第42回テーマ館「悪魔」



悪魔の言い分 ブライア [2001/11/17 00:29:29]


T氏の自宅で夫人の盛大な葬儀が営まれた。遺された一人娘は母親の死の意味が理解できないほ
どに幼かった。

その幼い娘も原因不明の病魔に襲われた。娘の容態は日に日に悪くなる一方だった。T氏は気も
狂わんばかりだった。S男の前に悪魔が現れたのは、危篤に陥った娘が何とかもちこたえた、そ
の直後のことである。

悪魔が現れたのは、S男が押入れにロープをしまい込んだときだった。
「夜分すみません」
悪魔はそう言って黒い触覚のようなものが二本ついた小さな頭をピョコンと下げたかと思うとパ
ッと押入れの中から躍り出た。そうして押入れの中のロープと鴨居とを交互に見比べると、はた
と考え込むようなそぶりを見せて、
「ははあ。思い直したんですね。でもあなたは必ずあすこにこのロープを引っ掛けますよ」
S男は驚くよりもあきれてしまった。目の前にいるのはトランプのジョーカーのようないでたち
をした小人だった。その真っ黒な衣装といい、頭から突き出た二本の角といい、とんがった耳ま
で裂けたような口といい、どう見ても悪魔なのだ。カギのようなシッポだってちゃんとついてい
る。
「俺に自殺をさせに来たってわけか?」
不適な笑みを浮かべてかがみ込んだS男はまじまじと悪魔を見て言った。
「確かにその気になったがね。けど、あいにくだったな。やめたんだ。もうしばらく考えてみる
ことにした。それとも・・・おまえは悪魔なんかじゃないのかな?俺の気が変わったのもおまえ
がそうさせてくれたのかな」
「いえいえ。私は悪魔です。あなたがどんなに不幸だったかも全部知ってますし、死にたくなっ
た気持ちもよくわかります。自殺を思いとどまらせるなんてそれこそとんでもないことです」
「そうだろうとも!」
S男はむっとして、
「俺が不幸になるように仕向けたのはおまえなんだろうからな。やい悪魔、いったい俺に何の恨
みがあったってんだ」
「私じゃありませんよ。M子さんです」
悪魔はそう言ってポリポリとお尻をかきながら、
「あなたがフッたM子さんの希望を叶えてやっただけですよ」
S男は目を丸くした。会社をクビになったのも、仕事が見つからないのも、恋人に逃げられたの
も、借金でクビが回らなくなったのも、頼る身寄りがなくなったのも、みんなあいつのせいだっ
たのか!
「はあ。それでまあ、そのクビを吊ってしまえば完全にM子さんの願い通りになるというわけ
で」
「けどあいつは大金持ちと結婚して何不自由ない暮らしをしてるんじゃないか!俺にフラれた昔
の話が今さら何だっていうんだよ!」
「それはそれですよ。あなたのことはずっと恨みに思ってたんだそうです。まあ、それだけ好き
だったってことなんじゃないんですか。私にはよくわかりませんが。どうでもいいことですし」
そう言った悪魔は今度はシッポで耳掃除を始めた。S男は頭にきた。さんざんM子を罵った彼は
衝動的に押入れからロープをひっつかむや腹立ち紛れに悪魔を追い回した。が、悪魔は涼しい顔
でやすやすと逃げ回った。耳掃除しながらである。追い回すのに疲れて肩で息をしていたS男
は、ふと冷静になって言った。
「おまえと契約したってことは、あいつも遅かれ早かれこの世の人間じゃなくなるってこと
か?」
「もうすでにこの世の人間じゃないですよ」
シッポにフッと息を吹きかけて悪魔は言った。
「去年からずっと床にふせってましてね。本当はあなたが自殺なさったのを聞いてから旅立つ手
筈になってたんですよ。ところが人間の体ってやつは気まぐれでして、病状が急に悪化したんで
す。これには死神も慌てましたね。適当な馬車が見つからんと言ってエラい剣幕でしたよ」
それは知らなかった。S男は目を瞬いたが、
「だったら」
M子のことより我が身だった。悪魔に飛びつくようにして彼は言った。
「俺の不幸もおしまいってことだな?ああ、そうか!それを知らせに来てくれたんだな!そうだ
ろう?」
「はあ」
悪魔は気のない返事をしてからS男の顔を見つめると、
「まあ、あなたがそう考えたいんならそれでも結構です。M子さんとは契約切れってことになり
ますし」
「やったぞ!」
飛び上がったS男だが、自殺を思い直したことが正しかったことを知らせに来てくれた悪魔に礼
を言う気などサラサラない。案の定、悪魔は言った。
「でもね、彼女の契約は彼女の娘さんに引き継がれたんです。あなたが不幸に苦しみ抜いて死ん
だあかつきには娘さんを連れて行くことになってます」
S男はきょとんとした。悪魔の言葉の意味をようやく理解してから目を見開いて叫んだ。
「そんなバカな!」
彼は今度こそ腰を抜かさんばかりに驚いた。
「自分の恨みをはらすために自分の子供を犠牲にするなんて!」
「M子さんという人はそういう人だったんですよ。私は契約者とは連絡を密にするほうでして
ね。いまわの際に彼女に呼ばれて行ってみるとそういうことにしてくれってんです。ですから私
も簡単に契約にこぎつけることができたってわけで──」
「バカバカしい!自殺なんかするもんか!ああ、もう二度と考えたりしないよ!」
ロープを床にたたきつけ、怒鳴るようにしてS男は言った。
「おまえなんかのいいようにはさせないぞ!M子はともかくあいつの娘には何の関係もないこと
なんだ!俺が死ななけりゃ娘を連れて行くこともできないんだ、そうだろう!」
「はあ、そりゃまあおっしゃる通りです」
悪魔は肩をすぼめて、
「あなたの義侠心とやらはよくわかります。娘さんはまだ三つですしねえ。ええ、あなたのお気
持ちもよくわかりますよ。でも、どっちみち同じことです。M子さんの娘さんがダメならあなた
ってことで決着は着きますから」
「なに?!」
「いえね、あなたが彼女の娘さんを助けたいならその代わりに何がなんでもあなたに死んでもら
うってことです。契約はあなたの死と引き替えにM子さんの娘さんってことでしたからねえ。お
っしゃる通り、あなたが死んでくれなけりゃ娘も連れて行けません。契約違反になりますから
ね。しかしあなたが娘のために生きようとあがくんなら娘だけでもいただかないことには私の立
場がないじゃないですか」
S男は呆然としてその場にへたり込んだ。悪魔はその前に仁王立ちして続けた。
「そもそも私とM子さんとの契約はあなたの死までってことでした。ところがM子さんはあなた
の死を見届けることができそうにないと知って契約更新を願い出た。自分は勝手に死んでいく
が、S男も道連れにしないことには死んでも死にきれない、娘を差し出すからS男も絶対殺して
くれ、そう言ってきかなかったのです。言っておきますが」
悪魔は腰に手を当てて吐息をついた。
「我々は魔法使いではありません。契約した相手の望みが殺人だからといって、サッと息の根を
止められるわけでもないのです。死ぬ方向へ導くのが精一杯なんですよ」
「ほほー。だったらおまえは失敗したわけだ」
S男は無理に笑って言った。
「俺を死へ導くことに」
「あなたの自殺は予定通りでしたし」
悪魔は平然とした顔で、
「私も娘を契約通り手に入れることができたはずでした。しかし、そう、確かにあなたに予定外
の行動を取られると──」
「M子が死んだじゃないか!」
吐き出すようにS男は言った。
「あいつは俺の死を知らずに先立って悔しい思いをしたかもしれないが、おまえにはM子だけで
も御の字のはずだろう!」
「契約外の死は我々悪魔にとって何のメリットもないのでね。それに、繰り返しになりますが、
私はすでにM子さんと新規の契約を結んでいるのです。あなたの命と引き替えに娘の命をって
ね。ところがあなたは死のうとしない。それは困ります。あなたが死んで初めて私はM子の娘を
連れて行けるんです。あなたが確実に死ぬとM子に保証した私の身にもなってください」
「ふざけるな!」
やっとの思いでS男は言った。
「なんで悪魔の身になって考えなきゃならないんだ!」
「しかし私は人間の身になって行動してますから」
「屁理屈抜かすな!」
「S男さん」
チッチッと指を振り立てて悪魔は言った。
「M子さんはあなたが確実に死ぬと知ってそりゃあもう嬉しそうに、安らかに死神の馬車に引か
れて行きましたよ。娘の到着も心待ちにしています。ああ、言い忘れましたが、我々と契約した
人間とそうでない人間とはあの世でも別々の場所になってるんです。それなのに、娘は来ない、
あなたを乗せた馬車が到着した知らせもないとあっては・・・私がM子さんを裏切ることになっ
てしまいます。悪魔としてこれ以上の屈辱はないですよ」
S男は頭が変になりそうだった。悪魔の裏切りとは何なのだ。屈辱だって?人間を殺せないこと
が悪魔の恥になるのか?恥?恥って何だ?
「あなたは、S男さん、M子さんの娘は何の関係もないと言う。しかしそれはあなたの側の言い
分です」
「・・・俺の言い分?」
「ええ。つまり人間の論理です」
「論理?そんな小難しい話はやめてくれ」
「じゃあこう言いましょう。あなたの言い分はそれすなわち私の世界のルールに反することなん
ですよ」
S男は床にうち捨てられていたロープをぼんやりと見つめた。悪魔の言葉はまるで魔法の言葉の
ようだった。その言わんとするところがS男の頭に徐々に、確実に浸透してくる。悪魔のルー
ル!S男は気分が悪くなった。
「確かに、あなたが死ななければM子の娘も死にません。先にも言った通り、契約違反になりま
すからね。まあ、あなたが幼い娘を死なせたくないというのならそれもいいでしょう。私にも譲
歩する用意はあります。私の言う意味、わかりますか?」
「・・・俺は死ぬことになってるってわけだ。そうなんだろう?」
「だってあなたは幼い命を助けたいのでしょう?」
「俺とM子とのことにその娘(こ)は何の関係もないんだ、当たり前じゃないか」
「それがあなたの勝手な言い分だと言うのです。その言い分に沿えば、私は自分の取り分である
娘を放棄しなければなりません。予定通りあなたを死に導いたとしても、報酬はなくなるわけで
す。あなたはその人間特有の正義感で私の仕事を台無しにしようとしているんですよ。きちんと
契約した私の仕事を!」
ちぇっ!悪魔でも愚痴ることがあるんだな。S男はそう口に出して言ったつもりだったが声には
ならなかった。頭のネジがキリキリと音を立てて巻き上がっていたせいかもしれない。
「まあいいでしょう。これは私の、悪魔としての最大限の情けです」
悪魔の声はささやくようだったがS男の臓腑にこたえるほどの重みがあった。彼はいつの間にか
立ち上がっていた。悪魔のささやきは続いた。
「繰り返しますが、私は魔法使いじゃない。死ぬのをやめたあなたを死なせようなんて芸当はで
きません。私はただ、どんなにすさんだ生活をしていようとも、あなたの中に残っているだろう
人間としての良心というものに訴えたかっただけなのです。そしてあなたはやはり、幼い命を犠
牲にはできないと言った。だから私はあなたの意志を尊重して娘は諦めます。その代わり──あ
なたには予定通り、首を吊っていただきます」
しかし、悪魔が本当に娘を諦めるかどうかはわからないよなあ・・・それにしても、この悪魔と
M子、どっちが本当の悪魔だかわかりゃしない・・・そんなことを思いながら、S男は無意識の
うちに鴨居にロープを掛けていた。

ブラ下がった男の体を見上げて悪魔はトントンと肩をたたき、首を回して伸びをした。
「やれやれ。人間を言いくるめるのも疲れるわい。しかし病気にさせたり事故に遭わせたりって
のはもっと疲れる仕事だからなあ」

翌日、T氏の自宅は再び悲劇に見舞われた。容態の安定していた娘が明け方になって突然息を引
き取ったのだ。やはり悪魔のほうが一枚上手だったようである。

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