『テーマ館』 第29回テーマ「死にたくない」


声なき声 投稿者:芳美雪  投稿日:09月25日(土)21時30分07秒
       

      何かの拍子にぬらっとした物に足を取られ滑り転げて、厚い壁に挟まれているんだ。
その壁は厚いのに実体がない。
       「何故僕を挟みつけるんだい?」
       問いかけても壁は答えない。激しく叩こうにも、その壁は実体がない。
叫んでもただ吸い込んでしまうだけ。途方に暮れて眠ることさえ許されない。
       「何故だ。」
       無意味と分かっていても叫び続ける。
       「僕は死にたくない。」
       永遠に。
                       *
       「なっ。そういうもんだよ。生きるって。つらいと思わないか。」
       「思わない。」
       「そんなこと無いって。『死にたくない』ただそれだけで生きてるんだ。」
       「でっ。かわいそうだから堕胎せって?」
       「まあな。」
       「ばっかみたい。いやよ産むわ。だいたいそれって今私の中にいる赤ちゃんの事じゃないの。
『生まれたい』てことじゃないの。壁に挟まれてとか。」
       「違うよ。でも同じ事だろ。そいつはつらいんだよ。」
       「いいの。私産むんだから。ちゃんと責任取ってよ。」

       「おまえも。そこのおまえも責任とれよ。」
       低い声が響き渡った。

       「ねえ。今誰の声。」
       「俺じゃねえよ。おまえだろ脅かしやがって。」
       「まあいいわ。とにかく。はやいとこうちの親にもそっちの親にも話しつけてよ。
もう。お父さんなんだからじたばたしないでよ。みっともないんだから。大学生のくせに。
何学科だっけ? 人文ナントカってやつ。そんなのさ・・・」
       半年後には母親になる女は、その後しばらく俺の親父に愛情のこもった悪口を言い続けた。