第82回テーマ館「恐怖」



メール 芥七 [2011/09/11 14:59:27]


ある日のことだ、会社のPCから自分のフリーメールにアクセスしたら、見知らぬ人か
らメールが送られて着ていた。添付ファイルも無かったし、あまり深く考えずに裕香は
そのメールを開いた。タイトルは無く、ただ本文に
『ちゃんと、お連れの方には会えました?昨日のレストランはどうでしたか?』
――――とだけ書かれていた。裕香は一瞬だけポカンとし、それからすぐにゾッとし
た。どうして私がレストランでごはんしたことを知ってるの?誰にも言ってないの
に!?そうだった裕香は昨日はお給料日ということもあり、大学時代の友人とちょっと
いいフレンチレストランでディナーをしたのだ。でも、その事は会社の同僚はおろか誰
にも言っていないのだ。彼女は少し怖くなって、でも、ひょっとしたら一緒に行った友
人が誰かほかの同級生にしゃべったのかもしれないと思い直し、そのままメールは削除
してしまった。

次の日の夜、自宅に帰った裕香は、ビールを片手にメールのチェックをしていた。その
日のビールは3本目だ。上司に小言を言われて、その憂さ晴らしである。新着メールも
大半は仕事と、どうでもいいスパムばかりで・・・。と、十数通の新着メールの中、ス
パムに紛れて、見覚えの無いアドレスからのメールを発見してしまった。タイトルは無
い。彼女はなんだろうと訝しく思いながらもメールを開いた。
『湯加減はどうでしたか?今日は大変でしたね』
――――とあった。手からビールの缶が滑り落ちた。フローリングに冷たい琥珀色の液
が広がる。「どうして・・・」のその二の句を次ぐことが出来ない。上司に怒られたコ
ト会社にいた人たちなら見てたから知ってるかもしれない、数人の来客もあったし、そ
の中には名刺を交わした人もいた。でも、だけど、ついさっきまで裕香がお風呂に入っ
ていたことまでどうして知っている??右手で抑えた口元の奥で歯がカチカチと小刻み
に揺れているのが分かる。脳裏をストーカーの文字が駆け抜けていった。首筋がぞくぞ
くしたのはこぼしたビールのせいだけだろうか?彼女は怖くなり、PCを強制終了する
と戸締りをしっかり確認し、電気をつけたまま、携帯だけを握り締めて布団にもぐりこ
んだ。

その見知らぬ差出人からのメールはそれからも続いた。
『新しく買った服、可愛いですね』
『仕事うまく行ってよかったですね』
『私服の着合わせがとても素敵ですね』
『シャンプーは○○を使ってるんですか!リンスはなんですか?』
『ここ数日、体調が悪そうですね?大丈夫?』
――――それらの内容は彼女のすぐ近くにいなければ知りえない、彼女と行動を共にし
なければ知りえない情報ばかりだった。また、全てのメールには悪意は全くなく、それ
がまた恐怖を駆り立てた。裕香はすっかり挙動不審になり、人間関係も希薄になり、常
に漫ろになっていた。上司からも呼び出され、勤務態度に注意を受け、いままでならフ
ォローを入れてくれた隣のデスクの同僚も気づかないフリをされる始末だった。裕香は
社内で完全に浮いた存在になってしまっていた。それでもストーカーからのメールだけ
は延々と続いていた。相変わらず内容は気持ち悪いほど親身であった。それらの親身さ
は裕香にとっては押し付けであり、反吐が出そうだった。何度も何度も『もうメールし
ないで!』と送り返そうかと思ったが、逆上されたらと思うとなにも出来なった。で
も、こうしている間にエスカレートして行き、やがて実行動を起こされたらと思うと眠
れない日々が続いた。

ある日、思い立った裕香はストーカーメールが始まったあの日に一緒に食事をした同級
の友人に連絡を取った。呼び出したのは例のレストランに併設されたカフェだった。急
な呼び出しにも関わらず彼女は「ちょうどお茶したかったし」と快諾してくれた。裕香
は予定の時間よりもずっと早くカフェに付いていた。会社を早退したのだ。早退は事前
相談が必要だったが、いつも小言の多い上司は「大丈夫か?」「少し休暇をとった方が
良いのでは」と心から心配してくれた。それが少しだけ嬉しかった。
待ち合わせの時間まで1時間と少し、裕香はオーダーを取りに来たウェイターにアイス
ティーを注文し、同時に待ち合わせの旨を伝えた。彼は時間を少し気にしたようだった
が、他に客も無いこともあって、ごゆっくりどうぞと言った。アイスティーを飲みなが
ら裕香は少しずつ退屈さを感じ始めていた。レストランに併設されたカフェということ
もあり、雑誌や新聞のような物はここには置かれていなかった。待ち時間までまだ15
分。手持ち無沙汰になった彼女は、バッグから携帯を取り出した。フリーメールにアク
セスし、新着をチェックする。ため息が出た。良かった。新着メールは0件だった。裕
香は一度、ウェブから離脱し、再度、携帯を操作して、今度はメーラーを立ち上げた。
送り先はブログだ。本文には『待ち合わせなう』とツイッターでも無いのに書き、送信
した。これを見た友人やネット上の人たちからはきっと「ツイッター違うし(笑)」など
のコメントが掛かれるだろう。そう思うと思わず笑みが浮かんだ―――――と、何かが
引っかかった。あの日、送られてきたメール。『昨日のレストランはどうでしたか?』
というそのプライベートに触れた内容の―――――その前文『ちゃんと、お連れの方に
は会えましたか?』のその一文。
―――――そうだ。
前にここのレストランで食事をしたとき、待ち合わせの時間に遅刻していた友人が来る
その前にもこうやって手持ち無沙汰になって携帯をいじってなかったっけ?背中を冷た
い汗が流れる。その後、上司に怒られたその日、家に帰った裕香はビールを飲みながら
お風呂が立つまで、その日もブログにコメントを上げた。その次の日も、服を買いに行
きますと書いて、その次の日は商談が纏まった事が嬉しくてブログに――――。
裕香は思わず立ち上がり「あっ!」と叫んでしまった。それにウェイターがどうかしま
したかと、駆け寄った。顔が急速に真っ赤になっていくのが分かった。彼女はなんでも
ありません、少し思い出したことがあってと伝えた。ああ、私は馬鹿だ。あれはブログ
の購読者からのメールだったのだ。
腰が抜けたように、急に椅子にお尻を落とした。激しい虚脱感に見舞われる。
それから裕香は壁に視線を向け、携帯を取り出し、友人にメールをした。
『もう!いつも私が待ってばかり!』
カフェの壁にある柱時計。時刻は待ち合わせの時間をいつの間にか過ぎていたのだっ
た。


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