第55回テーマ館「夢」



偽りの夢 GO [2004/10/07 04:51:46]


 母が父と離婚して狭いアパートに引っ越してきたときのことをまだ四歳だったわたしは
ぼんやりと覚えている。すべてを覚えているわけではないけれど、わたしの目に映る母の
姿は、失望や、悩みや、人生の残酷さに打ちひしがれてしまった不幸のすべてを全身に漂
わせていたことだけは思い出すことができた。

 母はヒステリーと過剰なアドレナリンで顔を歪め、錯乱し、わたしを車に押し込んで毎
夜のように街をぐめぐる回っては世の中を罵倒し、また父を罵る悪口を絶叫した。
 わたしも知らず知らずのうちに母と同じように父親を罵った。それは父親というりも空
想上の怪物だったかもしれない。たぶん母から引き離されて施設に入れられるのが何より
も恐ろしくて、わたしは偽りの自分を演じていたのだろう。

 そうやって行くあてのない絶望的な夜のドライブを続けた果てに、あるスケート場の明
かりが煌々と点っている華やかな窓に差しかかったとき、母は不意に車を止めて、大勢の
若者たちが楽しそうに群れている銀盤の上を眺めはじめた。激しい音楽だけが窓ガラスを
振動させていた。

 じっと見つめる母の目は時間を忘れたように、うっとりと希望のともしびをほのかにと
もらせているのを今でも幼い記憶の一部として残っている。母の目は輝き、異様な好奇心
に目覚めたように、不意にわたしの肩を掴み、まるで狂ったように揺すぶって叫んだもの
だ。
「絵梨、母さんのためにスケートの選手になって、憎いとお父さんや世の中人々を見下し
てくれるわね?」

「うん」と、わたしは母のために素直に頷いていた。どこか母に責められている気がした
けれど、そうしなければ母がかわいそうに思えたからだ。
「絵梨はいい子ね。母さんは精一杯お前のために働くから、オリンピックに出て金メダル
を取っておくれ。絵梨は母さんの自慢の子だから、きっと約束できるわね?」

 アパートの駐車場に帰ると、車を止め、ドアを開けて、母はわたしだけを出した。そし
て秋雨の降る壁に立たせた。
「さあ、スポットライトだよ。お前に向かって大勢が拍手しているスポットライトなんだ
よ」と開けた窓から母が叫んだので、わたしは幼稚園の舞台のように光の真ん中で爪先を
旋回させ、それから両手を大きく広げて片足を引いた。膝を曲げて、厳かに観客に向かっ
ておじぎをする真似をして見せた。

 母の名前は裕子といった。そのわが子を見て、裕子は窓から両手を差し出して拍手を送
った。日頃の険しい皺がやわらぎ、目はきらめいて、顔が輝いていた。
 この子をオリンピックの金メダル選手にしてみせる。そうしなければ自分にとって立つ
瀬がない。
 裕子は今でも思う。

 もし自分が信州育ちの田舎者でなく、また父母がほんきでスケートをする自分に理解が
あったなら、きっと才能は発揮されてオリンピック選手になっていただろう。金メダルを
取っていたことは間違いない。じじつ彼女は学校の勉強はできなかったけれど、近くの湖
に氷の張る冬の間だけは違っていた。裕子は生まれつきスケートがうまく、体操の先生は
天賦の才があるとまで言ってくれた。その晩、父親にスケート靴を買ってくれるように頼
んだとき、父親は裕子の頬を思いきり平手打ちを食らわせた。「やっと樵で食っているん
だ。貧乏人にスケートなど必要ない。身のほどを知れ!」

 それがどうだろう。いまではスーパーのレジ係で、猛然と働くだけの何の希望もない生
き方しかできないとは。こんな屈辱に満ちた哀れな人生になるはずじゃなかった。
 どうしても絵梨だけはオリンピック選手になってほしい。いや、自分の中にその血が流
れている限り、絵梨はオリンピックで金メダルを取ってくれなくちゃ困る。

 裕子は断固としてそう思った。これからは苦労を承知で絵梨に期待するのは自分にフィ
ギュアスケートの経験があればこそだ。それは絵梨と母親との強い絆であることを裕子は
少しも疑うことがなかった。
 絵梨は四歳の小さな身体で母親に褒められることを期待して精一杯の笑顔をつくり、そ
れに応えようと小さな手のひらを頭の上から掬うように下ろしては何度もおじぎをした。

                   *

 絵梨は雄々しくスケートリンクに立ち向かおうと、あのとき思ったかどうかは、今とな
ってはわからない。が、ともかく母の期待に応えたいという強烈な願望だけはあったはず
だ。自分がスケートを望んでいるのかどうかはわからなかったけれど、母の決心が正しい
のだと思えば自信もわく。母の言葉にはオリンピック選手という感動があって、しかも金
メダルの取れる選手になれるような気まにさせる。ようは母の口癖である「十倍頑張
れ!」なのだ。

 そんなわけで、十五歳になるまで母は娘のために一所懸命働き、その高い月謝からコー
チ料が支払われてきた。
 毎朝、夜明けとともに起床し、早朝練習のために母の車に乗せられてスケートリンクに
行き、そのあと学校まで送ってくれる。

 十五歳の今でも同じ車で通い、また夕方には学校からふたたびスケートリンクに向か
う。成長するごとに大きくなっていく何足もの特性スケートシューズが下駄箱にづらりと
並んでいるのを見ては、ほんとうに母にすまない、どうしてもオリンピック選手にならな
ければ母を悲しませることになると絵梨は胸の奥から湧き上がる決意をみなぎらせてき
た。そう、母が言うように「十倍頑張れ!」なのだ。

 その母がひとり高い観客席から恐い顔で銀盤の上の絵梨の演技を見つめている。
 安くないコーチ料の指導で純真で愛くるしい肢体と長い髪をなびかせて力強く流れる絵
梨のとびきりの笑顔。だが、いまだに肝心の三回転ジャンプができないのを怒りの皺を深
くして唇を噛み締めて見つめている。これではジュニア選手権を目前にして、裕子の怒り
は爆発寸前だった。

(お願い。母さんに見せてあげて)
 氷上から高く身体を持ち上げる。だが、回転の途中で三回転は無理だと思った。それで
も三回転した。スケートは氷をとらえられずに身体ごと氷に叩きつけられて転倒したと
き、痛みよりも打ちひしがれたように肩を垂らしたのは、観客席を見る勇気がなかったか
らだ。

 母が観客席の階段を駆け足で降りてくるのがわかったとき、振り払うことのできない黒
い悪魔の警告が鳴り始める。
「こんな簡単な三回転ジャンプができないなんて、頑張りがまだ足りないからよ。しっか
りしなさい」と母は怒りを爆発させた。
「ごめんなさい」

「まあまあ、絵梨ちゃんの身体がそこまで成長していないんですよ。三回転ジャンプはま
だ無理だと思いますよ」と高宮というコーチは母親の見幕に圧倒されながらも、後ずさる
ように穏やかになだめたが、それでも母親の見幕はおさまりそうになかった。
「なにを言ってるの。あなたはコーチでしょ? どうして三回転ジャンプができないので
す? 教え方が悪いんじゃないの? ジュニア選手権は目の前に迫っているんですよ!
それとも高いコーチ料をぼったくるつもり?」

「ごめんなさい。今度はきっと三回転をやるから、ゆるして!」
 そう絵梨は詫びていたが、自分の声にエコーがかかっている。それでも無意識に母の呪
文の言葉を呟いた。「十倍頑張れ! でしょ?」
「そうよ。わかっているじゃないの。十倍頑張ればできることなのよ」
「わたし、ロッカーに行かなくちゃ」

 そういい残して絵梨は思考の道筋を失ったように、錯乱した頭から呼びかける悪魔の声
に促されて、階段を駆け上がり、ロッカーまで走った。気でも違ったように。視力も聴覚
も無くして。……
 震える指でロッカーの鍵を出し、蓋を開ける。カバンを探る。その底にはカッターナイ
フがある。親指で刃を伸ばす。

(お前には罰が必要だ)と闇の中から顔の見えない悪魔の声が轟く。
 そうよ、わたしには罰が必要なのよ。この身体がゆうことを聞いてくれないからなの
よ。
 カッターナイフが左手の皮膚の上を走る。血が噴出す。痛みは感じない。
(悪魔さん、これでいい?)

 何分かたって、悪魔が闇に解けると、精神が身体という組織の首座におさまり、絵梨の
乱れた恍惚の息づかいを除けば霧が晴れてピントが合った。絵梨はロッカーに寄りかかっ
て自分の手首から滴る血を見つめていた。
 これで何度手首を切っただろうか。肘から手首まで横に引いたカッターナイフの隙間も
ない黒ずんだ切り傷が波打っている。

 ロッカーの並んでいる廊下は、たとえようもなく灰色の孤独が漂っていたが、朝からの
緊張がすーっと消えて、ありがたいことに、悪魔さんから戴いたドラッグみたいに効いた
らしく、もう自信のなさも怯えもない。すっかりリラックスして最悪の状態は過ぎてい
た。
 絵梨が観客席の階段を降りてくるのを見上げた母もコーチも絵梨のきらめきを認めて、
思わず息をのんだ。その顔は光のように輝き、ほんとうに素敵な魅惑の笑顔をたたえてい
たからだ。

                  *

 車の中でも母は「やればできるじゃないの」と今も興奮の冷めやらぬ歓喜の叫びを上げ
ている。あの悪魔さんのドラッグはてきめんだった。やっぱり腕を切っただけの効果があ
ったのだ。ふたたび挑戦した三回転ジャンプは、少しバランスを崩したけれど、見事に氷
をとらえて優雅な滑りの円を描いていたからだ。

 母の声は悲鳴に近かった。絵梨のところまで氷の上をふらつきながら歩いて、音楽の終
わった制止状態の娘の薄く華奢な衣服に包まれた身体をひしと抱き寄せた。絵梨は頬の涙
を手の甲で拭った。母を見つめるその瞳はずうっーと母の理解と愛情を求めていたのだ。
その母がこれほど喜んでくれたことがたまらなく嬉しかった。

 初めて褒めてくれた母の興奮に満ちた気持ちよい匂いが絵梨の魂の奥深くに直接伝わっ
てきて、思わず四歳の幼稚園の頃と同じ幸せを思い出させる甘い匂いを嗅いだ。これから
も決して消えることのない幸せな匂いにむせた。ジュニア選手権までにはバランスを崩さ
ずに三回転ジャンプを立派にやってオリンピック候補になろう。そして金メダル取るの
だ。そうすれば母はもっともっと褒めてくれる。

 車を運伝する楽しそうな母の愛のある、耳に心地よい声はとても素敵だった。
 その夜のわたしは遠い日の記憶がふたたび戻ったように、母の愛撫の記憶がこんなにも
素晴らしくて、母こそわたしのすべて、その優しく、より強い愛の絆に身をゆだねて眠っ
た。こんないつにない母との愛と信頼がわたしをとても幸せにした。

 翌日、夜明けとともに早朝練習を終えて、学校に送ってくれた母の車を見送ると、勢い
よく校門をくぐった。
「おはよう恵!」「おはよう明美!」
 元気よく絵梨はとびきりの笑顔で混雑した廊下の中で手を振る。
 恵も明美も吃驚して目を丸くした。

 あまり目立ちすぎると住む世界が違うと思われてしまう。フィギュアスケートの地方大
会で優勝したときも、羨望の眼で見られるのを避けて、他愛ない話にすり替えたものだ。
厭味な女の子と非難されたくなかったからだ。それでなくても早朝練習、放課後練習では
友だちの一人もできやしない。やっぱり住む世界の違うフィギュアスケート選手というレ
ッテルを貼られているのかもしれない。だから恵も明美も滅多に聞かない絵梨の朝の挨拶
に吃驚したのだ。なんてことだろう。

 一時間目の授業は国語だった。最近やってきた女の先生で、男の子はみなドキンとさせ
るほどの容貌と、長い髪がとても印象的で、いつも優しさをこめた唇に微笑をたやさない
ので、だれも花田幸子先生に好意をもっていた。
「今朝は絵梨さんの詩をくばります」と幸子先生は言った。「みんな絵梨さんの詩を読ん
で参考にしてくださいね」

「えっ!」と絵梨は信じられない顔で女子生徒たちの反応を窺った。詩は大好きでよく書
くけど、いきなり頭をガツンと叩かれたようで、困惑に出くわしたときによくやる不運な
メロドラマのヒロインを演じようとした。学校では特別な目で見れたくないので、その癖
がつき、自分でも憎めないところだと思っていたが、いまはもうメロドラマをでっちあげ
る余裕はなく、絶体絶命の窮地に立たされてしまった。
 配られた絵梨の詩を読む生徒たちの緊張した静寂がしーんと教室に満ちている。

「へえ! 美しい詩じゃない? いったいどこからこんなすごい想像力がわいてくるの
か、教えてほしいわ」
 教室中の険悪な反応が襲いかかってきて、絵梨は袋の鼠になったように顔を真っ赤にし
た。頭の中は真っ白だ。ただ個人的な感情を切々と書いただけなのに。幸子先生のいじわ
る。……
「絵梨って美人だし、成績はトップだし、スケートでは地方大会で優勝するし、詩や作文
はうまいし、わたしたちとは出来が違うのよね」

 母はよく言っていた。「勉強したって何の役にもたたないんだよ。お前の父親も詩やら
小説やら書いていたけど、その悪趣味の血をお前も受け継いでいるんだね。こんなくだら
ない学校の勉強でトップになったったからって、その花田幸子先生のみじめな給与を知ら
ないのかい? 絵梨は時間を無駄にしているだけだよ。オリンピックの金メダルが絵梨の
人生なんでしょ? そのために母さんは必死で働いて絵梨を養っているんだからね」

 花田幸子先生は魂を注ぎ込むようにほほえみながら、陽気さの消えた絵梨に向かって陶
酔のこもった静かな口調で言っている。「この詩を全校生徒聞いてもらうために放送しま
す」
 やめて! これを知ったら母は何と言うか? きっと泣きをみるのが落ちだ。絵梨は苦
い思いが込み上げてきて、言葉に詰まった。
 わたしはそんなに立派な女じゃないのよ。わたしの腕を知らないでしょう? 自信喪失
のために長年カッターナイフで切った横筋の積み重ねは悪魔の微笑で、これがわたしなの
よ、とみんなに伝えたいほどだった。それができたら、どんなに気が楽だろう。

 昼休みにバスケット部の伊藤俊介とぶっつかりそうになったが、彼の太い腕が両肩を掴
んだので、衝突はまぬがれた。
「放送で聞いたよ。とても美しい詩だね。うまいんだね。感激したよ」
 一瞬、絵梨は何と言えばいいのかわからずに、真っ赤に染まった顔を上げて、俊介の優
しく惹きつける目に吸い込まれるようにして見つめる。優美な俊介の顔が穏やかに笑って
いる。絵梨は俊介が好きだった。

「ありがとう」と絵梨は小声で答えて、すばやくその脇を通り過ぎた。
 いつもの霧が押し寄せている。そこは古びた机などが押し込んである黴臭い物置部屋の
前だ。俊介と空想上の中で楽しく話し合っている光景が浮かぶ。絵梨はボーイフレンドを
つくればスケートの練習がおろそかになるばかりか、母を悲しませることになるのを知っ
ていた。だからボーイフレンドをつくらないことで自分を納得させてきたのだ。それを思
うと涙が流れた。泣き叫んだわけでではなく、どっと涙があふれたわけでもない。静かな
涙で、空虚感に満ちた切ない涙だ。

 あの悪魔がせせら笑う。
(お前にはボーイフレンドなどもてる暇はないんだ)
 絵梨はカバンからカッターナイフを取り出し、手首に当てて横に引いた。

                  *

「素晴らしい詩でしたわ」
 花田幸子先生は黄昏の光を避けるように眉のあたりに手をかざして、まるで幻想の中に
身を浸しているかのように褒め上げたので、迎えにきた裕子はちらりと鋭い目で絵梨を見
て、睫毛をふるわせ、瞼を閉じ、それから冷たく言い返した。
「この子にはスケートが大切なのです。詩など必要ない子です。二度と書かせないでくだ
さい」

「でも、とても才能がありますわ」
「ばかばかしい。詩がなにになるんです。この子にとって悪趣味に過ぎません」
 無言のまま母は荒々しく車を発進させた。花田幸子先生は息をのんだが、その反応は母
には通じなかった。怒気をはらんだ車の運転にも母の激しい感情がこもっていた。

 この夜のスケートリンクでの三回転ジャンプには弾みがなく、失敗ばかりで、あの三回
転ジャンプを成功させたときの喜びがちっともわいてこない。スケートの快感どころか
屈辱と侮蔑の容赦ない繰り返しに嫌気がさす。なぜか虚しい。夢の中でわきあがる勝利の
感情とは相矛盾している。オリンピックで金メダルを疑ったことはないけれど、高宮コー
チの教えにも能のない従順なリンクで遊ぶ凡人たちへの優越感さえわいてこない。

 もうわたしはスケート選手としての最小限度の誇りまで失ったのだろうか。もしそうな
らば、母の犠牲と苦しい働きによって支払われる月謝が無駄になる。母の期待を裏切って
しまった後悔ばかりか、もう生きてゆくことさえできなくなるだろう。
「今夜はこれぐらいにしましょう」と高宮コーチは頼りなげな声で言った。「休養も必要
です」

 母は観客席から降りてきたとき、そのぴくりとも動かない凄まじい土気色の怒りが目の
奥深くに留まっているのを絵梨はひるむように見つめた。
「ごめんなさい」と無力な自分に母の期待に添えなかった情けなさを混じえて、必死で詫
び、許しを乞うように母親の胸に抱きついて泣きじゃくった。
 だが、母は抱きついた娘の手を邪険に振り払って、その腕を引っ張り、かすかな呼吸が
喉にからまる湿った咳き込みの声となって言い放った。

「あのザマはなによ。詩など書いて母親を困らせるのが、そんなに嬉しいの?」と、ぞっ
とするような悪態をつき、猛然と絵梨を車まで引きずっていった。「詩や小説なんてもの
はお前の父親のような落ちぶれた者が書くものだと言っているでしょ? 絵梨はオリンピ
ックで金メダルを取るのが母さんの希望だということがわかってないのね? まったく呆
れ果てた娘だよ。もう何も言えないわ」

 アパートに着くと、母はいきなり、「その詩とかいうものを出して頂戴」と甲高く威圧
的に迫った。
 絵梨はカバンから緊張を帯びて印刷された一枚の詩を母に渡すと、母はすばやくひった
くって読みはじめた。
 しばらくしてから、「なんて、ばかばかしい詩ね。こんなものに才能があるはずがない
わ。あの花田先生の頭がどうかしているのよ」と絵梨の目の前でビリビリと二つに破り、
さらに細かく裂いて、手のひらの中で丸めてゴミ箱にぽいと捨てた。

 それを見ている絵梨は全身が総毛立ち、嗚咽とともに、凄まじい熱を発して、皮膚の一
部が蒸発してゆくように思えた。母の輪郭が揺らぎ、目の粗い霞に包まれた。
「なによ、その目は?」
 母の声だけが不吉なまでに現実感を増して、絵梨を威嚇する。絵梨は渇いた口に酸味を
感じ、喉が灼け、胸が痛んだ。詩を破られたことで自分の身体が塵芥のように細かく散っ
て落ちてゆくのを見ているような気がした。

 それでも母の期待する三回転ジャンプができなかったことで、絵梨は自己嫌悪に満たさ
れ、改めて熱い涙を流した。
 母さんの言うとおりだ。夢や希望がオリンピックの舞台で実を結ぶためにはスケートの
練習だけは避けがたいことなのだ。
 そう、母さんはいつだって正しい。それはわたしの中にある悪魔の囁きによく似てい
る。

 これまで起こしてきた腕を傷つける誘惑に執着しながら、その傷を必死で隠そうとす
る。もし無意識の牢獄を破って心理の障壁が崩壊したらどうなるか。それこそ地獄に堕
ち、呪われ、永遠に救われることはない。だれにも知られてはならない悪魔に惑わされた
麻薬は、女生徒の間で話題になる危険な薬物中毒よりも過激なセックスよりも強烈なの
だ。あのカッターナイフの衝動は断ち切れないエクスタシー以外には得られないものであ
ることを絵梨は知っている。

 だが頭の中の悪魔は隠せても、腕の傷は隠せない。それだけに腕の傷が知られるのを極
端に恐れた。もし知られたら、わたしの精神は崩壊するだろう。
「母さん、ごめんなさい。明日は十倍頑張るから」

                  *

 この朝の母の運転はやけに乱暴だった。絵梨は眠っていなかったが、母も寝不足のよう
に思えた。そして明け方の静かな通りは色づいた葉が絶え間なく無言の母と娘の内部に舞
い落ちているかのような実在感のない寂寥だけが居座っていた。

 母は絵梨を車から出すと、仕事場に向けて車を走らせた。絵梨は着替えてリンクに立っ
たが、やはり昨夜と同じで、高宮コーチに見守られて三回転ジャンプを繰り返してみた
が、結果はことごとく失敗だった。その高宮コーチの悲しみの目が何かを告白しているよ
うに見えたので、わたしは自分の内心の動揺を読まれているのではないかと怖れた。
 わたしはもう限界なのだろうか。だけど母は負け犬になるのを許さないだろう。

 母がふたたび学校に送るために現れたとき、高宮コーチは母に何か言っているのが聞こ
えたが、その声はわたしの耳にぼんやりと響いているだけで、何を言っているのかよく聞
き取ることができなかった。

 母や高宮コーチを頭から締め出して、絵梨は学校に駆け込み、長い廊下を走った。文句
のつけようのない目論見どおりの瞳を輝かせてるあの微笑をつくってから教室に入った。
それから自分の机について義務から開放されたように緊張がほどけていくのを感じた。安
堵感に満ちた適応性のある女生徒になれるように、まわりに目を走らせると、絵梨を射る
のに十分な視線が集まっていた。

 みなそれぞれが仲間同士で固まり、なにやら不可解な笑みを浮かべているのを不審そう
に探った。疑惑は深まり、絵梨の精神が停滞した。
「どうしたの?」絵梨は呼吸を整え、腹から息をゆるやかに吐き出した。みんなとうまく
やっている同じ饒舌にならなければ。……
「あれが見えるでしょ?」

 絵梨は黒板の文字を驚嘆したように凝視した。
《天才の絵梨と口をきけば罰が当たるわね》と書いてあった。
「だれが書いたの? わたしは天才なんかじゃないわ」と思わず声を荒げたが、こちらを
覗き込む顔に遠慮がなく、冷酷なまでの視線が絵梨の身体を這っている。
「だって、スケートはできるし、成績もトップだし、詩や作文はうまいし、みんな天才だ
と思っているわよ」

「だれが書いたの?」高鳴る鼓動と関節の抜けるような感覚を意識しながら、絵梨は憤然
と叫んだ。
「登校したら書いてあったのよ。でも、その通りでしょ?」
「冗談じゃないわ」みんなに目をやるまでもなく、だれもがどんな顔をしているかわかっ
た。それでも仲良くなりたいという願望があったから、怒りを起こしたいところをぐっと
こらえた。「わたしは天才なんかじゃないわ」

 生徒たちの耳障りな囃子声は静まらない。「天才さん」「天才さん」と絵梨を揶揄する
取り巻きの声はひっきりなしに飛び交って、朦朧としている絵梨の意識に響き、視界の中
を得々と性的な辱めのあれこれを奔流のように繰り返しては顔を覗き込む。まるで狂人の
愉悦に似ている。絵梨は冷や水を浴びせかけられているような気分だった。

 抵抗はよそう。抵抗してもかえって友だちを失うだけだ。絵梨はみんなに揶揄されて未
知の脅威がどんどん大きくなった。心臓が凍りつく。息がてきない。身動きができない。
瞳が潤んだ。涙がにじんだ。絵梨はあえぎ、うめき声をもらし、湧き出す霧の中で骨まで
しみとおる寒さを感じた。

 わたしは天才なんかじゃない。この腕の傷を見ればみんなはどういうだろう、と時々思
う。でも、これだけは完璧に隠し、だれにも見せるわけにはいかない。秘密の奥に封じ込
めておかなくちゃいけない。あなたたちは、このわたしの本当の姿を知らないのよ。
 霧がどんどん湧き出す。ロッカーに走って行きたい気持ちがあったが、感情はしっかり
抑制してあった。

 今はまだ悪魔の声は聞こえない。たぶんみなに非難されていることが抑制力になってい
るのだろう。それとも、なまじスケートができ、詩や作文が書け、成績もトップだという
ことで、ふりまわされている自分を見て喜ぶ残酷さが彼女たちにはあるってわけだ。た
だ、悲しそうに絵梨は微笑して耐えているしかない。

 だれかが先生を呼んだらしく、数人の教師が教室に入ってきた。
「やめないか!」と絵梨のまわりに割って入り、強引に絵梨を椅子から立ち上がらせて、
引きずるように保健室につれていった。
 校長先生がゆっくり現れて教壇に立ち、「絵梨さんはわが校にとって貴重な存在だ。学
校の名前が全国に知れているのは、みな絵梨さんの功績が大きいのだから、みな親切にし
てやってくれ。いいな」と注意してから、溜息をつき、禿げた頭をふって教室を出て行っ
た。つまり絵梨は学校の広告塔というわけだ。

 絵梨は保健室に寝かされたまま、じっと天井を見ていた。身についた習慣は置いてこれ
ず、当然みなとの境界線は引けないので、外見には特別に注意を払い、夏でも長袖で傷を
隠す。いつかだれかの目にとまるかも知れないのを怖れて、常時そのときの状況を確認
し、異常な行動はとらないことにしている。災難はいつ訪れてくるか知れないので、絶対
に警戒は怠らなかった。それが彼女にとって命懸けの防衛であり、強固な戒めだった。

 よく肥えた保健婦が分厚いレンズの眼鏡をかけて入ってきたのを、絵梨は半身を起こし
て見ていた。まさか自分の腕の傷を見るのだろうか。これだけは断固として阻止しなけれ
ばならない。いつもの精一杯の微笑を浮かべて、保健婦を迎えたが、頭の中の警報は鳴り
止まなかった。
「どう、少しは落ち着いた?」

 眼鏡が近づく。その拡大された目が絵梨の顔を覗き込む。良心の呵責もなしにわたしの
身体に触る白衣を着た邪悪な悪女。わたしは肩を怒らせて身体を揺すぶり、近づいた眼鏡
の中の大きな目から顔をそむけて逃げようとあがいた。
「もっと楽にして。あなたの身体は大切なのよ」
 がっちりと鉄の爪のように握り締めている手がわたしの脈を見る。その心の中の葛藤と
疑念が、保健婦の顔にはっきりと現れている。

「大丈夫です。教室に帰してください」と絵梨は叫んだ。身体が動かない。
 保健婦は首を振る。その顔は厳しく、微塵も妥協を許さない頑とした態度は、こちらの
言葉を受け付けないほど他人行儀で、取りつくしまがなかった。
「やめてください!」と絵梨は負けず劣らず保健婦に抵抗した。
 保健婦も必死だった。「この子を押さえつけて!」と廊下の二人の男性教師を呼んだ。

 絵梨は保健婦の髪をかきむしった。かけていた分厚いレンズの眼鏡が飛んだ。男性教師
二人が駆け込んできて、暴れる絵梨を押さえつけた。よもや彼女がこれほど気性の激しい
女生徒だとは思わなかったらしい。飛んだ眼鏡をひろってきた保健婦は怒りを煮えたぎら
せて絵梨の手首を掴むと、ねじ上げるようにして袖口を捲った。その肘から手首まで爬虫
類のように黒ずんだ切り傷がびっしりと横に波打っていた。

「やっぱり。高宮コーチが言ったとおりだわ」
 ぎゃっーと叫んだ絵梨の顔は苦悶に身もだえして悪鬼めいた形相に変わった。凄まじい
痙攣が起こって、身体をのけぞらせ、口から白い泡を吹き、白目を剥いて失神した。
 息をのむ保健婦と二人の教師には、その眺めは衝撃的だった。

                   *

 裕子は学校をめざして車を走らせていた。その夕方は台風の接近で異様に暗かった。そ
れでも車のスピードは緩めなかった。
 絵梨が三回転ジャンプに失敗ばかりしているのは、どういうことだろう。あの高宮コー
チが悪いのか。あのときは、確かにふらつきながらも成功させたではないか。きっと高宮
コーチの指導が悪いのだ、と心の底から納得したのは、そうとしか考えられなかったから
だ。自分の娘だから三回転ジャンプができないはずがないからだ。

 もっと優秀なコーチを捜さなければならない。それだけが頭にこびりついている。もっ
と科学的に合理的に指導するコーチなら絵梨の才能は開花されて、劇的な上達を見せてく
れるはずだ。子供の頃に捨ててしまったスケートへの夢をどうしても娘が受け継いでく
れ、自分のできなかったオリンピックの金メダルを取ってくれる願いだけは捨てきれなか
った。そうでないと自分の夢が無駄になり、クズみたいな人生に転落してしまう。

 あの高宮コーチは威厳すら感じさせる落ち着いた態度で平然と言ったものだ。「理絵さ
んの前途ある人生を犠牲にするのは、どうかと思いますよ。いま必死で頑張っていますが
愛情に飢えているのではないでしょうか? お母さんを喜ばすために苦痛の心理的な幻想
にしがみついているのだと思いますよ。無意識のうちに母親の愛情を得たいために、母親
の空洞を埋めようと必死なのだと思われます」

 愛情に飢えているですって? こんなに愛情を注いでいるのに、あの馬鹿コーチのたわ
ごとを聞いて腹が立った。自分の指導力を棚に上げて、平然と母親の愛情のなさにすると
は、何と愚かなコーチだろう。自分の指導不足をなど少しも認めないで言ってのけた口調
がどうしても許せなかった。絵梨はわたしの子供なのだ。それを決めるのはこの母親なの
だ。あの高宮コーチは絵梨を過小評価し、母親の愛情不足だと決めつけたが、これは母親
の自分を侮辱している言葉以外の何ものでもない。裕子は激怒した。

 問題は新たなコーチ料だが、もっともっと働いて、見事にオリンピックで絵梨が金メダ
ルを取ればジャーナリズムを惹きつけ、世間の注目を浴び、最大級のスポンサー料が入
る。そのためには、どんな場末の屈辱的な仕事でもやるつもりだった。
 人生は一度しかないのだ。ともかくとり巻く現実の世界を思い出させ、たしかな手ごた
えのあるこの世の誇らしさを実感しなければ、生きた甲斐がないではないか。何としても
自分が落ち込んだどん底から浮かび上がり、人生を支配しなくてはならない。それでこそ
人生に勝ったといえる。絵梨の胸躍る人生の展望が開かれ、自分の人生もまたそこから初
まることを疑ったことは一度もない。

 やっと学校の門をくぐると、いつも待っている絵梨がいないので、エンジンを切り、正
面玄関を入って職員室の扉を開けた。
 教師たちの視線がいっせいに裕子に浴びせかけられたとき、だれも口をきこうとしない
のを不審に思った。裕子の頭の中で想像さえできない疑問や憶測や疑念が渦巻いた。何か
特別なことが起こったのだろうか。

「絵梨はどこですの?」
「えっ? 職場にご連絡したはずですけどね」
「それは知りませんでした。で絵梨がどうかしたのですか?」確かに職場に連絡があった
が、どうせ勉強についてだろうと無視してきたのだが、いまは何かの異変が感じられた。
「いま絵梨さんは病院です」と校長が進み出て、威厳のある態度を示した。「精神病院で
すよ」

「精神病院?」
 裕子は何のことだかわからなかったが、硬い表情で教師たちの顔を見回していた。
 どの教師も口を閉ざしている。ぴりぴりするような沈黙が職員室に流れ、ようやく校長
が固く結ばれた口を開いた。一瞬、裕子はむらむらと怒りが湧き上がったが、いまはそん
な悠長なことは言ってはおれない。
「すぐ行っておあげなさい」と校長は追っ払うように言った。

                   *

 優しい看護師が睡眠薬の二錠を含ませて水とともに呑み込ませた。でも一錠は舌の下に
挟んでいたので、看護師がドアのスイッチを切って病室を暗くして出て行ってから、舌に
挟んだ錠剤を指でつまんで出して机の上に置いた。
 暗い病室の中が怖かった。

 夜のスケート練習を休んだのは初めてのことだ。正月も休まなかった。テレビも見たこ
とがないので、みんなの話についていけなかった。リングとかいう深夜に放映された怖い
映画の話を黙って聞いた。それからみなは夜はデートなのだという。朝まで彼氏と過ごし
て、日曜は昼過ぎまで寝るのだそうだ。

 そんな生活がうらやましくて、伊藤俊介の夢を見るのだが、それさえも絵梨には叶わぬ
夢なのだ。毎日二回の練習は欠かしたことがないので、どれも空想の中だけのものだ。猛
スピードの時間に追われてきた絵梨には、それが習慣だつたから、一分一秒が膨大な時間
に思えて、たまらなく怖ろしい。しかも今は囚人のように精神病院という牢獄に閉じ込め
られていては、この一分一秒に発狂しそうだった。

 母さんはどこにいるのだろう。この精神病院を知っているのだろうか。これまで母の庇
護に守られてきたことを改めて思う。母の匂いも足音も愚痴もスケート場も母から離れて
想像することができない。
 それが今、自分ひとり。母はどこ? 絵梨には母がすべてなのだ。母なしではいられな
かった。こんな絵梨を母は許してくれるだろうか?

 今でもあの保健婦が邪悪な獣のように思える。男性教師二人に押さえつけられて、盲滅
法に腕を振り回し、身をよじり、爪を立て、足蹴りにしたが、あとの正体を失した記憶だ
けは思い出せなかった。ただ腕の傷を見られてしまったことで、とうとう頭の中の悪魔の
棲む城壁が崩れてしまったことだけは意識の中にあった。

「こんな傷をつくってはスケートもおしまいですね。校長先生も困った生徒を抱え込んだ
ものですね。当分は精神病院から出られませんよ。やれやれ何年かかることやら」と保健
婦の声がする。
「ま、退学もやむおえまい。とんだ食わせ者を掴まされたよ。わが校の名誉のためにも、
そうするよりしかたがあるまいな」と校長が囁く。
 記憶は空白だったが、校長と保健婦が話し合っている悪夢の声だけは聞き取ることがで
きた。

 この腕の傷をたどれば悪魔の棲家がわかってしまう。これでわたしの人生は終わったの
だろうか。落ちぶれてゆく姿を母だけには見せたくない。母を悲しませるだけの人生など
わたしにはできない。
 絵梨は吐き出して机の上に置いた一粒の錠剤を口に含んだ。眠りの淵で霧が湧き出し
た。眠りとも覚めているともつかない朦朧とした霧の中で、この世のものとも思えない影
に包まれた。すると壁が膨らんで何かの形をつくった。

「あなたは誰?」と絵梨は喉から悲鳴をこぼしながら叫んだ。
「お前の悪魔だよ」と部屋全体から聞こえた。闇が邪悪な生命を宿しているかのように揺
れている。「お前の人生は終わったのだ」
「母さん!」と叫んでベッドから転がり落ちた。「母さん、助けて!」
 闇が裂け、そこから悪魔の顔がぬっと現れた。

「さあ、よく顔を見るんだ」
「あっ、悪魔の顔は母さんなの?」
「そうさ。お前の頭の中にいる悪魔は手首を切らした母さんだよ。それをお前は知らなか
ったのかい?」
 闇の形が歪み、鋭い爪に変わって襲いかかってきた。「お前は幼いときに母親の過剰な
期待によって衝動的に手首を切るのを覚えたのだ。それで心が安まるからだ。みずからつ
くり出した悪魔の幻聴により、焦燥感にみわわれてきたのだ。スケートの三回転ジャンプ
ができなくて激しい葛藤体験をしてきたはずだ。その自由にならない自分の身体を懲らし
めるために腕を切った恍惚感は忘れられないだろう?」

 身体に悪魔の毒蛇のような爪が走る。身体の感覚はない。爪は闇を引き裂く破壊音、倒
壊音で乾いた音を響かせる。
 絵梨は睡眠薬の効いた身体でドアにぶっかった。ドアを開けて廊下に出た。色のない廊
下を走る。どうにか病院を抜け出すことができたが、まだ悪魔は追ってきている。
母さんはそんな人じゃない、とよろめきながら走り続ける。逃げなければどんな目に合わ
されるかかわからない。きっと悪魔によってわたしは精神病院につれてこられたのだ。

「あんたなんか母さんじゃないわ」絵梨は朦朧とした足取りで外に出ると、裸足の冷たさ
で道路なのだろうと思って走った。白線でわかるからだ。それでも悪魔は背後に迫ってい
る。腕を切らせたのは悪魔で母ではない。悪魔が言うように貧しい環境による母親の過剰
な期待によって腕を切らせる産物になったのだという理屈を絵梨は認めなかった。
 逃げなければ、悪魔はどんどん近づいてくる。霧の流れている道路を、「母さん、助け
て!」と叫びながら、無我夢中で走る。そして、暗黒。……

                   *

 裕子は猛スピードを上げて精神病院に向かった。一体なにがどうなっているのかさっぱ
りわからなかった。それでも心臓が理由もなく高鳴っている。何か破滅的な予感がしてな
らない。
「絵梨、どうしたの? なぜ精神病院なんかに入れたれたの? お前はオリンピックで金
メダルを取るのでしょ? それが母さんとの約束じゃない? お前は精神病院なんかに入
院している暇はないのよ」

 精神病院に到着すると、受付に駆け込んだ。よもや絵梨が深刻な精神の病に冒されてい
るなどとは少しも思わなかったから、受付の女性にくってかかった。
「絵梨はどこなの? なぜ精神病院に入院させる必要があるの? 院長はどこ? すぐ退
院させなくちゃならないのよ!」
 横から白衣を着た老齢な医師が現れてきて、諭すように裕子に説明した。

「いま絵梨さんは睡眠薬で眠っています。この症状は患者の意識下に潜む未解決の葛藤が
投影されて腕を切り続けたものと思われます。心理的な原因を探るため、長期間、心理療
法が必要です」と静かな声で説明した。
「腕を切ったですって? ばかをおっしゃい。絵梨は健康そのものですよ。すぐ連れて帰
りますからね。病室に案内してください」

 裕子は医師の言葉を信じなかった。怒りが頂点に達していた。
「病室に案内してくださいと言っているのがわからないの?」
 やむなく看護師が二階の階段を上がり、絵梨の病室の前に案内した。
「ここですわ」とドアを開き、壁のスイッチを探って、病室に明かりをともした。
 そこにはベッドが寝乱れているだけで、肝心の絵梨はいなかった。

 まわりの机が倒れ、爪で壁を掻き毟ったような痕がいくつもあった。
「絵梨はいないじゃないの」
 絵梨が消えたのだ。病院中が騒然となった。裕子は鳥肌が立ち、狂ったように心臓が早
鐘を打つた。
「絵梨をどこへやつたのよ」と看護師の胸倉を掴んで激しく罵倒した。
「知りません。きっと逃げたんだわ」と医師と看護師たちは目を丸くして互いの顔を見合
わせている。

 裕子は当惑して、めまいのする頭をかかえ、急速に色褪せてゆく窓外の台風の接近した
景色を眺める。霧が流れている。
 慌しく階段を降り、庭に止めている車にとび乗った。
「絵梨、どこにいるの? 母さんだよ。お願い! 返事をして!」

 一体これは悪い兆しなのか、それとも精神病院を抜け出しすことによって、よい方向に
変わっているのか。どちらともいえなかった。なぜ絵梨が精神病院に収容され、そこから
逃げ出したか、理解ができなかったのだ。いまは窓を開けて、狂気に駆り立てられた声で
絵梨を呼ぶだけだった。

 しはらく行くと、白線の中心に白くうずくまっているような人の形が見えたので、裕子
はあわてて急ブレーキを踏み、その人の形のそばに車を止めた。ドアを開けて外にで出る
と、小さな身体を起こしてみて、思わず悲鳴を上げた。
「絵梨! 絵梨!」
 必死で身体を揺すぶる。大声で叫ぶ。意識のかけらがまだ残っているのではないか、昏
睡の底に意識のともしびがあるのではないか、と思いながら……。

「絵梨、目を開けなさい。お前はオリンピックで金メダルを取るんでしょ? こんなとこ
ろで寝ていちゃいけないわ。さあ、リンクに戻るのよ」と絵梨を抱えて、動こうとしない
肉体に心が閉じ込められているのではないか、生命が宿っている顔のように揺すぶる。わ
すかに開いた唇は、何かを話しかけようとしているかのように端から血の筋が流れてい
る。

 周囲から猛烈な耳を聾するばかりのクラクションが沸き起こったが、裕子は気づきもせ
ず、夢中で絵梨の亡骸を抱き上げる。それから顔を上げて、夥しいライトの光芒に超越的
な世界を垣間見ているような目をした。裕子はその光に取り憑かれたて、にっこり笑っ
た。
「ごらん。絵梨を祝福する沢山のスポットライトだよ。さあ、絵梨、立ち上がって手を振
りなさい」

 そのとき停滞した車の列を追い越そうとしてダンプが対向車線を大きくカーブを描いて
迫ってきた。その面前に女が少女を抱いていのに目が止まって急ブレーキを踏んだ。少女
を抱いた女がダンプの運転手に向かって振り向き、にっこり笑ったのは、タイヤが道路を
滑るほんの一瞬の出来事だった。

「絵梨、お前を映す世界中のテレビカメラのライトだよ。さあ、目を開けて金メダルを見
せてあげなさい」

 ダンプはバンパーの嫌な衝撃音がハンドルに伝わり、前のワゴンを弾き飛ばした。
 少女を抱いた女の姿は車体の下に滑り込んで消え、数メートル走って止まると、運転手
はやっと額の汗を拭って窓から後ろを振り返った。女と少女の身体は車輪の跡が深々とな
ぞっていた。


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