第53回テーマ館「幻」


幻さえ 森里 羽実 [2004/06/03 16:32:32]


──願えばそこに現れるのなら、幻でもなんでもかまわない。
  苦しみから解き放たれるのなら。彼に会えるのなら。
  たとえ、想いが満たされなくても。
  幻さえ、私は喜んで愛しただろう。


 そのベンチに、ナツはずっと座っていた。青い、ひんやりとしたプラスチックの
イスの、いくつもついた煙草の焦げ跡や黒い何かの汚れや、白い引っかき傷の上で、
細い手足を抱え込んで膝に頬を埋めながら。
ベンチは駅のホームにいくつも並んでいるうちのひとつだった。座っている彼女の前
を、
毎日、毎時、いくつもの電車が通り抜け、大勢の人間たちを吸い込んでは吐き出し、
まるで生産と消費を繰り返す流動の、ひとつの生きているシステムのように、巨大な
工場のように、軽快で滞ることのないリズムを刻み続けていた。
ナツが座るベンチにも、いつもたくさんの人間が座った。多くの人間はナツには
気づかなかったし、気づいたとしてもそれは一瞬の注意であって、すぐに
何か他のものに反らされた。彼らの持つ小さな便利そうな機械や、時計や雑誌や、
行き過ぎる夏めいた服装の若い女や──そんなものたちに。
ナツはもちろんそんなことには気を留めない。大勢の人間には慣れっこだったし、
どちらにしても彼女にとって、ベンチやプラットフォームの床と同じ、彼らはただの
風景でしかなかった。ナツが待っているのは、ただ一人。
「彼」はもちろん他の人間たちとは別だ。
見ればすぐに判る。愛しい、たった一人の想い人。
「彼」が言った言葉を、ナツはその声音、抑揚の調子でさえ、明瞭に思い出せる。
「わかりました」──そう、彼は微笑んだのだ。
「ふたりで伊豆に行きましょう。僕はあちらから、1時には着くだろうから──」
君はこちらがわ、線路をはさんだ向かい側のプラットフォームで待っていて、僕を
見つけたら手を振ってくださいと、彼は指示したのだ。
そうしたらふたりで、今度は逆の方向に、伊豆に──夏の、青い海の見える──
ふたりで、列車に揺られながら、青いみかんを食べましょう。
ナツは、葉っぱのついたのがいいと彼に頼んだのだった。葉っぱは、青いみかんに
寄り添う旗のようで、可愛らしくて、もぎってふたつ窓のさんに並べようと思った。


──1時に来たのが何だったか、ナツは知らない。気が付いたらぼうっと、ベンチに
座っていた。彼は、「先生」は来なかったのだと記憶している。けれども、その日のこ
とは
とうとう思い出せないまま、ずっとここに座っている。
(1時に、列車は来たの?・・今は、いつ?)
8月。ジーイ、ジーイと蝉が鳴いてうるさかった。汗がべとついて、前髪が目に入る
ので上げてしまった。母親に何も告げてこなかったことを考えると胸が痛くて、
夏なのに、まるで木枯らしに吹かれているようにからだが震えた。
・・その母が誰で、どんな顔だったのかさえも、忘れてしまった。
ベンチは呪縛の鎖でナツを締め付ける。1時になると、ナツはそこから解き放たれ、
よろよろと白線をまたいでふちのところまで歩いていく。目の前を疾風のように
通り過ぎる急行には目もくれず、向こうに止まっている電車の行き過ぎるのをじっと、
固唾を飲んで待っている。行き過ぎると、そこにたむろする人の群れに目をこらして
彼を探すのだった。いるはずのない、懐かしい姿を。
──もう、何年も。


来てくれるのなら、そこに姿が見えるのなら。幻でも。
本当でなくても。姿さえ、その笑顔さえ見られるのなら。
夏の淡い陽炎が、歪んで作り出す光彩の魔法。ナツの心を反映して。
幻さえ──
幻さえ、喜んで愛しただろう──。
「・・先生」
向こうに立っている人影を確認したとき、ナツの乾いた唇から、小さな声が漏れた。
いったい、何年ぶりに言葉を発しただろう?
幻でも──夢でも。すぐに消えてしまっても。
彼が、懐かしい姿で、しっかりと手を振った。きちんとこちらを見据えて。
唇が何かのかたちに動いて、にっこりと笑った。
(そちらに、行くよ)
「先生・・・!」
ゆらりと体がかしいで、ナツは急速に、全身の力が抜けていくのを知った。
何年たっただろう。いくつもの夏が過ぎた。
ついには神様さえ、ナツに哀れみをかけて、こうして幻の・・夢を──。


                ◆
                ◆


がしん、と体を大きな機械でつかまれたように思った。
くずおれ、線路にあわや落ちようとした(落ちてもいいと思った)その体を、
必死で抱きとめる小さな、けれど大きな力。
「おかあさん!」
「・・まゆ」
春子は、目を開いた。まだ体が自分のもののようでなく、ひどく重くて辛かった。
「よかったあ、間に合って・・」
Tシャツとジーンズ姿の娘が、周囲の奇妙な視線も気にせずに春子を抱きしめ、涙を
流しているのを、春子はひどく戸惑いながら、だが奇妙な安堵と、こみ上げてくる
複雑な感情と喜びに、顔をしかめた。
「先生・・・先生、やっと迎えに来はったんやね」
まゆは、はばかりなくしゃくりあげながら、途切れ途切れに母親に伝える。
「おかげでお母さん、あやうく落ちてしまうとこやったわ」
春子は、娘の頭をなでて笑い、肩を借りていつものベンチへと戻った。
いつものように、頭痛とめまいが春子を襲った。けれど、これで最後だと思えば
苦しくはない。春子は、頭をあげて娘に笑いかけた。
「おばあちゃん、喜んでたわ。最後まで、幻や、夢やって・・ほんまのんやって
教えてあげたかったわ」
「ほんまのんって、幽霊やないの」
まゆはようやく涙を拭きながら口を尖らせた。春子は、思わず笑った。


               ◆
               ◆


──春子の母、ナツがこの世を去ったのは、春子がまだ17のときだった。
母親が自分の担任の教師と恋に落ちていたこと、こっそりと逢引(あるいは駆け落ち)
しようとしたことを知ったのは、母が亡くなった後である。ナツは芦屋の名家に
育ったお嬢様で、子を持ってもいつまでも娘気分の抜けない女だった。現実的で
今ひとつ垢抜けない夫に嫌気がさしたのか、少女気分で恋に落ちてしまって、どう
にもならなくなったのだろう。
伊豆に行くことを提案したのはナツだったようだ。
・・きっと伊豆がどれほど遠いところか母は知らなかっただろう。本か何かで見て、
どうしても行きたいと言ったのに違いない。列車でどれほどかかるものか先生は
知っていたはずだが、ナツの少女趣味につきあってやろうと思ったのだろう。
あるいは、先生のほうは恋に落ちていたわけではなく、伊豆に行く気も先からなかった
のかもしれない。とにかく真面目な人だったと記憶している。うまい断り方もわからず
に、
押し切られる形で当日になってしまって──どうにかして、母の熱意を
思いとどまらせ、家に帰すつもりだったのでは、と春子は思っている。
それとも、春子にはわからない、ナツのいつまでも少女めいて幼げな様子に
先生も心惹かれ、もっと、何か激しい思いの高まりがあっての行動だろうか?
「ナツ」の心には、先生への激しい憧れと思慕が溢れていた。いつも穏やかで静かな
先生の、春子の知らない一面を、明らかにナツは知っていたのだろう。
しかし、先生はナツの死のあと何も弁解せず、ただただ謝罪をするのみで、頑として
何も語ることはなかった。父も自分も、母の奔放で子供のような性格を知っているゆえ
に、
かえって先生に気の毒なことをしたのではないかと、最後には思ったものだ。
とにかく──本当はもっと甘いロマンスがあったとしても、春子にはもう知る由はな
い。
先生はこうしてこの世を去り、実に35年越しに、彼女を迎えに行ったのである。
義理堅いと思う。
昔の人だな、とも。
母が死んだ理由はよくわかっていない。興奮しすぎて貧血でも起こしたのか、何か
持病でもあったのか、先生が言うには、まるでろうそくの火がゆらりと揺らめいて
消えるように、くたりと倒れてしまったようだ。そのままずるっと線路に落ちてしま
い、
先生が助けに行く間もなく電車に轢かれてしまった。あまりに突然の死だが、
ロマンスに憧れた母らしいといえば母らしい。


 そんなナツの魂が、まだ現場に残っていたことを知って驚いたのは12年前である。
娘のまゆを産んで14年、春子が40になった夏だった。8月のある日、突然激しい
目まいに襲われたと思ったら、心が『ナツ』という名の少女に占拠されていた。
──全く母らしい。自分の死んだのは、17のときだと思い込んでいるのだ。想い人は
担任の教師で、自分は女学生だと思っている。実際にはナツは40で、17だった
のは自分の娘だったのに関わらず、である。
自分の存在すら忘れてしまっている母に悲しみを感じるとともに、奇妙な哀れと、
同情と、感じたことのない愛情を覚えた。少女時代への、狂おしい憧憬。
春子自身の母に似たそんな部分が、母を失った辛さも薄れた40になって芽吹き、
さまよっていたナツの魂と同調したのかもしれない。
──それ以来、毎年8月のその日になると、春子はナツになった。ナツは朝から
晩まで待ち続け、悲しみの声を残して春子を解放する。それが12年も続いたのだ
から、実の娘とはいえ、よく耐えたと思う。見たこともない祖母の迷惑な行為に、
初めは嫌悪をあらわにしていた娘も、最近ではすっかり「ナツ」にシンパシーを
覚えて、応援すらするようになっていた。そのまゆも今年で26だ。
「先生」が危篤になったと聞いたのは、まゆのこまめな文通のおかげだった。
あちこち調べて、やっと先生の居場所が掴め、手紙も行き来できるようになった
のはここ1、2年ほどのことである。
母の異変と、ナツの亡霊について知った先生は(教職はすぐ退職してしまったから、
その後どうしていたのかは春子は知らない。そのころは既に高齢で、入院中であった)
大変驚き、しきりに迎えに行きたい、行かなくてはと手紙にあったようだ。
ちょうど、ナツが幻を痛切に見たがったあのときに先生が亡くなったのは、やはり
ナツの想いが先生に届いたのだろうか。それとも──愛だろうか。
いずれにしても、先生は35年ごしに母を迎えに行ってやり、母の思いは
満たされ、こうして春子は解放されたのだった。
(最後まで、迷惑な母さん。・・ありがとう、先生。お疲れでしょうけど、
どうか母のこと、よろしくお願いします)


                 ◆
                 ◆


「あ・・・」
帰宅した春子は、思わず声をあげた。
門扉の横の塀の上に、小さなものが寄り添うようにして乗っている。
まだ青い、すっぱそうな小ぶりなみかんがふたつ。可愛らしい葉っぱが
ちょこんとついていた。
「なあに?おばあちゃんのお礼?」
まゆが笑いながらみかんを手に取る。
さわやかな、青臭い甘酸っぱい匂いがそこに立ち込めた。
──潮の匂いのする風が、吹いてきたように思った。


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