『テーマ館』 第28回テーマ「森/海」


理由 投稿者:とむ  投稿日:08月30日(月)23時18分41秒


   「明日、山に行かないか?」
      私は何気なさを装いながら、美枝に向かってそう言った。
      美枝は唐突な申し出にちょっと戸惑いながらも、笑顔を返した。
      「急にどうしたの?」
      私を見つめ返すそのくりくりとした大きな眸が好きだった。
      私は初婚ではない。もう二度と結婚はするまいと心に決めていたのに。
      その決心が揺らいだのは美枝のその眸に出会った瞬間だった。
      美枝は短大を出て私の勤める商社に入社してきた。近頃の新人にしては
      骨のある女性だった。それは美枝のプライドの高さからきているのだ、
      と知るまでに時間はかからなかった。何事も自分が一番でなければなら
      ない。常に周囲を意識して生きるような女性だった。
      そんな部分に私は惹かれた。自分の年齢のこともあったから、若さゆえ
      にできるわがままさ、に対して羨望もあった。次第に私はその若さと高
      慢さに魅せられ、一方的に舞い上がっていってしまった。自分にはない
      ものを求めることに、年齢は関係ないと知ったのだった。
      が、今となってはそんな自分の愚かさを呪うのも馬鹿らしい。
      美枝の本性を知ったのは新婚旅行でカナダに行った時だ。結婚する前まで
      彼女はある意味素晴らしい女優だった。初々しさやいじらしさを自分の武
      器のようにして振舞った。
      手のひら返し、とはこういうことを言うのだろう。情けないことに、私は
      この歳になってはじめて知った。
      既に私の前で美枝は着飾ることも、化粧をすることさえも止めてしまった。
      それはそれで彼女の根本的な美しさに変わりはないのだが、女優業まで廃
      業してしまったらしい。それまでとは打って変わって私に対しても高圧的
      に食って掛かるようになった。
      「迎えに来て欲しいなら早めに電話してちょうだい。女はね、車で迎えに
      行くだけでも外に出るなら化粧が必要なの」
      「スープは静かに飲みなさい。みっともない」
      「そのシャツよれよれじゃないの。恥ずかしいわ」
      子供じゃないんだ!私は夫だぞ!大体シャツなんかは妻がアイロンくらい
      するのが普通じゃないか!
      そう何度か口から出掛かったが、今更この若い女房と喧嘩したくはない、
      と我慢してきた。だが───
      美枝がこっそり私に多額の保険をかけていると知った時、私はキレた。
      美枝はおそらく私の財産しか眼に入っていないのであろう。それは仕方
      がない。人間誰しも欲を持っている。それを悪いとは言わない。
      だが、私は彼女に裏切られた、という気持ちで一杯だった。
      だからだ。美枝を殺す計画を立てたのは───
      「お天気大丈夫なの?今日は結構雨が降ったけど」
      「明日は晴れるさ」
      美枝はちょっと考え込んでいた。
      そう、晴れてくれないと困る。明日やるしかないんだ。
      すでに私は「アリバイ工作」を始めているのだ。私そっくりの人間を私立
      探偵に探し出してもらい、すでに遠くの都市に飛んでもらっている。世の
      中金さえあれば不可能なことなどない。

      当日、雨は止んだがすっきりとしない空だった。
      車を路肩に止めて外に出ると、ちょっと肌寒い。
      美枝は意外とあっさりこの山歩きへの同行に同意した。
      私はどういう理由をこしらえて連れてこようかとあれこれ悩んでいたので
      拍子抜けしたくらいであった。
      運は私に向いているのかもしれない。
      「どこに行くのよ」
      「あの森さ」
      私は前方の標高が少し上がった所を指差した。緑がうっそうと茂る深い
      森がそこにあるのだ。下見に来ている私には先刻承知の場所だった。
      「さ、行くぞ」
      美枝は今来た道を眺めていた。
      「どうかしたか?」
      「いえ、ちょっと道に迷わなければいいなぁって思って」
      美枝はもう一度振り返ってそう言った。
      「大丈夫さ。任しておけ」
      そう、全てを任せてくれれば良い。
      私は美枝を先に歩かせ、森に入っていった。
      森に入ると太陽光も遮られ、少し暗くなった。
      「ちょっと怖いわ」
      美枝は心細げに声をあげた。
      私は構わず歩くように指示する。
      途中で美枝が立ち止まった。
      「何だ?」
      「あ、ちょっと靴ずれができたみたい。先に上がってて」
      私は仕方なく美枝を置いて先に進もうとした。
      あの場所はもう少し先だ。時間的にここはもう少し進んでおいたほうが
      ………ん?
      異様な気配に振り向くと、般若のような美枝の顔がすぐそこにあった。


      「で、ガイシャは?」
      刑事になりたての小島は、警察手帳をぱらぱらと開いて読み上げた。
      その前で中村警部は腕組みをしながら座っていた。
      「ズボンの後ろポケットから財布が発見され、そこに名刺が入ってました。
      数枚同じものがあったので、これがガイシャのものだと思われます。そこ
      に記されているところによると、ガイシャは佐山龍司、44歳。都内のコン
      ピュータ会社の主任技師だそうです」
      中村はすっと手を上げて、小島の話を止めた。
      「それは本人の物と確認したのかね?」
      「はい、その名刺に書かれていた会社の方に連絡し、背格好や特徴を聞いた
      のですが、ほぼ佐山で間違いなさそうです」
      「ふむ」
      中村はいぶかしんだ。
      犯人はどうして身元隠しのため財布や身の回りのものを持ち去っていかなか
      ったのか。
      中村が気にしているのはそこだった。
      何故なら───犯人は被害者の首を持ち去っているのだ!
      周辺をくまなく捜査したが、今のところ首は見つかっていない。血痕量から
      切断したと見られる場所は遺体の発見現場で間違いなかった。
      身元を隠すこと以外に犯人がガイシャの首と胴体を切断する理由は何だろうか。
      奇妙な事件だった。
      「奥さんの方はどうだ?」
      「はい、いまだ行方不明です。一緒に来ていたことは間違いないのですが」
      近くに駐車してあった車が見つかり、女性物のハンドバッグが後部座席に置
      きっぱなしになっていた。それが佐山の妻のものであると判明するまで、そう
      時間はかからなかった。
      「美枝は二十歳を過ぎたばかりで短大を卒業するとすぐに佐山と結婚したそう
      です。すごいですねぇ」
      小島が感心したような声をあげた。
      「何がだ?」
      「だって歳の差が二十二ですよ。結婚したくたって僕の給料じゃ当分無理だ
      よなぁ」
      最後は独り言のようだった。
      中村は苦笑した。無理して結婚などすることはない。そう言いたかったが、
      結婚に夢や幻想を抱いている無垢な若者に無粋なアドバイスをするほど愚か
      ではなかった。


      翌日、佐山美枝が遺体で発見された。
      佐山が殺害された森から二十キロ程離れた海と川の境目辺りで、彼女の遺体
      が浮かんでいるのを近所の学生が偶然見つけたのだった。
      中村が現場に到着すると待っていましたとばかりに小島が近寄ってきた。
      「どうだ?」
      「かなり長いこと水に浸かっていましたからね、結構損傷が激しいです」
      中村は山の方を見上げた。
      「あっちから流れてきたんだな」
      「どうやらそのようです。先日の雨でかなり水量が上がっていましたし、
      流れも急だったということです」
      「そうか」
      中村は小さく唸った。
      「事故か自殺か………」
      「いやそれがどうも………」
      小島が言いにくそうにもじもじしている。
      「どうした?」
      「美枝は佐山の首を持っていました」
      「ほぉ」
      「しかも、美枝はカヌーに乗っていたようなのです」
      中村は驚いて眼を見張った。
      「カヌー?」
      「はい。一緒にオールとカヌーの残骸が流れていましてね。そのカヌー
      の底の部分にかろうじてその佐山の首が残っていたのです」
      中村は溜め息をついた。
      「犯人は美枝だな。佐山を殺してカヌーで逃げようとしたんだろう」
      小島は肯いた。
      「ええ、ところがどっこい、思いのほか川の流れが激しくてカヌーを制御
      しきれなかった。ってところでしょうか」
      「そうだな。そっちは事故なんだろう」
      事件はこれで解決した。


      「誰だ?こいつは」
      ひょろっとした冴えない男が中村の前に立っていた。
      小島が頭を掻きながら言った。
      「はぁ、どうも遺留品が自分の物だと言って………」
      「どれだ?」
      「はい、美枝が乗っていたカヌーのオールです。正確にはパドルっていう
      んだそうですが、それが奇跡的に折れていなかったことをどこからか聞き
      つけてきたらしくて」
      「玉木といいます」
      そう言ってひょろりとした長髪の男がぺこりとお辞儀をした。
      「私が彼女にカヤックを貸しました」
      「カヤック?それとカヌーは違うのかね?」
      「ええ、カヌーは一般的に一人用のことを言うのです。カヤックは二人乗
      りなんですよ」
      中村はそんなことは初めて知った。
      「旦那さんと乗るもんだと思ってね。だから貸して欲しいと聞いてもおか
      しいとは思わなかったんですよ」
      先回りして玉木が言った。
      「彼女、というと佐山美枝のことかね?」
      「ええ、そうです。彼女はうちの大学のサークルにちょくちょく遊びにき
      ていたんですよ」
      「君は彼女とどういう関係なんだ?」
      「友人です」
      玉木はにやりと笑った。
      厭な奴だ、と中村は思った。
      「あの日、私は二人の跡をつけてカヤックを車で運んだんですよ」
      「何?」
      「ああ、もちろん彼女に頼まれたことですが、その時はただ単に川で遊ぶ
      からってことだったんだ。別に知らなかったんだから殺人幇助にはならな
      いよね?」
      中村は玉木をぎろりと睨んだ。
      「あまりしつこいとかえって疑りたくなるな、小島」
      「そうですねぇ」
      すると涼しげな様子で玉木が言った。
      「そういや首も見つかったそうですねぇ」
      既に新聞やワイドショーでその辺りの話は出ていた。センセーショナルな
      話題ほど人はつい見たがるものなのだ。
      「その理由、まだわからないんでしょ?」
      「君は知っているのか?」
      「ええ、彼女の性格を考えればね」
      「何だね?それは」
      「意識過剰ってやつですよ。彼女はいつも周囲の目を気にしてました。何に
      つけてもね。」
      玉木は得意げに語った。
      「それがどうした」
      小島がイライラとした口調で言葉を促す。
      「ああ、まだわからないんですね。はっはっは」
      玉木は声を上げて笑った。最近の若者にありがちな情緒不安定さを明らかに
      携えている。
      「彼女は知ってしまったのです。佐山があれであることを」
      「あれ、とは何だね?」
      「あれですよ、あ・れ!」
      玉木は隣にいた小島の頭を指差した。
      「はん?」
      小島が首を捻る。
      「彼女はね、騙された、と言ってましたよ。自分が愛した人がそんなみっと
      もない姿だったと知った時の彼女の顔といったら見物でしたよ。あはは」
      「じれったい奴だな」
      小島が小突こうとするのを中村が止めた。
      「では玉木さん、改めて聞きます。あなたは彼女が首を切った真の理由を
      ご存知なのですね」
      「ええ、もちろんです!だって恥ずかしいじゃないですか。あいつはずっと
      隠していたんですよ。自分がハゲだったということを!」
      中村と小島は顔を見合わせた。
      玉木は続けた。
      「あいつは彼女と出会うずっと前からかつらをつけていたんです。己のそ
      のみっともない姿をさらしたくなかったんだなぁ。彼女と結婚する時もそ
      れを黙ってた。でも彼女はひょんなことからそれを知ってしまったんだ。
      彼女は周りをすごーく気にするんだよ。詐欺だ、詐欺だって騒いでた。確
      かにね、こりゃ一種の詐欺ですよ」
      「それが理由か?」
      「そうですよ。彼女は死体が見つかってからのことを心配していた。自分が
      捕まるということよりもね。自分の主人、あ、元・主人だけどさ。そいつが
      ハゲだ、と世間に知れ渡るのが怖かったのさ」
      「それで彼女は遺体から首を切って隠そうとしたということか」
      「そう、彼女はナタでスパっとちょんぎったわけですよ。あはは」
      「あはは、じゃないだろ!」
      小島が諌めた。
      中村が立ち上がる。
      「さ、玉木さん、どうやらあなたはしゃべりすぎたようだ」
      玉木の右手に手錠が填められた。
      「へっ?」
      きょとんとした顔で中村の顔を見つめる玉木。状況が把握できていないらしい。
      「凶器がナタであることはマスコミに伏せてあったのですよ」
      中村のその言葉に、玉木は口を大きく開いたまま首をがくりとうなだらせた。
      「残念だったな。殺人幇助が君には適用されるだろう。取り調べをすればわか
      るよ。それから、小島」
      「はい」
      「もう一度回収したその…カヤックの残骸を調べろ」
      「どうしてです?」
      不思議そうに小島が問うた。
      「勘だよ。意図的に開けられた穴のようなものがなかったか調べてくれ」
      そう中村が小島に言った瞬間、前のめりの態勢のまま玉木の身体が微かに揺
      れ始めた。
      「ん?どうした?」
      小島が玉木の髪の毛をつかんで顔を上げさせようとした時だった。
      小島の手の中に玉木の髪の毛だけが残った。
      「お前……」
      玉木は涙を流して笑っていた。
      「彼女はほんと困ったお嬢さんでしたよ。あはは。全くねぇ。あはははは…」
      そう言うと、玉木は鼻水まで流しながら高らかに笑いつづけた。
      ……馬鹿げた世の中だ。
      中村は大きく溜め息をつきながら天井を見上げた。

            (了)