『テーマ館』 第18回テーマ「崩壊」



 「崩壊 −現実と夢の狭間−」   by MoonCat


      現実と夢の狭間にいるような感覚だった。車は凍った道を、
文字通り滑るように走ってゆく。冬の晴天がウィンドーを通して
美しい。いつもは厚い雲のヴェールを介してしか姿を見せぬ太陽
も、その朝は裸であった。澄み切った冷たい空気を真っ直ぐに突
き抜ける輝きが、天を仰がずとも容赦なく目に刺さる。私は車の
ドアポケットに常備したるサングラスに手を伸ばすと、レンズの
間の細いブリッジを摘んで軽く振った。手荒く扱われ続けて四年
経つそれは、ほとんど蝶番が馬鹿になっているので、一対のつる
は勢いよく開いた。日本人らしく黒い瞳の私でも、長年イギリス
に住んでいる為か、光に対して目が随分と敏感になったと見える。
ましてや普通サングラスなど、冬の太陽に対しては、ほとんど効
果を示さなかった。

      勿論自分が夢の中にいるような感覚に陥ったのは、何もこ
の季節、希な太陽に視覚神経を強烈に刺激された為だけではない。
その本当の理由は、朝夕通い慣れた道路にこの朝は、ほとんど車
が見られなかったからである。

      正確には一体何日そんな状態が続いたのか、確かな記憶は
なかったが、少なくとも過去半月は、私は毎朝四十分は、交通渋
滞の中に身を余儀なくされていたはずである。ケント北西部に位
置する、小さいが活気の漲る景気の良い街を走る主要道路が一本、
ガス工事の為とかで封鎖されていたのだ。最初にその警告を見た
時、正直行って身が凍り付くような思いだった。大袈裟に、と言
われるかもしれないが、誇張抜きでそう思ってしまったのである。
私の住んでいるフラットから会社までは三マイル強、つまり四キ
ロ半で、普段ならば車で十分程度のものである。が、昨年秋に同
じ理由で同じ道路が封鎖された折、私は毎日片道一時間、車の中
に座り込まされるはめになった。突如として通勤時間が六倍にな
るのである。それに四苦八苦した覚えもまだ新しいのに、再度同
じ事態が起ころうというのである。身が凍り付くのも当たり前で
はなかろうか。

      その警告を発見した翌朝は、前途にのうのうと横たわるで
あろう困難を想い、嘔吐を催す位の嫌悪感に苛まれつつ駐車場へ
向かった。ちなみに他の交通機関はバスのみであり、勿論田舎道
には、ロンドン市内では珍しくない、バス専用レーンなどという
物は存在しないのだから、公共交通機関を利用した所で、結論は
同じなのである。ともかく、私は窓という窓に張り付いた霜を掻
き落とすと、車に乗り込んでエンジンをかけた。最初の一マイル
半は良かったのだが、通勤距離を半ばも過ぎようとする辺りで、
車の列にぶち当たった。他に手立てはない。大人しく最後尾につ
き、その内足が痺れてくるのを考慮して、事前にギアをニュート
ラルにしてクラッチを上げる。傾斜のほとんどない道路である事
が唯一の救いと言えようか。ブレーキを踏み続ける必要は、少な
くともない。

      かけっぱなしのテープの歌や小説の音読に耳を傾けながら、
列が前方へと、目的地へと向かってにじり寄るのを見て、時折ギ
アを叩き込み、自分も前進する。バックミラーへ目をやれば、そ
の度毎に後部に並ぶ車の数が増えているのが見える。そして十分
に一台は、持久戦の余りの過酷さに業を煮やしたドライバーが、
前方に空いたスペースと道路に沿ってまばらに立っている個人宅
の私道を利用して、車を百八十度回転させると、逆方向へと一気
に走り去る。長時間の待ちぼうけの反動か、それとも対向車を懸
念してか、どれも物凄いエンジンの轟きを上げる。私も前回は地
元の地図を睨み付けて、何か抜け道はないものかと必死になった
が、結局そのような救いはないと判明。がっくり来た覚えがある。
逆方向に走り出した彼らにはそれが存在するのか否か、私には知
りようもない事である。

      そんな朝が来る日も来る日も続いたのである。感覚が段々
それに慣れてゆくのか知らないが、何時の間にか一時間かけて会
社へ行くという行為が、日常になっていた。苛立ちや焦り、そし
て退屈に慣れた、と言うのではない。なってしまって、これらの
要素に無感覚になれるというのなら、これほど楽な事はないのだ
が、そうではない。不快さと排気ガスを社内から放出する列に加
わり、同様の事を自分もせねばならぬ、という事実に慣れたとい
うだけなのだ。蛇足だが、私の場合、排気ガスと共に煙草の煙も
並ぶ時間が延長すればするほど、放出量が増加し、灰皿が一杯に
なってくるのだ。精神、肉体ともにとって、これほど悪い事は他
には滅多にあるまい。

      そんなある朝、目の前に出現するはずの、ヤマタの大蛇の
如き長蛇の列は、跡形もなくなくなっていたのである。スムーズ
に車を走らせながら、対向車線を行く数台を、ただ呆然と見送っ
た。不思議と喜びや幸せと言った感情はなかった。絶望の果てに
見た希望とは、このようなものなのだろうか?どうも神経が麻痺
しているらしい。これが現実であるはずがない、と思わず考える。
一体全体、あんなに並んでいた数知れぬ車は、どこへ消えてしま
ったのか。唐突に、自分は夢でも見ているのではないか、という
考えが頭を過ぎる。もしかしたら実は、自分はブレーキを踏み損
ねてあの列に頭から突っ込み、死んでいるのかもしれない。もし
かしたら実は、自分は事故の為に救急車の中で、意識不明なのか
もしれない。もしかしたら実は、自分はまだベッドの中で目を覚
ましていないのかもしれない。

      車と自分はそんな想いにとらわれたまま、駐車場に着いた。
肌に冬の空気が冷たく、上せたような頬に気持ち良かった。


(投稿日:04月30日(木)20時27分58秒)