第75回テーマ館「夢の終わり」



百年戦争 ヨーロッパ悪夢の時代 ひふみしごろう [2009/12/26 08:06:28]


西暦1000年以降ヨーロッパは大いなる発展を遂げた。商取引の飛躍的発展と新しい都市
の建設、1100年ごろからは地中海の自由航海と、その人口も著しく増加していく。
こうした12〜13世紀のヨーロッパは発展の世紀といえるが、1316年の飢饉を発端として
およそ1世紀半をかけて混迷の時代を迎えることとなる。新生児数と結婚率の低下、黒死
病(1347〜1351)や天然痘やインフルエンザ等疫病の流行。また人口低下からの食物の
供給過多のため農作物の価格が下落し、農村部は危機に陥り、労働者が都市部に流れ込
み大勢の失業者の発生。1348年当時平均寿命25歳だったものが1376年には17歳まで落ち
込み、人口水準が元のように戻るのは14世紀末になってからである。
こうした中イギリスとフランスによる百年戦争(1337〜1453)は始まった。発端はフラ
ンス・カペー家のフィリップ4世の3人の息子たちが死去したことによる。残ったのはイ
ギリスに嫁いでいた女子のイザベルのみだったが、女に王位継承権はないとしてフラン
ス国内の画策によってヴァロワ家に王位を移したら、イザベルの夫、イギリスのエドワ
ード3世が異議を唱えた。
こうして始まった百年戦争。ただ、クレシーの戦い(1346年)、カレー攻囲戦(1346〜
1347)、ポワティエの戦い(1358)、ことごとくフランスは負け続け、イギリス優位の
まま終盤へと移る。
実際には短期間の戦争と長い休戦期間が繰り返された長い百年。終わりの兆しが見えた
のはフランス史上最悪の王妃と名高い『淫乱王妃』イザボー・ド・バヴィエール
(1370?〜1435)のころである。『狂気王』と呼ばれた夫シャルル6世(1368〜1422)が
発狂すると実権を握り、フランス内部の抗争の一因となる。王弟オルレアン公ルイとの
公然の不倫、そしてルイが暗殺された後はその政敵ブルゴーニュ公ジャンと結託。挙句
の果てには1420年のトロワ条約において自分の娘カトリーヌを嫁がせたイギリスのヘン
リー5世が夫の後継者となるという条約を結ぶ。そして本来の王太子である自分の息子シ
ャルル(後のシャルル7世)を不義の子であるとしてその継承権を否定し廃嫡に追い込
み、結果的には、ヘンリー5世の急死(1422)につづく夫シャルル6世の逝去により、カ
トリーヌとヘンリー5世の生まれたばかりの赤ん坊ヘンリー6世(狂気王の遺伝のためか
精神を病んでいた、失墜の人生を歩む)がフランス王位を継承。こうして「フランスは女
によって破滅し、娘によって救われる」という言い伝え(言い伝えではなくジャンヌ登
場後の言葉との説もある)のままに『オルレアンの少女』ジャンヌ・ダルクが表舞台に
上がる。
有名なジャンヌダルクであるが実はその歴史における登場期間は短い。1429年4月に王太
子シャルルに認められ出兵した後、1431年5月30日に火あぶりにされるまでほんの2年ほ
どの間である。しかも1430年5月23日には捕らえられその後は監禁や裁判の生活だったた
め、実際に活躍していたのはその2年のうちの1年しかなかったことになる。
その活躍においても、最初の出兵からオルレアン開放、1429年7月の王太子シャルルの戴
冠式までは文句なしの快進撃である。それまでおされ気味でほとんど勝てなかったフラ
ンス軍が、田舎から出てきたぽっと出の少女が先頭に立って旗を振ることで負けなしの
軍隊へと変わる。実際のところは定石を無視した奇襲戦法が功を奏したということだっ
たらしいが、パテーの戦いなどにおいてはイギリス軍の被害約2500人に対しフランス軍
の被害約100人といった大勝利を収める結果も残している。
そんなこんなでランスにおける戴冠で王太子シャルル(イザボーに追放された息子)は
晴れてシャルル7世と名乗れるようになったのだが、このあたりからジャンヌとシャルル
の間に齟齬が出始める。あくまでも武力でのパリの奪還を訴えるジャンヌ側に対しシャ
ルル7世側の思惑はそうではなく、しかも、ジャンヌに対する人々の人望も大きくなって
きたためシャルル7世にとってジャンヌは邪魔な存在となっていた。
この後のジャンヌはもはや落ち目の一方である。それまでの戦友達とは散り散りにさ
れ、本来のイギリス軍をフランスから追い払うという目的とは関係のない野盗の討伐を
命令され、援軍も与えられず無敵の神の使いは敗北を喫し、ジャンヌ自身「敵よりも裏
切りが怖い」とこぼしていた言葉のとおりに、ブルゴーニュ候(イギリスとの連合)と
のコロンピエーニュでの戦いにおいて、撤退中に跳ね橋を上げられるという形で敵の中
に置き去りにされる。
この後は捕虜になって火あぶりにされるまでの監禁生活となるのだが、実はこのときの
裁判の記録が今も残っている。なんとかぼろを出させようとする意地悪な多くの質問に
対し、様々なユーモアを交えた皮肉で返すなど、19歳の娘とは思えないような受け答え
をしており実に興味深い。結局、そういった質問攻めは意味を成さず最後はごり押しの
ようなやり方で火あぶりの刑に持っていかれるのだが、結局、こんなジャンヌに対し最
後までシャルル7世から身代金が払われるなどの助けはなく、ジャンヌダルク19年の人生
に幕を閉じる。
さて、こうしたジャンヌとの関わりにおいて暗愚の王として描かれることの多いシャル
ル7世であるが実際には1453年にイギリス軍を撃退して百年戦争を終結させている。その
後は戦後の復興も果たし良き王として名を残し、ただ、最後まで自分の息子とごたごた
したまま死去するなど、人間関係においては苦労した人生のようだ。
こうして一旦荒廃の時代を過ごしたヨーロッパだったがその後は絶対王政を確立、王政
を強化して新たな繁栄を見る。他にはポルトガルに端を発する大航海時代の世界経済の
確立やルネサンスの到来、悪夢ともいえる混迷の14〜15世紀は終わりを告げる。


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