『テーマ館』 第29回テーマ「死にたくない」


夜の底から 投稿者:いー・あーる  投稿日:09月08日(水)09時22分44秒


      親もなし 妻なし子なし板木なし 金もなければ 死にたくもなし

      「………え?」
       急に耳を掠める声。聞き返すと彼女はくすんと、喉で笑った。
      「……林子平の、辞世の句」
      「林……?」
      「海國兵談、書いた人。鎖国の最後の時代にさ、海防の必要を説いて……で、
      本の為に彫った版木まとめて没収されて……で」
       くすん、と、また笑い声。
      「今のがね、辞世の句」
      「………ああ」
       それで、『版木なし』なのか。
       からからん、と、彼女の手の中でグラスが揺れた。
      「………えーらい、違いだよなあ」
       やはり、くすん、と、喉の奥で笑って。
      「……死にたくないってさあ……妻も無い、子供も無い、自分は罪でとっ捕まってさ」
       からからと、氷が鳴る。
      「本当は、死んで良かったんじゃん。死ぬに全然遠慮無いじゃん……てか、生きれば
      生きるだけ、武士だったら生き恥晒してる」
      「うん」
      「……そのくせさあ………死にたくもなし、だってさ」
       からからと、八つ当たりのように、グラスを揺らして。
      「…………………根性、ありすぎるよ」


       唐突に、彼女から電話があったのは、実は3時間ほど前のことで。
       すんげえ落ち込んでるの。だから酒持参で来てよ。
       毎度、繰り返される我侭。毎度、呑んでしまう我侭。


      「……………死んだがまし、って、思ってたんだよ」
       グラスのからから鳴る音が寂しくてつい酒を継ぎ足したら、彼女はくすん、と
      壊れかけたような笑い声を立てた。
      「……うん」
      「本当に、本当に、そう思ってたんだよ」
       何があったかは、彼女は言わなかった。聞きたくも無かった。
       ただ、ぽつりぽつりと、まるで判じ物のように、彼女の口からこぼれる言葉を
      聴いていただけで。
      「でもさあ……死ななくていいって……莫迦だ、何でそう言わなかったのかって
      言われた途端………」
       ぐい、と、グラスをあおって。
      「………生きてていいんだ、生きててよかった、って思ってさあ」

       信念、と、彼女は言った。
       譲れない一線。それが砕ければ、己が己で無くなるような……何か。
       それが砕けるか、生命線が途切れるか。
       本当に、そのどちらかしか道が無い、と、思ったのだ、と。
       だからこそ。
       生命線が途切れたがましだ、と、思ったのだと。
       
      「…………卑怯だよ」
       こうやって、呼び出されることは時折あったけれども、彼女は絶対にこちらを
      向こうとはしなかった。視線を合わせれば、同情してくれる人を見つける。そしたら
      それに甘えて、自分を正当化してのけてしまう、と。
      「何故に」
      「卑怯だよ!」
       だん、と、グラスを持たない手を、床に叩き付けて。
      「信念の為に死のうと思っといて……誰かが許したからそれ諦めるのかっ!」
       だん、だん、と。
       音が、続く。
      「誰かに許されれば、あたしの信念って、あたしよりか軽いものになるのかっ!」
       泣声では、なかった。
       があ、と、咆えるような響きを、その声は含んでいた。
      「人が許せば、生きているのか!」
       血を吐くような。
      「あたしの信念なんぞ、結局は人に頼るだけのものなのかっ!」


       からからと、氷を揺らす。
       畜生、畜生、と、呪詛の声。
       彼女は……泣かない。
       いや……泣いているのかもしれないけれども。
       それ以上に、したたるような、悔しさと憤り。
       
      「死にたくも無しって…………」
       悔しいぞ、悔しいぞ、と、グラスを叩きつける。その手を止めるためだけに、
      また、グラスに酒を注ぐ。
      「悔しいよお。自分の信念通すために、生き恥さらしても生きたいって言う人が
      いるのにさ」
       なのに、あたしは、と。
       悲鳴のように。
      「自分の信念折れてでも、生きたいと……死ぬよりゃましだ、と思ってる!」

       悔しいっ…………

       それきりしばらく、彼女は絶句した。



       夜の底から。
       もう、どうしようもなくって、上を見上げる。

       明日になれば、彼女は、またいつものように出勤し、いつものように仕事を
      こなすし、いつものように笑うのだろう。
       あるかいっく。
       そう呼ばれる笑みを、多分口元に浮かべながら。

      「………いいじゃん。生きててさ」
       そう、言うのは、勇気が要った。
       彼女が、顔を上げる気配があった。
      「いいよ。どうせ……生き恥晒すんだしさ」

       そか、と、……その時はじめて、彼女の声が和らいだ。

      「そか……生きてる方が、恥か」
      「そうだよ」
      「……なら……」

       注いだ酒を、もう一度ぐっと飲み干して。

      「…………じゃあ…………情けないけど、いいか」

       死に場所と一緒に、死に時がある、と、彼女は言った。
      「そいつはずしたからさ……まあ、後はしばらく生きてるけどさ」
       でも、自分の狡さに、たまらなかったのだ、と、彼女は呟いた。
      「でもいいや。狡いことした奴は、生き恥かくんなら……いいや、とりあえず」
       からからと、今度は彼女の笑い声。
      「……いいや。報いはあるんならさ」

       明日になれば。
       日が昇れば。
       彼女は、また、いつもの仕事に戻り。
       裏切った人々をさらっと見やって、何もなかったような顔で過ごすのだろう。



      「……っと……一升瓶、空いちゃった?」
      「みたいだね」
      「……なあんだ……まいっか。ちょっと酒取ってくるね」
      「まだあるのかっ!」
      「あったりまえだよっ」


       夜の底から。
       今は、這い上がる未来さえ見えないのだろうけれども。
       這い上がる未来を示すことさえ、やはり誰にも出来ないのだろうけれども。


       夜の底で。
       今日は……呑もう。
       視線を交わらせることもないまま。
       視線を、平行に保ったまま。
       壁にもたれ掛かって……………

      「……ほら、つぐよ」

       彼女が、今度はブランデーと、氷を二つのグラスに等分に入れた。
       つん、と、香が漂った。

       夜の底で。
       今夜一夜の、酒盛り。

       ………どんな理屈を付けようとも、生きているままに。