第82回テーマ館「恐怖」



通勤電車 カエル [2011/09/21 23:26:31]


 いつも決まった時間に、その電車はホームに進入した。決められた停止線に停まり、ド
アが開く。多くの通勤・通学客が乗降する。車掌が乗客の乗降が終わった事を確認する
と、ホームに備えられた「発車ベル」を鳴らす。ドアが閉まれば発車する。過密ダイヤで
動く通勤列車には「人情」は不要。たとえ目の前にその列車に乗ろうという乗客がいて
も、ドアが閉まれば乗車は認めない。・・・出発進行。

 その電車は決められた規則に従って駅を出発した。
「本日もご乗車いただき・・・」
 車掌のアナウンスが始まるが、込み合う車内でそれを聞き入る余裕はない。
 いつもと変わらない車内の光景。乗客達は目的地につくまで、それぞれ新聞を読んだ
り、携帯でゲームをしたりと時間を潰す。乗客たちは時間を気にしなくてよい。なぜな
ら、何もしなくても電車は必ず決まった時間に駅に着くのだ。

 次の駅も定刻到着。
 ドアが開き、多くの乗客が乗降する。その光景を車掌は鷹の目の様にして、鋭く見つめ
る。発車まで、あと5秒。
「おお!電車きてる!きてる!」
 中年の男性が汗をダラダラかき、「待ってくれ」と大声をあげながら、階段を降りてき
た。途中、階段を登ろうとした老婆にぶつかり転倒させたが、彼女に詫びる事もなく電車
に向って走ってきた。発車まで、あと1秒。

 男性の左腕が車内に入る・・・定刻。

 車掌はマニュアル通りの動作でドアを閉じ、運転手に向けて、発車の指令信号を送る。
「お!おい!・・オレの腕が!!」
 4号車辺りで男性が左腕をドアに挟まれている様子だった。男性はホームで何か騒いで
いるのを車掌は確認した。車掌室のドアを下げ、身を乗り出すと、腕を前方に向けて
「出発・・・進行。」

 定刻発車。

 日本の鉄道は、世界にまれを見ない正確なダイヤで運行している。ダイヤを乱す者は
許されない。「駆け込み乗車はおやめください」はお願いではない。乗客に鉄道の規則を
尊重してもらうための「教育」なのだ。その規則を守らない者は、当然しかるべく罪を
償ってもらう。

 電車は加速する。ドアに挟まれた男性は必死になって腕を抜こうとするが、ドアが食い
ついている様に離れない。乗客たちは、その光景を見ないフリをするか、カメラで撮影し
てネットの動画にアップロードするかしている。誰も助けようとはしない。
「たすけてくれ!!!」
 加速するにつれ、男性の体は雑巾の様に舞い上がり、ホームの柱や架線の電柱にぶつか
る。その度に鈍い音をたてながら、醜い液体が辺りに散らばる。その光景はさすがに見苦
しいので、車掌は車内アナウンスをする。
「4号車で、大変お見苦しい物をお見せしています。尚、間もなく路線が変わり、見苦
 しい物の方向に列車がすれ違います。ご注意願います。」
 しかし、それに関心をもつ者はいない。アナウンスが終わると反対路線から貨物列車が
やってきて、勢いよくすれ違う。中年の男は左腕のみを残し、姿を消してしまった。

 まもなく終点。車内アナウンスをはじめる。
「最近、線路内の立ち入りやホームの線の外側での軽はずみな行動が頻繁に起こってい
 ますので、おやめいただきますようお願いいたします。まもなく終点です。出口は
 右側です。」

 終点、定刻到着。
 ドアを開き、乗客を降ろす。
 終点の駅は他の地方都市と結ぶ路線と多く接続している為、今までの駅の中で最も
広い。この電車の隣には、多くの列車が止まっている。

 踏み切りで立ち往生していた軽乗用車を引きずりながらやってきた特急電車。・・・軽
自動車は炎上したらしく、まる焦げの状態だった。

 マナーの悪いカメラマンを引きずりながらやってきた寝台列車。青い車体に、所々どす
黒い液体が飛び散っていた。

 痴漢撲滅キャンペーンの一環で、痴漢行為現行犯逮捕の男を後ろの車両に紐でくくり、
引きずり回してきたらしい他社の通勤電車。・・・男の腰から下がない。

 いつもと変わらない駅の光景。しかし、いつも心無い乗客や沿線住民がダイヤを乱して
いるなぁと、車掌は溜め息をついた。車内点検を終え、乗務員カバンを持って運転手と共
に次の乗務員と引継ぎを行う。
「276列車。第25号駅にて乗客によるダイヤ妨害1件あり。車両破損なし。」
 車掌は手帳を見ながら事務的に報告をする。相手もその件を手帳に書き込む。報告
事項が終わり「以上」と締めくくると、運転手と車掌は敬礼をする。相手の乗務員も敬礼
をする。
「276列車乗務員、報告漏れが1件あるぞ?」
 交代乗務の車掌が敬礼を崩しながら言った。
「なんです?」
「列車停止位置、1mmオーバー。0.05mm以上停止位置オーバーの場合、報告
 する事が義務付けられているのだが?」
 交代乗務の車掌は、自分の乗務員カバンの中に手を入れ、何かを探しはじめた。その
様子に、車掌と運転手は顔色が青くなった。
「て、停止位置報告は運転手からなにもっ!」
「ま、待ってください、自分は車掌に報告しました!」
「報告ミスは列車遅延、かつ重大事故の原因になる。・・・よって罰だ。」
 交代乗務の車掌はカバンから鉄道会社の備品のピストルを取り出し、目の前の運転手
と車掌に向けて発砲した。
「乗務お疲れ様でした。」
 交代乗務の運転手と車掌は倒れた相手に敬礼し、何事もなかったように電車に向った。

 通勤・通学、旅行客でホームは賑わっていたが、頭から血を出して倒れている2人の
乗務員たちに気を止める者はいない。
 電車はいつの時も定刻通りに出発し、定刻通りに到着し、決まった停車位置に停まる。
それを守るためには「人情」はいらない。


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