第39回テーマ館「(僕の)街」



いずれにしても、この街で いー・あーる [2001/04/28 00:17:20]


 そして雨はまた、三日三晩降り続いた。

 三日の後の宵、ぼくは久しぶりに屋根の上に登り、結わえてあった舟の綱を解いた。
 牛乳を買ってきてね、と、かあさんが言った。
 かなり遅くなると思うよ、とぼくが言うと、それは構わないわ、
夕ご飯には使わないから、
と、かあさんは答えた。
 夕ご飯は、昨日の残りの缶詰のシチュー。そして乾いたパン。

 棹で一度屋根を突ついて、漕ぎ出す。
 家の窓から、蛍火のような頼りない光が漏れていた。
 淡く、時折かげろうように濁る水の中で、やはりその光は青がかって見えた。

 棹で、もう一度水の中を突いた。
 視界の斜め上に、つうと細い糸月が上がった。
 水面に映る月は、絶え間無くいびつに歪んでいた。

 しばらくの間、水面の灯りは糸月と、ぼくの舟の上に置いた灯玉だけだったけれども、
街の中心に近づくにつれて、水の中から水面の外へと、零れた光が漂うのが見えた。
 棹で突くたびに、こつん、と小さな手応えが返ってきた。
 ぼんやりとした光の中に、影のように浮き上がる、小さな家の並び。
 もう光が宿ることは無い、家のひとつひとつ。

 ゆっくりとそれでも光は上昇する。水面下と水面上を繋ぐように光を放つ
杭のところで、ぼくはゆっくりと舟を止めて、もやい綱を結んだ。

 ポケットから灯玉を出し、ゆっくりと、浮島に足を乗せる。
 浮島の上の、やはりどこか頼りない電光看板。
 一つだけ残った、コンビニで、ぼくは牛乳とパンを籠に入れ、
しばらく考えてからインスタントのコーヒーの瓶を一つ追加した。
 静かな顔の店員は、ありがとうございます、と、丁寧に頭を下げた。

 店の中で、雑誌を立ち読みしている青年がいた。
 肩の線のあたりに見覚えがあると思ったら、この前の雨の翌日に、
灯玉を買いに来ていた人だった。
 それで思い出して、もう一度店の中を見まわして、灯玉を一つ買った。
 六色ある色のうち、どれを買おうか迷ったけれども、今日は緑の玉を買った。

 舟に乗り、もやい綱を解いて、棹で一度浮島を突いて。
 ぼくは、家とは反対方向に進み出した。

 月は、いつのまにか低く傾いていた。
 歪んだ、細い笑みのように。

 街の中心からは、それでもまだ灯りが柔らかく漂ってくる。
 先程の青年もまた、ここに残る一人だったのだろうが。

 ゆっくりと棹を動かして、浮島から少しだけ右のほうに向う。
 五分もすると、ゆっくりとした流れに突き当たる。
 ぼくは棹を引き上げて、そのままゆっくりと進んでゆく。

 この流れが向う場所を、ぼくは良く知っている。
 この街がこうやって水面下に没する前に、ぼくが好きだった場所。

  世界の水没は、とても静かに始まった。

  ある日、降り出した雨は、三日三晩続いた。
  たいした雨ではなかった筈なのに、水は何故か三日分溜まった。

  そして、曇りの空の下、水は一向に引かなかった。

  どうして、と、皆が問うた。どうして、と、皆が騒いだ。
  答えは、無い。

  水は流れない。
  水は消えない。
  水は濾過されない。
  棹をさすたびに、うすく濁った水が深いところからゆらりと浮き上がってくる。

 時折ぼくは、思うのだ。
 この水は、ぼくらの夢なのではないかと。
 夢が水になって、この街を取り込んでしまったのではないかと。
 ああやって水の中に没した人達は、実は夢に取り込まれていて、夢の中でゆらゆらと
まどろんでいるのではないかと。

 水になってしまった夢に浮かびながら、ぼくはいつもの場所まで流れてゆく。
 それ以上先にゆけば、棹の届くところに屋根が無くなる、ほんの少し手前まで。

 ぼくの、一番好きな場所。
 ぼくの、一番大事な場所。

  ……たったひとりのゆうじんのねむるばしょ。

 ポケットの中に入れていた緑の灯玉を、ぼくは水の中に投げ入れた。
 哀しいように頼りない淡い緑の光は、目の中にうっすらと残像を残しながら、
暗い水の中を、確かに遠ざかっていった。

 そしてまたぼくは、棹をとった。
 流れに逆らって、棹をさして。
 牛乳とパンとインスタントのコーヒーと一緒に。

 ゆらゆらと水面に没する月の最後の光が、ほんのりと緑に染まって見えた。
 夢の中に、みどりいろの月が届いてほしいな、と、ふと思った。
 片耳を、掠めるように微かに。

  ねむってしまいたい?
  しずかに?

  みずのなか みずのうえ
  どちらにしろしずかな この街で?

 夢の水に棹をさして、ぼくは家へと向った。
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