第56回テーマ館「星」



星の海 206 [2005/02/22 22:40:25]


目を閉じ、開く。
ゆっくりと沈下していく体はもう力を入れる事すら出来なくない。
両手足の腱は切られ、麻縄で縛られた上に、重し代わりのバーベルが幾つも固定されて
いた。
不思議とその重さは感じなかったが、水中へと引きずり込む力には抗う事を許さぬ何か
があった。
再び目を閉じ、開く。
遥か上の水面には揺ら揺らと波に揺られながらもこうこうと輝る街の明かりが見えた。
その光は海中を漂う塵や微生物の市外に反射し、きらきらと輝き、その光景はまるで星
空のようであった。
その星空の中を男はゆっくりと、確実に沈んでいく。

呼吸など遠に止まっている。
ただ微かに残っている意識だけが、私と言う存在がまだこの世に縛られているのだと、
辛うじて認識させていた。
それもじき、終わる。
この思考もやがてはとまり、海底の奥深くに沈んだ私の体は水圧に押し潰されて、骨と
皮の塊になってしまうだろう。
本当はこのような最後など望んではいなかった。
しかし、もうどうしようもなかったのだ。
私はあれを知りすぎ、あの方は私をもう必要としていなかった。
故に私の死はある意味必要だったのかもしれない。
僅かばかり体内に残されていた酸素も薄れ、私の意識は急速に遠のいていく。

三度、目を閉じ、開く。
視界に移るのは最早、真っ黒い闇とその中に点在する小さな星の瞬き。
「ああ、なんて綺麗な星の海だろうか」
そう呟かれた男の声も、肺と気道が水で満たされていた為に音にすらならず、ただ死の
瀬戸際になって流した男の涙だけが海水との比重により束の間蜃気楼のように歪んで、
薄れるように消えていった。
その様子さえも、もう男の目には映ることはなった。
人間だった人型の肉塊は光の届かない深海へと飲み込まれて消えて行く。
ギチギチと音を立てて潰されながら。

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