『テーマ館』 第29回テーマ「死にたくない」


シニタクナイ 投稿者:森里羽実  投稿日:09月08日(水)14時18分14秒

      
      ちりちり、と音を出してカッターの刃を出した。
      さびて赤茶色の、あんまり切れなさそうなの。
      「さすよ」
      ビー玉みたいに。透き通ってにごってぐるぐる、いろんな色がまわって。
      それでその眼の中に、さびた刃をギリギリで涙出るくらい近づけた。
      「ねえ、刺すよ。マジだよ。逃げるなら早く逃げないとだめなんじゃないの」
      ちょっとでも動いたら、この刃が瞳孔に刺さってあの黒いまるい光彩が
      血でぐちゃぐちゃに壊れるとこまで想像した。
       そうなったらいいなって本気で思ってた。血でいっぱい濡れてナミダ流して、
      死ねばいいのにと思った。痛い・・なんで痛いんだか、心臓のとこが濡れて
      ギリギリ油みたいなどろどろしたものを、動くたんびにちょっとずつ、漏らしてる
      感じがした。なんか泣いてるみたいに。ぐるぐるって、胃酸でいっぱいになった
      胃袋がいやな音たててきゅって痛くなるときみたいに。
      「ねえ刺すよ!」
      ほんとにカッター動かした。とっさに眼ぇつぶった、たくやの、マブタとほっぺた
      の上のとこかすって、がりってチョークで道路に白い粉ひっかくみたいに赤いのが
      飛び散ってた。
      「・・・へたくそ、ちゃんと狙え」
      「うるせえ、よけんなよ馬鹿野郎!ちゃんと死ねよおまえは!いらねえんだよ、
      死ねよ!」
      痛い、痛くて、眼のフチのところがぱんぱんにつまってるってそこで、意識の
      どこかでちょっと気づいてた。ナミダが押し寄せてるって。でもノウミソがその
      前にきちんと、オカシクなってた。狂った、イカレタ眼で、あいつの目玉
      追いかけるみたいに、軽い、刃のとこに親指押し当ててふりまわしてた。
      「いらねえんだよォ!」
      ぶん、て降りまわした腕が誰かにがっちり、おさえられた。こういうのなんて
      言うか知ってる、半狂乱ていうんだ。「ちょっと気が昂ぶって」「思い余って」
      「コロシマシタ」
      それですんだら良かった。そいつはもっとタチ悪く、あたしの腕をカッターごと
      ぎりぎりって締め上げて、どんて突き飛ばした。研究所の、強化ガラス破って
      あたしの体が・・宙に、ういた。
      ガラスの強度が一瞬で下げられてるとか。ベランダ飛び越えてこのままじゃ
      あたし死ぬとか。投げつけた人間の狂気とか悪意とかイタミとかそういうのが
      一瞬で凍って──凍った、シャーレの中であたしは細胞になってた。
      がしゃんって、突き落とされたシャーレだった。
      がしゃんって、ガラスの飛び散る・・・・・
      「おい」
      なんで。
      割れたガラス突き破って。肩んとこまで赤いものたらして。
      ねえ知ってるそれ、生きてるんだよね。あたしと違って、正規の、イノチ、
      ちゃんと大切にされるもの。失って、失って困るもの。
      ねえ、あたし、あたしもそれが、大事だったんだよ。
      「おいおまえ、あっけなさすぎんだよ」
      ベランダから半分。落ちてるあたしの身体、たくやが痛そうに顔しかめながら
      ひっつかまえてる。
      「ばかじゃねえの。俺殺してけば、んで髪でも切ってりゃ、俺になりすまして
      生きていけんじゃん、そういうノウミソもねえのオマエ、ばかじゃん」
      「たくや!離しなさい、それは危険だ!」
      ガラスの向こうで、あたしをつきとばした人が怒鳴ってる。ああ、かつてあたしを
      娘と呼んで、あたしを、あたしを愛してくれて、それで・・
      <お父さん>
      「な、たくや、判るだろう、そのハーフ・クローンは、もう駄目なんだ」
      あたしの、あたしの顔のすぐ上から、ぽたぽた、血がたれてくる。
      あたしの切ったまぶたから、熱くて、ひりひりするみたいなのがあたしに、
      落ちてくる。
      「駄目なんだよ。遺伝子組替え受精卵には、重大な欠点があるんだ。なあ、
      教えただろうたくや。離しなさい」
      おろおろする声。あたしの知ってる、頼もしくて、優しい科学者の声じゃない。
      あたしの知ってるのは、この血の匂いと、いきづかいだけ。
      生きてる、あかし。
      ああ、痛い。ナミダが、痛い。なんでこんなにぴりぴりするんだろう。かなしい
      とき、どうしてこんなに、マブタがぐちゃぐちゃに腫れそうなほど痛くて、熱いん
      だろう。
      「・・・おいあきらめてんじゃねえよ、殺してくくらいのチエつけろよ、
      じゃなききゃオマエなんのために生まれてきたんだよ!?意味ねえじゃねえかよ
      これじゃ!」
      どん、てあたしは胸をつかれた。血じゃないものがおちてくるの、知ってた。
      成分を観察したら、DNAとかそんなんじゃなくて、地球上どこでも、みんな
      おんなじように流すものだった。
      (哀しいの)
      (哀しいのたくや)
      「おまえなんか、いらねえよう・・おまえなんか、たくや、あたしのクローン
      じゃねえかよ!」
      泣くとき、あたしとたくやは全然ちがう。あたしはたくやのコピーで、遺伝子を
      スバラシイ要素に組みかえられたハーフ・クローンで、それでも、実際には好き
      なものとか、哀しいときどうやってなくかとか、ぜんぜんちがう。
      (あたしは)
      (あたしは生きたい)
      「死にたくない・・・・・!!」
      わあああ、ってあたしは大声を出した。血とか塩分とかで、腕がずるずる
      すべって落ちてしまいそうでも、それでもたくやにしがみついてた。たくやは
      いつもみたいにすごくイヤそうな顔で、唇かんで黙ってた。
      「ばかやろう、んなこと言ってるまに死ね。死にたくなかったら、他人殺す
      くらいのこと考えてろよてめえは・・いっつもいっつも、誰が借金トリの手から
      オマエ逃がしてたと思ってんだよ」
       研究所から逃げて。あたしとたくやは生きてきた。実験体じゃなくてフツウの
      人間になりたくて、そんなあたしをたくやは、ダイキライだって言いながら結局
      ここまでつれてきた。だって。だってあたしは。ここで死ぬしかないから。
      遺伝子の、クサリがどこかでおかしくなって、ミューテイションが起きるって。
      タイム・リミットが。ないから・・ぜんぜん、ないから、フツウの人間じゃ
      ないから。
      「死にたくないよう・・・・!」
      「だから泣いてる間になんかしろっつってんだろうがよ!」
      たくやは、<お父さん>をつかまえた。<お父さん>はびっくりして、逃げようと
      してじたばたして、信じられないみたいにたくやとあたしを見た。
      「たくや、おまえまさか」
      「ミューテイションが、提供体(オリジナル)との相互作用によって起きる
      なら、それがオリジナルにも起こるかもしれない・・夢みたいな話だって
      笑ってたよな」
      つめたい、死んだ魚の、かなしくない目でたくやが<お父さん>を見た。
      「殺人癖はなにも実験体(サンプル)だけにみられる<欠点>じゃないことを、
      幸運にも息子の俺が証明してやれるってわけだ」
      ガラスの破片の散らばるうえで、あたしは放心して座っている。あたしの
      カッターで首を切り裂かれた<お父さん>の身体は、なんでもない
      ゴミみたいに、床に投げ捨てられてる。
      「オヤ、殺したくないんだろ」
      真っ赤な、カッター投げ捨てて、たくやがあたしを見る。
      なん、で。
      「あたしにしか・・・起こらないのに」
      なんで<お父さん>殺したの。あたし、ほっとけばどんどん進んで、
      誰か殺して、死ぬのに。あのひとを・・殺しにきて、回帰本能で、でも・・
      「生きたいんだろ。俺を標的に定めてろ。俺を殺すまで、死ななくてすむだろ」
      たくやが、わらう。ふわって、まるで、まるで空気の、あったかいのみたいに。
      「オマエが殺したくなるやつは、俺は全部殺してやる」
      「・・・・・・いっやだあああああああっ!!」
      ノイズが。脳がぐっちゃぐっちゃにかき回されて、金釘でひっかかれたみたいに。
      「・・・やだよう・・・もう死んじゃおうよたくや、死にたいよォ!」
      ミューテイションは進んでいくから。あたしは殺人をして、イノチを絶つから。
      その突然変異で、あたしはあたしになるから。
      きっと、たくやを殺すまでおわらない。
      「だから言っただろ、さっさと俺殺しとけよって」
      たくやは、あたしを、ぐって、力こめて抱きしめてくれた。
      「なあ、俺わかんだよ、なんかしんねえけど、遺伝子つながってっから、
      わかんだよ。なあ、おまえ本当は生きたいんだろ・・」
      「嘘。死にたいよ、今すぐ、死にたいよ」
      嘘をついていたい。たくやが死ぬときまで、あたしがこの手でたくやを
      殺すまで。ああ、あたしは、自分で自分を殺せない・・あたしの遺伝子が、
      あたしの頭の中で叫んでるんだ。気が狂うくらいに。
      あたしの愛するひとを殺しても。
      間違ったイノチでも。
      それでも、とまんないで、喉からして、ずっとずっと叫んでく。
      「シニタクナイ・・・!」