『テーマ館』 第30回テーマ「無題」


無題 投稿者:森里羽実  投稿日:12月10日(金)04時09分44秒

      
      「目に見えぬものであるからこそ・・」
      「成し遂げるのは如何なる所作を以ってしても」
      水の音、清清、滝壷に転々と浮かぶ石を穿つ。
      風は涼やかに柳の枝を揺らしうなじにこぼれた髪を揺らす。
      観絽(かんろ)はまたひとしきり、聞き取れるか否かの境界の声量を保ちつつ、
      問答をつぶやいた。
      「ひとの中に在り続けるが、けして現れぬ」
      「誰の物にも成り得ぬ」
      「誰の物にも成り得ぬのならば、存在はし得ぬ」
      若若しい声が、水をきって泳ぐ魚を音もなく追う鳥のようにさっと続いた。
      「存在はする。でなければ如何にしてそれを識る」
      「識るということは、己のものにするということだ」
      「否」
      パーン、と青竹のしなる音が仙洞の澄んだ空気を震わせた。
      様子を覗きに来た鹿が、音に驚いてたちまち跳ねて逃げた。
      「識ることと己のものにするということは違う。ことばがひとつの物体を指すに、
      そのことばを万人が知ろうとて、そのものは誰のものにも成り得ぬ」
      「そは詭弁なり」
      憤るあまり禁句を星招は口にしかけたが、観絽の物言わぬ眼に押され、黙った。
      「何事も詭弁じゃ。詭弁に長けよ。さすればひとの道を軽く歩けるようになろう」
      老師の森羅万象、すべてのことを見きった眼を星招は見据えた。
      「して、それとは何か。ひとの中に在り続けながら決して誰のものにもならず、
      眼に見えぬゆえに成し遂げるのが困難なものとは」
      「判らぬか」
      観絽はまたしなやかな竹を打ち鳴らした。問答の区切りをつける音である。
      ふたつ鳴れば問答の終了、それまでに口頭で以って相手を打ち負かせばよい。
      だが、答えを聞いてしまったのだから形勢としてはほぼこちらの負けだ。
      「そのようなものはない」
      かっ、と星招は眼を見開いてひざをたてた。
      「存在すると先刻述べたではないか!?」
      「急くでない。左様、存在はする。でなければ我々は如何にして識る」
      「なれば、そのものをなんと呼ぶ」
      「無じゃ」
      星招は呆気にとられた顔で、座りなおした。老師はそこで初めて、にやりと笑った。
      「ひとの中に存在はする。ひとの道に、ひとのこころに、ひとの道理に・・ただ
      見えぬがゆえに、それを掴み、どうこうすることは不可能じゃ。ゆえに誰のもの
      にも成り得ぬ」
      「我々のうちに存在する無が、我々のものではないと言うか?」
      「さよう、無は無にて、ものではないからな」
      「・・詭弁なり」
      星招はうんざりとつぶやいたが、今度は憤らなかった。代わりにつぶやいた。
      「今回の問答の題、いまわかった」
      「はっは!」
      パーン、パーン!青竹が二回、小気味良く鳴った。
      「無題じゃ」

      ・・紫昂山のいただきにある仙洞での、問答会にて。