第1章 『新・手話辞典』とは

 

第1節 はじめに

『新・手話辞典』…………これはどのような手話辞典なのでしょうか。

これまでにも、いくつもの「手話辞典」が作られてきました。

この『新・手話辞典』は、それらの手話辞典とどのように違うのでしょうか。

そしてまた、なぜこのようなテキストが必要なのでしょうか。

従来の手話は、聴覚障害者の意志や感情を豊かに表すことのできるコミュニケーション手段ではありますが、日本語の言葉そのものを伝えるには不十分なものでした。ニュースや時事問題を伝えたり、教育現場で教科指導を行うような場合などでは、従来の手話では日本語の言葉そのものを表すにはどうしても限界があります。結局、表したい言葉に似た意味を持つ他の手話におきかえたり、一つの日本語の言葉を複数の手話で表したりします。それでも手話表現が難しいときには、文字に書いたり、指文字で表したりするなどの工夫が必要になります。

では、聴覚障害者の社会生活や教育の場で、より豊かなコミュニケーションを実現できる手話とは、どのような手話でしょうか。

手話で、もっと日本語の言葉を正確に伝えることができたら、従来の手話独特の豊かな表現の世界に加えて、聴覚障害者に健聴の人びとともに日本文化の世界を享受する機会を与えられることになります。

私たち手話コミュニケーション研究会では、このような手話を「日本語対応手話」と呼ぶことにし、その実現をめざして、日本語対応手話の研究を進めてきました。その成果として作られたのが、この『新・手話辞典』です。

この辞典には、「漢字手話」、「指文字結合手話」などと聞き慣れない言葉が幾つか出てきます。日本語の豊富な単語に対応させるために、新しい手話単語を考案する必要がありました。「漢字手話」、「指文字結合手話」は、新しい手話単語を分かりやすく表現できるように工夫した手話の造語法です。この新しい造語法によって、口型と併用し、単語数を豊富にし、日本語を正しく表現できる手話単語数が、一躍増大しました。

『新・手話辞典』は「辞典」と銘打っていますが、現在行われている手話を集めたものではありません。ここが、従来の「手話辞典」と大きく異なるところです。「日本語対応手話」という考え方に基づいて、既存の手話を整理したばかりでなく、日本語を正確に表せるような新しい手話を創作して一つの辞典にまとめたものだと考えてください。

そのため、『新・手話辞典』を使いこなすには、「日本語対応手話」という一つの体系を理解する必要があります。このテキストでは、日本語対応手話の基本的な考え方や、手話の造語法などについて分かりやすく説明しながら、手話の学習をすすめていきます。

 

第2節 日本語対応手話とは

音声や文字は、「日本語」を表現するために、ある決まった約束のもとに使われています。点字も日本語を表すことができます。同じように、手指に日本語を表すための約束を与えたものが「日本語対応手話」です。日本語対応手話は、音声や文字、点字と同じように日本語を表す媒体の一つです。

日本語対応手話の大きな目的は「手話と口話を併用することによって、正しく日本語を伝達できるようにする」ことです。

このような日本語対応手話には、次のようなメリットがあります。

(1)教育の場では

聾教育の現場では、口型、文字、空書、指文字、音声、聴覚活用などのさまざまなコミュニケーション・メディアが使われています。

聴覚障害児教育では、日本語の持つ音韻概念をできる限り理解させる必要があります。そのため、耳の聞こえない子どもは、できるだけ早期から「ことばの洪水」にさらされなければなりません。日常生活の中で、常に言葉に接し、模倣していくことから言語習得は始まります。

日本語対応手話は、音声や文字と同じく、正確に日本語を伝える媒体としての役割をはたしますから、日本語対応手話で聴覚障害児に豊かな言語環境を与えれば、聴覚障害児の言語発達をうながします。

教育の場では日本語対応手話は次のような特長を発揮します。

  1. 口話と併用しやすい
    口話と併用しやすくなれば、口話だけ、手話だけの時よりも分かりやすくなります。「たばこ」と「たまご」のように、口型のよく似たことばを明確に区別できます。
  2. 日本語習得のたすけとなる
    手話で日本語を正確に表せるので、自然に目から入ってくる日本語の語彙をふやすことができます。
  3. 専門用語をカバーする
    特定の教科に使われる用語や専門的な用語など、従来の手話では対応しきれなかった単語や表現も可能になります。このため、手話で広い範囲の内容を伝えることができます。

(2)社会生活の場では

聴覚障害者の社会生活の場で従来から用いられてきた手話には、日本語の文法に依存しない独特の表現形式が多くふくまれており、それが聾者の手話の豊かな表現力を生み出しています。従って、「日本語対応手話」は、従来の手話とは異なった役割をになうことになります。

いずれの手話も、日常のコミュニケーションで大いに独自の伝達力を発揮すると思われますが、従来の手話は、日常生活の他、特にパントマイムや視覚パフォーマンスのような芸術的分野などにおいてその役割をになうものであると言えましょう。

「日本語対応手話」は、次に示すような役割をはたします。

  1. テレビなどの日本語によるマスメディアで使用する
  2. 大学や研究の場など日本語による専門用語や特殊な用語、表現が要求される分野で使用する
  3. その他、日本語に依存する度合の大きい場面で使用する

以上のようなことから、日本語対応手話は従来の手話と補いあいながら、聴覚障害者の社会参加の可能性を高め、種々の活動を行う機会をつくっていき、社会生活の向上に大きく寄与することが期待されます。

 

第3節 テキストの必要性

日本語対応手話は、「日本語をそのまま手話で表すこと」を目標としていますが、この『新・手話辞典』を手にしたからと言って、すぐに日本語を手話で表せるようになるわけではありません。実際に手話で自由に表現出来るようになるには、日本語対応手話の約束を理解し、基本的な単語を学びながら、「手話を使う」ということを身体で体得する必要があります。

日本語対応手話は、言うまでもなく、主に手指で日本語を表すものです。そのため、音声で日本語を表す場合とは違ったいろいろな制約が生じます。手話というものについてある程度理解ができてしまえば、それほどむずかしいものではありませんが、最初のうちは、辞典のイラストを見たり、単語を引いたりするだけでは、分かりにくいこともあります。

日本語対応手話には、日本語の単語を一つの手話で表す場合もあり、漢字ごとに用意された「漢字手話」を組み合わせて表現する場合もあります。日本語では別の単語になっていても、日本語対応手話では同じ手話で表すことになっている手話を同形語といいますが、その同形語の選び方にもある程度の慣れと工夫が必要です。

手話に学ぶには、聴覚障害者との日常的な会話を通して、カンを養いつつ自然に身につけていくのが一番ですが、そういった理想的な環境をつくろうにも、身近に聴覚障害者がいない、時間的に厳しいなどの制約がある場合もあります。

以上のようなことから、日本語対応手話を正しくかつ効率的に身につけるための環境を整えたいと考え、このテキストを用意しました。

日本語対応手話の基本的な約束ごとを分かりやすく説明した教材となるように工夫して作成したものです。

『新・手話辞典』を活用するための道しるべとして、このテキストを役立てていただけるならば、たいへん幸いに存じます。