第45回テーマ館「時を止めて」



熊が消えた! 夢水龍乃空 [2002/06/24 11:18:09]


 「簡単な方法があるじゃない」
「え、あるんですか?」
 大塚ゼミM1ルームには、住人の中沼と荻窪の他に、渡良瀬ゼミの院生角方とゼミ生が数人、
集まっている。堀本と私まで詰め込まれて、部屋は狭苦しい。
「木下くんたちが玄関に差し掛かった頃、熊ちゃんはきみらに流れる時間を止めたのさ。固まっ
てるきみらを横目で見ながら、熊ちゃんは悠々とご出勤。無理ある?」
「今井さん、それは無理っていうよりは、その…」
 角方が、馬鹿も休み休み言えと言いたげな顔で言った。
「他に何かある?」
「いや、思い付かないんだけどさ。テレポーテーション?」
「おお、お見事」
「う、うう…」
「超自然的な力を認めないなら、この密室を解決する手段は一つしかない」
 この時の一同の驚き、思わずにんまりしたくなるのを抑えるのがやっとだった。
*
*
 二時からだった渡良瀬教授との打ち合わせに、熊田は現れなかった。ゼミ生は卒論が始まって
いないが、院生は研究が続いているのだ。当然、渡良瀬は激怒し、角方に緊急召集令を発した。
角方のコールに熊田は反応せず、こりゃ寝てるというわけで木下、大黒、浜本の三人が特攻隊と
して熊田のアパートへ向かった。
 歩いても五分ほどの目的地へ、彼らは急いだ。一人暮らしのそのアパートは、渡良瀬ゼミ生に
とっては第二のゼミ室のようなもので、場所は心得ている。住宅の隙間から角部屋の熊田の部屋
が見えた時、大黒は窓に蠢く熊田の姿を見た。やはり、彼は寝坊していたのだ。
 ぐるりと回って正面出入り口へ。階段を駆け上がると二階左翼のどん詰まりへ向かった。玄関
を激しくノックし、チャイムをガンガン鳴らす。近所迷惑な行為にも関わらず、熊田は返事一つ
しない。木下がドアノブをひねると、それはあっさりと開いた。躊躇なく踏み込む。出かけるな
ら鍵くらい掛けるだろう。当然熊田は中にいると思っていた。
 部屋は、完全に無人だった。居間と寝室にある二ヶ所の窓は三日月錠が留め具にはまり、トイ
レにも浴室にも熊田はいなかった。
 ゼミ生たちが家捜しすると、家の鍵らしきものが見当たらない。カバンもない。妙だ、と三人
は思った。妙といえば、さっきまで寝ていたはずのベッドの上には、四隅に変な金具の付いた6
0センチ四方くらいの板が転がっていることもあった。
 釈然としないまま、ドアの鍵は放置して三人はゼミ室に戻った。そして、ずっと部屋にいた角
方から、熊田ならとっくに来て打ち合わせに行ったという話を聞くに及び、頭が混乱してしまっ
た。
*
*
「玄関からは、正面にしかアクセスしないし、そこは事実上きみらがいた場所だから通れない。
でも窓のクレセント錠なら、糸のトリックで外から掛けられるから問題ない。そこで、窓の下に
壁なんかあればそこに飛び移ってもいいね?」
「乗れればいいですけど、50センチくらい離れてますし、1メートルは下ですよ」
「彼の運動神経では無理、と言いたいのね。じゃあ地面まで降りたとしたら?」
「いやあ、狭いですし、色々出っ張ってますから、怪我しますよ」
 浜本が私の問いに答える。よく見ているものだ。
「角方くん、熊ちゃんは怪我してた?」
「いや、普通だったと思います」
「壁を乗り越えるのは?」
 再び浜本に問う。
「一階の窓を隠すくらいの高さですから」
「彼の身長では無理だと言いたい。まさか壁向こうの他人の家に飛び降りたわけでもないだろう
し。
 最後に、きみらは熊さん家の寝室をじっくり眺めたことある?」
 いやあ、とかいう声を交わしながら互いの顔を見ている。しないだろうなそりゃ。だとすれ
ば、やはりそうなのだろう。
「じゃ、本当に一つしかないんだね」
*
読者への挑戦 ― この謎が解けるだろうか?
*
「一階の人はかわいそうだね。折角窓があっても、壁で昼寝する野良猫を見るくらいしかできな
い。裏に家があるから、日も差さなそうだし」
 人をじらすのはなかなかに楽しい。やりすぎると問題だろうが。
「簡単なことさ。壁を伝っていくことはできるわけじゃない。ならそうすればいい、というかこ
の場合はそれしかないよ。熊ちゃんは、壁に飛び移ったんだ」
 無理無理、と全員の顔が言っている。熊田はそれほどに信頼されている、という表現こそが無
理か。
「壁の上にピンポイントで、と思うからいけない。壁がもっと広ければ? 足場があればいいじ
ゃない。60センチ四方くらいのさ」
 勘がいいと、ピンと来るようで、中沼と荻窪には感動の瞬間が訪れたらしい。角方はアイディ
アを整理中か。
「壁は一階の窓を隠すんだよね? その窓枠と壁の間に板を載せて、それを台にしたんだろう
さ。落ちないように金具まで付いてたんでしょ? 糸のセットは簡単じゃないけど、そんなの最
初からやってあったんだ。だから寝室をできるだけ人に見せたくなかった。前々から考えてたん
だろうね。今日は急いでた以上に、一度やってみたかったというのが本音じゃないかな」
 この先は説明されるまでもないだろう。熊田は出る準備をして、寝室の窓から出ていった。あ
らかじめ板をセットしておき、その上に降り立つ。やはりセットしておいた糸を操って窓を閉
め、鍵まで掛けて、彼は一目散にゼミ室を目指したのだ。
「きみらが思ったように、出かけるなら鍵くらい掛けるさ。玄関は帰ってきた時に掛け忘れたん
だろうね。出かける時はちゃんと、鍵は掛けたんだから」
 打ち合わせを終えた熊田をひっつかまえて、角方たちは私の推理を話したそうだ。散々絞られ
た上に課題の山を押し付けられた熊田は、げんなりした声で一言「その通りです」と告げると、
奥へ引っ込んで寝てしまったという。

― 完

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