。だからと言って何かが変わるわけでもない。しかし、そうせずには
いられない。

 頬を撫でたつもりが、指に目が行った。細くて長い。いかにも繊細そうな指だ。為永
の指は太くて短く、まるでキャッチャーミットみたいだったが・・・・。

 鏡から目を離し、一通り身体を見てみる。

 足の先から、見える範囲は胸元まで。

 予想外に筋肉質の体だった。美形は皆、華奢かと思い込んでいたがそうでもないらし
い。

 胸板の盛り上がりは、憧れでもある。腹筋の八等分の割れ目は雲の上の存在だった。
二の腕の隆起もそう。

 だが何よりもこの顔だ。そして地位。栄光のスターダム。

 それを手に入れるためには、俺は過去を清算しなければならない。

 しかし、俺はまだ躊躇っている。

 なぜだろうか。執着するに値する過去でもないはずだし、もう今の自分は過去の自分
ではない。心はまだだが、身体は別人だ。今更後戻りなど、できるはずもない。

 浴槽にはたっぷりの湯が張られていたが、入る気にはなれなかった。

 まずはニュースだ。それを見なければ何も始まらない。

 バスルームから出、脱衣所へ踏み出す。フローリングの塵一つ落ちていない床にクリ
ーム色のマットが敷かれていた。誰が畳んだのか、下着と紫色のガウンが置かれてい
た。

 着衣を身につけ、洗面台の鏡を見ようかと思うも止めて、脱衣所の扉を開けた。

 3LDKの部屋であることが分かった。さまざまな調度品があちこちに置かれている
が、その価値はさっぱり分からない。ガラクタ同然に見えるものもある。一体、誰が集
めたのか。

 壁にかけられた子供の落書きみたいな絵を通り過ぎ、真っ直ぐそのままリビングらし
き空間に入る。テレビが点けっぱなしになっていた。

 画面はコマーシャルを映している。

 さて・・・・・。

 待ち受けていたかのようにニュース番組が再開された。男の司会者が、厳粛な表情で
一つの事件を伝え始める。

 「昨日、深夜未明。JR、T駅近くの線路で男性が飛び込み自殺をしました」

 ・・・・来たな。

 画面はそれから、ナレーターの言葉と共に現場を映していく。とは言え、実感は沸か
ない。なんせ、自分は厳密には死んでなどいないし、そもそも現場にさえ行ったことは
無いからだ。おまけに死んだのはこの世の人間ではない。あの声を信じるなら、人形が
死んだようなもんだから。

 「死亡したのは、大手出版社に勤める為永慶介さんと見られています。遺書などは発
見されず、同僚の話では、死に至るようなそぶりは無かったとのことです」

 ニュースは唐突に切り替わった。

 刹那、

 「あら、起きてたの?」

 背後から女性の声が飛び込んできた。

 ゆっくりと振り向いた。

 恋人、楠見清音のいつもの笑顔が飛び込んできた。


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