第51回テーマ館「手」「手首」



終われない螺旋 ひふみしごろう [2003/10/06 07:38:13]


彼は偉い学者だった。
様々な理論を確立した。
様々な真理を追究した。
その頭脳によって世界の発展に大きく貢献したとされた。

しかし、今彼は死に直面していた。
80年、ニンゲンの寿命としては妥当なものかもしれない。
80年、研究のみに自分の人生を費やした。
80年、彼がその人生において行ったことはただ学問一本のみであった。
今こうして死に直面してみると、そこはかとない不安があった。
自分の人生はこれでよかったのかと。
悔いのない人生を送れればそれでいい、そう思っていた。
だから学問一筋にうちこんだ。
それに関しては後悔なんてない。
だが、その一方でそれでよかったのかという声も自分の内にある。
世にあるすべてのことを追求するにはヒトの寿命はあまりに短すぎる。
あらゆる事柄を解明した彼の人生においてもその疑問は常にあった。
はたして自分の人生はこれでよかったのか?
ある意味それは恐怖とも呼べるものであったのかもしれない。

そして、とうとうその時が来た。
彼の中から光がどんどん失われていく。
視界がぼやける。
世界は闇に覆われる。
彼もまた闇に飲み込まれる。
それでも彼という意識はなくならない。

長い長い時が流れたような気がする。
あれから一体どれくらいの時間が流れたのか。
真っ暗で何も見えない。
あたりはしんとして何も聞こえない。
触れる物などもちろん、ない。
それよりも自分の体さえあるのかどうかも疑問だった。
そしてまた、彼はここにきて何度目かのパニックに襲われる。
恐怖。
恐怖。
恐怖。
恐怖。
恐怖。

真っ暗な中にいて。
自分の体さえ定かではない。
真っ暗な中にいて。
ただ自分というものだけはある。
いっそ気が狂ったほうが楽なのかもしれないが、
何故か彼はまだ彼という存在でありつづける。
そのような真っ暗闇のなかで、彼にまた何度目かの波が押し寄せる。
恐怖。
恐怖。
恐怖。
恐怖。
恐怖。

         #

いつまでも繰り返し。
終わることもないようであったものが。
ある瞬間ふいにおわりを告げる。

         #

なにかに引っ張られる。
はじめゆっくりとした感覚だったそれは、
いつの間にか怒涛の奔流のとなる。
彼の意識のなかにいつもとは違った恐怖があふれる。
身の危険。
ひさしぶりのその感覚に戸惑いながら。
それでもその力は加速していく。

気がついたらあたりは眩しい光があふれていた。
なんともいいようがない久しぶりの感覚。
ゆっくりと目を開ける。
確かに自分の体を感じる。
彼の心の中に大きな感情が溢れる。
それは闇の世界が終わりを告げた喜びなのかもしれないし。
それはなにかわからない不安のようであったかもしれない。
気がついたら彼は大声を上げて泣きじゃくっていた。
年甲斐もなく。
なんの衒いもなく。
感情の赴くままに大声で泣き叫んだ。
ふいにぼやけた視界がはっきりとした像をあらわす。
「・・・・・赤ん坊の手?・・・・・」

その瞬間彼の意識は終わった。
そしてまたあたらしいひとつがはじまる。

      <おわり>

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