『テーマ館』 第27回テーマ「ドラゴン」


伝えられぬ史実 投稿者:アニゼット  投稿日:06月02日(水)18時31分27秒

      夜気が辺りに充満してきた。気温は徐々に下がり、街の活気
      は自然と収まりつつある。街の外れにある古い教会の鐘が、厳
      かに十と七回、鳴り響いた。耳を澄まして虚空を見上げた司祭
      の目には、濃い東雲色から瑠璃色に暮れゆく空が映った。
      「…最近、巷でまた妙な信仰が流行り出したそうで。」
       燭台の小さな蝋燭では、この広い空間ー神像安置室ーの全て
      を照らすことはできない。灯のそばに立つ司祭の、彫りの深い
      沈んだ顔立ちが見えるだけだ。この老いた男の他にも誰かが闇
      の中にいた。
      「偶像崇拝は民の流行病とはよくいったものだな。神への祈り
      など今では単なる反射行動に過ぎん。」
       辛うじて聞き取れる最低限の声量で話す、闇の中の男。その
      抑揚はどこかしら不自然で、活舌も悪い。大きな怪我で口元を
      変形させてしまっている、というような印象を司祭は抱いた。
      「して、今度の感染源は何だ、」
      「それが…とある戯曲の空想上の生物らしいのです。」
      「空想の生物、」
      「はい、確か竜…とかいう巨大なトカゲだそうで。」
       男は弾かれたように大声で笑い出した。そのとてつもない大
      声たるや、司祭を飛び上がらせただけではなく、神像安置室の
      隅々にまで響きわたる、笑い声というよりはむしろ騒音。それ
      まで抑揚や声量を抑えていたのが全くの無駄になるのも厭わず、
      さも可笑しそうに腹の底から笑った。
      「これは、まいった。今までの信仰遍歴の中でも、最も真実味
      のある対象だというのに…。」
      「真実味…といいますと、」
       司祭は動悸の治まりきらない心臓を押さえて云った。彼はて
      っきり、民の選んだものが巨大なトカゲであることに、男は耐
      え切れず笑ったのだと思っていた。しかし、今笑われたのはど
      うやら自分であるらしい、と司祭は感づいた。
      「私が何か…可笑しなことを云いましたかな、」
      「『想像上の生物』という所が…。」
       ふう、とひと呼吸ついた男は、何かに安堵したらしく、燭台
      の灯の中に姿を現した。
       その姿はまさしく竜であった。
       巷で『竜』と呼ばれる架空の生物そのものの姿であった。い
      や、今は架空などではない。司祭が想像の産物だと思い込んで
      いた、というよりそれ以外の何物でもないと考えていたものが、
      まさしく自分の目の前に、いる。
       前に突き出た長い上下の顎に、剣山のように並んだ無数の牙。
      何か崇高な意志を感じさせる、深淵の光を宿した眼。細やかな
      意匠を施した彫刻さながらの、鱗に被われた堅固な皮膚。それ
      が厚い外套を羽織り、司祭を見つめている。
       民が崇める物を宗教裁判にかけ、堕落せしめる教会の裏側。
      かつて多くの高位の天使を、悪魔として追放した歴史ある仕事。
      教会が協力者として寄越した人物であったはずの男が…。
      「あの三文戯曲は思いのほか役に立ったようだ。」
      「神よ…。」
       司祭は目を閉じた。