第54回テーマ館「〜ごっこ」



山百合  −佐々木小次郎ー GO [2004/09/09 02:45:30]


 ここは平家一門が安徳天皇とともに海の藻屑と消えた赤間が関の壇ノ浦である。
 夜になると海から霧が湧き出し、合戦の鬨の声と刀槍が荒波の中から聞こえ、鬼火が浮
遊し、決まって数艘の船が海にひき込まれた。数百年にわたって漁師たちは平家の怨霊に
悩まされてきた海域である。

 寿永四年、京から勅使が遣わされ、赤間神宮が建立されて、ようやく幼帝をなぐさめる
ために参詣されてから、波の中から湧き出す耳を聾するばかりの鬨の声は夢の記憶のよう
に縁遠くなり、寄せては返す波の音に変わったのである。

 赤間神宮が建立されてからは、確かに怨霊の祟りは少なくなった。境内には御陵ととも
に平家一門の墓七盛塚あり、初めて一帯にみごとな山百合が咲き乱れているのに気づい
て、漁師たちは一様に目を見張った。
 いつかこの山百合を平家百合と呼ぶようになった。むろん手折ることは平家の怨霊の祟
りを招く恐れがあると、漁師たちは何代にもわたって畏怖するように語り継いだ。爾来、
会釈して通り過ぎるぐらいで、誰も手をふれる者などいなかった。

 この壇ノ浦の浜辺にささやかな漁師小屋があった。
 小屋に住んでいるのは、たぐい稀なほど眉目秀麗な若侍で、いまだに前髪を残してい
た。一見女子かと見間違われるほどの美男ぶりではあったが、その人間ばなれした変幻自
在な剣には恐ろしいほどのものがあった。

 それでもなお若侍は剣に求める熱烈な渇望は少しも消えなかったのは、己の剣が天下無
双として世に名を高らしめるには何かが不足していることを自身でもよくわかっていた。
だからこそ、たとえ鬼神に技を乞うてでも会得したいと心から願っていた。

 若侍には末を誓い合った美しい女性がいた。名はお栄といい、没落する前の京で遊興し
たおりに見つけた踊り遊女であった。そのときの優しい話しぶり、笑顔、上品で感じがよ
く、しかも物狂わしいまでに刺激的な香気に魅惑されて連れてきたのである。
「今宵も剣の修行でございますか?」とお栄は嘆息ぎみに訊いた。

「うん」と応えて、物干し竿のような長い剣を掴んだ。
 この剣は幼少のおり、故太閤秀吉から賜った正宗の異様に長い、戦闘にも不向きな黄金
をちりばめた差し料であった。
 小次郎は佐々木源氏の流れをくむ近江蒲生郡の名門で、鎌倉時代に婆沙羅大名で名をは
せた佐々木道誉の末裔でもあった。その婆沙羅の血は当然のごとく小次郎にも色濃く受け
継がれていた。

 すでに幼少にて中条流の小太刀の極意を会得していたが、故太閤から賜った長剣を手に
した小次郎は何の躊躇もなく中条流の小太刀を捨てた。それからは長剣の修練に没頭し、
やっと平家の亡霊武者によって大太刀の極意を会得したときには、すでに太閤は没し、し
かも関が原役にも破れて、今は浪々の身の上となったが、故太閤に可愛がられた記憶をと
どめるように前髪だけは落とすことがなかったのである。

「没落すると、かような仕儀と相成る。どこぞの大名に剣術指南として知遇を得たいもの
だ」と言ったが、じつは細川家から剣術指南の話があることは伏せていた。まだ己の剣に
不足があったからである。
「小次郎様さえご辛抱なされますならば、わたくしはこのままで十分満足にございます」
 それには応えず、小次郎は黙って青い月の光に舞う砂粒の浜辺に出て行った。

 それをお栄はじっと見つめていた。打ち寄せる白波に向かって物干し竿と称される愛刀
を抜き放つ小次郎の顔に、酷薄な微笑が浮かび、襲撃の一瞬を待つかのように構えた。
「細川家の指南は武蔵には渡さぬ!」
 その刹那、突如として森羅万象に意を唱えるかのように地鳴りが起こり、空が吼え、海
が振動し、あたりは惨たる血海を広げたように真っ赤に染まった。

 やがて鬼火がお栄の目にも映った。それは数限りない平家一門の鎧武者たちであった。
それをお栄は透視できたのである。
「巌流佐々木小次郎か!」と闇の中から大声が呼ばわったが、鬼火の魔障が襲ってくるこ
とはなかった。小次郎の剣は三界郡類の長眠をおどろかし、九界の迷情までも追い払って
いたのである。
「いかにも小次郎でござる!」と闇の幽鬼妖怪に向かって返答した。鬼火は小次郎の頭上
を幾百も漂ったままである。

「貴殿に教授することは、もはやない。これからはおのが胆力を養われよ」と鬼火は小次
郎の脳に囁きかけた。
「なんと言われる?」
「そなたの剣は、もはや何人も太刀打ちできぬ。しかし、そなたが望んでおる天下無双の
剣士にはなれぬぞ」

「何!」小次郎の面貌にはじめて色が変わった。「その理由を聞かせてもらえまいか?」
「理由か。わが平家一門の滅亡を見ればわかるであろう。平家一門の棟梁である相国入道
清盛殿の慈悲心が源氏の頼朝を生かし、九郎義経を生かした」と亡霊は悲運の歴史をみる
壇ノ浦に、あわれ海の藻屑となり果てた己の迷魂を涙ながらに語った。「故にその慈悲心
が禍となった。そなたも宮本武蔵との試合までに慈悲心を捨てることじゃ」

「如何にすればよいのか?」
 息詰まる沈黙が続いた。やがて亡霊は無念の吐息をついて、やおら小次郎に語った。
「ここより三里ほどの彼方に龍神の滝がある。そこには岩燕の巣が多い。燕は百姓の守り
神じゃ。その岩燕を斬って捨ててみよ」と平家の亡霊は残忍酷薄の言葉を低く吐いた。
「相わかった」と小次郎が答えると、闇を漂う幾百の鬼火が一つまた一つと消えて、地鳴
りを起こした壇ノ浦は、さしたる時間を要しないほど、ふたたび月の光に満ちた幽玄の静
寂に還ったのである。

                *

 細川家は大々名になると、その石高は大変なものであった。慶長五年の関が原役で五十
二万三千石を賜ったからである。その忠興は戦乱はまだ続くと睨んでいた。それで佐々木
一族を密かに温存してきたが、家中との確執がもとで、もはや放っても置けなくなってし
まった。

 じじつ佐々木一族は、この地は故太閤の地であり、故加糖清正公の領地であると言い放
ち、細川家の家中に対して横暴を極めた。それが日に日に苛烈さを増すと、それに加担す
るかのように城持ちの長岡佐渡と次席家老の斉藤鎮実との反目もまた日に日に平家と源氏
の歴史を思い起こさせるほど抜き差しならぬところまで来てしまった。

 なにしろ佐々木小次郎は九州を経巡って、剛の剣客をことごとく打ち倒してきたから、
巷では今に宮本武蔵と佐々木小次郎とが果し合いをするであろうと噂するようになってい
た。この容易ならざる雲行きに忠興の脳裏の霧が不意に晴れ、思わずニヤリとしたのは、
佐々木一族の当主である巌流佐々木小次郎と宮本武蔵との手合わせであった。

 いずれが細川家にとって剣術指南役に相応しいか、表向きはその腕比べという触れ込み
にしたかった。
 そのじつ忠興にとっては、これを機に、京の吉岡剣法を倒して世に名を高らしめた宮本
武蔵との決闘によって佐々木一族の勢力を削ぎたいとの思惑があってのことであった。

                 *

 その頃、小次郎は龍神の滝の巌上に立って肩先をかすめて飛翔する岩燕の夥しい流れを
眺めていた。その足元には限りない岩燕の死骸が転がっていた。この一年間にみじんの狂
いもなく両断した何百羽にものぼる岩燕の死骸であった。

 彼の迅業は電光石火にも似た太刀さばきで、次々に飛来する岩燕の群れに向かって休む
ことなく一閃の軌道を描き、身を裂かれて分かれた岩燕は行き場を失って溢れる瀑布の虹
の中へ散った。岩燕の飛翔は小次郎の剣の迅業から逃れることができなかったのである。
「よし、これで武蔵に勝てる」
 そう思った瞬間、またも一羽の岩燕が直進してきた。何かをくわえているのに気づいた
が、一瞬の動作に身体が動いた。岩燕は白く閃いた刃光に両断されて小次郎の足元に落ち
たとき、くわえているものを見て、小次郎は愕然とした。それは山百合の花びらであっ
た。

 山百合のかすかな香りが神秘的なまでに匂い立ち、思わずお栄の香気を呼び覚ましたか
らである。小次郎はお栄の悲痛な嘆きの腕を振り切って、この龍神の滝まできて一年間、
極め尽くした燕返しの技を会得した安堵よりもむしろ心の迷いを克服したはずの山百合を
くわえた岩燕にお栄の魅惑を重ね合わせて小次郎を狼狽させた。胸を締めつけられるよう
な強い不安を覚えたのである。
「お栄!」

 小次郎は身支度を整える暇さえ惜しんで、すぐさま壇ノ浦の浜辺の漁師小屋に向かっ
た。
 夜もふけて眺める壇ノ浦の浜辺は月の光に秋風の砂が舞っていた。
「お栄、いま帰ったぞ」
 しかし、お栄の声はなく、荒れ果てた漁師小屋は人の住んでいる気配すら感じられなか
った。戸もなく、踏めば朽ちた板敷きに足が突抜け、破れた屋根からは青い月が小屋の中
を煌々と照りつけていた。

「お栄も小次郎から逃げたか」
 所詮は京の踊り遊女である。逃げられても不思議ではなかった。どうせ今頃は京で面白
可笑しく踊っているのであろう。
 小次郎は我が身を嘲笑するように、唇を弓なりにしたが、それでもお栄の情愛が彼の心
を縛って離れなかった。せっかく帰ってきたのにお栄がいないことに対して、説明しがた
い一種の恨みとも悲しみともつかぬ苛立ちとなって、無性に腹立たしかった。

 眠気をもようしてきたので、物干し竿の長剣を肩から下ろし、それを抱くように壁に寄
りかかってうとうとした。
 眠ったのは一瞬だったのか、それすらもよくわからなかった。きよらな光に目をくらま
されて、ふと目を開くと、小屋に明かりがともり、かんばしい香りが満ちていた。
「お目覚めでございますか?」

「お栄ではないか? いかがいたした。京に戻ったと思うたぞ」
「小次郎様が待ちどうしゅうございました。今宵はどんぶんに可愛がってくださりませ」
「そちほど愛しい女子は、この世にはいぬ」
 この夜のお栄の濃密な香気の刺激は凄まじく、魂まで焦がす灼熱の肌の開花に我が身が
蒸発してゆくのを覚えながら、お栄の意のままに恍惚のすべてを枯渇させた。

 翌朝、目を開くと、そこにはお栄はいなかった。昨夜のお栄のいつになく激しい愛情の
発露に驚かされたが、容易にそれが現実のものだ認識できぬほど異常なものであったから
だ。
 小次郎はあの香気の残り香を探った。だが、香気はなかった。醜悪な臭いが鼻をつい
た。はて、お栄はどうしたのだろう、と訝しがりながら、あたりを見回したが、どこにも
お栄の姿は見当たらなかった。波の音だけが小屋を揺すり、敗れた壁から冷たい風が吹き
込んでいるだけであった。

 小次郎はお栄と眠った脇の少し盛り上がった茣蓙を捲ってみて、愕然となった。そこに
はお栄の白骨死体があったからである。
 さては昨夜のお栄は亡霊であったか、とあの強烈な歓喜に身を狂わせた香気の余韻に心
を引き裂かれながら、優雅で気品のあるお栄の黒髪を、そして干からびた白骨さえも愛し
むように手に抱き、冷たい髪の抱擁の中で小次郎はさめざめと泣いたのである。

                 *

 宮本武蔵と佐々木小次郎の試合の高札が小倉城下はむろん、下関の辻にも門司の辻にも
立った。が、実際には、この試合は一種の情報戦の様相を呈していた。
 小次郎方では佐々木一族が逐一情勢を伝えてきた。一方の武蔵の方では新免伊賀守郎党
や平田無二斎一派が暗躍していた。

 武蔵方では関が原役の壊滅以来、宇喜多秀家の軍に加わって敗走し、九州に逃れて、武
蔵の養子である伊織のいる小笠原家へ、また如水のはからいで黒田家へ、さらには池田家
へと身を寄せていたので、その情報量は多く正確であった。
 細川家ではどちらが勝っても負けても両者相打ちにするよう密議がこらされていた。武
蔵はそれを聞き、潮の流れをみて舟島に船で乗りつけるつもりであった。

 小次郎はそれを知らなかった。舟島に到着した佐々木小次郎は、相手の武蔵が下関の船
宿で船の櫂を削っているとは、よもや思わなかった。真っ赤な陣羽織を着て、じっと床机
に座って武蔵を待ち続けていたのである。
 時刻が移り、日が昇って、遥か水平線上に小船の影が潮の流れに逆らってぽつとんと浮
かび上がり、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。

「武蔵が来たぞ!」幔幕の前の検分役や長岡佐渡以下の家臣たちが色めき立った。
 小次郎は船の櫓をこぐ音を聞くと、やおら瞼を開いたが、消しても蘇ってくるお栄の執
拗な幻影に陰惨な苦悩が意識を撹乱させ、気力も曇りがちであった。それでも床机から腰
を上げ、物干し竿の長剣を抜き放って、黄金のちりばめられた鞘を捨てた。あの溢れんば
かりの剣の奔放さが湧いてこない自分を叱咤しながら、波打ち際まで駆けるように近寄っ
た。

「武蔵、またも時刻を違える戦法にでたか!」
 武蔵は船から飛び降り、腰まで海中に浸かって、櫂で削った木刀を八双に構えた。その
怪異な口から罵声が飛んだ。
「小次郎、破れたり!」
「なんと?」

「勝つ身であらば、収める愛刀の鞘を何ゆえ捨てるや」
「おのれ、今度は我を焦らす所存か。参るぞ!」
 小次郎は海に身を浸したまま近づく気配をみせない武蔵に向かって、砂浜を横に走っ
た。その武蔵を足場の悪い石塊の多い方向へ追い立てるように小次郎は三尺一寸二分の物
干し竿を横薙ぎに送って、砂浜を猛然と走った。

 足場が悪いと気づいた武蔵は凄まじい小次郎の剣にあおられて海面から跳躍し、砂浜に
着地した。そこは小次郎に対して太陽を背にした位置にあった。
 小次郎は一瞬おのが位置の不利を悟ったが、物干し竿の剣を閃光の迅さで放つと、小次
郎よりも長い四尺三寸の櫂の木刀を太陽を背にして覆いかぶさるように交錯した。

 小次郎は燕返しの迅業で宙の武蔵を斬り上げた。その小次郎の目に武蔵の渋柿色の鉢巻
がぱっと斬られ、宙に舞い上がったのを見て、武蔵の首が胴から離れて宙に飛んだと見え
たのである。
 小次郎は唇を三日月状に吊り上げて笑ったとき、衝撃が頭上を襲った。それと同時に小
次郎の身体が緩慢に揺れた。相打ちと誰もが思った。だが、武蔵は倒れなかった。倒れた
のは小次郎であった。

 細川家の家中は抜刀して武蔵を追った。しかし、潮の流れに乗った船足は速く、みるみ
る舟島を離れて、遥か彼方の水平線上に遠ざかって小さな船影を没し去ってしまった。
 細川家の家中が小次郎に近寄って、その遺骸を見ると、小次郎はまるで無垢のような微
笑を浮かべていた。
「まことに不思議な笑顔じゃな」と長岡佐渡はぽつりと呟いた。その小次郎の身体から山
百合の刺激的な香気が漂っているのを不思議に思った。「小次郎のみが知る隠されたもの
があるのかも知れぬ。おしい剣士であったの」

                  *

 宮本武蔵と佐々木小次郎の試合があった舟島は、誰ゆうともなく巌流島と呼ぶようにな
ったことは万人の知るところである。
 その小次郎の墓が近年になって発見されたことで、佐々木小次郎を慕う人々の感傷的な
魂を動揺させ、穏やかならざる空想を掻き立てたのは言うまでもない。そこは壇ノ浦にほ
ど近い山口県阿武郡阿武町福賀の山腹で、小さな石ころには戒名はなく、ただ『古志ら
う』とだけ刻まれているのを小次郎を慕う人々の目は口もきけずに喉を詰まらせて深々と
染み入った。それはあきらかに女性が刻ませた遊女文字で、しかも世を偲ぶかのように葬
られた形跡が憐憫のままに女性の嘆きを際立たせて感じられた。

 その葬った相手が女性であることを直感させたのは、その周りに山百合が艶やかに咲き
乱れて、暗黙の刺激とも取れる香気を放ち、見つめる人々の魂まで満たして、甘く麻痺さ
せる幻想を濃密なまでに助長していたからであった。
 慈しんだ女性の愛に、あるいはそのために死さえもいとわなかった小次郎の愛に、人々
は若者のような熱い想いを胸に瞼を伏せ、頭を垂れて、悲運の剣士に黙祷した。



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