第55回テーマ館「夢」



土蔵破り3     −銀次捕物帖ー GO [2004/11/17 01:40:10]


(8)
 南町奉行所に投げ文があった。役人が拾い上げて広げてみると、「今宵九つ、霞と不知
火にて、ふたたび越後屋の土蔵を破る所存なり」とあった。
 すぐに青木伊右衛門の役宅に届けられたが、青木伊右衛門はざっと見ただけで、はて?
と当惑した顔で首をかしげた。庭に平伏している役人たちを見て、「投げ込まれたのは、
いつだ?」と聞いた。

「はい、たしか昼過ぎ頃であったかと思われますが、投げ込んだ者を見た者はおりませ
ん」
 伊右衛門はしばらく思案した。この不思議な投げ文に応ずるべきかどうか決断がつかな
かった。じっさいに二人の盗人が二人伴って盗人を働くなど考えられなかったからだ。い
ずれにしても盗人を働くには常に青木伊右衛門の指示があってのことで、霞の源兵衛にも
不知火の蜘蛛にも下知した覚えはない。といって放ってもおかれず、よもや予期しなかっ
た意外な展開に、自分の手を離れて盗み働きをする二人の大胆な行動に愕然となった。

「よし、二人を引っ捕らえよ!」
 青木伊右衛門の思いは険悪で、容赦がなかった。かわいそうだが、不知火の蜘蛛こと常
磐津のお栄を引っ捕らえて獄門にするのも止む終えまい。むろん由比正雪の残党らが若旦
那に扮してお栄宅を出入りしているのも始末しなければならない。何分にも老中には暮れ
一杯に引っ捕らえると確約したいるので、へんだとは気づいたが、この機を逃すわけには
いかなかった。

 すでに酉の市で買う熊手の賑わいもすみ、そして今年も三日を残すばかりであったから
だ。暮れの大掃除は江戸中で行われ、上野も浅草も鐘の手入れがなされていて、納札を寺
社の浄火に投じに参る沿道には正月用の物売りたちが各地から集まってきていた。

 役人は捕り方の家に散った。銀次の長屋にももたらされた。
「いやいや不知火の蜘蛛と霞の源兵衛を御用にする時がきたぜ」と酒癖の悪い島崎次郎兵
が黒頭巾に斬られてはじめて哀れを覚え、いよいよ仇討ちとばかりに、あの黒頭巾の刀の
峰の疼痛を忘れるわけにはいかなかった。むしろその疼痛にしがみつくように勢いづいて
いた。
「小平、今夜が勝負だぜ!」

「へい」と小平も身繕いをしながら、気を引き締めている。「親分の肩の傷のお礼をしな
くちゃなりませんや」
「あまり張り切りずきないでおくれよ」とお袖が心配の境を行きつ戻りつしながら言う。
「わたしの身にもなっておくれよ」
「わかってらあな」と言いつつ、胸の奥深くの疑念が、完全な形をなさないままに思いが
生じてくる。

 あの匂いだ、常磐津の師匠の香の匂いが黒頭巾からも匂っていたのはなぜか、と。それ
に峰打ちは一種の目明しへの譲歩なのか。くそっ! と負け犬になった屈辱感が消えな
い。おれたちは盗人の選択を誤っているんじゃないかと思えてならなかった。
「じゃ行くぞ!」と銀次は小平を叱咤するように言う。
「合っ点でさあ」と小平も相の手を打つように応える。

「この前のような目に遭うんじゃないよ」と愛情を込めてお袖が火打ち石を打ち、二人の
背中に火花を散らした。
「わかってらあな。今夜は無茶なことはやらねえぜ」と銀次は眉をつりあげて答えると、
戸を開けた。月明かりに照らされた雪の冷気が舞い込んだ。
「危ないことはお役人お任せするんだよ。小平も親分を守っておくれよ」と、その背中に
お袖はなおも叫んだ。
「へえ、よくわかってまさあ」と小平はお袖に笑顔を見せて戸を閉めた。

 月明かりの雪道を二人は猛然と走る。今夜ばかりは負け犬になるわけにはいかない。銀
次は十手の紐を切られた経験から、紐を細い鎖に換えた。今度こそ紐のように切られるこ
とはないだろう。悪人と闘って負ければ、今度こそ江戸っ子り本物の冷笑を浴びせられる
ことになる。
 何が何でも不知火の蜘蛛も霞の源兵衛も引っ捕らえてお縄にしなければ、目明しの面子
が立たないのだ。おそらくあの黒頭巾の素浪人も現れるだろうから、あのときの峰打ちの
生々しい悪夢が残っているだけに、銀次は仇討ちのように決意を燃え上がらせていた。今
さら後へは引けなかった。

 すでに手配りがすんでいて、越後屋の正面と裏手にも捕り方が潜んでいる。鎧戸を落と
した大店の界隈にも大勢の捕り方の吐く息の白さが感じられた。屋根に上がる梯子も用意
され、下手人との闘争に備えて大八車までが隅に止めてある。襲撃に先立って賊が袋の鼠
になることは一目瞭然だった。

 暁六つが近づいていた。そろそろだ。不知火の蜘蛛も霞の源兵衛も現れる刻限だ。捕り
方は息を殺して月に照る雪明りの路地を見つめ、また屋根を見上げる。空には満月が煌々
と路上を照らしていた。

(9)
「出たぞ!」と捕り方の声がした。屋根から屋根に飛び移る千両箱を背負った影が走る。
あれは霞の源兵衛に違いない。高張りの御用提灯が行く手を遮るように屋根を照らす。応
援の足音が次々に繰り出してきて、六尺棒が黒装束に向かって投げつけられた。それをか
わしつつ、千両箱を背負った影が屋根から屋根へ身軽に飛び移ってゆく。

そのとき、もう一人のすらりとした黒装束が満月を背にして黒い影が立っているのが見え
た。誰の目にも初めて見る不知火の蜘蛛であることがわかった。それを予期したように、
梯子を上がっていく捕り方たちの姿が屋根まで達した。

 銀次は十手をぐるぐる回した。まず霞の源兵衛からだ。十手を飛ばした。鎖が伸び、千
両箱を背負った霞の源兵衛の身体に巻きついて、銀次はぴんと張った鎖の一直線を引き絞
った。霞の源兵衛は短剣を抜いて切ろうとしたが、撒きついたのは鎖である。引き絞る銀
次に、前と同じように屋根から一回転して、どっと雪の地面に転がり落ちてきた。千両箱
の口が開いて、またもや小判の黄金が降り注いだのはいうまでもない。落ちた霞の源兵衛
を捕り方たちの六尺棒が滅多打ちにし、苦痛の呻きを上げる源兵衛をお縄にした。

 だが、屋根の不知火の蜘蛛は地上を艶然と見下ろしている。近寄った捕り方に囲まれて
不知火の蜘蛛は六尺棒を巧みにかわし、距離を縮めれば、すらりと身をかわす。屋根中が
御用提灯の灯で埋め尽くされた。
 そのときである。地上では御用提灯が乱れて、現れたのは、この前と同じ黒頭巾だっ
た。じりじりと距離を図って捕り方たちは黒頭巾の刀の圏内を取り巻いているだけであ
る。いたずらに飛び掛れば、この前のように斬り殺されのが落ちで、ただ「御用!」「御
用!」と叫んではいるが、同輩が斬り殺された恨みと憎しみは深かった。

 その反対側の路地の御用提灯がまたも乱れ、雪が舞い散ったので、銀次が振り返ると、
何としたことであめうか、またもや黒頭巾が反対側から出現したのだ。だれもが仰天し
て、役人も捕り方も目をしばただいた。「御用!」という呼ぶ声までが止み、乱れた御用
提灯が制止し、左右から出会うかのように距離を縮めてゆく黒頭巾の両者に捕り方たちは
息をのんで唖然と道を開いた。

「わしこそ、不知火の蜘蛛だ。あやつの黒頭巾は偽者だぞ!」
 みな屋根を仰いだ。そこには確かに黒装束の盗人がいたはずだが、その姿がどこにもな
い。屋根の捕り方も幻術にくらまされたように呆然としている。これこそ根来忍法の一つ
《たつまき》とも《狂いつむじ》ともいう業であった。

 銀次は黒頭巾の声に、はっとした。その声は篝陣十郎だったからである。
 どちらが本物の黒頭巾か役人も捕り方にも判別できず、ただ包囲して見ているより手立
てがなかった。
「青木伊右衛門、久し振りだのう」と呟いた声を役人も捕り方も聞いた。青木伊右衛門と
いえば南町奉行の青木伊右衛門しかいない。まさかと思いつつも、双方の黒頭巾を測りか
ねて、まるで残夢に包まれているかのようだった。が、二人の黒頭巾の出会いは偶然の一
致にしては、あまりにも出来すぎていた。

「兄の高右衛門の仇討ちはどうした。遠慮はいらぬ。かかってこい!」
 青木伊右衛門と呼ばれた黒頭巾に闘志がたぎったのを見ている役人にも捕り方たちにも
感じられた。むろん銀次にもわかったが、不知火の蜘蛛と名乗った黒頭巾が剣の使い手で
あることは誰の目にも明らかで、その黒頭巾がゆるやかに滑るように足を運ぶのをじっと
見ているだけである。

青木伊右衛門と呼ばれた黒頭巾は、不知火と名乗った黒頭巾めがけて、剣を振り下ろし
た。その剣を不知火の黒頭巾はは火花を散らして撥ね返した。さらに青木伊右衛門の黒頭
巾は刀を振り、薙いで、千変万化とも思える疾業の連続を繰り出したが、それを不知火の
黒頭巾はことごとく避けて、かわした。雪を蹴っての凄まじい死闘が続いている。
 青木伊右衛門の黒頭巾の肩が上下している。もはや息が続かぬようであった。

 それを見た不知火の黒頭巾は剣をだらりと下げた。
「どうした? もう息が切れたか?」と薄ら笑いが漏れる。「さあ、わが胸を突け!」
 青木伊右衛門の黒頭巾は肩で息をしながら、猛然と雪を蹴散らして一直線に不知火の黒
頭巾めがけて猛然と身体ごと突進した。その刀が不知火の黒頭巾の腹を深々と突き刺した
のを役人も捕り方も、そして銀次も、内心で鋭い叫び声を上げていた。

 不知火と名乗った黒頭巾はがっくりと方膝を突いた。

「見事!」と叫んで、青木伊右衛門という黒頭巾をしばし見上げる。青木伊右衛門の黒頭
巾は狼狽して、もうどうすることもならず、身をひるがえして、後も見ずに御用提灯の揺
らめく道を一目散に逃げ去った。
「篝の旦那!」と銀次は走り寄ってきて、篝陣十郎の倒れかかる身体を腕に抱きとめた。
「なぜ、このような真似をなさるのでのですかい?」

「おお、銀次か。これで、この世の悪い夢が覚めるのよ」と銀次に陣十郎の五指の爪が袖
を掴んだ。「銀次、頼みがある」と言う篝陣十郎の目に怖れがあった。
「何なりと言ってくだせえ」と銀次が答えると、篝陣十郎は銀次の膝の上から笑みを浮か
べて探るように見上げる。
「お栄のことだ」そこで息をついだ。目の焦点が合っておらず、そこにお栄を見ているの
か、遥か彼方に向けられている。「仔細はすべてお栄が知っておる。青木伊右衛門はお栄
を始末するに相違ない。助けてやってくれ」

「まかしてくだせえ」と銀次は篝陣十郎を抱き締めて大粒の涙を滴らせては、頭を振って
頷いていた。
 その篝陣十郎の握った五指の爪が安堵したように銀次の袖から離れて、ずるずると雪の
上に落ちた。篝陣十郎は銀次の腕の中で首を仰向けに垂らして安らかに息絶えた。かすか
な微笑を漂わせて。……

(10)
 常磐津の師匠宅は灯もなく、周囲の寮も同じように寝静まっているようで、屋根の雪だ
けが月に照らされているだけであった。
 青木伊右衛門は黒頭巾を脱ぎ、周囲に目を光らせてから、そっと常磐津の師匠宅に近づ
いた。お栄が逃げ延びる先といえば、ここしかない。

 篝陣十郎の仇を討ち果たした今、青木伊右衛門に残されているのはお栄の始末だけであ
る。あのお栄と篝陣十郎とが恋仲であることは伊右衛門も聞き知っていた。その篝陣十郎
を手引きしたのがお栄であることも伊右衛門には何となく感じられた。
 捕り方の手によって霞の源兵衛をお縄にした以上は斬首も止む終えなかった。だが、肝
心の不知火の蜘蛛を捕らえない限り、暮れ一杯という老中、松平信綱との約束が反故にな
る。そればかりか、紀伊頼宣公を死地に追い込むことにもなりかねなかった。

 何しろ老中、松平信綱との確執があるので、事はおろそかに扱えないのだ。その松平信
綱の考えは南町奉行の青木伊右衛門もよく知っていたからである。
 信綱は開幕以来続いている御三家という同族支配を排除したがっていた。そして老中に
よる幕政を取り仕切るのが筋だという考えであるだけに、厳しく口出しする頼宣公が常に
邪魔であった。

 その頼宣から見れば、神君以来の徳川家を横取りされたようで、信綱の横暴こそ許し難
いもので、由比正雪と結びついたのは幕府転覆を一挙に図って、信綱らを江戸城から追放
し、代わって幕政の実権を握る。つまり将軍の座を得ることであった。
 そういう裏事情があったので、果たして篝陣十郎の遺体を不知火の蜘蛛と偽って小塚原
に晒してよいものかどうか、考えれば考えるほど追い詰められてゆくかのようで、どうに
も自信が持てなかったのだ。

 お栄を始末しない限りは、いつどこで江戸の庶民の口のぼるやも知れず、その事態の後
始末に何か悪い予感のようなものがして、いつもの青木伊右衛門らしからぬほど心は穏か
ではなかった。
 しかし、このまま放ってもおくわけにはいかないので、躊躇している場合ではなかっ
た。どうせ南町奉行職は今年限りで退くからには別段怖がることではないではないか。篝
陣十郎と刃を交えた際に、「青木伊右衛門、久し振りだのう」と言った陣十郎の声を役人
や捕り方たちは聞いている。だからこそ証拠だけは残したくなかった。

 お栄を始末すれば、よもや頼宣公まで飛び火することなどあるまい。頼宣公の対手が知
恵伊豆の松平信綱だけに、殿を窮地に落とし入れることだけは断じて避けなければならな
かった。お栄をはじめ根来忍者をこの江戸に入れて、次々に商家の土蔵を破らせては軍資
金を得てきたのは、ただの盗人ではない、と青木伊右衛門は思っていた。これは松平信綱
への復讐、由比正雪をはじめ浪人たちにあのような仕打ちにさせた老中、松平信綱への仕
返しなのだ。

 ともかく、いまのところはお栄や霞の源兵衛などの働きによって戦利品はたっぷり紀州
下屋敷に積み上げられて、予想どおり、うまくいったのだ。青木伊右衛門はこの仕事が片
付けば、その喜びも復讐の快感も大きいはずだと思っていた。

 青木伊右衛門は刀の柄の位置を改めてから、暗い常磐津の師匠宅の格子戸を開けた。入
り口から奥まで暗かった。光といえば外の雪に反射する月明かりだけである。
「お栄、いるのか?」
 返事はない。
「わしだ。青木伊右衛門だ。返事をしろ!」

 人の気配を探るように息を止めて静まり返った闇に耳を傾ける。何か得体の知れない人
の気配に胸が高鳴る。確かにお栄はいる。
「出て来い!」伊右衛門は叫んだ。

 すると影が動いて、突如、伊右衛門は刺し来る龕灯の明かりを浴びて、思わず片腕で光
を防いだ。
「お待ち申し上げておりやしたぜ、お奉行さんよ。いやさ、青木伊右衛門!」
「貴様は目明しの銀次だな。なぜ目明しふぜいがこの宅におる? お栄はどうした?」
「お栄さんなら、もういませんぜ。お江戸八百八町のどこかに潜り込んでいやすんでね」
「おのれ! 謀ったな!」と伊右衛門の顔が悪鬼に変わる。

「おっと、お栄さんを斬りにやってきなすって、その言い草はねえでしょう。お江戸を火
の海になさるってことはお栄さんから、とくと聞かせてもらいやしたぜ。何でもお奉行さ
んが由比正雪の後釜でこざんしよう? それに出入りの若旦那衆は根来の忍者だそうじゃ
ござんせんか。化けの皮はちゃんと剥がれておりやすぜ。江戸っ子を甘く見ねえでおくん
なせえよ」そして銀次は勝ち戦のように浮かれた気分で笑ってみせた。

「目明しふぜいを斬ったところで刀の錆びになるだけだが、聞かれたからには生かしては
おけぬ。覚悟せえ!」
 伊右衛門は寒さとは無縁の寒気が悪寒のように全身を駆け抜けた。怒気をはらんだ口調
とともに刀を抜き放った。こうなったからには裏切ったお栄も目明しも生かしてはおけ
ぬ。すへてを知られたからには、もはや言葉は無用である。

 そのとき陰から小平が躍り出て、「これでも食らいやがれ!」と叫ぶなり、お栄からも
らった手投げの爆弾を伊右衛門に投げつけた。
 閃光が走り、火花が散って、幻惑された伊右衛門は一瞬に目を奪われた。闇の中で刀を
振り回したが、立ちこめる煙幕に耐え切れず、辛うじてよろめきながら外に逃れて、爆弾
を浴びた目に雪を擦りつけた。それでもまだ何も見えなかった。

 銀次と小平は雪にうずくまって苦悶の悲鳴を漏らしていはもがいている青木伊右衛門を
だらしなく見届けてから、「ざまあねえや」と一目散に雪を蹴って闇に消え去った。
 ようやく伊右衛門は目の痛みを我慢して顔を上げる。お栄宅に隠された爆薬を思い出し
て、慌てて雪に身を伏せた。
 お栄宅の爆薬に火を注いだらしく、木っ端微塵に爆発して燃え盛る業火を噴き上げた。
瞬時にあたり一面は黒い煙りに包まれて、炎は空を染め上げた。

(11)
 ここは紀州下屋敷である。その雪の庭に青木伊右衛門は両手をついて挫折感に苛まれた
ままうな垂れていた。相手の障子影に向かって自分の無力さと自己嫌悪に打ちひしがれて
いる。
「お栄は取り逃がしたか。止むおえん。その篝陣十郎の首を挽き切って不知火の蜘蛛に仕
立てるより手はあるまい。霞の源兵衛も根来忍者も残さず獄門台に晒せ。予は正月一日に
国下に帰参する。盗人どもが奪った千両箱のすべてを国下に運ぶ所存じゃ。これからは大
奥に小判をばら蒔いて、紀伊から将軍を出すことに尽力するのみじゃ。そちもわが駕籠を
守って同道せよ」

「ははっ!」と敬意を込めて青木伊右衛門は雪に顔を埋めてこすりつけた。
 もはや行動を起こすことの叶わぬことを悟って涙を滴らせた。南町奉行として、この分
野で役人や捕り方までも騙しおおせたものの、お栄の裏切りによって、目明しの銀次だけ
は騙し切れなかった。そのことが、いまだに悔しくてならなかったのである。
 すでに夜も明けて三十日であった。あと一日を費やして目を治し、元日には無事に殿を
お国下までお届けしなくてはならない。それだけが青木伊衛門に残された最後のお役目と
なった。

 その昼過ぎ、若旦那に扮してお栄宅を出入りしていた根来忍者の首を次々に刎ね終わる
と、最後に残った霞の源兵衛を小伝馬町の牢から引きづり出した。
「ぜひ、お奉行様の青木伊衛門様に合わせてくだされ!」と叫ぶ霞の源兵衛を役人たちは
蹴り上げた。
「大盗人の分際で、何をほざくか。神妙にせい!」

 いつもなら見物人の数もおよそ決まっているのに、今日ばかりはごった返していて、大
盗人の霞の源兵衛を一目見ようと、混雑の中から「よぅー、霞の源兵っー!」と掛け声が
反復され、牢から現れた霞の源兵衛に「待ってました!」と役者の登場のような拍手喝采
が沸き起こった。その霞の源兵衛はきつく縛り上げられて、首斬り場まで引かれていく
間、見つめる見物人の多さに度肝を抜かれて、背筋を寒気が襲い、足がよろめいた。

 罪状が読まれたが、歓声でよく聞こえず、下郎が掘った穴に向かって無理矢理に押さえ
つけられた。
「青木伊右衛門様!」と源兵衛は叫んだ。「助けてくだされ!」とあがく。塀の外は泳ぐこ
ともままならぬほどの人の海である。
「何を世迷い事を申すか。黙れ!」と役人が怒鳴り、厭がる源塀衛の顔に面紙の紐を縛り
つける。何も見えない。この一瞬がこの世との別れである。

 首斬り役人が刀を振り上げる。静寂がひろがり、すべての目が霞の源兵衛に惹き込まれ
た。
 狙いすました刀が振り下ろされると、首がごろりと穴に落ちて転がった。首の落ちた付
根から血が高く噴出す。その背中を下郎が撫でさすって、残りの血を吐き出させる。
 見物人から低いざわめきがさざ波のように沸き起こって、やがて耳が裂けるほどに高ま
った。

 明日の晦日には小塚原に不知火の蜘蛛、霞の源兵衛、そして根来忍者らがずらりと晒さ
れるのである。それを見物する暮れの熱狂的な群衆も、その興奮の続きのように多いはず
である。
 その混雑した見物人をかき分けて、お栄は熱を帯びた歓声の渦から抜け出すと、やっと
踏み荒らされた雪の通りに出て、凝然と空を見上げた。

 やることはわかっている。
 篝陣十郎の首だけは晒すわけにはいかない。獄門台に置かれた深夜、お栄はそっと篝陣
十郎の首を奪い取るつもりであった。

(12)
 銀次も小平もお袖の立ててくれた風呂に入り、さっぱりした気分で十手の置かれた神棚
に拍手を打って頭をたれた。
「おまえさん、お蕎麦だよ」と勝手からお袖の声がした。
「じゃあ、小平、これで今年もお終るえだな」
 そう言って勝手口に入り、お袖のつくった年越し蕎麦をうまそうに箸ですくい上げた。

「こりゃうまそうだ」と景気よく音を鳴らし、口に吸い込んでいく。蕎麦は何倍食っても
腹に溜まらない。
「お袖、明日は元日だ。三人で浅草寺にお参りにいかなくちゃなるめえな」
「そうだね。この一年は観音様にお世話になりっぱなしだったからね。来年もよろしく頼
まなくちゃ罰が当たるるよ」と、はらはらさせられどうしの夜を過ごしてきたお袖には、
どうしてもお礼を申し上げなくてはならない。

「まったくだ。この薄汚ねえ長屋におまえが来てくれたことだし、無事に目明しも務まっ
たし、まあ、いい年だったな。お参りしなくちゃ罰が当たるってもんだ」
 そう言いながら、蕎麦をすくい上げて勢いよく音を立てて口に運ぶ。雪も止んで、星の
見える空だから、どうやら明日は晴れそうだ。
「姉さん、もう一杯」と小平が丼鉢を差し出す。「こんなにうめえ蕎麦は蕎麦屋にもねえ
や」
「べんちゃらいいから、どんどん食べておくれ」

 お袖が小平の丼鉢に蕎麦を盛ったとき、遠くの空で除夜の鐘が鳴った。あれは上野の寛
永寺の鐘だろう、と思ったら、すぐ近くで浅草寺の鐘が大きく鳴り響いた。注連縄はお袖
が張り込んで海老と橙をあしらったものを吊るした。餅は長屋総出で餅を搗いて分け合っ
たので、元日はお雑煮である。

 それにしても、この寒空の下でお栄さんはどうしていなさるのだろう。銀次は気が気で
はなかった。この分じゃ、この長屋に連れてくるんだった、と思ってみだが、青木伊右衛
門の手の者が見張っているとも考えられる。
 ともかく無事に逃げ延びておくんなせえ、と祈るばかりである。

 蕎麦を食い終わって、お袖のつけた熱燗で烏賊の足をちぎりながら、小平と一杯やって
は、捕物の話に熱が入る。小平の好き勝手な言い草にお袖も笑い転げる。
 そのとき戸が叩かれて、わざわざ柳橋築地鉄砲州の目明しである辰吉が慌てふためいて
入ってきた。
「なんでえ。晦日の晩にどうちまったんでえ?」と銀次が訊くと、白髪混じりの辰吉は苛
立ちを隠さずに框に腰を下ろして、かなりの雪道を駆けてきたらしく息切れを整えるのに
時をようした。

「親分、不知火の蜘蛛の首が盗まれちまったんでさあ」と吃りながら、やっと苦しい息の
底から叫んだ。
「不知火の首が盗まれただと? それをわざわざ言いにきなすったのかい?」と銀次は深い
眠りから覚めたばかりのように、熱燗の酔いでおぼつかぬ目をして辰吉を見た。
「不知火といったって、ありゃ偽首だぜ」と言ってしまってから、まずかったかな、と思
った。

「それは言いっこなしですぜ、親分」と辰吉は肩をそぼめた。何しろ一方の黒頭巾が南町
奉行の青木伊右衛門であることは明白なので、滅多なことで口を滑らすわけにもいかなか
ったのだ。
「それで奉行所は何と言っていなさるんでえ」と銀次は、これからの奉行所の処置が気に
なった。
「いや、なんにも言ってはいなさらねえんでさあ」と辰吉はせっかく高揚した意気込みが
急坂を転がるようにたちまち沈んでしまった。
「なら、結構な話じゃねえか」と銀次は安心したように穏かに笑ってみせた。

 お栄の仕業だとは感づいたが、銀次は何も言わなかった。惚れた篝陣十郎を晒し者にし
てはおけなかったのだろう。そのお栄に感嘆を覚えたが、それを抑えた。さすがにお栄だ
けのことはあると思ったからだ。
「おれたち目明しにゃどうでもいいことだぜ。それより年越しの一杯飲んで行きなせえ
よ」

「いや結構だ。これから夜回りが待ってるんでね」
「そうかい、それは気の毒だったなあ。ま、よい年を迎えてくんな」
「銀次親分もな」と辰吉は戸を開けて、「おお寒っ!」と一声叫んで出て行った。

 そのあと雪を踏む寒念仏の行列が表の通りわ鈴を鳴らし、拍子木を打って通る。法華の
団扇太鼓も後に続いて通り過ぎて行く。銀次もお袖も小平も、改まってこの一年を思い返
すように身動きもせずに聞いていた。
 やっと年が明けた。途端に清新な気分が漲り、神棚に置いてある十手を見つめる。今年
もよろしく頼むぜと、めでたい空気に支配された視線が共にお互いの顔を見つめ合った。

(13)
 浅草寺までの雪道をふらふら歩いているうちに日が照ってきて、雪が溶けはじめると、
とこも泥濘になってしまって、浅草寺までは難儀しそうである。
 日本橋の伊勢、近江、京都の江戸店が軒を連ねている通りへ道を変えてみたが、ここも
参詣の人々でいっぱいだった。

「カッポレ、カッポレ」と囃し立てて派手な色傘の周囲をぐるぐる回りながら踊りが近づ
いてきた。そのすぐ後ろを三味線を爪弾いている粋な女は太夫である。
「これじゃ浅草寺まで身動きできそうにねえな」
 銀次たちは人波に押されて先に進めずに立ち止まるよりしかたがない。

 囃しを見たいばかりに人が増え、通りの彼方から三味線の音が近づいてくる。太夫たち
は正月いっぱいは鳥追いといって二、三人連れ立って編笠をかぶり、三味線を弾きなが
ら、正月の祝い唄を歌って門付をして歩くのである。正月が過ぎると編笠から菅笠にかわ
り、その太夫の媚めかしい柳腰の美人を見たいばかりに、また人波がどっと押し寄せるの
が正月行事の慣わしだった。

「しばらく見ていこうか」と銀次はお袖と小平に言う。
「それがよござんすよ」と小平は浮き浮きして太夫のに品のある編笠の中の容貌に吸い寄
せられていた。
「これを見れば、いいお正月だね」とお袖も太夫を法悦の目で眺めては三味線の爪弾きを
うつとりと聞いていた。

 人がどんどん増えて、通りの左右は無上の喜びを感じさせる太夫に、みな陶然と口許を
緩ませて顔を輝かせている。商家の通りは雪も片付けられて三味線を待つ群衆が長々と両
側の軒先に寄って待ち詫びている。

 そのとき、遥か遠くから大名行列の真っ赤な毛槍が青空高く振られているのが、小さく
見えたので、銀次は、おや? 目をそちらのほうに向けた。正月は将軍様に年賀の典礼があ
るはずで、それを無視してお国入りとは珍しいこともあるものよ、と唖然とした。太夫た
ちもそちらのほうに首を伸ばして振り返っている。

 先頭の徒士たちの笠が錫杖を地に打ち突けて、「脇に寄れ!」と群衆に怒鳴る。奴の振
る真っ赤な毛槍が青空に踊る。江戸ご府内ではひざまずくことはないが、頭だけは深々と
下げて通り過ぎるのを待たねばならない。
 編笠の太夫もカッポレを踊る囃し方も大名行列が近づいてきたのを見て驚き、慌てて群
衆の中に紛れ込んだ。

 往来は水を打ったように静まり返った。何といっても優先権は大名行列のほうにあるの
で、じっと通り過ぎるのを緊張して頭を下げていなければならない。これまで浮かれてい
ただけに、通り過ぎる間の長さは迷惑至極なほどの苦痛だった。

 これは一体どこの大名か、と銀次は上目づかいに見つめていると、向かい側に立ってい
る編笠の太夫と目が合った。はて? と思いつつ、相手を見返したが、編笠であるだけに
不透明で、太夫の眼差しが道を挟んで霊気のように届いていることだけはわかる。編笠の
目が挑むようで、何かがやってくることを承知で待っているような雰囲気だった。一瞬一
瞬が毒を含んでいるいるように思えるのは、銀次の気の迷いか。いやいや、そうではな
い。あれは大盗人の不知火の蜘蛛という悪夢を背負わされて一年間を江戸で過ごさなけれ
ばならなかったお栄の試練の姿だ。

 豪華な権門駕籠がゆっくりと現れた。その三つ葉葵に群衆が仰天したのは、紀伊大納言
頼宣の御紋であったからだ。共回りも笠を前方にかたむけた姿で、いすれも揃いの桐油合
羽で、刀の柄には雨除けの袋がかぶせてある。権門駕籠はゆるゆると静寂を保って進んで
来る。その桐油合羽の中には目を腫らした青木伊右衛門の姿もあった。

 大名行列は粛然と進む。重そうな黒塗りの道具箱を背負った何十人もの小者たちが権門
駕籠の後に続く。後詰めの武士も桐油合羽である。なるほど、御三家の一つ紀伊大納言頼
宣なら、年賀の祝辞を軽くすませてお国入りするなど何の動作もないことだろう。

 群衆は身じろぎもせずに頭を下げて小者たちが背負っている重そうな道具箱の列が延々
と続くのを見て、まるで道具箱の行列だな、と思った。群衆の目には大名の暮らしがいか
に江戸庶民とかけ離れた暮らしぶりであるかという感慨が沈黙の胸の内にあった。

 そのとき、屋根の雪がどどっと群衆の上に落ちてきた。権門駕籠の周囲を警固する桐油
合羽の武士に、落ちてきた雪を避けようと群衆がどっと押し出してきた。
 権門駕籠の周囲を守る武士まで群衆の中に呑み込まれてよろけてしまった。次に何が起
こるか銀次にはわかった。太夫の三味線から抜かれた仕込みの短刀がきらりと陽に光った
からだ。
「この世の夢は、あの世で見るんだねえ」
 間違いなくお栄の声だった。

 やがて群衆が静まり、雪をかぶった頭や衣服をはらっては、また軒先に寄る。
 権門駕籠の内から声があった。
「列を乱すな。死骸は捨て置け!」
 大納言紀伊頼宣の声だ。

 ふたたび行列は何事もなかったような素振りして静かに大名行列は日本橋を渡って過ぎ
てゆく。雪をかぶった青木伊右衛門の死骸を残したままで。……
 群衆は関わりを怖れて潮が引くように去り、通りは沈静化したように青木右衛門を除い
て人通りが絶えた。ここにいるのは銀次とお袖と小平だけだ。
「おまえさん、役人に知らせなくていいのかい?」と事情を知らないお袖が銀次の肩を揺
する。

「なあに、そのうち駆けつけてくるだろうよ」
 それよりも少しでもお栄には遠くへ逃げてほしかった。信念の少しも変わらぬお栄の心
象が頭の中にできあがっていて、いっこうに去らないのだ。篝の旦那は幸せ者だな、と銀
次はお栄の一期の愛憐に花を咲かせた切ないまでの純粋さに心を打たれた。

 それにしても、お栄の一瞬が夢か幻でも見ているようなところがあって、過ぎ去った思
いを起こす青木伊右衛門を刺したときの光景だけは一生忘れることはないだろう、と思え
た。これが武士の世界なのだ。
 おれたち町人にはこんな場合、何をすればいいのだろう。人はどんな印をこの世に残し
ていけばいいのだろう。そう心の中で呟く。お袖、そう思わないか、と尋ねる。

 いや、そうじゃねえ。この世がある限り、おれたちにとっても、お袖にとっても、小平
にとっても、お侍にはねえ町人だけが持つ人情の支えって価値が、ちゃんとここにあるじ
ゃねえか。まんざら捨てたもんじゃねえ。ただお栄さんには、いつまでも幸せに生きてく
れ、と祈らずにはおれなかった。

「さてと、これから浅草寺へ行かなくっちゃな」
 そう言って銀次は、もう一度青木伊右衛門の死骸から目を転じて、去っていった紀伊の
大名行列に目を向けた。大名行列はすでに日本橋を渡りきり、その下の氷の裂け目を縫っ
て早春の水が緩やかに流れている。雪の中に紛れ込んだ大名行列は白一色の風景と化して
いた。

(篝の旦那、お栄さんは見事にお前さんの仇を討ちなすったぜ。どうか成仏なすっておく
んなせえよ)
 雲一つない晴れた青空に凧が二、三浮かび、雄大な雪の富士山がくっきりと裾を広げて
いる。その富士に向かって銀次はそっと呟いていた。

 その後、紀伊頼宣は隠居して、家督を光貞に譲った。だが、隠居したからといって夢を
捨てたわけではなく、ますます将軍継承の野望を燃やして、後継者指名に大きな影響を持
つ大奥に常に金銀をばら蒔き、老中にも盆暮れの付け届けを怠らなかった。
 頼宣はこの紀伊から将軍を出せという遺言を残して逝去したが、それからほどなく、五
代将軍徳川吉宗が誕生した。むろん、それを見ることなく、六十九年の波乱に満ちた生涯
を閉じたのである。

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