『私の言語学』

鈴木 孝夫 著 『私の言語学』 大修館書店 1987/7/1

2019/12/20〜  

 何度も読んでいる本です。『私の言語学』 最近、読んでみて、書いてあることに改めてびっくりしました。「記号の恣意性」には、二重の意味があるという見解です。手話を考えるときにとても大切なヒントなのに、今まで何度も読んでいたのに気がつかなかった。忘れないためのメモです。

(P.39)言語記号のニ重の恣意性 言語において記号が恣意的だというのはソシュール以来有名ですね。ソシュールが言っている恣意性というのは、「イヌ」という日本語は、「犬」という動物と必然的な(necessaire)関係はない。ギリシャ哲学以来、ピュセ(P.40)イ・テセイ論争というのがありますけれども、本質的な必然性(ピュセイ的関係)はなくて、契約だ(テセイ)というわけです。だからドイツ人はフント(Hund)と言うし、イギリス人は'dog' 日本人は「犬」と言う。お互いに似ても似つかないのはどれも対象としての犬と無関係だからだ。(中略)

 ところが、私は人間言語の恣意性は、もう一段階違うものがあると思います。それは、現実界に存在する幾つかのものの相互関係を言葉の相互関係が反映しないという意味での恣意性です。簡単に言うと、大きいもの、中ぐらいのもの、小さいものと、大中小という三つのものが現実界にはある場合を 考えてみます。

 例えば「大」きいという記号は、「中」とか「小」よりも力強く発音するとか、大きく発音するとか、長く発音するということはない。例えば(P.40) 「ダーイ」と言い、「チュウ」と言い、「ショウ」と言う必然性がないです。つまり、大きいものを「大」というか「ビッグ」と言うかというのはソシュールの言う恣意性ですね。けれども私が言いたいのは、「ビッグ」が「ミドル」と「スモール」の聞にスペリングにおいても、アクセントの強さにおいても、大小関係の構造が反映していないということです。

 これはミツバチの言葉と比較してわかった。いわゆる8の字、ダンスというのは、表そうとするもの(蜜)と、恣意的で必然性がないという点では、人 間の言語に似ている。ところが表そうとするものの相互関係はミツバチの記 号の相互関係に全部反映するんです。

 例えば、「近い」という距離を表すにはエネルギーをうんと使う。単位時 間内に速く沢山踊らなくてはならない。反対に遠い時はゆっくりと踊る。「方角」はまさにそのまま表現する。太陽に向って30度の角度という時はダンスの軸が30度ずれる。40度時は40のずれというように、大小関係が記号 の中に反映する。蜜を取りに飛んで行くハチの数も踊る時間の長さに比例する。


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