第56回テーマ館「星」



お菊と播磨6 GO [2005/01/26 23:33:19]


10
 菊は一種独特の法悦にも似た覚悟のほどを示す微笑を開いたので、播磨の心は激しく揺
すぶられた。
「播磨様、菊は実家に帰るのは嫌でございます。親兄弟もない菊に村人が寄り付くはずも
なく、あとは遊女に身をやつすしかございません。どうぞ菊をあの世までお連れください
ませ」と言って、涙に濡れた菊の目は恍惚感にも似て、むしろ播磨の愛を疑った拝領の李
朝十枚皿の一枚を割った衝撃的な出来事を進んで受けようとする切実な眼差しに、播磨は
内面に舞う桜吹雪にうながされて、頭が洗われたようにはっきりと悟った。やっと神秘の
世界に踏み込んでゆける菊と己の愛の姿を夢のように見つめることができたのである。

「菊、降り注ぐ桜を見よ。われらは、あの散りゆく桜の花びらかもしれぬ。菊が疑うた十
枚目の皿は菊と播磨との愛の絆であったのかもしれぬ。もはや李朝十枚皿など冥土におい
ては無用なものだぞ」と全身にひろがる苦痛の波が喉にからまって、湿ったような声にな
った。
「菊は青山家で死ねることが嬉しゅうございます。親兄弟もないあばら家で死ぬことなど
考えたこともございません」と言った。その菊の苦しみと憐れみが播磨の心を満たした。

「わかっている。親兄弟もない実家などに帰すようなことはせぬぞ」と播磨も愛しい菊の
肩を抱き寄せ、限りない愛の意識だけを心に留めて、眺める桜の花びらに涙をみなぎらせ
た。
「これで菊は李朝十枚皿の一枚を割って、月姫様を排除できました。やっと青山家の女に
なれました。あとはこの身を棄てても、菊の育ったあばら家を卑しめた村人への恨みだけ
でございます。死した後はあの井戸で怨霊にとなり、割ったお皿を十枚まで誇らしく数え
て、世の人々を呪うてやりとうございます」と菊の濡れた唇に浮かんだ微笑が何か深い意
味を帯びて輝いたのに播磨は気づいた。

「菊はそれほどまでに青山家の女になりたかったのか?」と播磨は抱き締めた菊の肩から
手を離して、意外な菊の意図を再確認するように見つめ直した。それは菊の声とわからぬ
ほどに奇妙に響いた。
「はい。菊は李朝十枚皿の一枚を割って、村人たちに月姫様に勝てたことを知らしてやり
たいのでございます。この命が奪われても、村人への屈辱と怨念を奪うことはできませ
ん」と菊の意外な言葉が播磨の胸に突き刺さった。

「菊が皿を割ったのは月姫様に勝つためと村人への仕返しであったのか?」と播磨は菊に
寄せる愛情がさっと消えた。「そのような魂胆を持って青山家に奉公に上がったとは露知
らぬことであったぞ」と恐ろしい疑いの炎に身を焼かれる己の心中で、いくら打ち消して
消えぬ野火のような憎悪がひろがった。

 拝領した李朝十枚皿を砕いたことで切腹は免れ難いことは覚悟の上のことであり、死に
よって目に見える息のように愛の蒸気が立ち昇るのを見ようとしたが、息苦しく猛々しい
までの荒い息遣いが漏れるばかりであった。播磨は偽りの愛の淵に投げ込まれたのであ
る。
「菊よ、そなたは女菩薩の仮面をかぶって、この播磨をたぶらかしたのであろう?」と口
にしたが、その言葉は次々に塵になり、喉は粉のように乾いていた。

「菊は親兄弟もない貧しい村娘にございます。いまや月姫様を破ったあとに残されている
のは村人から受けた数々の屈辱と怨念だけでございます。さらに死の後も永遠の水を戴い
て怨霊となり、李朝十枚皿を数えますれば、世の人々は悲劇の菊として同情を集めましょ
う」と菊は落ち着き払って、自らの決意を披瀝した。「しかしながら、播磨様をお慕い申
し上げている菊の心に決して嘘偽りはございません」

「黙れ! 菊との情愛の一切は終わったのだ!」と播磨は菊の最後の言葉に固執しながら
も、衝撃で肌が泡立ち、宵の庭が揺れ、桜の花びらが無数の影となって絶えず心を狂気
へと駆り立てる凄惨な乱舞のように映った。
 播磨は菊に誠実で厳粛な約束をしたあの飾磨の浜辺を想い出しながらも、乱れた心は鎮
まらず、慈しんだ菊との愛がどんどん遠ざかって、突如黒雲が湧き上がったように足が竦
んだ。何食わぬ顔で愛憐を示した菊の心に播磨は裏切られた思いがしたのである。

「ああ、思えばこの播磨は何と愚かな情愛に溺れたことであろうか……」と呟く播磨は、
募る菊への妄執を濃くして、奔流のような怒りの衝動に思わず荒げた声が迸り出た。「よ
し、菊の望みどおりに成敗してくれる。まこと村人への屈辱を晴らすために皿をあの井戸
で数え、世の人々の同情を乞うてみよ」と播磨は深奥部から発する激しい声を沸きあがら
せた。

 播磨は腕を伸ばして菊の襟首を掴むと、はだけた裾の乱れから両脚がばたばたと白く抵
抗するのも構わずに縁側まで引きずり出した。その播磨の面相は苦痛と怒りと屈辱に歪ん
でいた。降り注ぐ桜の花びらのほかは満月の光に照らされた静寂の中に、これまで菊を愛
しんだ六年間の生涯が、じつは己の妄想であったことをいま初めて気づかされて、燃え盛
る炎を抑えることができずに、本能の奥底で生じる、鎮めようもない錯乱状態の中にいる
ことだけはわかった。

「菊、庭に出よ!」と播磨は想像もつかぬ激しい、獰猛な身震いにも似た異常な声で叫ん
だ。
 菊は進んで月の光の波の中に柔らかな桜の花びらの積もった庭の土に素足を沈め、静か
に桜の樹の下に跪くと、その姿を播磨は己が別人に変貌したかのような狂気の目で見据え
た。

 播磨は刀を抜き、鞘を投げた。そのとき一陣の疾風が桜の花びらを舞い上がらせ、つい
先ほどまで抱いていた愛しい菊を慈しんだ幻想や感動をすべて奪い去るように、黒い花び
らとなって播磨の意識を覆った。それでも冥界との境に降り注ぐ花びらに跪く幻想的な菊
を見て、あまりにも拝領した李朝十枚皿が小さな取るに足らぬ些細なものに映り、むしろ
池田輝政への敵意を激しく定着させた。

 菊は播磨に背を向けて息を詰め、女郎と虐げ、卑しめられた残酷責め苦に対してさえも
一語も反駁せず、静かに手を合わせて瞑目した姿は感傷的であり、また感動的でもあっ
た。唇に微笑を含んだ菊の容貌がこのときほど後光をいただいているかのような高貴な女
菩薩のように神秘的な半透明感に見えたほど、苦悩も、悲惨も、根源的な醜さまでも棄て
去ったこの世のものとは思えないほどの優美さであった。それでも情愛だけが残っている
かのように風に舞う桜の花びらの二、三片が菊の髪についた。

 播磨は菊の情愛のこもった姿を、しばらく見つめてから、初めて相矛盾した菊の姿に平
静を失い、ほんとうに菊は播磨との情愛を抱いて、ともに冥土に憧れているのであろう
か。播磨は暗い追憶をさまよった。あの六年前に飾磨の浜辺で語った揺るぎない言葉の脆
さが虚しく響くばかりで、その響く李朝十枚皿を割ることで自らの回想に愛の結実を望ん
でいるかのようにも思えた。播磨は菊を愛しんで逡巡し、愛執を断つ間のしばらくを惑わ
せた。もしや情愛が偽りなき真実のものであったとしたら?

 それでも黒く濁った耐え難い怒りの固執観念は消えず、播磨は過去のあらゆる光景と縺
れ合って朦朧と白刃を振り下ろしていた。
 菊は身を弓なりに両手を伸ばして、満月を抱くかのように実を反らせた。振り下ろした
斬り筋が菊の肩を浅く走ったのだ。菊はよろよろと立ち上がり、力なくよろめいて庭隅の
井戸らに向かって血の糸を引いた。

 二の太刀を浴びせようとした瞬間、菊は井戸の釣瓶につかまって握った拍子に、滑車が
轟然と激しく回って、菊の身体は井戸の闇に吸い込まれて消え、逆に満たされた桶の水が
駆け上がってきて、満月に染まった黄金の水が菊の魂を開花させたかのように、容易にそ
れが現実のものであるとは思えぬほど霊妙な輝きを放って周囲に撒き散らした。

 愕然とした左衛門は言葉を失い、縁側を行きつ戻りつしながら、月姫様を娶らば青山家
は池田家の縁戚になると踏んでいただけに、まるで死神を招いたかのような降って湧いた
凶変に、周囲の景色が急速に色褪せてゆくのを眺めるばかりであった。
「播磨よ、腹を召してはならぬ!」と自分の身の弱さを吐露するように伸ばした手の指が
月の光に散った。「菊が皿を割ったので成敗したと殿にお伝え申そう。その上で父が皺腹
を斬ればすむ。そちだけは犬死するでない」と訴える左衛門の声は涙に変わっていた。

「菊を罪人に仕立ててこの世に留まる気など毛頭ござりませぬ」と、すでに播磨は腹を決
めている模様で、残酷な嘲笑が左衛門を愚弄するように喜悦を滲ませた。その心底には唯
一の愛と信じていた愛しい菊が絡みついていた。目に映る桜吹雪までが深い嘆きとなって
揺れ動いた。

「菊は決してそちへの情愛を失うてはおらなんだぞ。そちが月姫様を娶るとなれば、菊の
心も穏やかではなかったはずじゃ。それゆうこの世に留まって、菊の菩提を弔うてはどう
じゃ。たとえ青山家が格下げになろうとも存続はできる。のう、そうせい」と稀に見る素
質と麗しさに恵まれた菊を剣しか知らぬ一途な播磨には重すぎたことを左衛門は絶望の面
持ちで愁いた。

「父上、播磨ひとりが九界の迷情に身を焦がして生きようとは思いませぬ。恨みに思うの
は主君池田輝政公にござります。播磨はあの李朝十枚皿によって身を滅ぼしたのでござり
ます」と染み入る左衛門の言葉を振り払うように首を振り、険しい形相になって、「しか
しながら、この李朝十枚皿とて所詮はこの世のこと。もし菊がかの世から播磨を愛しんで
くれていたならば本望にござります」と呟いた。

 この夜ほど甘美さと悲愴感に満ちた夜はなかった。死して魂が残るものならば、恨みも
未練も残るであろうか。それとも桜の花びらのように、安らぎと、忘却と、優しさに満ち
て、限りなき美しきものを魂に及ぼしてくれるであろうか。……
「父上、播磨は無念を抱いて、かの世に旅立ちまする」と、なお漂う菊への愛を呼び戻そ
うとするかのように暗鬱な想念に身を捻らせながら、苦しい息の下から悔恨と苛責の念を
込めて叫んだ。

 お家大事とばかりに播磨を、また菊を諌めることもなかった左衛門の心は己が思量のな
さに返す言葉もなく、改めて播磨に、そして菊に、熱い涙を流した。「播磨よ、許せ!」
 播磨は笑みを刷いて袖をちぎり、刃の切っ先に巻いて、自らの腹に突き刺し、凄愴の形
相で一気に横へ引いて、その切っ先を首筋に刺し込んだ。その姿を左衛門は見るに忍び
ず、目から盛り上がった涙に揺らめいて、春の宵の気を霞のようにぼやけさせた。

 播磨は前の日に見た菊の幻影を喚起させるように、しばらくその笑顔に身をゆだねた。
もし何事もなければ、宵闇に舞う落下こそ心に沁みる優雅な庭の風情はなかったであろ
う。ああ、菊!
 播磨は菊の鮮明な姿が脳裏をよぎるままに、高い、だが声にならない叫びを迸らせて、
手負うた獣が放つ咆哮のごとく刃を斬り下げたると、花の散る一場の夢のように血煙がぱ
っと満月を赤く染め上げた。

 その夜、姫路城をかすめるようにして、二つの星がそれぞれの方向にきらめく尾となっ
て流れて消えた。

11
 菊は町娘であったから、死しても播磨と同じ墓に葬られることはなかった。それは青山
左衛門にとって名状し難い悲しみではあった。さらに、あの李朝十枚皿を賜ったときから
池田輝政との約束を誠実に厳粛に誓わされた李朝十枚皿を割った以上は、たとえ重過ぎる
罪とはいえ甘んじて受けるしかなかった。拝領の李朝十枚皿は菊が誤って割ったことで、
それを播磨が切腹して詫びたことで、青山左衛門は追放処分になることだけは避けられた
ものの、禄高を失い、三回忌が過ぎても誰ひとり訪ねてくるものはなかった。

 左衛門は沈んだ空気の中に身を置いて黙然と虚脱感の三年間を武士と極貧の村娘という
身分の違いを矛盾した思いにとらわれては喪に沈んで生きてきたのである。あらゆる男女
の関係において、ときとして激しい愛情でもってふたりを結びつける決定的な瞬間がある
ものである。菊と播磨がまさにそうであった。それは相互の共感といったいわく言い難い
前世からの約束ごとのようでもあり、まるでふたりは死ぬために生まれてきたかのようで
もあった。これは起こるべくして起こった熱情であり、李朝十枚皿を賜ったことによって
決定的瞬間へ向けて収斂さていたのかも知れない。それが菊と播磨だったのだろう。

「今年も見事な桜じゃ」と盃をあおると、左衛門はふらふらと立ち上がり、障子を大きく
開けて、静かに降り注ぐ桜の花びらを見つめては、左衛門の心に播磨と菊を失って以来、
一時も心の安らぎもなく、いまだに絶望し、孤独のままであった。

 いつの間にか塀の外に祠が出来、菊を憐れんでお菊明神という神名が町衆の間でつい
た。戌の刻を過ぎると、菊の皿を数える声が聞こえると取沙汰されたが、左衛門は別段気
にもしなかった。拝領した十枚皿は朝鮮を攻めて奪い取ったもので、災いこそあれ、決し
て福運など呼ぶ皿ではあるはずがなかった。あの李朝十枚皿に翻弄された播磨も哀れであ
り、菊も哀れであった。まさに李朝十枚皿こそ欺瞞の元凶そのものであったからだ。
 そう言い聞かす左衛門は桜が咲くたびに心慰むような夢とに誘われて播磨と菊を思い出
すのである。

 そのとき約束どおり、今宵も菊の皿を数える澄んだ声音が左衛門の耳に聞こえてきた。
一枚、二枚、三枚、四枚……。声音は桜の散る中で高くなり低くなり、またゆるやかに変
化して、桜吹雪に合わせるように激しくなり、優しくなった。
 それは成仏できぬ魂を抱いた十枚目の皿を数える菊の声音であったが、三回忌を迎えて
左衛門の耳にした閃きは、生前よりも激しく播磨を求めて恋い慕う菊の熱愛の声に全身が
揺り動かされたのである。

 左衛門は降り注ぐ桜の芳香の向こうに月の光に揺らめいく菊の一種悲愴な、だが慈愛に
満ちた優美な姿が銀色の霞の形をなして古井戸の上に漂っているのを夢見心地で眺め、あ
の生前の菊を生み出し、呼び覚ましたのである。「菊は播磨様にお逢いしとうございま
す」
「菊! そなたは播磨を……」と激しい感情とともに衝動の命ずるままら手を伸ばした左
衛門は思わずよろけて足を踏み外し、縁先から庭に落ちて転がった。

 菊はすうっーと宙を寄ってきて清純無垢の妙なる声を波のように放った。そして霞とな
って消えるまでの数刻を、菊は左衛門の背中に白装束を模したかのような優雅な桜の花び
らが散って身を包んでゆくのを憐憫の情をたたえて眺めていた。奇しくも播磨と菊が死ん
だあの時刻と同じ三回忌の桜の降り注ぐ荘厳な満月の夜のことであった。

                   ж

 青山左衛門が死んでからは、青山家は朽ち果てて、人魂が浮遊する廃墟と化し、荒れる
にまかせた狐狸の棲みかとなった。干し上がった井戸は落葉と土に埋まって、夜な夜なお
菊の皿を数える声は町衆の耳に響き、ときに失われた播磨への激しい焦燥感と渇望を披瀝
するように悲しみとも絶望とも思える声が、宵闇に響いた。池田家の家臣までが気味悪い
青山家を避けて遠回りしたほどである。

 お菊の皿を数える噂と相俟って城普請に影響を及ぼすことを危惧した池田輝政は、早
速、青山一族を姫路城の遥か西に位置する書写山円教寺に葬り、懇ろに菩提を弔うことで
人心の動揺を鎮めた。
 一方、町衆はお菊のさまよえる魂を鎮めるために打ち捨てられたままの青山家の無残な
跡地にお菊神社を建立したいと願い出た。

 やがて桜の咲く時分になって許可が下りると、いかなる不思議か、あの皿を数えるお菊
の声がぴたりと止み、浚った井戸から清水が噴出すという奇瑞までが起こった。その噴出
す水を飲んだ病人の病が癒えるという超自然的な神秘の一片を垣間見せたところから、青
山播磨とお菊は冥土において固く結ばれたのであろうと町衆は鎮魂のあとに浮かぶおぼろ
げな意識の中で漠然と感じた。

 爾来、病気平癒と良縁成就のお菊神社として推測のなされるままに人々は李朝十枚皿を
割ったお菊に寄せる悲恋物語を次々につけ加えずにはおれなかった。
 今年も二本の桜が咲く時分になると人々は夫婦桜と呼んで尊び、青山播磨とお菊の伝承
を重ね合わせて思慕するように降りしきる桜の花びらを見上げるのである。

完

戻る