第53回テーマ館「幻」



魔王、幻に燃ゆ GO [2004/04/16 23:17:46]


 老いの坂は狭く、松明もわずか、人馬も一列、長く伸びきった騎馬のひずめもかき消さ
れ、甲冑の擦れ合う音も殊更に静寂の中の先触れのように感じられた。
(京も深い闇の底であろうな)光秀の脳裏にひろがったのは京の雅な匂いで、とうとう近
づいたと思えたからだ。あの蘭麝待の香木にも似た高貴な香りが夜のしじまから匂い立っ
てくるような気がした。

 京と丹波とはほどよい近さにあって、亀山城に帰城するたびに公家衆が輿に乗って訪ね
てくる。正親帝の御歌を厳かに朗詠する公家もいるほどで、明智光秀への歯の浮いた好意
もここまでくると鼻についた。あとの連歌三昧で戦の疲れも癒されるので、ついつい寛ぎ
の一つになっていた。が、かぐに信長様の呼び出しの書状くる。朝廷の事は諸事万端、光
秀の意見なくしてはおさまりがつかなかったからである。

 それにしても昨日の信長様の所業には呆れた果てた。あれが信長様のご気性なのだと思
いながらも、聞きつけて訪ねてくる公家衆の身を切るような悪態に光秀も次第に追い立て
られた。
 そうだ。あの近衛前久のにじり寄るような目だ。あやつの目にくらんだのだ。やつは信
長によって追われた足利義昭を京に呼び戻して幕府を再興すへく謀っていることぐらいの
ことは光秀とて知らぬわけでもなかった。

「わずかな手勢で本能寺の茶会とは、信長を誅する好機ではござらぬか?」と蝋燭の炎に
揺れる前久のまばたきのない眼光がじっと反応をうかがう。すでに目論見は腹にあるらし
い。「天下布武など笑止千万。この日の本には天照大御神のご直系におわす帝でござる
ぞ」
「何を申される。信長様はそのようなお方ではござらぬ。近衛殿も気苦労なこと。杞憂で
ござる。ご安心めされよ」

「いやいや、信長ごときに朝廷を潰されては、この日の本の神々は去っておしまいなさる
わ。のう、光秀殿、お手前は朝廷深く入られた方ゆえ申し上げるがの。あの信長は鬼でご
ざる。鬼を誅するに何の遠慮がいるものか」
「ほほう。信長様を鬼と呼ばれるか」
 光秀は嘆息し、迷惑そうに唇を閉ざして、身をかわすように薄笑いを浮かべた。何しろ
魔に魅入られたほどの計略好きな公家で、連歌師の紹巴も共に連れてきていた。
「光秀殿、信長が鬼でのうて何でござろうの。貴殿は成り上がり者の羽柴筑前の後詰めと
して備中高松へ出兵されると聞き申したぞ。もう京へは帰れますまいのう」

「そのことでござれば、この光秀、よく承知してござる」と頷いてから、やおら脇息に身
を寄せた。
「ほう、ご承知とな?」
 信長と同じように色白の秀でた額とよく通った鼻筋に蝋燭の炎が揺れて照らした。癇癖
の強いところも信長とよく似ている。が、光秀のほうが感受性が強く、すぐれた教養人で
あるだけに、少し気弱なところがあった。信長に対して無理をしているのがありありとわ
かるほど表情が強張っているのが何よりの証拠である。

「左様、信長様のお考えは承知と申しておるのでござる」
「ご承知とは解せぬ話じゃな」と前久は白い顎鬚をしごき、身を寄せるようにして光秀に
向かって膝を進めた。「のう、光秀殿」まるで光秀と対峙するかのように垂れた頬を震わ
せた。
「もう遅うござれば、明日にしてはいかがでござろう?」と立ちかけた光秀を前久は手で
制した。
「いや、今夜こそ身の内をご披露せねば眠れませぬわ」
「はて、身の内とは何事でござろう?」

「この日の本をお造りになられたお方は誰でござるかの」
「また妙なことをお聞きなさるな。天照大御神に決まっておりましょう」と答えたあと、
一瞬、光秀は狐につままれたような顔で、この前久は何が言いたいのか、不審な表情に艶
やかな目を光らせて覗き込むように見つめた。

「ささ、それじゃ光秀殿。信長は己を神と呼んでおることをご存知かの?」
「承知してござる」その事なら、前久よりも光秀のほうがよく知っていた。信長のいう神
は神話のようなぼんやりした神ではなく、すべて朝廷から下される官位によって土地を支
配するのをやめ、天下を一つにまとめるための方便として神といい、天下布武ともいって
いるのだと光秀は理解していた。

「じゃあ、お聞き致すが、帝は信長のしもべと思うてよろしいのか?」
 光秀の額に迷いの筋が青く走った。神がこの日の本を造ったように、信長も自らを神と
してこの世につかわして頂点に君臨させたのだ。よってこの日の本を天下布武によって新
たな国にしなければならぬ、と語った信長の言葉が、いまも耳の底にこびりついていた。
 先日の家康を迎えるに際して、光秀は供応役を賜り、その酒宴でつい信長と論争になっ
た。神についてである。

 光秀はとうとうと日の本の神を申し述べたとき、信長は意をとなえた。それはバテレン
の神で、何でも大工の子を神と呼んで崇めているという。そのために万里の波涛を越えて
パードレーどもがやってきているのを信長は手厚くもてなした。安土城に神学校まで造っ
たほどで、神とは身分にかかわりなく、唯一のものだ、と信長は大声で笑いながら朱塗り
の盃をあおったのだ。「わが安土城にある総見寺の石も唯一のものぞ」
「おれながら上様に申し上げます。この日の本は豊葦原の中つ国でござります。そして天
照大御神のご子孫であられる帝を中心とした神道の国でごさりますれば、帝の新任によっ
て政が成り立つのでござります。そうでなくば、またもや比叡山の焼き討ち、一向宗徒の
虐殺の災禍が果てしなく続くでありましょう」

 そこには強固な絆を深めるための織田家と徳川家の精一杯の豪華な酒肴が並んでいた。
それを承知で信長は烈火のごとく顔を染め、光秀の作った酒肴の膳を蹴った。
「もう一度、言うてみい!」と扇を腰から抜くなり、光秀の額を激しく殴打した。「そん
な世迷言を信じるわしと思うてか。この国ひとつ治めきれぬ帝がなぜ尊いのかいうてみ
い。ただ黴が生えているだけではないか! 目障りなやつ、下がれ!」
 そのときの家臣の斉藤利三などは殺気立ち、殴打される主君を見て血の涙を流したもの
だ。我慢して耐えていた姿が思い出されて、この前久の問いに光秀ししばし答えるのを躊
躇した。

「信長は帝を安土城に幸行を促しているようじゃが、光秀殿は如何にお考えでごさるか
な?」
「さて、それは信長様のお考えがあってのことゆえ、手前としては何ともお答えできかね
ますな」と光秀は独り言のようにはっきりしない声でつぶやいた。
「これはしたり」と前久は苦い顔で反吐を懐紙に吐いて丸めた。「安土城には内裏とそっ
くりな清涼殿が造られていると聞く。つまり帝は信長の手に握られるということじゃと思
われるがの」

 その後のことは近衛前久とて知らぬことであった。信長には密かな目論見があったこと
は、光秀の胸深くに仕舞われたままだ。あの多くの家臣の面前での殴打さえも。それは寝
所に呼び寄せられて初めて聞く信長の意外な言葉であった。
    ………………………………………………………………………………
 そこまで話して信長は名残り惜しそうに夢幻の中へと瞼を閉ざした。その顔はまさに自
己陶酔の姿であり、客観的な外界からかけ離れた、どこか異国の神のように光秀には輝い
て見えた。
 光秀は平伏して寝所を出ると、襖を隔てて謡が聞こえてきた。人生五十年、下天のうち
にくらぶれば、夢幻のごとくなり。考えてみれば、そう誓いを立ててからずいぶん遠い昔
のことのように思える。すでに信長にとっては、人生そのものが、下天の五十年であり、
夢幻のごとくであったであろう。
                *
「敵は本能寺にあり!」多くの守護大名が滅び去ったこの今となっては、よもや光秀にと
って土岐氏の復活を願う気があるわけではなかったが、あえて光秀は愛宕山神社におい
て、紹巴とともに、それらしく連歌の頭を詠んだ。ときは今天が下しる五月哉。
「わが殿は天下人ぞ!」と斉藤利三ら重臣も何の抵抗もなく光秀のあとを引き継いで家臣
の間を馬で叫び回った。軍馬はいきり立ったが、それにしても、わすか三百の手勢にむか
って一万三千の兵が撃ちかかるとは武士として恥多き所業であった。
「信長様、もうすぐお供を仕りまする」と紅蓮の炎を見据えたまま稀代の魔王という正体
を失うことなく終焉した信長に向かって光秀はそっとつぶやき、静かに合掌した。

 正親天皇のご在位のうちに、すでに朝廷から秀吉のもとに密命が下って中国大返しの最
中であることを光秀はきかされたが、まだ動かなかった。備中高松へ援軍を命じられてい
た光秀配下の中川清秀や高山右近らを合わせても光秀側は優に五万を超える。が、黒田官
兵衛らの働きによって、光秀の手持ちの兵はこのとき一万三千のままで、形成は逆転して
いた。しかし、光秀はさしたる動揺を見せず、ただ静かに首をふって、あの筑前と刃を交
える気はさらさらなしと言って除けた。ここまで信長様を先頭にともに力を合わせて戦乱
を駆け抜けてきたという感慨だけが残っているだけである。
 徳川家康だけが伊賀衆の機転によって急ぎ堺を引き上げ、岡崎に帰っていった。

http://www.geocities.jp/kabaanoo1/index.html


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