第55回テーマ館「夢」



ひきこもり GO [2004/12/10 01:01:29]


1
 水野ユリは風雨の中を走っていた。激しく吹きつける水しぶきが渦巻き、うねり、打ち
つける雨脚を蹴散らして、彼方の視界のぼやけた雨のカーテンに向かって名状し難い精神
錯乱を組み伏せるように猛然と走っていた。頭上からは凄まじい稲妻と雷鳴が次から次へ
と集中砲火のように炸裂して襲いかかっていた。

 凄まじい雨脚は鞭で打たれるような感覚さえ覚えた。あのファッションモデルは死んだ
のだ。それが今は形のない、見えない彼女の幻影を求めて必死で走っているかのようだっ
た。
 終点のない距離を走る自分を止められないままに、ぐっしょり濡れた永遠の道路をひた
走った。数え切れない車のヘッドライトが雨粒を切り裂いて走りすぎてゆく傍らを無我夢
中で走り続けた。

 いまでもファッションモデルの熱い息が首筋に感じられる。自分の身体の中で、完璧な
ファッションモデルの身体がしがみつき、硬直してねじれ、しなう裸体。その優美な裸体
が底なしの闇に落下してゆく。ユリもファッションモデルと一緒に闇の淵を螺旋を描いて
落下してゆくかのような錯覚を抱いて、ひたすら激しい雨の中を懸命に走っていた。

 やっと家の玄関の灯が見えたとき、雨の中へ飛び出してきた母親の腕がユリの身体を抱
きとめたので、ようやく錯乱したユリの疾駆が止まった。
「どうしたのよ?」と母親はユリの衣服を見て悲鳴のような金切り声を上げた。ユリの衣
服は雨で滲み込んだ血が膝まで染まっていたからだ。「何があったの?」

 母親の顔には深い皺が刻まれていた。それは年齢のせいではなく、娘への怪訝と、それ
に伴う何かの罪を担うような皺だった。
「ユリ、答えなさい!」
 ユリは口ごもったまま、激しい雨の通りを窺うように振り返って見つめ、すぐに母親か
ら身を引いて後ずさった。

 その姿を母親は哀願しながら、ユリの両肩を激しく揺すぶり続けた。だかユリは何も答
えない。まるで何かに憑かれているかのように目に涙を滴らせて、母親の声も聞こえない
らしく、その目は手前で焦点が結ばれており、すべてを包んでいる悪夢のべェールの先を
必死で見通そうとしているかのようだった。

 ようやく悪夢を振り切ったように、我に返ったユリの頬が何かを言いつづけているよう
に痙攣していた。が、すぐに肩を掴んでいる母親の強い手を激しく振り解き、濡れた衣服
から滴る雨水を撒き散らして階段を駆け上がった。母親は言葉もなく呆然と見上げるばか
りだった。

 母親には日頃から娘が怖くて、滅多に話しかけるようなことはなかった。あの狂ったよ
うな暴力が怖かった。びっしょり濡れた階段の雨水をユリの残滓のように見上げる。何か
恐ろしい出来事を想像しながら、訳のわからない幻想と必死に闘う。
 物心ついてからというもの、ユリの無口が心配でならず、あらゆる臨床心理士に相談し
たり、また新興宗教にすがったりしたが、いまだにその効果が現れていなかったので、よ
けいに娘がふびんでならなかった。

 ユリには友だちが一人もいなかった。小学生のときも、中学生のときも、高校に入って
からもそうだった。いつも自分の足許に視線を落として、歩道のひび割れた線をたどるよ
うに歩いているのを、近所の人はよく見かけた。

 赤い頬の膨れ上がった目が糸のように細い女の子で、声をかけても決して振り向かな
い。目がつり上がっていて、何となく雰囲気が般若の面のように見える。しかもでっぷり
太っているので、その自分の醜い姿を避けるために振り向かないのだ。だが、身体から漂
う気味の悪い陰気な翳だけは隠せなかった。いつも異常な世界を見つめているような歩き
方だった。

 そして高校生になった途端、ユリは母親に対して凶暴になった。まるで悪魔が取り憑い
たかのように荒れはじめた。意味もなく物を壊し、手当たり次第に物を投げつけた。最後
には母親の襟首を掴んで引きずり回すまでになった。母親はそんな娘に心労して、精神病
院に連れて行ったり、必死で信仰にすがったり、また友だちを呼ぼうとしてあちこちに電
話をしてみたりした。が、誰一人やってくる者はいなかった。

 高校は半年で中退した。母親への暴力はおさまったが、そのかわりに、ときどき外出し
ては、夜遅く帰ってきた。あのグラビア写真に出てくる女のところへ行っていたのだとい
うことは母親にもわかったが、階段を上がって自分の部屋に入ると内側から鍵をかけて、
明かりを消してとじこもった。そっとドアの隙間からユリの部屋を覗いて見ると、虚ろな
目で雑誌から切り抜いた壁のグラビア写真に向かってユリは手を伸ばし、何かを求めるよ
うに呟いていた。

 いわゆるひきこもりである。そんな娘に対して父親はまったくの無関心を装っていた。
 いくら太っていても、水野ユリだけが特別な少女なのではない。こんな少女はいくらで
もいる。よほどの事件性でもない限り、ひきこもりなど滅多に報道されることはない。ど
こでもありがちな家庭の一風景だからである。そんな水野ユリと同じような人間は全国に
百万人もいるのだ。

 そうはいっても母親がこうむる深い苦悩は、いまや極限にまで達している。はらわたが
よじれるほどの悲惨なもので、ただ一つの頼りは信仰だけになった。まさにユリは問題児
だったからである。一人娘だけに深く溺愛してきたのがいけなかったのか。
 いや、そんなはずはない。確かに鬱屈した自己中心的な娘ではあるが、いまに夢と希望
が生まれ、人間的な女性へと変貌してくれることを信心によって願い、信じた。信心がま
だ効験を現さないだけなのだ。

 いまは乱暴な言葉づかいや、粗野な性格や、反道徳的な言動であっても、その外見の下
には仏性という光明が隠されているはずである。新興宗教の教祖の言われるままに多額の
金額を包んで特別な悪霊退治のお払いをしてもらった。母親は教祖の言葉を心から信じ
た。「必ず御仏がお救いくださいます。しっすりご信心をなさい」と。

 それがどうだろう。今夜のユリは異常で、雷雨のせいばかりではなく、常軌を逸した形
相が悪鬼のようにひきつり、上下する肩の喘ぎとともに雨に打たれた全身から湯気が立ち
昇っていた。

2
 ひきこもっていれば人と接触することもない。また自制心を失うこともない。何者にも
冒されない。そんな場所だった。とじこもっていることで、どんなものからも束縛される
ことのない場所だ。神経の束が途絶えて行き止まりになった場所だ。傷ついた虚無感の残
った場所だ。しかも妙に心地がよくて、自分はこれからもこの先もひきこもりは変わらな
いだろう。

 この世のすべてから遠く離れた世界だから、こうして視力も聴覚もなくして自分から離
脱してしまえば、眺める景色は異常さを超えたものしか感じられない。それは邪悪だ。そ
んな景色をぼんやりと感覚を麻痺させて一日中眺めているのは、脳の神経系統を自分から
活動を停止させているからだった。

 水野ユリもあの雨の夜以来、そんな状態を続けていた。二度と外の世界に戻る気はなか
った。視界はアニメのひとコマのようにゆがんで、この二階の六畳一間には死が、あるい
は死の記憶が漂っていた。
 いまではこの部屋が彼女の安住の世界だった。自分の太った醜い顔をさらすこともない
し、歩く必要もなかった。

 ユリには一ヶ所だけ鮮明な部分があった。あの雨の夜以来、空想が甘美に変貌していた
からだ。ユリの心に自分を慕ってくれている理想の女をつくり上げていたからだ。その女
に服従する。なんと美しい女神だろう。尊敬の眼差しで見つめる。興奮する。じつに刺激
的な容姿だった。

 ユリは唯一残っている生命の微光を放って畳の上を這った。それだけでも重い体重には
超人的な力がいった。手を伸ばして、ようやくカーテンを開く。
「まっていたわよ」と訪ねてきた小娘に嘲弄の唇をゆがめて微笑する。それが自分の独り
言となどとはユリには思えなかった。

 青山真知子。それが彼女の名前だった。いや、そうではない。いまでは彼女と自分が入
れ替わっている。ここにいるのは水野ユリではない。わたしは青山真知子なのだ。青山真
知子に変身した自分の容貌の素敵な姿を少しも疑わずに愛した。高尚な新しい生命に生ま
れ変わったことを率直に喜んだ。青山真知子である自分が大好きだった。

 なにしろファッションモデルという職業柄、当然のように多くの尊敬を勝ち得ている。
「だれにも見つかっちゃ駄目よ。わたしはあなたと付き合ってあげているんだからね」
「わかっています」と弱々しく緊張を和らげて水野ユリは子犬のように熱心に微笑んだ。
「今日はどこへ行ってきましたの?」
「もちろんモデルの仕事よ。今日はグラビア写真の撮影で忙しかったわ」と真知子は自慢
げに言う。まさに順風満帆。こんなに忙しくても会ってやっている水野ユリは感謝してい
るだろう。こうやって暖かい居心地のいい気分で慰めてやっているいるのだから当然だ。

 あの雨の夜以来、ずうっとユリの反応を面白く見ていた。自分との絆が深まったと感じ
ている太った醜い小娘。馬鹿な小娘だ。こんな小娘を支配するのは楽しいものだ。
「いいですわね」とユリは憧れの目で溜息を漏らす。
 モデルはユリにとって光輝く職業で、しかも人気絶頂の青山真知子にひざまづく女神な
のである。その遠い夢の女神をユリは虚像のようにうっとりと見つめる。壁いっぱいに貼
ってあるグラビア写真の切り抜きのように本物というよりも水に映った姿を見ているよう
な感覚である。

 ユリは青山真知子を心の底から慕っていた。いつも夢中で追っかけた。モデルの養成学
校の校門で何時間でも待ち伏せした。中学校の頃から真知子は期待され、モデル養成学校
を卒業する前から、すでにライトの光の舞台に立っていた。その間はいろいろな楽しみを
我慢して後回しにし、何よりもモデルになることを優先した。そう雑誌に書いてあった。
水野ユリとは大きな違いだ。青山真知子のことなら何でも知っていた。ユリなど人生から
落ちこぼれた虚しく耐え難い生き方だった。妄念ではなく、それがユリの唯一の真実だっ
たからだ。

3
 水野ユリの両親もユリと同じようによく肥えており、糸のように細長い目もそっくりだ
った。ましてユリが憧れるモデルのような女を極端に嫌った。あの細い腕や腰のくびれを
見るだけでも気分を害した。ファッション雑誌を部屋に持ち込むのさえも禁じた。それで
もユリはこっそり青山真知子の写真を雑誌から切り抜いて壁一面に貼って部屋を満たし
た。その切り抜いた青山真知子に自分の惨めな怒りをぶちまけることもあったし、止めき
れぬ激しい歓びの短いひとときを打明けたこともあった。

 父親も母親もファッションには興味がないらしく、ユリの部屋の壁の切り抜き写真を剥
がし、そんなファッション雑誌を取り上げて、すぐに破り捨てて屑入れに投げ込んだ。愛
する青山真知子が奪われたことはユリにとって最悪の悲劇だった。怒りがユリの中から吹
き上がった。狂人のように目を光らせ、極度に恐ろしい悪夢でも見ているような目が、や
がて突き刺すように両親に向けられた。両親は身内に戦慄が走った瞬間、ユリは部屋中の
物を滅茶苦茶に投げつけて暴れた。両親は異様な光を帯びた目で見つめるユリを見て、部
屋から飛び出し、階段を駆け降りて、母親はキッチンの隅へ、父親は自分の書斎へ逃げ込
んでしまった。

 ユリは両親を激しく憎んだ。ユリに悲しみが込み上げてくる。壁から青山真知子を剥が
されて以来、ユリは父とも母とも顔を合わせるのを拒否し、あらゆる規則を無視した。食
事の時間もお風呂に入る時間も別々になった。

 ユリは自分の部屋の鍵を内側から掛けた。部屋の中はいつも架空の世界だった。歳月は
果てしなく静かでのろく、耐え難いほど難儀なものだった。愚かで退屈な人生。貧しい精
神。天才でもない自分に嫌気がさす。自分を産んだ両親への軽蔑、むかつき、憎しみ、あ
らゆる形の嫌悪感が増す。太った醜い水野ユリ自身が感じる率直な感情なのだ。恋愛の経
験もなく、自分を信じたことなど一度もない。信じれば確実に最悪の結果を引き当てるか
らである。これが彼女が得た現実世界の教訓だった。

 なぜ自分のような女が生まれたのか? 新しく貼った青山真知子の女神のグラビア写真
に冷やりとする唇を押しつける。やっと二人だけになった愛の顔をあらわにして、甘やか
な青山真知子の香りを嗅ぐ。心の遠い部分で低く押し殺した声で彼女の名を呼び続ける。
何度も唇を押しつける。ごめんなさい。……

 壁から青山真知子の写真を剥がした両親を恨んだ。こんな自分を産んだ母親を呪った。
それからユリは自分の写真をこの世から抹殺させるように怒りとともに破る。おまえな
ど、消えてなくなれ! 指が痛くなるほど細かく破る。見つめる壁の青山真知子の写真が
優しく微笑する。

 写真を破り捨てたはずなのに、自分への嫌悪感は残り続けた。心の真ん中に開いた大き
な穴。愚かな自分が消えない。否定したはずの醜悪な自分を締め出すことができない。悲
しみに、無力感に、人生の落伍者を嘆く我が身の感情に、少しばかりの涙を流した。

 秘密の入り口である鏡に青山真知子のポスターを貼りつけると、カーテンを下ろした。
やっと、こんなにも愛している青山真知子の傍にに行き、そこで安心して眠れそうな気が
した。もうそのポスターを捲らなくてもいいし、自分の顔が鏡に映ることもない。先に青
山真知子が逝ったのがちょっぴり悔やまれるけれど、すぐに追いつけるわ。待っていて、
先生。……

 そて水野ユリは大量の睡眠薬を飲んで青山真知子を空想しながら、残酷すぎる運命に、
過酷すぎる世間の風当たりに砕け散ってゆく水野ユリを想像しながら、エビのように丸く
なった。全身の脈拍がとだえ、一切の想念が失せ、なにもかもが消滅して青山真知子と一
つになれるのだと思うと頭の中で非現実的なものが、決定的なものになるのを歓びをもっ
て空想した。全身の力が抜ける。それを願ってユリは昏々と数日間を深い眠りの中で漂っ
た。

 数日して焼けるような頭痛の中から目覚めると、自分の頭蓋骨の奥の泡立つように揺れ
ている青山真知子の反応が起こっていた。魔法にかけられたように見惚れている自分に気
づくまで、ユリは朦朧とした頭で自分を心底から疑った。だが、頭の中にあるのは青山真
知子の映像だけで、そこには水野ユリの姿はなかった。その思いが徐々に満たされていく
までのイメージのぼんやりしたかけらは、大量の睡眠薬を飲んだときの映像が深い闇の中
から浮かび上がった自分の正体というものがすっかり失われていた。あるのは青山真知子
という自分の身体から発する繊い髪、大きな瞳、すんなりした肢体の感覚だけだった。

 あの貧相な水野ユリではないことがわかったとき、こうなることは以前からすでに青山
真知子と同じ精神状態であったから、大量の睡眠薬を飲んで死の世界から青山真知子の肉
体を手に入れて、イマジネーションの世界から現実の世界へと復活したのだろう。ぼんや
りとしか見えない四方の壁の揺れ動くのを見ては、この信じ難い、しかし、否定しきれな
い奇跡の観念につきまとわれた。

 青山真知子である自分の姿を恍惚と眩しい目で眺め続けた。あふれるばかりの活力に満
ちた陽気で機知に富み、したいことをする女に変身していた。これがあの苦しめてきた苛
酷で醜悪な水野ユリでも、架空の青山真知子の幻覚でもない自分の姿に目を見張ってい
た。もしや醜さは美しさと同義語なのではないか?

 頬に触れ、髪を撫でる。どう見ても青山真知子そのものだった。美しく支配的な女とし
か映らなかった。身体の底から歓喜が湧き起こり、ベッドからずるずると滑り落ちて、両
腕で身体の線をなぞるように手を這わす。恥じらいの念が腕に、背筋に、胸に走るのを感
じる。これまで自分に起こるはずのない歓びに打ち震えた。長い舌で自分の肌を愛するよ
うに身を丸くして腕を舐め脚を舐め、そして秘所を探った。

 食事は母がお盆に入れて運んできて廊下に置くようになったが、真知子に変身したユリ
は太るのを恐れて、あまり口に入れなかった。
 水野ユリが訪ねてくるとき、壁に貼ったグラビア写真のように歓迎されたくて身体を維
持するために、食べたい欲望を必死で抑えた。そうしなければあの水野ユリのように太っ
たキツネ目のような細い目をした醜い女になる。

4
 今夜も秘密のドアからノックが聞こえた。「先生、いますか?」と囁くような声が聞こ
えた。「カーテンを開けてください」
「またやってきたのね。わたしは忙しい身体なのよ!」と返事をしてから、とうにか畳を
這って光輝く入り口にたどりついた。
 かろうじて手を伸ばし、カーテンを開く。それから満身に力を込めて揺らめきながら立
ち上がる。光輝く鏡を緊張しながら、自分の映っているポスターを胸騒ぎする距離感か
ら、おそるおそる捲り、そっと覗いた。

 そこにはあのデブで醜いお馴染みの水野ユリの不快な笑顔があった。
「遠慮はいらないわ。入っていらっしゃい」と真知子は高飛車に言った。こちらが惨めに
なるほど醜い女。だが心の慰めにはなる。それだけが取り得の水野ユリという小娘を迎え
入れた。

 真知子は自分が幽霊と話しているのではないと思っている。そんな妄想をとおに捨てて
いた。わたしは青山真知子なのだ。なぜ自分が青山真知子なのかと考えるのを、彼女はも
う放棄していた。彼女と入れ替わったのは大量の睡眠薬を飲んだせいなのだ。それでも真
知子は水野ユリを見るたびに、かっての醜い悪夢の残像だけは光る鏡に感じられた。が、
すぐに押し込めてあった忌まわしい記憶も消えて、もう思い出すこともなかった。これが
本当のわたしなのだから……。

 水野ユリの落ち着きのない小娘にとっては青山真知子の部屋は優しい隠れ家だった。
 彼女は時空を超えて毎夜やってきた。
 その肩がせわしなく息切れがし、よほど走ってきたのか、部屋に入るなり太った図体で
ながなが横になり、長時間じっとしていた。その姿を見るたびに、気の遠くなるような時
がたったのに、あの風雨の夜の惨状を思い出させて顔をしかめた。

「そんなに気にしなくてもいいのよ」
「ええ、ありがとうございます」
「この部屋でゆっくり休めばいいわ」
「わたし、よく目立つから、誰かに見られたでしょうか?」
「まさか。絶対に大丈夫。安心なさい」
「でも不安です」とユリは涙のうるんだ鈍い声で言い返した。

「何か心当たりでもあるの?」と真知子は訊く。抑制のきいた口調は平静で、いささかも
よどみがなかった。
 水野ユリは返事をしなければいけないような気がした。で、ユリは覚悟を決めた。
「わたし、人を殺したんです」
「えっ?」と真知子は目を見張る。不自然な沈黙の中で特に驚いた様子はなかった。「人
を殺したって、誰を?」

「それだけは言えないんです」とユリは頑なに首を左右に振った。
「知り合いなの?」
「ええ。知り合いといっても、多少だけど……」と尻込みし、逃げようとする。抱えたカ
バンを小脇にして、やはり逃げるような素振りは変わらなかった。
「逃げちゃ駄目!」真知子はきっぱり言った。「警察が捜しているの?」
「さあ?」怯えたままの薄汚い不幸な顔だ。「たぶん、警察が捜していると思います」

 もし警察がこなかったら、今度こそカッターナイフを自分に向けていただろうか?
 外は荒れ模様で、逆立ち波打つ街路樹が目に映った。かわいそうな被害者……。だか、
まだ警察はこなかった。
 疲れきった肉体と同じように、のろのろと時間の中にのめり込んでゆくこの部屋までが
ぼやけてしまった。青山真知子もユリも顔のない塊になってしまって、もうどちらがどち
らなのかはっきりしない。それでも彼女は警察を待っていた。

5
 雨さえ降っていなかったら、こんなことにはならなかったのだ。本当に車が止まるとは
思わなかったのだ。ただ冷たい雨に濡れて、じっと彼女を見ていただけだった。
 彼女は仕事を終えて、警備員に挨拶してから、ひとりで車に乗り、通りに飛び出した。
そこにずぶ濡れの少女がぽつんと立っていた。

 彼女は親切にドアを開いて、「乗って行く?」と言った。いつも見かける少女だったか
らだ。
 そこにはもう殺到するファンはいなかったので、彼女は車の中で両腕を伸ばし、安堵の
吐息を漏らした。
「いつも見にきてくれているのね? ありがとう。風邪をひかないうちに毛布があるから
かぶりなさい」

 彼女は一人暮らしだった。高級なマンションの最上階に住んでいた。
「寄っていく?」
「ええ」
「紅茶でも飲めば温まるわ。もちろん、熱いシャワーを浴びてね」エレベターが上がるに
つれて目を奪うばかりの東京の灯の絨毯がひろがった。それを見つめながら、彼女は素敵
な笑顔で親切に言った。「部屋に入れるのはあなたがはじめてなのよ」

 実際の彼女は仕事では貪欲で、しかも取っつき難いタイプの女性だったが、ファンを大
切にする彼女をユリは知らなかったので、いつも新鮮に感じられた。
「あなたはモデルが好きなの?」
「ええ」
「モデルって大変な仕事なのよ」とIDカードを差し込んでから、ドアを開けた。
 部屋の中はユリも見たことがないほど豪華そのものだった。

 青山真知子のダブルベッドの上には等身大の裸体のパネルが貼ってあった。初めて見る
青山真知子のセクシーなポーズ。長い脚を少し出して交差させ、両腕を垂れた長い髪の後
ろで組んでいる。微笑を含んだ唇からつぶやきが漏れきこえるような尊大なポーズであ
る。

 ユリは魂の奥まで揺すぶられ、全身の血が火のようになって、呼吸が止まるほどの感動
を受けた。ユリは念入りにその青山真知子のポーズを見つめては、青山真知子という女性
美の典型といってもいい裸体のポーズこそ彼女の誇りと華やかさなのだと思って見惚れ
た。

「ねえ、何て名前?」
「ユリです。水野ユリ……」
「そう。濡れている服を脱いで乾かしたら? 乾燥機に入れたらすぐ乾くわよ」
 ユリは青山真知子に言われたとおりにおずおずと服を脱ぎ下着一枚になった。
「その下着も脱いだら?」
「だって先生のような綺麗な身体じゃないんです。すみません」

「いいじゃない。誰かに見られているわけじゃあるまいし、さあ脱ぎなさい」
「はい……」と言ってブラジャーのホックを外し、それから決心したように後ろ向きにな
って下着を下ろす。あせったのか、うまくいかなかったので、すぐに引っ張って太い腰を
揺らし、やっと引っ掛かった下着を脱ぎ落とした。

「こんなに太った身体で、ごめんなさい」
「いいのよ」
 その間の青山真知子の目は輝いていた。太ったユリの身体は贅肉でくびれがなく、まる
で相撲取りを見るようで、そのせいか乳房までが小さく感じられた。
「乾燥機はお風呂場の前にあるわ。入れてきなさい。それからジャワーも浴びてくるの
よ」

 暖房のきいた部屋は暖かかった。分厚い絨毯を歩いてバスルームまで行くと、その横の
洗濯機の上に乾燥機乗っていた。その丸い蓋を開けて、自分の衣類と下着を入れてタイマ
ースイッチを回し、シャワー室のドアを開けた。
 戻ってくると青山真知子も上等の服を脱ぎ、全裸になっていた。モデルだけあって美し
い顔立ちに美しい肢体は非のうちようがなく、生き生きと輝いているので、これこそ女性
美の理想的な姿なのだと眩しいばかりの清新な肌を仮借ない打撃のように意識のはしばし
にまで衝撃の度を加えて見惚れた。

6
 青山真知子の盛り上がった乳房、細くくびれた腰、ひきしまった贅肉のない腹、すんな
りしたミルクのような太もも、美しい髪、そのすべてが温かい記憶のような青山真知子の
安らかな呼吸と肌の温もりを感じながら、薄暗がりの中で水野ユリは彼女と一緒に毛布に
埋まって幸福感に満たされていた。

「わたし、先生が大好きです。いつも憧れていました」
「知っていたわよ。ほかの女の子とは違った目の光だったもの」
「わかっていらっしゃったんですか?」
「舞台に立っていても、今日はどんな人が来ているのか、すぐにわかるわよ」
「わたしに気づいてくださって、ありがとうございます」

「お礼なんていらないわ。こうしてユリさんを誘ったのは、いつも来てくれるからよ。感
謝するのはわたしのほうだわ」
 そう言って、唇から煙草の火を遠ざけると、ユリに顔を近づけてちらりと微笑んだ。吸
っていた煙草の火の先端が薄暗い部屋で輝きを失った。部屋を一歩出れば煙草を吸わない
ことにしているので、どうしてもストレスがたまって、部屋に帰ると我慢できずに立て続
けに煙草を口にしてしまう。運動器具に乗っている間も煙草を吸っていた。

「じつは、わたし、先生にお願いがあります」
「なあに?」と煙を吐いて、真知子は憂鬱に訊ねた。
「わたしを使ってくださいませんか?」
「えっ?」と真知子は煙草の煙で輪をつくろうとしたが崩れてしまった。ベッドの横の灰
皿で煙草をもみ消し、少し身を起こして、ユリの顔をまじまじと覗き込んだ。

「モデルになりたいってこと?」
「いえ、こんな太った身体じゃ無理ですよ。そうでしょ?」と自分の醜悪な顔と肥満を悟
っているので、悲しげに首を振った。
「じゃ何? マネージャーでもなりたいの?」
「いえ……」と目があらぬところをさ迷っている。「そんなんじゃないんです」

「じゃあ何が希望なの?」と真知子は同情と共感の眼差しで、不躾にならない程度にじっ
とユリを見つめる。
「わたしをお手伝いさんにしてもらえませんか?」
「お手伝いさんね」と言ってから、一つ溜息をついて、申し訳なさそうに答えた。「お手
伝いさんなら、もういるのよ。ごめんなさいね」

「そうですか……」とユリも溜息をついたので、真知子は無言で彼女の大きな頬に手を触
れ、優しく髪を撫でた。ユリに真知子の肌の匂いが香る。
 にわかにユリの存在が真知子を重苦しくさせた。せっかく親切に自分の部屋に入れたの
が間違いだったような気がしてきた。彼女を誘ったのはそっと触れてみたい欲望があった
からだ。

 これまで真知子は男性経験が一つもなかった。身体の線を維持するために日々運動し、
子供の頃から訓練に明け暮れてきた自分に男性経験などあろうはずがなかった。
 日々のトレーニングの中で、自分は男性とは無縁の不感症なのだと思ってきた。それが
ふと雨に濡れそぼった彼女を見たとき、ほんのちょっとした好奇心の疼きが湧いて、つい
車に乗せてしまった。しかし今はユリという少女への好奇心は完全に薄れて、いつもの冷
たい自分に戻っていた。何と馬鹿な少女を誘ったのだろう。

「では……」とユリはしばらく躊躇してから、「先生、わたしと死んでもらえません
か?」と急にユリは真剣な眼差しになった。「先生と死ねるなら、どんなに幸せかしれま
せん。お願いです。わたしと死んでください」
「ユリさん、急に何を言い出すの? あなたと死ねるわけがないでしょ」と、この突拍子
もないユリの言葉が激流のように真知子の頭に流れ込んだ。

 この娘は狂っている。まさか死んでほしいなんて、そんな娘がいるだろうか? この娘
は本当に狂っている。真知子は仕事上、怠けた者や情の薄い連中や無知で馬鹿な人間を許
さなかった。
「自分の顔や身体を鏡に映して見たことがあるの? あなたと違って、わたしはファッシ
ョンモデルなのよ。もう乾燥機の衣類は乾いたでしょ? せっかくの親切もあなたには無
駄だったわね。さあ、帰って頂戴!」

7
「わたしが醜いからでしょ?」と真知子の薄笑いを見て、ユリの顔色が変わった。これま
で見たことのない凶暴な顔だ。
「そうよ。あなたほど醜い少女はいないわ」と真知子はせせら笑った。
「そうですか? わたしは先生をずっーと愛していました」
「あら、そう? わたしを愛している人は大勢いるわよ。あなただけじゃないわ」
「いえ、わたしは特別に先生を愛しています。他のどんな人よりも深く愛しています」

「何を言っているの? わたしはあなたみたいな小娘などに愛してもらわなくて結構よ。
わたしの部屋に入れただけでも有難いと思いなさい。さあ、帰って頂戴。これから眠るの
だから、あなたは邪魔なのよ」
「追い出す気ですね?」
「追い出す? 馬鹿をおっしゃい。ここはわたしの部屋よ。これまで誰も入れたことのな
い部屋なのよ。あなたの衣服が濡れているから乾かすために入れてあげたんじゃない?
それを追い出すとは何て言い方? 一緒に暮らしているわけじゃないのよ」

「そうですか?」とユリは落胆したように溜息をついた。話すにつれて絶望がどんどん深
まっていく。真知子との距離がひろがるとともに、惨めさもどんどん膨れ上がった。「じ
ゃ、わたしの愛は先生に通じなかったんですね?」
「わたしは愛など信じないタイプの女なの。わかった? さあ帰って!」

 ユリは驚きを隠そうともせず、不審の面持ちで真知子を見つめる。汗が吹き出し身体震
える。空気がよどんで黒く心を覆う。いまにも暗黒が訪れようとしている。
「先生がわたしと死んでくださらなかったら、わたしが先生を殺すしかないですわ」と呟
いて、脇の小机の上に乗せている自分のカバンを探った。カッターナイフが手に触れた。
親指で刃を伸ばし、カッターナイフを強く握り締める。

 ユリの憤怒の形相が雷でストロボのように連写され、続いて得体の知れない光が真知子
の顔に向かって一閃した。
 真知子は熱湯を浴びせかけられたような激痛にベッドから転げ落ちた。額から頬にかけ
て深い筋状の溝がパックリと開いている。その自分の血を盛大に噴き上げ、絨毯に撒き散
らした。真知子はナイフの一撃にはひとたまりもなかった。血の噴出す頬を押さえて悲鳴
を上げながら、部屋を逃げ惑った。

 その背中にまたも焼けるような激痛が走った。窓ガラスを揺すぶる風雨の不協和音を伴
奏に、部屋の中を縦横無尽に走る刃に斬られて真知子は異様なダンスを踊らされた。
 ユリの振り下ろすカッターナイフを牽制する青山真知子の両手の指が斬られて顔をゆが
める。悲痛な悲鳴を上げて窓際に寄りかかる。窓ガラスのロックした金具を探っている。
青山真知子はベランダに逃げてカッターナイフから身を守ろうとしているのだ。そうはさ
せないわ。

 ロックが外れ、ガラス戸が大きく開いた。猛烈な突風が激流のように流れ込んできて、
思わずユリは風に押し戻された。部屋中のものが嵐のように身勝手な動きをはじめる。絵
画が金具から外れて飛び、ベッドの上の青山真知子の裸体のパネルが魂を得て自由になろ
うと暴れる。高価なガラス工芸品が次々に破壊されて、その破片が絨毯の上にばら撒かれ
た。紙という紙が宙に舞い上がって、まるでポルターガイストのように旋回している。

 ユリのカッターナイフから離れようと真知子は開いたガラス戸を閉めようとしている。
だが、すでにその力はなかった。ユリも風雨に逆らってベランダに出た。青山真知子の長
い髪が海草のように吹き上げる風にはためていて、遥か下界に身を乗り出している。また
雷が白光し、耳をつんざく雷鳴が炸裂した。

 ユリはその青山真知子の背中を斬りつけた。下界に向かって必死に手を伸ばしていた青
山真知子の全裸がベランダの柵をくるりと越えた。下界は雨霧が漂い、車のライトが蛍の
光ほどの緩慢さで動いている。その下界に向かって青山真知子の白い全裸が手足を広げた
格好で回転しながら沈んでゆく。やがて雨霧が青山真知子を覆った。ユリの目には青山真
知子の姿はもう見えなかった。

 やっとガラス戸を閉めると、部屋は足の踏み場もないほどで、まるでゴミ捨て場のよう
だった。ユリは自分のカバンを探したが見つからない。どこにあるのだろう。しかたなく
明かりを点けた。ゴミ捨て場のような部屋は血の海だった。その血が閉めたガラス戸まで
続いている。カバンはベッドの下に落ちていた。それを拾い上げると、物凄い臭気を放つ
血の海を見る。とても自分の反応以外について考える余裕がなかった。すぐに乾燥機から
下着を出してはき、服を着て明かりを消した。

 玄関を出る。ドアがゆっくり閉まってカチリとロックされた。ユリは左右の廊下を確認
して、走りながら閉まりかけたエレベターに乗った。誰もいない。
 一階に降りると、赤色灯の車がすでに到着していて、あたりは野次馬までも灼熱の赤色
に変えていた。青山真知子の美しい裸体は砕けたかのようにねじまがって雨に打たれてい
た。水晶のような目を見開いて仰向けに横たわっている姿は、まるでそこだけが浮き上が
っているかのようだった。

 ユリは走った。走る足許の水が跳ね返るだけだった。
 空がぱっと明るくなり、地上のすべての建物が強く光る。
 雨脚はユリの身体を激しく叩いた。それを気持ちよく感じて、ユリはひたすら走った。

8
 夥しい赤色灯の群れが窓を染めている。きたわよ、とユリは彼女に言う。彼女は逆にユ
リに言った。
「あなたは真知子でしょ? しっかりしなさい」
「そうです。わたしは青山真知子です」
「なら身体をしゃんと伸ばして、堂々としなさい。警察など恐れるに足らないわ。あなた
の姿をマスコミが待っているのよ」

「そうです。わたしは青山真知子です。先生から戴いた命です」
「これはこの世の人々が見つめる栄光の舞台なのよ」
「先生のおっしゃる通りです。わたしは水野ユリではなく、先生から戴いた青山真知子で
す」
 二階に上がってくる大勢の足音が聞こえた。

「ユリ、ドアを開けなさい。警察の方が大勢見えているのよ」
 母親はユリの部屋をドンドン叩く。その顔には恐怖と疲労を刻んだ皺があった。
「わたしはユリじゃないわ。青山真知子なのよ」
「何を馬鹿なことを言っているの? さあドアを開けなさい!」

 近所の住人が黒山のように出てきて、黄色のテープの張られた通りからお互いに顔を見
合わせては、ひそひそ話をしている。あの陰気で醜いユリのことは近所では評判だったか
ら、いまにユリが手錠をかけられ、警察に連行されて出て来る姿を一目見ようと期待に胸
を膨らませて見守っていた。

 ユリは窓に寄って外を眺めた。赤色灯が夜陰を灼熱の赤で染め上げている。張られた黄
色のテープの前ではテレビカメラや報道陣のカメラが大勢待ち構えていた。
「ユリ、開けなさい! 開けなければ警察の方がドアを壊して入っていくわよ」
「わたしはユリじゃないわ。青山真知子と何度言ったらわかるの?」
 老警官は母親と顔を見合わせた。

「ユリさんはモデルの青山真知子を殺したのはわかっているんです。知っていました
か?」と老警官は鋭い視線を母親に投げて、嗄れ声で問うた。
「まさか?」と青褪めた顔が恐怖にひきつる。「ほんとうにユリはモデルを殺したんです
か?」と喘ぐ母親の喉の詰まった声が老警官に食ってかかる。切り刻まれて最上階から突
き落とされ、部屋の中は血の海で、歩道に激突したときには、体内の血は一滴も残ってい
なかったという。

「モデルの写真を雑誌から切り抜いて壁に貼っていましたが、ごらんの通り、娘はモデル
に憧れていても太っていて、誰からも相手にされない娘です。そんな娘がモデルと知り合
いになるなど考えられません」と言ってから、震える両手の中に顔を埋めて泣きじゃくっ
た。
「娘さんの行動を知っていたわけじゃないでしょう」と老警官は言って眉根を寄せた。そ
の言葉には深い憂慮が現れていた。

 母親は黙って袖で涙を拭ってから、ゆっくりと頷き、鼻をすすった。
「私の娘も似たり寄ったりですからな」と憂鬱に皺を刻んで笑むと、さりげなくハンカチ
を取り出して口の回りを拭った。
 母親には何の慰めにもならないばかりか、いたたまれない気持ちにさせられて、途切れ
とぎれのすすり泣きを漏らしては、「おっしゃる通りです」と頼りない細い声で答えるの
が精一杯だった。

「わたしは青山真知子なのよ」と部屋中に貼られた青山真知子の写真を見ながら、さまざ
まに湧いてくる感情の白日夢に身をさらしていた。それはライトを浴びた華やかな舞台の
光景だった。
 わたしは水野ユリじゃない。こんな汚い部屋に住む女でもない。それなのに、なぜこん
な部屋に住むのだろう。こんな部屋から一刻も早く抜け出さなければいけない。

 もしかしたら、ここはわたしの楽屋部屋なのかもしれない。きっとそうだ。もうすぐわ
たしの出番が始るのだ。ユリの顔が狂的なまでに魅力を増す。それから着て出る服を選び
着る。ポスターの前に立ち、全身をチェックするようにくるりと一回転して、満足そうに
見惚れた。申し分ない。
「ユリ、ドアを開けて出てきなさい。さあ早く!」と母親が狂ったようにドアをドンドン
叩いている。

 ユリだって? なんであんなブスの名前を呼ぶのよ。ユリは思わずドアから身を離し
た。このわたしをユリなんて呼ぶなど信じられない。怒りで顔が紅潮した。
「わたしは青山真知子だと言っているでしょ? あんなブスの名前なんかじゃないわ!」と
激しい声で威嚇する。
 老警官は母親の肩に手を置いて、ゆっくりと元気づけるように叩いてから、そっと脇へ
寄せた。母親はその老警官の手の温もりを感じながらも、これから起こる事態に安堵感よ
りも恐怖感で身体が硬直した。

「ドアをぶち破れ!」
 若い警官がドアに体当たりした。二度、三度と。ドアの蝶番が外れて、最後に蹴り上げ
た警官の靴に粉々に砕けたドアが部屋の内部に飛んだ。そのドアを踏んで警官がなだれ込
んだ。
 呆然と立っているユリの腕を掴まえて、その手首に手錠をはめたとき、はじめてユリは
拳を振り上げて警官の胸を激しく叩いた。

「なぜ乱暴するのよ。わたしを誰だと思っているの? 青山真知子を知らないの?」
 そこへ老警官がゆっくり入ってきて、「お譲さん、あなたは水野ユリですよ」と穏かに
言った。
「何を馬鹿なことを言っているのよ。人違いもいいとこよ。わたしは水野ユリなんかじゃ
ないわ。青山真知子よ。さあ、わたしをよく見てよ」

「じゃ、その青山真知子を殺した自分の顔をよく見なさい」
 そう言って青山真知子のポスターを剥がして、ユリの身体を鏡に接近させた。そこに映
っているのは、あの醜い水野ユリだった。
「あんたは、なぜ今頃やってきたのよ。このわたしの姿を笑うつもりなの?」
 ユリは警官の腕を振り切って、いったん後に下がり、敵意のこもった目で映っている自
分の顔に向かって噛み付くように叫んだ。なんとおぞましい顔だろう。

 ユリは邪悪なおとぎ話の入り口でもあるかのように、でっぷり太って映っている醜いユ
リに向かって憎悪と憤怒に全身を震わし、喉が破れそうなほどの声を張り上げた。「あん
たなんか、この世から消えてしまえ!」
 そして猛然と鏡に向かって突進し、凄まじい勢いで鏡に頭突きをくらわした。鏡が蜘蛛
の巣のようにひろがる。ユリの映っている顔が万華鏡のように幾千もの顔の変形した破片
に変わった。

「ざまあ見ろ!」狂ったように何度も頭突きをくらわす。鏡の破片が飛び散り、雹のよう
に降り注いだ。
「やめないか!」と老警官は物凄い力のユリを辛うじて引き離すと、その額から血の滴る
顔のユリは弓なりになって高らかな声で笑っていた。
「わたしは青山真知子よ。よくわかるでしょ?」
「ああ、よくわかるよ」と老警官もやむなくユリの言葉に同調して答えた。

「わたしは青山真知子よ」と叫ぶユリのために警官は階段に張り付いて通れるぐらいに身
を寄せた。ユリは開かれた階段を夢にふさわしく堂々と階段を降りた。威厳を持ち、青山
真知子となって。……
 外に出ると夥しいフラッシュが連続して光った。テレビカメラのライトが熱いほどだっ
た。警官がガウンを頭にかぶせたが、それをユリは振り落とした。そしてテレビカメラに
向かって手錠の両手首を高々と上げ、一世一代の笑顔をつくって見せた。

 黒山の人々から嵐のようなざわめきがひろがった。わたしを歓迎しているのだ。ユリは
車に乗る寸前まで両手首を上げて黒山の人々の感謝に応えた。
 パトカーのサイレンが鋭い音を立てて夜気を切り裂き、やがて黒山の人々を残して道路
の果てに消えていった。あたりは静寂を取り戻した。

 母親だけがパトカーの消えた夜の道路を走っていた。「ユリ!」と叫びながら……。フ
ァッションモデルの青山真知子に憧れて恋したユリの青春を、その醜いと自分で感じてい
るユリを愛情で包めなかったのだ。ユリの気持ちをいたわり、理解してやれなかったの
だ。そのことを母親は悔いた。それでも母親はユリを追って走っていた。その母親を憂鬱
な霧のように気持ちまで包んだ。

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