第53回テーマ館「幻」



遭難した男 ひふみしごろう [2004/04/04 00:39:27]


すでに舗装もとぎれた山奥、うっそうと茂る木々をぬけると小さな川が見えた。
僕はバイクを止めると荷物をおろし、手ごろな場所を見つけてそこにテントを張ること
にする。そしてその後はマットを敷いてひとりごろりと寝転がって、流れる雲をなんと
はなしに眺めたり、それに飽きたら持ってきた本を読んだりラジオを聴いたりして過ご
す。人の気配がまったく感じられない山の中、ぽかぽかとした陽気が降り注ぎ、さわさ
わと流れる音は川の流れるそれか、はたまた木の葉が風に揺れるものか。気がついたら
いつの間にか眠り込んでしまったりして、しかし、それも悪くない。

夜になってあたりが真っ暗になると集めておいた木切れに火をつける、手ごろな大きさ
のそれが3,4本もあれば十分だ。昼の陽気が残っているのでおそらくそんなに冷え込むこ
ともないだろうし、なにか野生の動物に襲われるということもないだろう。まぁ、その
時はその時だ。

僕は基本的にこういう一人きりキャンプの時には食事にあまりこだわらない。バイクだ
からなるべく荷物を少なくしなければならないということもあるが、一番の理由はめん
どうくさいというのが挙げられる。だからだいたいコンビ二のおにぎりや菓子パンなん
かで済ませることにしてるのだが、ふたつだけこだわっているものはある。それは芋焼
酎と柿ピーだ。ビールでもウイスキーでもいけない、柿の種だけやピーナッツのみでも
いけない。あの独特な香りのするまろやかな芋焼酎を楽しみながら、歯ごたえとピリリ
とした刺激がミックスされた柿ピーを口いっぱいに頬張ってぼりぼりと音をたてて噛み
砕く。

それは僕の至福の時だ。

*

「ほわぁぁ、こいつは驚いた。」
そんな素っ頓狂な声がしたのは軽くほろ酔い加減を感じはじめた頃だった。ふりむくと
薪のあかりに照らされてキャンプルックの40代前半くらいの男が立っている。僕が小さ
く頭を下げると男はそのまま薪を囲むように腰を下ろす。
「山に入って一週間、食料も底をつき、なにより人恋しさに気が狂いそうになってる時
にこの明かりが見えた。まったく、この歳になって遭難というものを経験するとは思わ
なかった。何事も経験するということはいいことだけど、こういう経験はしないにこし
たことがないのかもしれないね。ちなみに、俺は今猛烈に腹がへっているのだが、でき
たらその手の中にあるおいしそうな食べ物をこのひもじい思いをしている飢えた中年男
にめぐんでくれないだろうか?」
そんな脈絡のない言葉を一気にまくしたてると男は僕にむかって手を伸ばす。

*

「いやぁ、いきかえったぁ。」
男は僕が明日の朝ごはん用にととっておいたおにぎりをものすごい勢いで平らげると今
度は物欲しそうにこちらの手元をちらちらと伺う、水筒の芋焼酎をコップに移して手渡
すと「催促したようで悪いね」と言いながら男はコップを受け取った。
「それにしても君はこんなところで何をしているんだい?」
「特になにも」
僕がそう答えると男は柿ピーを口いっぱいに頬張りばりばりと音を立てて噛み砕く。そ
して芋焼酎をこくこくと音を立てて飲んだ。むさぼるようにするがその姿は実にうまそ
うで、みごとな食いっぷり飲みっぷりだ。遭難していたといっていたからこれはひさし
ぶりの食事なのだろう。
「いやぁ、それにしてもさんざんだったよ。はじめは5日間くらいのつもりで山に入った
んだけど5日目に山を降りようとしたら迷っちゃってね。予備の食料もなくなるわ、コン
パスもどっか落としてなくしてしまうわ、ふんだりけったりだ。まぁ、季節のおかげで
夜はなんとかしのげたけれど雨が降らなかったのが不幸中の幸いだな。」
「なら、そこの道をしばらく行くといいですよ。しばらくすると舗装道路に出るので、
あとは道沿いにいけば麓に辿り着ける。ちょっと時間はかかるかもしれないけど、今日
は遅いから明日にでも朝から降りていけば昼過ぎには着くことができると思います
よ。」
「助かるねぇ、ここはよく来るのかい?」
「たまにですね。ここには誰もこないし、けっこう場所もいいので時間が空いたときに
一泊二日くらいで簡単なキャンプ気分でくるんですよ。」
「なるほどねぇ、たしかに人っ子一人いないね。しっかし、俺がこの2日間困らされたの
はその人の声ってやつでね、山道を一人で歩いているとたまに聞こえてくるんだよ。幻
聴ってやつなのかな。まぁ、こっちとしては遭難している自覚もあるから、人の声のす
る方に行きはするのだが、結局誰もいないまま余計道に迷ってしまってどつぼにはまっ
てしまう、かなり精神的に追い詰められた気分だね。普段は一人でいるのが好きなタイ
プなんだが、人恋しいという感覚を味わったのはこれが生まれて初めてかもしれない。
ここを見つけた時はほんといっぱいいっぱいだったんだ、暗闇の中明かりが見えてね、
まるで狐につままれたような気分だった。」
「案外、そのとうりかもしれませんよ。」
「いや、こういうおいしい思いができる幻覚なら願ったり叶ったりだね。」
そういって男は口いっぱいに柿ピーを頬張った。

*

次の日目が覚めたら男の姿はなかった。
男がいた形跡は何一つ残っておらず、昨日のことは幻だったのか現実だったのか今とな
っては確認のしようもない。まるで僕のほうが狐につままれたような気分がしたが、か
といって自分以外に確かめる術もない。なるほどこれはたしかに不思議な感覚だ。

とりあえず朝食を摂るためにバイクに跨った。
ひょっとすると道すがら昨夜の男に会えるかもしれない。

<おわり>




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