第63回テーマ館「理由」



私の理由 彼の理由 ジャージ [2006/10/05 02:14:41]


人には生きるために、多くの約束事がある。
『人の物を取ってはいけません』
『嘘をついてはいけません』
『人の悪口を言ってはいけません』
数えればきりがない。
だが、現代社会では、そんな約束事など正直に守っていたら生きていけない事もある。
自分を守るため、他人をだまし、批判・中傷をしたり・・・
私もそうして生きてきた1人だ。
それでも、この約束事だけは守りたかった・・・

『人を殺してはいけません』

8月15日
その日は朝から蒸し暑い。外のセミたちが先を争うかの様に忙しくないている。
背中は汗でびっしょり濡れている。暑さのせいではない。
緊張で・・だ。
私は、いや、私たちは今、ある建物の階段を登っている。
私と同じ制服を着た同僚数名と、そして、ある男が1人。
30歳もいかない、まだ若い男だ。
私の息子と歳と同じぐらいである。
石原雄也――27歳 5年前、某住宅地でおきた一家殺害・放火の容疑で逮捕。
拘置所・裁判・精神鑑定・また裁判・判決を経て、私の所へ来たのが1年前。
そしてこの日を迎える。
男・石原の足が止まる。彼の足元はかすかながらに震えている。
「石原・・・最後の勤めだ。」
石原は私の言葉を聞くと、お経を唱えながら再び階段をのぼる。
その先には小部屋があり、そこには彼の写真が飾られた祭壇が設けられていた。
そう、彼は死刑囚なのだ。

石原は工業系の専門学校を卒業すると、大手自動車メーカーの工場に就職。
根はまじめで、勤務態度は良好だったのだが、可柄で気の弱い性格から同僚からいじめ
を受けていたという。
そのいじめの主犯格が石原の部署のリーダーであり、気に入らない事があると何かに文
句をつけ、時には暴力を受けていたという。
辛い、死にたい・・・でも怖いし、くやしい。
まじめに勉強し、資格を取り、頑張ってきたのに、なぜ自分だけが・・・
思いは苦しみから憎しみに変わった。
そして、その思いは暴走――犯行に至る。

自分の祭壇の前で静かに手を合わせる石原。
刑務所に入って数ヶ月経ったころから、彼は仏教の教誨(きょうかい:受刑者に聖職者
がその宗教の教えを伝え、改心へ導かせるもの)をうけていた。
「石原、何か思い残す事はないか?今できる範囲であれば遠慮なくいいなさい。」
所長の声が静かに狭く薄暗い室内に響く。
石原は首を横に振ると
「先生(受刑者は刑務官などの職員をこう呼ぶ)方には・・・ご迷惑ばかりおかけしま
した。・・・よろしくお願いします。」
震える口を一生懸命に開けながら、石原は小さな声でそう言った。

石原に目隠しと手錠がされると、部屋の中央のカーテンが開く。
そこには彼の命を絶つ為のロープが天井から釣り下がっていた。

静かな時間。
わたしは4人の同僚と共に階段の横についているボタンの前に立っている。
ボタンは5つ。
合図と共に、私たちは一斉にこのボタンを押す。
このボタンの一つを押すと、石原の足元の床が開く仕組みになっている。
つまり、わたしたち5人のうち、だれか1人が石原を直接あの世へ送るのだ。
どのボタンだかわからない。
刑務官の罪悪感を軽減する為のシステムであろうとも、
私は、人を殺めることに替わりはない。

階段上部にいる刑務官から合図が送られる。
と同時に私たちはボタンを押す。
怒り?憎しみ?・・・いやこれは仕事だ。国からの命令だ・・・。
私は石原との時間を頭から消し、ボタンを押した――。

「先生!感謝の「しゃ」の字って、どういう風に書くんですっけ?」
「おいおい石原〜そのぐらいの字書けるだろう?お前専門学校出てるだろう?俺なんか
中学までだぜ?」
「僕、漢字は苦手で・・・学校のレポートはパソコンばかりでしたから・・・」
「俺は、そのパソコンが苦手だ。」
「簡単ですよ!難しいと思うから難しいのですよ。」
「息子に、同じ事言われたよ。・・・だがなぁ、あんなにボタンが並ぶとなぁ」
「キーボードの配列さえ体で覚えれば、簡単ですよ!紙に書いておきましょうか?」
「そうか?・・・よし、パソコンに関しては、お前が『先生』だな。」

石原――お前との会話が鮮明に浮かび上がる。
私はお前のおかげでパソコンのボタンに慣れた。
だが、この『ボタン』には・・・。

ダン!
すさまじい音が辺りに響き渡る。
医官が石原の死を宣言し、刑の執行が終わった。

私たち死刑執行に携わった刑務官は、いくらかの特別手当と3日間の特別休暇
がもらえる。石原の死によって得られた賃金と休暇。
家に帰り、無言のまま風呂に入る。
遠くで盆踊りの曲が聞こえる。・・・ああ、今日はどこかで盆踊りをしているのか・・
石原はいじめを恨み、上司を殺した。
私は、刑務官として、任務を遂行し、石原を――。
今日だけではない。
私は何十年の間にそんな事を何回繰り返してきた。
彼らは凶悪な罪人だった。
石原も幼い命まで奪った罪人に間違いはない。どんな理由があろうとも・・・
私はそう自分にいいかせ、業務を続けてきたのだ。
どんな理由があろうとも・・・

でも、

私自身、究極の約束は守りたかった。
『人を殺してはいけません』

END

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