第62回テーマ館「ビードロ」「ガラス」



空色ぽっぴん 芥七 [2006/08/06 10:05:19]


目を覚ますと、外はもうすっかり夜の帳が下りて外界は濃紺の闇に閉ざされていた。
どうやらいつの間にか居眠りしてしまったようだ。
よく夜闇を黒という奴が居るが、それは違う、そう私は思う。
光が大気を通過する時の関係で青く見える空が光が無くなり暗くなって見えるのだ。だ
から黒いのではなく、見えない、が正解であり、夜闇の空は濃紺が正解なのだ。
多くの浮世絵もそうだし、去年亡くなったフィンセント・ファン・ゴッホも黒ではなく
濃紺の夜空を描いている。うん、間違いない。
話がずれてしまうのは年寄りの悪い癖だ、うん―閑話休題。
私は寝ている間に凝り固まった体をほぐすと磨りガラスの窓を目一杯開いた。
すると、視線のずっと先、山の手の方に一角、棚引くように形を変える光の筋を見つけ
ることが出来た。
光の筋はボヤっと周りの闇に溶け込むように弱弱しいのに、その形を歪ませたりしなが
らその存在を主張している。
ああ、そうか。今日は縁日だったか。すっかり忘れていた。
普段絵部屋に篭っては描いてばかりで、隠居を決め込んだ私は、どうも外界の情報に疎
くなりがちだ。
ここ≠フ村は主な産業が農業だけで、土地は広いのだが人々は貧しく、都会のそれに
比べれば慎ましい。
しかし、山の中腹に在る神社だけは、その暮らしには不釣合いなくらいたいそう立派な
造りで、村中の資産をかき集めたとしても、とてもじゃないが神社を維持できないよう
に思えた。
どうなっているのか、大いに疑問であり、難問であった。パトロン…もとい、寺で言う
ところの檀家のような物でも付いているのだろうか?
恐らくは今頃境内は祭囃子で騒がしく賑わい、そこへ続く緩やかな階段道は両脇に並ぶ
出店屋台を見て行き交う人々でごった返している事だろう。
私は窓枠に腰かけたままその様を―もちろんこの距離からそれを見ることなんて出来な
いから、想像ではあるが、見つめながら、ボウとして過ごした。
と、そうしている私を、控えめにドアを叩く音が現実に引き戻した。
我に返り、急ぎドアを開けると、おかっぱぱっつんの少女が佇んでいた。
私が住まう、この間貸し屋の大家のお嬢であった。
私がやぁ、こんな夜分になにか御用かな、と問うと、お嬢は後ろ手に盛っていた小さな
塊を手渡してきた。
それをそっと受け取ると、それは藁半紙で大雑把に包まれた玻璃で出来た玩具、ビード
ロであった。
首の細長いフラスコと形容すればわかるだろうか?
首を持って、軽く吹くとガラスの薄い底の部分が反って、戻る時に小気味いいぽっぴん
という音を鳴らすのだ。
・・・ただそれだけのものである。
私にくれるのかい?と問うと、お嬢は大げさに首を縦に振って、私がありがとうと言う
や否や脱兎の如く駆け出して行った。
相も変わらずながら変わった子供である。
私は心中にてもう一度礼を言うと、再び窓枠に腰掛けると、口にくわえたビードロを鳴
らした。
ビードロの独特な音は時として琴線に触れる物が在る。揺さぶる、ではなく、どことな
く懐かしいような音である。
ふとして、夜空に掲げたビードロは、少し青み掛かった玻璃の裏側に夜空を取り込んで
見せた。
夜空の何よりも深い濃紺に煌く星屑柄。
耳を澄ませば遠く、祭囃子に雑踏が聞こえる。
私はまたビードロを吹く。
一人静かな祭りの夜に、ぽっぴんと小気味いい玻璃の音が響いた。

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