『テーマ館』 第29回テーマ「死にたくない」


灯台 投稿者:みどりのたぬき  投稿日:10月24日(日)22時36分57秒
       

      灯台の灯りが輝く真夜中、小さな漁船が出港した。
      ここは漁業を生計とする日本海側の小さな村である。
      波が高く、風の強い日であった。
      漁に出る船の数もいつもに比べてぐっと少ない。
      港では灯台の灯りがみえる。富士夫の家は灯台の近くにあった。
      「今日は漁に出るのやめておいたら」
      心配そうに言った妻のよし子に「そんなこといってたら、食っていけなくなるだろう」
      それだけ言って、家を出た。
      「おい、ホントに出るのか。」
      そう尋ねた同じ村の永田に対しても「行くぞ」とだけ答えた。
      永田は肩を竦めたが結局、ついて来た。
      小さな漁船に乗ると永田と2人、外海まで出て、網を投げる。
      「不景気だから、しょうがない。こんな日も漁にでないと」
      冷たい波風を肩で受けながら富士夫は呟いた。
      漁だけでは妻と子を養ってはいけない。
      だから漁をやらない期間は出稼ぎにでる。
      しかし、この不景気で出稼ぎの口もぐっと減った。
      出稼ぎで稼げる当てが減った分、少しでも漁で稼ぐ必要がある。
      そんなあせりもあった。
      一家の大黒柱は富士夫ひとりなのに、今の生活は楽ではない。
      「まったく、世の中、金のかかることばかりだな」
      つぶやきながら、網をひく。
      隣で永田が「おい、気をつけろよ」と富士夫に言った。
      ただでさえ冬の日本海は波が高い。漁には危険な波模様であった。
      いままでの富士夫だったら漁にでるのはやめていただろう。
      だが、少しでも稼がねばというあせりが判断を狂わせていた。
      (まったく、女子供はいいよな)
      家にいるよし子と子供達のことを考える。
      真冬の日本海、真夜中の漁はつらい。冷たい風は身が切れるかと思う程である。
      (まったく、なぜ俺だけこんな苦労をしなくちゃならないんだ)
      富士夫は暗い海面に睨みつつ、重い網を引いた。
      *
      同じ頃、漁村の対岸にあるリゾートホテル。
      若い男女が窓から灯台をみていた。
      「きれいね。」女がいう。
      「ああ、周りが暗いから、きれいに見えるな」連れの男が答えた。
      「そうね。でも観光化されていない分、夜景が少し寂しいわね。」
      女は言ってから、こう続けた。
      「でも都会と違ってこういうところだったら、のんびり暮らせるんじゃない?」
      *
      あっという間の出来事であった。
      高波が小さな漁船を襲った。
      船がひっくりかえる。
      富士夫と永田は必死で横転した船のへりにしがみついた。
      冷たい波が襲いかかる。
      胸まで冷たい海水に浸かっていると体が痺れ、感覚がなくなってきた。
      (このまま、助けがこないと溺死か凍死だな)
      なんだかぼんやりとしてきた意識のなか、富士夫はそう覚悟した。
      隣で永田もやはり悲痛な表情を浮かべている。
      目の前に灯台の光がみえた。その下には富士夫の家がある。
      あそこへ帰ることはもうかなわないのだろうか。
      (俺が死んだら、よし子と子供はどうするかな)
      富士夫の脳裏によし子と子供の顔が浮かんだ。
      (子供が学校をでるまでは保険金でなんとか暮らしていけるだろうか。
しかしそうだとすると、俺がいままでがんばってきたのはなんのためだったんだ)
      灯台の光がにじんでくるような感覚のもとで富士夫は懸命に考えた。
      もちろん、家族のためだと思う。そのためにつらい漁や出稼ぎまでやって
稼いでいるのだ。
      しかし家族がいなかったら?
      それでもがんばり続けることができるだろうか。
      (いや、もう俺はやめてしまっているに違いない)
      富士夫はようやく気がついた。
      つらいのは、がんばっているのは自分ひとりではないことに。
      家族の元に帰りたいと思った。もうそれはかなわないかもしれないけれど。
      富士夫は船のへりにしがみつきながら、灯台の光をみつめた。
      *
      再びリゾートホテルの室内。
      「のんびり暮らせるかもしれないけど、遊ぶところもコンビニもないよ」
男が言う。
      「そうね。やっぱり少し退屈かも」女が笑う。
      対岸では灯台の灯が輝いていた。
      *
      「あんた、漁にいく時間になったよ。永田さんが待っとるで」
      妻の声で富士夫は目をあけた。
      見慣れた自宅の天井とよし子の顔が富士夫の視界にはいる。
      (あれ…)
      「おい、俺は漁に行ったんじゃなかったか。」
      「何をいってるかね、あんた。まだ夢みとるか」
      よし子は富士夫の顔を不審気に眺めた。
      (夢だったのか)
      富士夫はほっと胸をなでおろした。
      よし子は富士夫の様子がいつもと違うことに気づいたらしく
      「どこか具合が悪いのかね?」
      心配そうに富士夫を見る。
      富士夫は黙ってよし子を抱きしめた。
      「あんた、一体、けさはどうしたんかね」
      よし子はそう言いながらも、富士夫が抱き締めたまま、じっとしている。
      抱きしめたよし子からは干し魚の匂いがした。よし子が観光客用に家で
魚を干す内職をしているせいだろう。
      手は水仕事のため、荒れていた。
      どちらも結婚した当初のよし子にはなかった匂いと手だと思う。
      よし子もまた頑張っているのだ。
      富士夫は妻の荒れた手を握りしめた。それはよし子が家族のために懸命に
生きている証である気がした。
      よし子は照れながらも、「今日波が高いで。本当に漁にでるの?」
富士夫に尋ねた。
      「本当か、じゃみてくるわ」富士夫が答え、外に出る。
      港では永田が漁に出るしたくをして待っていた。
      「おう。波が高いが今日はどうする?」
      永田は富士夫の姿を見ると、漁に出るかどうか聞いてきた。
      富士夫は灯台をじっと見つめた。
      海の高波も。
      「いや、今日はやめよう。あせって出てもいかんわ」
      富士夫は答え、永田と別れた。
      今日は久しぶりに家族とゆっくり過ごすつもりだった。
      今、がんばっているのは富士夫ひとりではないのだ。
      富士夫はまだ暗い夜道を家路につく。
      灯台の灯りに照らされながら。