第50回テーマ館「記念」



何でもない日記念日 森里 羽実 [2003/08/27 17:40:03]


 私は、夢を見ていた。
会議に持っていく資料がどうしても見つからない。確かにバインダーに挟んで
書類鞄に入れた筈なのに、そしてそれを一度も手から離さずにまっすぐに登社した
筈なのに、どういう訳かバインダーの中は空っぽなのだ。持って行かなければ
企画会議は始まらない。それなのにどこにあるか判らず、今からでは間に合わず──
「ああ、どうすりゃいいんだ!」
頭をかかえるところで、目が覚めた。
汗だくの額をぬぐって枕もとの時計を見ると、午前6時40分。一瞬ヒヤリとして
ガバと身を起こすと、鞄はきちんと鏡台の横にたてかけてあり、書類はバインダーに
収まってそこから顔を出しているのが見えた。
そうだ・・今日は日曜日。会議は明日で、書類はきちんとここにある。
ふうとため息をついて、また汗をぬぐった。
(こんな若造のときみたいな夢を見るなんて、珍しいな・・疲れてるのかな)
鏡台のほうへ向かい、寝ぼけ眼の頬をこすってみる。いつもと同じ冴えない顔色に、
やや伸び気味の髭。全くいつもと変わらない、ごく普通の中年がそこに映っていた。
(また、寝なおすか・・)
布団によっこらしょと戻り、掛け布団をひっぱろうとしたその時。
「あなた、いつまで寝てるの!」
ガラリとふすまが開いて妻が顔を出した。エプロン姿で、料理をしていたらしい手は
濡れている。
「・・今日は何かあるのか?」
きょとんと見返した私に、妻は目を見開いてのけぞった。
「あなた、大丈夫?今日は会社でしょう。しっかりしてよ」
ボケるには早すぎる年齢の夫に心配を抱いたという様子で、妻は私の肩をゆすって言
う。
「会議でしょ。急がないと間に合わないわよ」
「・・・お前こそ大丈夫か?今日は日曜だぞ」
「・・・・」
絶句する妻。その瞳にありありと浮かんでいる心配と不安と恐れとに、私は驚愕して
しまった。一体こいつは何を言っているのだ?
「とにかく、急いで。具合が悪いなら無理しないでもいいのよ」
何か目を合わせないようにして、急いでキッチンに戻ろうとする妻を私は呆然と
見送った。入れ替わるようにして、制服姿の娘が顔を出す。
「お父さん、トイレ入るなら早くしてよ!いつも長いんだから、間に合わなくなっちゃ
う」
「・・あ、ああ・・」
今から漏れ聞こえるTVは、平日にやっているはずのニュース番組を流している。聞き覚
えのあるアナウンサーの声。
『今日は一時雨が降るおそれがあります。お勤めのかたは傘を忘れずに・・』
(今日は月曜だったのか?)
のろのろと立ち上がりながら、体は自然に背広に着替えようとしている。平日なら
急がなくては。だが・・昨日は確かに、土曜だった。会社から早く帰り、晩酌をしなが
ら
大好きな巨人戦を見て早々に床に就いた──。
(もしかして、俺は一日寝過ごしたのか・・?)
まさか、ありえないことだ。だが、今日は確かに平日らしい。
「あなた、早く!間に合わないわよ」
妻にせかされて朝食を上の空で口に詰め込みながら、ふと朝刊の日付に目が止まる。
2003年、9月7日、日曜日。
振り返ってTVを見ると、キャスターの前に置かれたサイコロ型のカレンダーにも
9がつ7にち・にちようび、と書かれている。
「やっぱり今日は日曜日じゃないか」
思わず大きな声を出した私に、妻と娘とがぎょっとした目を向けた。
「何言ってんのお父さん。久々の出勤で頭がボケたの?」
情のかけらもない娘の言葉に、妻がシッと唇に指を当ててみせる。
「お父さんね、ちょっと疲れてるみたいなの。何も言わないであげて。・・ね、
あなた。会社に行けばきっと思い出すわよ。ね、ちゃんと出来るわよね」
娘の私を見る目が何か異様なものを見るようなものに変わり、そしてサッと
視線をそらして黙ってしまった。
「久々の出勤?どういうことだ。昨日は休みだったのか?」
「・・・」
妻が観念したというようにはっと息をつき、私を覗き込むようにしてゆっくり、
言い聞かせるように口を開く。
「月曜から土曜まではお休みでしょ。日曜と、祝日だけ会社に行くのよ。ね、あなた、
やっぱりちょっと疲れてるのね。お休みしましょう、今日は」
「・・・」
今度は私が黙ってしまった。ドッキリとか、そういうお茶らけたことをしてくれる家族
ではない。もし妻が急に呆けたとしても、娘までそれに合わせる筈がない──。

 私はやおら席を立つと、妻にも娘にもかまわずにバインダーの入った鞄を手に持ち、
無言で家を飛び出した。日曜ならジョギング中の老人や犬の散歩をする婦人などに
すれ違う筈の道路には、平日のように学生姿の子供や、自分と同じサラリーマンが
行き交っている。彼らは、蒼白な顔で走ってゆく私を驚いたように見ていた。
私はいつもと同じ電車に乗り、駅に着くやいなや会社に向かって駆け出した。
今日が平日の筈がない。
だって、今日は日曜なのだ。
きっと会社はがらがらの筈だ。
これが私を陥れるための壮大なペテン、ドッキリだとしても、まさか会社までが
そんなことに関わる筈が──・・・

「おはよう、原崎君」
課のドアを開けた私の鼻先に、課長の姿があった。
「・・・・」
大勢の人間がひしめいているその部屋を見て、私はがくりと膝をつく。
「どうしたんだね、大丈夫か?顔色が悪いが・・」
課長が私を支える。頭がぐらぐらする。私の頭がどうにかしてしまったのだろうか。
それとも、これは夢か?
夢なら覚めて欲しい。あの日曜の朝に私をもう一度、戻して欲しい。
あの安らかなまどろみの朝に・・・
「原崎君、頼んだ資料、大丈夫かね?もうすぐ会議が始まるが」
「・・・・」
反射的に鞄を探った私は、今度こそ顔色を失くした。ないのだ、書類が。
夢のとおりに。バインダーは空っぽで──
「そんなバカな!」
怒鳴った私の鼻先を、何かがかすめて通り抜けていった。
白い、ふわふわしたもの。赤い妙な衣装を着た──あれは、
(ウサギ!?)
私は鞄を放り出して追いかけた。課長の制止を振り切り、廊下を駆けてゆくそれを
すんでのところで捕まえる。
「何ですか、あなたは?急いでいるんです、離してください!」
バタバタと暴れるそれは、確かにウサギだった。鼻に小さなメガネをかけて、首から
時計をぶら下げ、まるで童話に出てくるような・・。何の童話だったか、全く
思い出せない。娘と一緒にディズニーか何かで見たような気がするが・・。
「ああ、あなた、帽子屋を見ませんでしたか?」
「・・なんだって?」
「帽子屋と、イカれたウサギのやつですよ!」
白いウサギは飛び上がって言う。
「やつらのせいで、大変なんです。この世界も、『何でもない日記念日』ができて
しまった。何でもない日がお休みで、それ以外が普通の日!・・ああ、早く
連れ戻さないと女王様に叱られてしまう。失礼!」
するりと飛び出していってしまうウサギを私はとっさに追いかけようとして、
そして、そこに床がないのを知った。
真っ暗闇の、大きな穴に体が吸い込まれていく。落ちているのだろうが、感覚は
なかった。私は自分が現実と虚構の世界のはざまにいるのを実感しながら、気を失い
そうな理性のすみで、ちらりと思い出した。
「・・『不思議の国のアリスだ』・・・」

私の耳に、かすかに聞こえてくる陽気な歌声。
「何でもない日、バンザーイ!何でもない日、バンザーイ!」



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