第54回テーマ館「〜ごっこ」



家出ごっこ GO [2004/08/29 03:36:41]


 その娘は亜衣といった。すぐ近くのマンションに住んでいて、ぼくは家庭教師として出
入りしていたから、よもや亜衣が家出するなどとは思いもしなかった。その亜衣の家出を
母親の伸子から聞かされたとき、こちらのマンションに向かって手をふる彼女の無邪気な
笑顔がしきりに蘇った。何故かすぐには信じられなかった。

 父親の幸輔は近くの短期大学の教授で、訪ねるたびに感じられるのは、この家庭の会話
のない冷気である。挨拶をしても父親は素知らぬ顔で自分の書斎に消える。マンションの
住人はこの教授にお手上げのようで、自然と無視するように重苦しい沈黙を広げて道を開
けた。

 母親の伸子は三十を少し過ぎた品のいい女性で、人当たりのいい寡黙な夫人だった。そ
れだけに主人と夫人の仲に話が及び、遠慮会釈のない噂を広げて、近所の物笑いの種にさ
れた。そんな彼女の顔には悩み苦しみが浮かんでいた。それでも何も言わずにじっと耐え
ていた。

 亜衣が家出する前、ぼくはこちらから夏休みの二ヶ月間は家庭教師を休みたいと丁重な
断りの電話を入れて快諾を得ていた。亜衣も夏休みを友達と楽しく過ごしたいだろうと思
ってのことである。

 じつは、ぼくのほうでも、せっかくの夏休みを無駄に過ごしたくなかった。ぜひとも有
意義に使いたかった。この二ヶ月間こそがぼくの人生を拓く一つの転機になることを夢み
ていた。雑誌の懸賞小説に応募するために明け方まで執筆に没頭し、ひたすら幻想に埋没
して意欲を燃やし続けていたのである。

 七月に入ると梅雨も明けて、日差しも強くなり、気温も急上昇して、雷が鳴り、夕立が
きた。日中は焼けつく街の彼方に姫路城の白亜までが揺らめいて見えた。近年にない極暑
で、夜になっても燃えるような暑さは少しも衰えをみせなかった。

 エアコンは回り続け、あまりの暑さに筆は少しも進まず、書き屑の山ばかりが増え、せ
っかくの情熱も汗とともに極暑の中に吸い込まれてしまった感じになった。見えざる想像
力の糸を断ち切ってしまたように、ぼくの意識の中から浮かび上がってくる肝心の想像力
が枯れていた。そして不安定な精神を机にうつ伏せているだけだった。

 ぼくは忘我の状態で机に額を打ちつけ、何時間も無為に過ごしたような気がした。
 そのときチャイムが鳴っているのが耳の底を震わせた。それを聞いても身動き一つ出来
なかった。
 チャイムは鳴り続けている。だるい身体を起こして朦朧と机から離れると、一瞬暗い穴
へ引きずり込まれるように身体が揺れた。

 戸を開けると、そこに亜衣の母親の伸子が立っていた。その姿を見てぼくは戦慄した。
何かが彼女の心を縛っていたからである。
「散らかしていますが、暑いので、どうぞ部屋に入ってください」
「失礼します」と言ってヒールを脱ぐ母親の伸子の蒼白な顔を見て驚き、思いがけぬ異変
を感じさせた。じじつ内面の責め苦に苛まれている母親は、ふらふらと男ひとりの部屋へ
何の抵抗も警戒心もなく入ってきた。

 ぼくは冷蔵庫から冷えたパックコーヒーをグラスに注いで母親の前に出した。その間も
母親は説明しがたい視線を走らせて部屋の中を見回していた。
「亜衣が家出したんですの」
「えっ、亜衣ちゃんが……」ぼくは言葉を失い、一瞬たがいの心の底を見つめ合った。

「何か心あたりはありませんか?」
「さあ、ぼくにはさっぱり見当がつきませんね」
 ぼくには亜衣が家出する理由がわからなかった。そんな曖昧な空白の中で、何か得体の
知れない影響がぼくの意識下の深みに作用していた。それは父親の幸輔の態度であった。

「ご主人は何と?」
 話によると、主人は何かにつけて母親を責め立てていたのだと、暗鬱の想念の中でたゆ
たいながら話した。しかも娘の亜衣も心身の不調が続き、家では部屋に閉じこもったまま
だという。ぼくのおぼろな観察では母親の言葉とは裏腹で、亜衣は幸福な夢にしっかりと
しがみつこうとしていたように思えたからだ。それに対して父親は娘の状態にほとんど無
関心で、何かにつけて毒を含んだ言葉で母親を責め立てるばかりなのだという。

「もう嫌になっちゃいました」と、色々な話をし終わったあと、不意に雲間から雷明が走
るように、そのとりとめもない話の中に閃き、ぼくは息を呑んだ。
「ごめんなさい。こんな話をしちゃって……」
 母親はすすり泣きをやめて、ぼくを見た。赤く腫らした目がぼくを見ていたが暑い空気
の中で次第に輝いてきたので、思わすぼくをうろたえさせた。

 八月に入った。ぼくの執筆は相変わらず、少しも進まなかった。その間も亜衣の家出が
頭から消えなかった。あの亜衣の部屋を思い浮かべるだけで、苦悩の棘に刺されたような
鋭い心の痛みを感じさせた。
 ぼくはほとんど執筆諦めていた。何をしていいのかわからず、屍体になった亜衣の姿が
しきりに瞼から離れなかった。

 空気を入れ替えようとして窓を開けると、日中の照り尽くしたベランダの彼方に太陽は
没し際の濃い飴色の西日となって油のようにとろりとした日の色が、見るからに暑苦しか
った。こんな極暑に亜衣はどこにいるのだろう?

 もう何もする気が湧かず、自分が憂鬱な精神の病にかかった歪んだ二重人格のように思
えた。時折、窓を染める花火を見て、そぞろ郷愁が湧き、痩せた命をいたわるように亜衣
の姿を思い描き、その特徴をひとつひとつ探すように膝をそろえて眺めていた。

 原爆忌が過ぎ、終戦記念日が過ぎても亜衣の姿が脳裏に影を落としていた。やっと秋の
気配の感じられる蜩の声が聞こえてきたが、貴重な花のような亜衣を思い浮かべては恐ろ
しい空想を広げて部屋の中を歩きまわってばかりいた。

 九月に入った最初の日、勢いよくチャイムが鳴った。はて、誰だろう。まさか亜衣の母
親ということはあるまいと思いつつ、戸を開けると、何とその母親の伸子だった。
「どうしたんです?」
「お部屋に入ってもよろしいですか?」と活発な新しい態度が身体が漂ってきた。
「どうぞ」と言うと、彼女はどんどん部屋に入ってきた。「はい、お土産」と差し出した
花柄の包装紙に包まれた細長い箱を差し出した。

               *

 彼女の話はこうであった。
 あの日、つまり亜衣が家出して、この母親がぼくのマンションを訪ねてて来た日、何か
が彼女の中で激しい行動を促し、そこらのものをバッグに詰めて姫路駅に急いだという。
亜衣を探すためではなく、最初から家出をするために新幹線に乗ったのだ。
「えっ、亜衣ちゃんを探すためではなくて、奥さんが家出したんですか?」

「ええ、そうなんです」
 ぼくは唖然とし、理解できない母親の言葉に、不思議な顔して眺めるばかりだった。
「わたし、中学生のとき、風邪で修学旅行に行けなかったんです」
「それならご家族で行けばいいじゃないですか?」
「いえ、それでは駄目なんです」

「なぜ、です?」とぼくは異様な言葉に目をパチクリさせて、ずっと視線を注ぎかけるし
かなかった。
「わたしが新幹線に乗ったとき、初めて自由になったのだと気づいたからです」と母親の
伸子は優雅に笑った。このときの伸子は母親という感情など微塵もなかったのだろう。

「それ、本当ですか? ご主人や亜衣ちゃんを忘れて家出するなんて自分勝手な母親です
ね」結婚して子供を持てば、どんな母親でも娘時代とは違って臆病になるものだと想像し
ていたから、ぼくの胸は亜衣の家出を聞いたときよりも強烈な衝撃を受けた。
「いえいえ、あれから一週間ばかりして亜衣から電話がありましてね。亜衣の家出は偽装
で、友達と東京の原宿を歩いていたんですって。ママも家出しちゃえばいいのにって言っ
ていましたわ」

「それで家出を? で、どこへ行ってきたんです?」
「広島ですの」
「広島?」
「修学旅行が広島だったんですけど、風邪で行けなかったでしょ? それで広島へ行って
みようと思い立ったのです」

 ぼくは知らず知らずのうちに母親の家出話を聞きながら、無意識に自分の中で牧歌的な
旅の感覚を覚え、母親の行動にすっかりのせられてしまっていた。
「広島は原爆の街ということは知識では知っていました。でも記念館に入って初めてその
悲惨な状況を知りました」
「そうでしょうね」とぼくは彼女の言葉に相槌を打っていた。

「広島はとても親しみやすい街ですわ。いい人ばかりで、沢山のお友達もできましたわ。
それから牡蠣を食べに行きました」
「これじゃ、家出どころか奥さんの夏休みのようですね。で、書置きはしなかったんです
か?」
「ええ、しました。二、三日留守にします。心配しないで。必ず連絡しますって」

「連絡なさったんでしょ?」
「一週間ぐらいしてから電話をしましたわ。ごめんなさいって。でもスッキリしました
わ」
「ご主人はご心配なさったでしょう」
「ええ、亜衣の話では、あれほど何もしなかった人が、亜衣を連れて買い物にいったそう
です。照れ臭そうにご近所の人にも挨拶したと聞ききました。ヤッターって気持ちでした
わね」と、かすかな微笑がその顔に揺らいでいた。

 確かに母親の家出の背景には、主人の不満があることは感じていた。たぶん亜衣もそう
だったのだろう。ぼくはこのときほど女性の内面にある皮肉、むなしい渇望、不毛な苛立
ちの中であがいていたことを知った。だからこそ遭遇した試練から運命を変えるように無
事に帰ってきて、よい方向へ急変したことは、いかなる方法であれ喜ばしいことであっ
た。

「宮島に寄ったときに買った紅葉饅頭のお土産です。早く食べてください」
「では遠慮なく頂戴します」と家出して優雅に広島を旅行してきた母親の優越感が嫌悪を
覚えるほど自信満ちて輝いていた。
「それはそうと、亜衣に促されて家出したことは主人に黙っていてくださいね」

「もちろん黙っています」とぼくは頷いたものの、今のぼくとそれ以前のぼくとの間に秘
密という重石で押さえつけられたうな偽りの封印を捺された暗い気分は消えず、何故か思
考力を失ったような、うつろなひとときを経験した。
 お土産の紅葉饅頭はゴミ箱に捨てた。疑惑を抱いたり、母親や娘の家出に何か釈然とし
ない自分を感じながら、お土産を捨てることで忘却を自らに与えたのである。

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