第48回テーマ館「腕時計」



彼女の腕時計
 投稿日 2003年3月28日(金)13時46分 投稿者 夢水龍乃空   


 最近、彼女が持っている時計が気になる。腕にしているミッキーと
ミニーのキャラクタものではない、もっと渋い方の時計だ。いや、厳
密には彼女が気になるが故にその特徴的な腕時計が気になるのだが、
あまり細かいことを言い過ぎると女の子には嫌われるという経験則に
則り、この辺にしておく。
 長いひもで首に下げている携帯電話と、同じひもに結ばれたいくつ
かのアクセサリ。その中で異彩を放つのが、いやに古めかしい見るか
らに男物の腕時計だ。古いと感じるのは、飾り気のない本体の光沢が
霞み、革のベルトはすぐにでも切れそうなほどすり切れているためだ。
一番短くなるところでバックルに留めてあるが、それ以外の2つの穴に
使った形跡がある。1つはかなり先端に近い方で、相当な年月を感じさ
せる。もう1つはかなり内側に寄って、さほど使い込んだ印象はない。
女の子らしい可愛い系のストラップの中にあって、一種不気味な存在
感を放っている。
 大学院生としてアシスタントを任命された演習の時間でしか、わた
しは彼女に会うことがない。ちょっと寂しげで暗い印象はあるが、何
といっても可愛い。どう見ても中高生にしか見えない。名前は答案を
見て憶えた。ああ、陰湿だ。
 この前の土曜日に、今井さんがふらっと現れたので、その腕時計の
ことを話した。少し間があって、
「かわいいね、その子」
とだけおっしゃった。人の容姿を言う時は『おもしろい』かそれ以外
かしかない今井さんだから、腕時計に関して『かわいい』と評価なさ
ったのだろう。しかし、わたしには何を評価したのかが分からなかっ
た。
 ゼミ探偵を引き継げ、とわたしに言われて今井さんは学舎を去って
いかれた。熊ちゃんしかいないよ、とおっしゃられても、わたしにそ
んな自信はない。そりゃ、憧れはしても、頭のできが違う。そう思っ
てしまう。そんなある日。
 彼女の様子がおかしい。よく見れば目が真っ赤だ。かなり激しく泣
いていたのかもしれない。そう思うと、つい、ベルが鳴り席を立とう
とした彼女に、わたしは話しかけていた。
「ねえ、大丈夫かい」
 彼女はつぶらな瞳を大きく開いて、不思議そうな目でわたしを見上
げてきた。もっともな反応だ。目を合わせていられず、視線を彼女の
携帯電話に落とす。
「あれ、いつもの腕時計がないね」
 なんとしたことか。彼女がいきなりうつむいたかと思うと、今にも
泣きそうになったではないか。そうなってようやく、腕時計をなくし
たのだと気がついた。
「あ、ごめんね。いや、ぼくが鈍くて、その、あの・・・」
 うつむいたままで、彼女がいやいやするように首を振った。しかし
拒絶の意味ではなかったらしい。
「いいんです。ごめんなさい、いきなり。でも、大事にしてたから、
それで・・・」
「あ、いんだよ、ぼくが悪いんだから。あの、なくしちゃったのかな、
あの時計」
 彼女はこくんとうなずいた。なくした場所の心当たりなど聞いても
無駄だろう。とっくに捜しているはずだ。それでも、思い切って言っ
てみた。
「ぼくも捜してみようか。あ、期待しない方がいいけど、という言い
方も無責任だけど、こういうのわりかし嫌いじゃないから。あの、き
みが迷惑じゃなかったら、力になりたいんだよ」
 何を言っているんだろう。彼女もいっそう不思議そうにわたしを見
詰めた。ああ、その何気ない表情が、その幼さを残したまなざしが、
たまらなく可愛い。もう何でもしてあげたくなってしまう。
 彼女ははにかんだように笑うと、ありがとうございます、とだけ言
った。
「あのさ、参考までに、きみの通学ルートを教えてくれないかな。あ
と、なくす前後に行った場所とか」
*
*
*
 教えてもらった場所を、ひたすらに捜した。はっきり言って目立つ
ものではない。なにせ腕時計なのだ。幸いなことは、どうやら電池で
も切れたのかすでに針は動きを止めていることと、あまりにも古い印
象のため猫ばばの危険性が低いことだ。それでも、気づくまで持って
いて川やゴミ置き場にでも捨てられていたらアウトだ。
 後輩のゼミ生たちも、話を聞いて土日は手伝ってくれた。その時は
見つからなかったが、捜索範囲の大部分が埋められた。
 珍しく街を歩いたせいか、体を動かして血行が良くなったせいか、
捜索活動の中で謎が解けた。その解決を女神が祝福してくれたのか、
腕時計は発見された。
*
*
*
 演習の時間、彼女は少し早めに来ていた。わたしもいつもより早く
研究室を出ていた。時計を手渡す時の、あのまぶしいほどに輝いた表
情は、生涯胸に焼き付いて残るだろう。すべての苦労はこの笑顔のた
めにあったのだと心から納得できた。
「ベルトが切れたんだね」
「はい」
「あのさ、ものすごく差し出がましいことは承知の上で言うんだけど、
もうそろそろ過去を思い出として切り離してもいいんじゃないかって、
時計がそう言ってるんじゃないのかな。その時計を通して、お父さん
が告げているんじゃないのかな」
 人は本気で驚いた時、こういう顔をするものなのだと初めて知った。
過去に出会ったのは本物ではなかった。今井さんはこういう顔と何度
も出会っているのだろう。癖になるかもしれないと、本気で思った。
 演習が終わると、彼女の方から声をかけてきた。次の講義はないの
だという。研究室には1年後輩の浜本さんがいる。連れて行くのはまず
い。とっさに考えて、今井さんがひそかなデートを楽しんだあのテー
ブルを目指し、彼女を5号館へ誘った。
 彼女はまず、わたしに礼を言った。その上で、どこにあったのかと
尋ねてきた。当然の疑問だ。
「猫がね、拾ったんだって。ほら、バス停の近くに路地があるでしょ、
あそこが猫のたまり場で。それがどう流れてか、2日前に飼い猫が家に
持ち帰って、飼い主が急いで交番に届けたんだ。きみがほら、交番で
時計が届いていないか聞いて、ないと分かると名前も言わずに言っち
ゃったから、あの、これは警官の方に聞いた話だけど。それで持ち主
はあの子だ、と思っても連絡のしようがなかったそうだ」
「そうだったんだ」
 ほっとしたように、彼女は微笑んだ。両手で時計を包み込み、ぎゅ
っと握りしめた。
「よかったね、見つかって」
 大きくうなずいた彼女だが、そのまま上目遣いにわたしを見て、お
ずおずといった調子で尋ねた。
「あのう、どうしてお父さんのこと?」
「あ、それね」
 ゼミ探偵の伝統に則り、問われれば答える。簡潔明瞭に、理路整然
と。
「きみは腕時計を腕時計としては使っていない。しかも何らかの理由
で時計は止まっているから、本来の役目は果たしていない。なのにき
みはいつでもそれを持ち歩いている。つまり、その腕時計はきみにと
って『時計』という意味を越えた存在ということだ」
 なるほど、気分のいいものだ。いつも聞かされ役だったから、なに
もそれが著しく不満だったとは言わないが、逆の立場というのはこれ
ほどに素晴らしいものか。彼女の期待と不安の入り交じったこの表情、
やはり、探偵は癖になる。そして語る相手は美少女に限・・・いやい
や。なんのなんの。
「次にベルトの穴だけど、1つは明らかに大人が使っていた時にそうな
ったんだろうね。問題はもう1つで、腕の細い人、おそらくは子どもが
それほど長くない期間使っていた様子だ。男物だということを考え合
わせると、大人の方はお父さんだろうね。子どもはきみだろう。まだ
小さかった頃、お父さんからもらったか、あるいは・・・」
「お父さんが死んだ時、お母さんにお願いしてもらったの。お父さん
がすっごく大事にしてる時計だったから」
「そっか」
 彼女は笑っているが、ちょっと息が詰まる。こういう苦しい場面も、
探偵ならば自然体で切り抜けなければならないのか。そう思うと、な
かなか楽しいだけではないようだ。
「もしかして、それだけで全部分かっちゃったの?」
 目をまん丸にして、少し高い声で彼女が言った。
「可能性なら、これだけで充分だね。だけども物理的な面から攻めれ
ばここで推理は行き詰まるよ。心理的な面も考えるとね」
「あ、そうやってお父さんから受け継いだものを、どうして肌身離さ
ず持っていたいと思うのか、ってこと」
「そうそう。ああ、きみはなかなか鋭いんだね」
「やだー、演習の成績結構いいのに、答案見てるくせに知らないの?」
「え、いや、そんなしげしげと見ているわけじゃ・・・」
「うそ、提出して返る時、前にじっと見てるところ見たもん」
 名前を憶えた時だ。しっかり見られていたとは。
「いや、それはね、ちょっと気になったものだから」
「いいよ、気にしてない」
「はは・・・」
「熊田くんって、頭いいんだね」
「いや、そんなことは・・・」
 今度研究室見せてね、と言って彼女は弾むような足取りで去ってい
った。驚いたことに、彼女はわたしの名前を知っていた。先生がガイ
ダンスの際に紹介してくださった限り、名前を知る機会はなかったは
ず。これはもしや・・・。
 またまたふらりとやって来た今井さんに話してみたら、へえ、と一
言返された。かわいいですよ彼女、と言えば、うん、とだけ返される。
今井さんは人間の心を見てその人を評価される。彼女の気持ちがかわ
いいと評価なさったのだとようやく理解できた。レベルの低いわたし
である。
 ただ、帰り際に今井さんがおっしゃられた言葉は、まさしく肝に銘
じておくべきだ。
「熊ちゃん、その子のいる前で、酒飲んじゃダメだよ」
 了解です。

―完

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