『テーマ館』 第24回テーマ「雪」


ソファの上の或る一幕 〜雪 投稿者:MoonCat   投稿日:01月14日(木)09時36分06秒

      「積もる話なのよ。説明している暇はないわ」
      三フィートと離れぬ所に席を置く先輩に聞かれぬように、彼女はなるべく声を殺し
      てそう言った。
      「じゃあ手紙に書いてよ」
      彼は相変わらず早口にそう言い返した。
      「長くなるもの。いつも仕事が忙しいって言ってるじゃない。そんな貴方の手を取
      る気にはならないから、駄目」
      「駄目はこっちの台詞だ。ちゃんと書いてくれるでしょ?手紙書くの、好きじゃな
      い」
      「それはそうだけど……わかったわ」
      そう答えた瞬間に、予想通りの答が返ってきたのを聞いて、彼女はくすりと笑った
      が、それが同僚に見られるやも知れない事に気付いて、すぐさま口元を手で覆う。
      彼女は最近、自分が彼らに、特に五歳年上の先輩秘書に監視されているのを知って
      いた。
      「いつ?」
      「いつって、どういう意味よ」
      「速く書いて、速く!」
      「その内書くから」
      「それじゃ駄目だ。速く、速く!」
      「何でいつもそうせっかちなの?もう慣れたけど、でもせっかちよ」
      「何でも良いさ。速く書いて」
      「馬鹿ね。貴方が電話切ってくれなきゃ書けないわよ」
      ピッと電子音がしたかと思うと、彼女のコンピューター・ディスプレイがEmailの到
      着を知らせていた。もちろん差出人は、電話の向こうにいる彼だった。受話器を肩
      と頭で挟んでマウスを動かし、メールを開けると「速く、速く、速く!」と、文字
      の上でも彼女を急かしている。
      「メールは届いた?」
      「どうやっても逃げられないってわけね」
      「当たり前じゃない」
      彼女は素早く指を動かすと、「せっかちめ」と書いて送り返した。
      「ほら、後ろから同僚が呼んでる声が聞こえるわよ。電話してくれてありがとう。
      はやく行ってちょうだい」
      「もう、うるさいなぁ……ん、返事が来たぞ。何々、せっかちめ?そんな事、大分
      前からわかってるでしょ。とにかく、手紙は今日中に書ける?」
      「今何時だと思ってるの?後三十分で終業よ」
      「明日には届くよね?」
      「やっぱり馬鹿だわ」
      「あ、いつも君は僕にそういう失礼な言葉遣いをするんだからな。駄目じゃない
      か」
      少し心外そうな声の表情だった。
      「……ごめん。でも本当。私の悩みなんて、どうして聞きたいの」
      「話せば気が楽になるからだよ」
      「楽になんてならないわ。どうして?」
      「君はいつも質問が多すぎるんだ」
      「答は尋ねなければくれないって、いつも貴方が言ってる事じゃないの」
      「答はあげるかもしれないし、あげないかもしれないよ。でも駄目で元々じゃない
      か」
      彼の口調はいつもの弾むようなそれに戻っていた。それに少し励まされたような気
      持ちになって返事をする。
      「それはそうね」
      「だから、君は僕に手紙を書くんだ。長い、長い、長い手紙をね。僕に全部話して
      くれる?」
      「一度相談し出したら、きりがないわ」
      「きりがなかったら、どうして駄目なんだい」
      「だって、頼り始めてしまうもの」
      「頼ればいいじゃないか」
      「だめよ」
      「どうして?」
      「だって……」
      「何?」
      彼女はまだ会った事すらない友人に答えながら、どうして自分が全て本当の事を正
      直に話してしまうのだろうか、と自問せずにはいられなかった。
       彼は或る日、或る時間に、或る電子回路の一点において偶然出会っただけの人物
      だった。電話と文字だけの付き合いなのでしかなかった。実際、こういった出会い
      が不幸な結末を招いて新聞の紙面を賑わしている事も既に何度も目にしていた。
       しかし、何かが彼女に強い確信を与えていた。彼を信じてもいいのだと。彼に何を
      語っても良いのだ、と。彼が自分を傷つける事は、決してないのだ、と。
       そして、心の内は素直な流れになって、唇から滑り出す。
      「だって、いつまでも、いつでも貴方が私の話を聞いてくれるなんて、保証はどこ
      にもないわ。だから私は、独りで立って、考えて、悩んで、生きて行かなければな
      らないのよ。貴方に頼ってもいいのなら、頼りたい。話を聞いてほしいと思うわ。
      でも、それが出来るという保証は、悪いけれどどこにもないのよ」
      そう言ってしまった後で、やはり自分の心の底に「怒るだろうか」という懸念が根
      を下ろしているのに気がついた。そしてそれによって、既に自分が相手を頼ってい
      るのだ、という事実にも。
      「僕はいつでもここにいるよ。いつでも。いつまでも。君が話したい時は、いつで
      も耳を貸してあげる」
      歳の離れた妹を諭すような声が聞こえてきた。
      「大した事は言ってあげられないだろう。僕の意見以外は、言ってあげる事もない
      しね。でも、それでいいなら、いつでも僕に手紙を書いてくれればいい。電話をく
      れてもいいんだ」
      彼女は返す言葉を知らなかった。
      「これは約束だよ。君が僕を必要とする限り、僕はいつでもここにいる」
      「―――うん」
      「手紙、書いてくれるね?」
      「うん、書く」
      「良かった。待ってるから」
      「うん、ありがとう」
      「じゃ、本当に行かなくちゃ。アルゼンチンのサーバーがトラブルみたいなんだ
      よ。まったくもう…」
      「うん」
      「また明日」
      目に見えぬ彼の顔から受話器が遠ざかる気配が感じられた時、彼女は突如として自
      分が大切な事を言い忘れているのに気がついた。
      「あ、ちょっと待って!」
      かなり大きな声でそう言ってしまってから同僚の事を思い出したが、彼女に彼らの
      思惑を心配する気持ちは滅えていた。この瞬間にこれを言わなければ、二度とその
      機会は訪れないような気がしたのだ。
      「何?」
      「うん」
      「うん?」
      「―――ありがとう、ローレンス」
      可能な限りその想いが伝わるようにと願いながら、ゆっくりとそう言った。
      「ははは、どうして君はいつも僕の名前をフルで呼ぶの?みんなラリーって呼ぶの
      にさ」
      「なんとなく。でも、わかるでしょ?」
      「……うん、わかる」
      彼は一呼吸おくと、唐突に言った。
      「あ、雪が降ってきた」
      「本当?」
      「窓の外に、ほら、ちらちら落ちてきたよ。見てごらん」
      「馬鹿ね」
      「あ、また言った」
      「ごめん。でもミュンヘンとロンドンじゃ、同じ雪は降らないわ」
      「本当さ、君の所でも降ってるよ。窓の外を見てごらん」
      真面目な声音でそう言われて、彼女は首を回して窓を見つめた。
      「降ってる?」
      冷たいガラスの外には、おもちゃのような町が広がっている。そして、その風景は
      白いヴェールに薄らと霞んでいた。
      「うん、降ってる…信じられない……」
      「だから行ったじゃないか。兄貴の言う事は聞くもんだよ」
      自慢気にそう言ったローレンスが可笑しかった。
      「ふふ、そうね」
      「笑った!」
      電話の向こう側で、彼が飛び上がっている気配があった。彼女はそれが気のせいで
      はない、と何故か知っていた。彼は、本当に飛び上がって、彼女が笑ったのを喜ん
      でいるのだ。
      「そうよ、笑ってるわ。白い粉雪が綺麗。ローレンスと同じ雪を見てるのね、きっ
      と」
      彼の陽気な喜びにつられ、彼女の顔に浮かんだ微笑が大きくなった。
      「笑った、笑った!僕はそれが聞きたかったから電話したんだよ」
      「ありがとう」
      「どういたしまして」
      コピーをとりに席を立った先輩が隣を通りかかったので、彼女は声を再び低くし
      た。頭の上に彼女の視線が矢の様に降注いでくるのが感じられた。
      「切るって言ったのに、随分長くなったわね」
      「いつもの事さ。でも、もう本当に行くよ」
      いつまでも話していたい、と思ったが、それはかなわぬ事だった。
      「うん。エルカによろしくね」
      「そう伝えるよ。彼女、今夜は僕の好きなデザートを作って待ってるって」
      「のろけはいいわよ、馬鹿」
      今度はローレンスも彼女の言葉遣いを注意せずに、ただ嬉しそうに笑っていた。
      「元気になった?」
      「大分」
      「またね」
      「バイ」
      ようやく受話器から解放された彼女の耳に、オフィスの雑音が飛び込んできたが、
      窓の外にはやはり白い粉雪が舞っていた。

      彼女は複雑な表情で緑色の表紙で出来た日記帳を閉じると、それをコーヒーテーブ
      ルの上に放り出すと、その端に置かれていた灰皿に目を移した。火をつけられたま
      ま放置しておかれた煙草は、既に燃え尽きていた。いつか火葬場で見た骨を思い出
      させるような一本の長い灰が、青い灰皿の底に横たわっているのを横目に、彼女は
      黒い箱から新しく煙草を一本引き抜いた。それに火をつけると、無造作に立ち上が
      る。彼女の背後には、どのくらい座っていたか知れぬソファのクッションが、く
      しゃりと息絶えて転がっていた。
       暖炉の前まで行くと、彼女は綺麗に磨かれた木の床に膝をついて暖炉を覗き込ん
      だ。オレンジ色に輝く石炭の上では、大きすぎた薪が燃え切れずに炭と化してい
      た。真っ黒なそれの上を覆うのは、雪のように白い灰だった。それは熱を失い、ほ
      ろほろとはかない様子で木炭を包み込んでいる。彼女が白い煙をそっと吹いただけ
      で、灰はあっけなく石炭の上へと舞い落ちた。
      「いつでも、いつまでもって、言ったくせに」
      彼女は独りごちたが、それが彼への恨み言でない事は、自分でも良くわかってい
      た。それは一度も会う事のなかった、大事な友人を奪ってしまった何かの流れへの
      恨み言だった。