第54回テーマ館「〜ごっこ」



あの世とこの世の会話ごっこ GO [2004/07/26 00:09:48]


 源吉は今年で七十九歳になる。町の者はみな源爺さんと呼ぶ。いたって足腰は達者なの
に、この歳では減爺さんと呼ばれてもしかたがない。五十歳で妻の利江が死ぬと、あれ以
来言葉数少なくなった。それでも気持ちだけは今でも若いつもりでいる。

 長男の信吉は東京の大手銀行に勤めていて、気苦労が多いらしく、たまに電話をかけて
くては徹夜続きの疲労を涙ながらに愚痴った。銀行が景気がよかった頃は東京のマンショ
ンで一緒に住もうと誘ってくれたものだが、最近ではそのことに触れたくないらしく、孫
の信也のことも口にしなくなった。源吉はこの町を捨てる気などさらさらないと自分では
わかっているものの、やぱり息子の誘いがなくなってからは一抹の寂しさを感じた。

 それにしても若者の少なくなった町は言葉にできないほど侘しいものだ。何十年も昔は
田圃が一面に広がり、遥か遠くの山並みまで見渡せたのに、ここ数年の間に田圃は売却さ
れ、モダンなスーパーが町の中心を埋めると、広い駐車場の大きな看板が壁のように山並
みを隠してしまった。源吉は愁絶の目を見開いて、唯一、昔の面影を留めているこの社の
欅や楠の枝のそよぎを溜息とともに眺めるばかりである。

「どうかね、減さん。おまさんの孫はこの盆にはやってくるかね?」
「さあ、どうじゃろうかの。孫は塾通いに忙しいらしいでの。たぶん帰らんじゃろ」
 松助は六十七歳だ。一家中が病弱で、病院を点々としているが、いまだに病名はわから
ぬじまいである。息子も痩せ細った身体で強い火を焚き、炎暑の道を直している。嫁はパ
ートでスーパーのレジをしているが、病気がちの子供に触れられたくないのか、滅多に近
所の者と口をきかない。

「この町もさびれてしもうたのう」と源吉はぽつりと呟いて、手の甲で鼻水を拭った。
 こうして、いつも同じ話を繰り返しては、昔を偲び、欅や楠の大木の密集する蝉時雨の
盛んな片影の下で、二人の老人はみじろぎもせず炎昼の深眠りにひたる。ここだけが唯一
の憩い場所で、町の音も遥か1光年の彼方に遠ざかった。

                *

 源吉は眠りの中から瞬いて周囲を見回したのは現実の風景ではなかったからだ。源吉に
とっては町の風景を吹き払ったかのように幻想とも現実とも思えない愛と寛大さとに満ち
た清らな潤いを帯びて、優雅に変化した村を眺めた。
 風景は昔のままで、まるで若い頃の写真から抜け出したような初々しい利江が立ってい
る。浴衣姿も盆踊りの夜に出会ったままの色柄で、白い歯だけが目立った。微笑した瞳に
優しさがうかがえた。

 源吉は戸惑ったが、別段驚きもしなかった。陶器のような彼女の肌は大きな目と完全に
マッチしている。この村では若者たちの憧れの的で、利江の美しさに目を見張る思いが
し、嫁にするならこの娘だと若者たちはこぞってアタックしたものだが、しつこい申し込
みも利江には聞き入れられなかった青年時代が去来した。

「元気そうじゃないの?」と利江は優しさに溢れた視線を投げかけた。
「老いぼれにはなったが、まあ元気だ。息子も東京で元気にしているよ。ただ仕事が大変
らしい」
「ひとり暮らしは淋しいでしょう?」と利江はためらいがちに聞く。
「うん、まあ何とかやっているから安心してくれ。ところで、そちらはどうだ?」

「こちらはいいところよ」と無限の善意が利江から放射されていて、源吉の全身に染み、
心を満たしてくれているかのようであった。
「そのうちに行くから待っていてくれ」と源吉は笑いながら言った。
「何をおっしゃってるのよ。与えられたお命を頂戴しているんですからね。毎日を楽しく
暮らしてくださいな」

「うん、そうだな。そうしょう。ところで孫の信也の顔が見られずにそちらに行って、さ
ぞ淋しかっただろう」と源吉は利江の気持ちを察して言った。
「いえ、毎日見ていますよ。少し親が勉強をさせ過ぎているようですけどね」
「そうか、いつも見ているのか。それは安心だ。よく孫を守ってやってくれよ」
「はいはい、よくわかりましたよ。あなたもお酒は少し控えめにしてくださいよ」

「うん、好きな酒だが、お前の忠告だ。少し控えることにしよう」と心地よく響く利江の
声に促されて、いい気分で頷いた。どんな雄弁よりも利江には説得力があった。
「それにしても楽しい盆踊りでしたわね」と利江は感慨深げに微笑する。
「あの盆踊りがなかったら、お前と一緒になることはなかっただろうな」
「いえいえ、わたしはあなたと結婚すると決めていましたわよ」と利江はきっぱりした口
調で言ったので、源吉はあの盆踊りの夜の愛撫の思い出に掻き立てられた。すると笛の音
が響いてきて、盆踊りの輪の中に包まれた。

「それは本当か!」と源吉は踊りの輪の中で軽やかな陶酔に心を弾ませ、身体をほてら
せ、わずかに息をあえがせた。
「本当ですとも」と利江はにっこり笑って切り返した。
「じゃあ、あの世でも夫婦でいられるということか?」
「そうですよ」と言った利江の言葉が源吉の魂を満たし、甘く麻痺させる利江の踊り姿を
幻想のように見つめ続けた。

                *

 あたりはみな現世ながら、こんがらがった頭で欅と楠の大木のそよぎを見つめ、蝉時雨
を降らせている木漏れ日の陽を見つめた。目をしばだたいても、そこには利江はいなかっ
た。まるで時空を超えて話し合ったような妙に心躍る夢だったからだ。いまは彼女の痕跡
はどこにもない。あの世とこの世を隔てた会話ごっこだっただけに、眠っている間に姿を
消したのかもしれないと思えたほどだ。

 もうくずお盆である。その盆踊りに息子の信吉が帰ってきて笛を吹くような日はなくな
ってしまった。孫の面を買った大きな目の穴からキラキラ光っていた孫の信也の姿が浮か
ぶだけだ。これからは老人と子供ばかりのお盆である。「利江、今年はおらが盆踊りの笛
を吹くぞ」
 いつもひとり来てお盆の前の墓を洗うのが源吉の楽しみである。毎年のことではある
が、うしろに息子の信吉が現れはせぬかと一本道を残すようにして墓を洗うのである。

「ああ、よう眠った」と松助が昼寝から覚め、汗の顔を上げて目をこすった。激しい蝉時
雨の欅と楠の大木を見上げては余命を量るような感傷的な気分にひたっている。松助も何
か夢でも見ていたのすもしれない。


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