近世民衆宗教史の研究

富士講教典食行身禄の「三十一日の御巻」をめぐって

<序論>

(1)なぜ富士講か

(2)研究史について

(3)テキストについて

<本論>

(1)模造富士の構造

(2)富士中心の世界観

(3)比喩と呪術

(4)救済観の構造

(5)観念性の倒錯

<結論>

参考文献一覧

開設日:2002年10月7日  

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卒業論文--ケムが日本史に関して書いた唯一の論文です。**年前に万年筆で書かれた原稿を読み返しながら懐しくなりました。たどたどしい万年筆の筆跡を見て、今みたいにワ−プロがあればもう少しよい内容の論文が書けたかな、などと思ってみたりしました。「ケムの手話探求ページ」には不似合いですが、アップすることにしました。誤字を訂正しただけで内容は変えていません。序論の部分は削除しました。



<序論>


(1)なぜ富士講か

(略)


(2)研究史について

民衆宗教としての富士講について、わたしたちは既に注目すべき三つの業績を持っている。今それらを列挙すると、(註1)

(一)富士講信仰の民衆的伝統 村上重良 『近代民衆宗教史の研究』(法蔵館 1958年 ここでは1972年の改版による。)

(二)富士信仰とミロク 宮田 登 『ミロク信仰の研究−−日本における伝統的メシア観』(未来社 1970年)所収

(三)「世直し」の論理の系譜 安丸良夫、ひろた・まさき(日本史研究85号86号)

以上であるが、(三)の安丸良夫氏が富士講について簡明な解説を加えたものとして、

(四)富士講 日本思想大系67『民衆宗教の思想』(岩波書店1971年)所収解説

また、(三)は

(五)日本近代化と民衆思想 安丸良夫(日本史研究78号79号)

を当然に踏まえて書かれているので、しかも「通俗思想」という民衆思想の研究に不可欠な概念を提出しているので、以上の諸論考を整理してみることにする。ここでは個々の論点には触れず、各々の視点を主に問題としてみよう。

村上氏の立場は『近代民衆思想史の研究』の序に端的に示されている。

<歴史において宗教が果たす役割は、複雑で多面的な様相を呈している。宗教は歴史的な事実としては、圧倒的に権力に奉仕する役割を果たしながらも、一定の条件のもとでは、部分的に前進的な役割を果たすことがある。この前進性は、諸宗教によって民衆的伝統としてうけつがれる。宗教のこのような多面的な役割を、歴史の上で具体的に追求することによって、われわれは、隣接諸科学によって進められている宗教現象の研究をさらに深化させ、歴史的現象としての宗教の本質にせまることができる。>(下線引用者)

ここに書いてあることはまことにその通りであると思うのであるが、実際に村上氏の研究を読んでみると、民衆宗教の果たした「前進的役割」の指摘のみであって、「圧倒的に権力に奉仕する役割」は究明されていない。このような研究で「歴史的現象としての宗教の本質」にせまることができるかどうか疑問なしとしない。とすれば、わたしたちは民衆宗教における「権力に奉仕する役割」も積極的に追求していかなければならない。

また村上氏は、その研究においてあまりにも「歴史的」過ぎるように思える。民衆宗教の実態の究明はなるほど、克明であってわたしたちは十分それに依拠することができる。しかしわたしたちは、思想の問題として民衆宗教をとりあげるのであるから、もっと内側まで入っていきたいと思う。

さて、人々が思想史を、あるいはこの場合民衆宗教を研究しようとするときに、人々は何を発見しようとしてるのであろうか。そしてわたしたちは。わたしたちは今、宮田氏の「歴史民俗学的立場」と安丸氏の「通俗道徳」について検討を加えなければならない。

まず最初に宮田氏の「歴史民俗学的立場」がどういうものか検討する。これは『ミロク信仰の研究』の序論に詳しく展開されている。それによると「民俗の本質は超時代的存在であって、連続性を保持して潜在化している。これに時のスポットを当てると、顕在化するのは、時代の制約を受けた発現による本質の一部分にすぎない。」従って「潜在的かつ本質的部分が顕在化する場面を設定して」(註2)研究するということになる。民俗の本質としてのエートノスとその歴史的な発現形態が研究対象である。

ここで疑問なのは、「民俗の本質は超時代的である。」ということである。氏は柳田・折口両民俗学にふれ「この卓越した両者の存在は、明らかに日本民俗学の中枢を占める。両者は、それぞれ独自の体系を形成し、あえて理論的課題を正面きって押し出さずとも、自他ともに許す普遍的存在たり得る。」としている。その結果当然に「柳田・折口両民俗学をはずした場合の日本民俗学の体系・理論は如何がかということである。」(註3)ということになる。この態度には驚く他ないが、ここに宮田氏の持っている理論的問題点がひそんでいるように思える。氏は柳田・折口両民俗学を普遍的存在にまつりあげることによって、「民俗の本質は超時代的である。」ということの証明を得ているようである。そこには氏が研究対象としている民間信仰の信者たちの姿を彷彿とさせるものがある。

民俗学の重要な方法である重出立証法が負っている宿命は概念の先行性である。共通性を引き出すという問の姿勢そのものがすでに共通の概念が存在することを前提としている。ここからある事象を既成の概念で解釈してしまう、またそれで事足れりとする姿勢が生まれる。この概念自体は問われることは決してない。このことは概念自体の権威化を必然的に要求する。概念の先験性はこれによって保証されるからである。これが柳田・折口両民俗学を神聖化する根拠である。

宮田氏の序論で不思議なことは、重出立証法についてのいくつかの批判をとりあげながら、いざ自己の「歴史民俗学的立場」を主張する段になると「民俗の本質の超時代性」を無証明で主張してしまうことである。ここに氏が柳田・折口両民俗学を普遍的存在とする理由がある。

次に問題となるのは民俗の本質の歴史的な発現を研究するという姿勢から必然的に出てくることであるが、地域性の概念が欠如してしまうことである。富士講を捉えることにおいても近世という時代性の視点はあるが、江戸という地域性の視点はない。たとえば富士講のもとになる山岳信仰は農村の信仰であり、それが江戸という町人社会において顕著な発達をとげることは十分に追求されるべきである。この場合、農村と都市における民衆意識の相違が問題になるであろう。この際、人造富士の理解が重要なポイントになると思われるが、宮田氏はわずかに「身近の富士山に登ることによって、日常性のなかに安心感を得るという宗教情操が、江戸町人社会に醸成されていた」(註4)と指摘されるのみであるが、ではその「宗教情操」とは一体何であったか、考えてみたいと思う。

一体に宮田氏の論考においては、なぜエートノスが追求されなければならないかを感得することができない。これに対して、安丸氏の「通俗道徳」という概念設定には、ある切実さが感じられる。と同時に、違和感も覚えるのである。この切実さと違和感の由来を、論考(5)「日本近代化と民衆思想」の序・問題提起によって明らかにして行きたい。

近世において勤勉、倹約、謙譲、孝行などに代表される通俗道徳が広範な人々の生活規範として、人間生活の功利的側面と道徳的側面とを(もとよりこの両者は分別されて意識されていないものだが)同時に解決し得るものとして実践されてきた。この認識は虚偽であるが、ある程度の有効性を持っていたので現実には強い規制力を持っていた。民衆はこの通俗道徳の実践の中に、自己形成、自己解放の努力をこめることによって、日本近代化のエネルギーとなった。

「通俗道徳」なる概念を要約すると以上のようであるが、この概念設定は何よりもまず、R・N・ベラーから丸山真男までを含むものとしての近代化論に対する鋭い批判として行なわれている。

<民衆的諸思想を研究する際に、自然と人間の分裂や、経験的合理的認識の発展や、自我の確立などを分析基準とするのは、理念化された近代的思想像に固執してそこから歴史的対象を裁断するモダニズムのドグマである。>(註5)

と、近代化論を批判し、

<こうした見解は、通俗的諸徳目の実現という形態において、広汎な民衆のきびしい自己形成、自己鍛錬の努力がなされ、その過程に噴出したぼう大な社会的人間的エネルギーが日本近代化の原動力(生産力の人間的基礎)となったことを、理解できない。実現された徳目からみれば、通俗的で前近代的な道徳と見えるものが、ある歴史的段階においてはあらたな「生産力」なのである。>

と宣言することによって民衆の歴史像を浮き彫りにすることができたといえる。しかしこの方法的転回は実は、「自然と人間の分裂や、経験的合理的認識の発展や、自我の確立など」のかわりに、「通俗的諸徳目の実現(=通俗道徳)」という分析基準を持ってきたのに過ぎないのではなかろうか。そこで発見されようとしているのは依然として「日本近代化の原動力」なのである。

安丸氏は、「通俗道徳」という概念設定によって、民衆宗教の内部まで踏み込むことができた。こうして剔抉された民衆意識は、経験的合理的認識や自我の確立などと違って、わたしたちの生活の中で日々確認できるものだけに、ある切実さを持っている。しかし何がかくも日本を近代化させたかという発想で歴史を裁断しようとしていることにおいては、いわゆる近代化論者と揆を一にするものではないか。人々は歴史の中には形成的な力としてしか登場しないのであろうか。これが切実さと違和感の由来であろう。

ここで歴史学とは何か考えてみなくてはならないだろうか。最も明解に論を展開しているものとして家永三郎氏の「柳田史学論」(註7)をとりあげることにしよう。氏は柳田国男の「常民」を批判して

<史学の対象は歴史的発展であった。歴史的発展とは人間世界の実年代的展開をいうのであって、人間世界の様式的類型の序列を意味しない。実年代が歴史的展開の基軸である以上、それは歴史学の本質的範疇である。>(註8)

しかし「常民」が大多数であったのではないかという予想される反論に対して

<数のうえからいえばこうした人々が社会の大部分を占めていたにせよ、歴史を発展せしめる力はこういう人々から出たのではなかった。歴史は「仕来たり」を突破する反逆的精神を動力として新しい展開を続けて来たのである。>(註9)

わたしたちは今ここで殊更に「常民」を擁護するつもりはないが、歴史学はついに多くの無名の人々を歴史の発展に寄与しなかったとして葬りさるのであろうか。家永氏が先のような主張をかかげるのは意に介さないが、安丸氏が近代化論の批判として民衆宗教究明を志しながら歴史の原動力としての民衆しか追求しなかったことは遺憾である。


(3)テキストについて

以下、身禄の「三十一日の御巻」を中心に富士講の思想を考えて行く。この書は富士講の第8祖食行身禄が、享保十八年7月十三日、富士山上で入定した時、随従の弟子、田辺十郎右衛門に口述筆記させたものとされている。公刊されたものとして次の二つがある。

(A)「三十一日の御巻」伊藤賢吉、安丸良夫校註、日本史想大系67『民衆宗教の思想』(岩波書店)所収

(B)「不二行者食行録」三田村玄龍編『信仰叢書』(大正四年八月二十五日発行、国書刊行会)

この他にも異本がいくつかあり、写本として残っているらしい。(A)と(B)では内容がかなり違う。安丸氏は「近世後期ひろく流布していたものは、信仰叢書所収本系統のもののようであるが、本書所収の方が、その思索の独自性においてすぐれているものと思う。」(註10)とし(A)を採っている。又底本の由来を述べ、「右の底本は、このようにして成立した原本か、もしくはそれにもっとも近いものであろう。」(註11)としている。従って(A)を採るのが妥当であろうが、ここでは(B)の信仰叢書本を使うことにする。(註12) 理由は、まずこれが近世後期広く流布していたからであり、次にこの本の方が安丸氏の意見に反して優れていると思うからである。もともとこの本が由来のように食行の思想の田辺十郎右衛門による聞書かどうかの確証はないし、ここでは民衆に受け入れられた限りにおける身禄の思想が問題になるのであって、「近世後期広く流布していた」ということが、テキストとしての正統性より重要であると考えるからである。但し、異同のある場合は随時伊藤本も参考にする。

論展開の必要上引用は多くなるが、仮名遣いは原文のままとし、漢字は新字体で引用することにする。また三田村本は「不二行者食行録」と題されているが、より一般的な呼称である「三十一日の御巻」という題名を使用することにする。


<本論>



(1)模造富士の構想

富士講はいうまでもなく富士山を霊山として仰ぐ所から出発している。わたしたちが問題としようとしている「三十一日の御巻」も富士山を仙元大菩薩と仰ぐ富士行者食行身禄が、富士山北口登山道の七合五勺の地にある烏帽子岩にて入定した時、三十一日に限って弟子の田辺十郎右衛門に言い残したものとされている。従って、わたしたちは直接「三十一日の御巻」を検討する前に、山を神として信仰することが江戸の町人にとって何であったかを理解するために、富士講における顕著な習俗としての富士塚の問題からとりあげることにしよう。

富士塚とは富士に似せた塚をつくり、浅間神社を勧請したものである。「近世風俗志」に、

<五月晦日、六月朔日の両日江戸浅草駒込富田深川目黒四ツ谷茅場町下野小野崎以上八所ともに江戸の地名也並富士山を模造して浅間の神を祭れり平日は此模山に登ることを聴さず、此両日のみ詣人を登す蓋駒込を江戸の本所となす。>(註1)

とある。現在も、駒込、護国寺、江古田等にその俤をしのぶことができる。但し、江古田のものは大正大震災後の再建である。

宮田氏はこれについて次のように述べている。

<江戸という地域社会には、経済的な力を蓄えた町人があって、彼らの生活感情から生み出された価値観に基づく諸々の行為がなされたのである。そうした江戸町人の創造的宗教行為として富士講はあり、人造富士も成立し得たわけである。>(註3)

<実際に修行して富士登拝する行者はともかく、身近な富士山に登ることによって、日常性の中に安心感を得るという宗教的情操が、江戸町人の社会に醸成されていたと考えられるのである。>(註4)

ここに書いてあることは至極もっともなことであるが、わたしたちはここで「創造的宗教行為」とか「宗教的情操」とかいう言葉で表されている内容にまで立ち入って考えてみなければならない。

富士塚とは人工的な風景である江戸町人がなぜこの人工的な風景を必要としたかを考えるにあたって、わたしたちにとって風景とは何かという一般論から始めなければならない。

風景はわたしたちにとって認識の根拠であり、世界観の根拠である。資本主義以前の社会において土地は最も重要な、そして殆ど唯一の生産手段だった。土地はわたしたちに作物を提供する。或はわたしたちは土地に働きかけることによって作物を獲得する。

<しかし、土地が人間の存立と発展にとって不可欠の条件であるのは、このような有用さにつきるのではない。むしろ、それは、土地が対象を一定の限定の中におくということを、土地を媒介として、対象がある一定の安定した形態をとるということにあるのである。>(註5)

作物の成長は土地を媒介としており、作物が何かということを土地に媒介された成長をおうことによって理解する。従って、わしたちは土地を媒介として思考することによって抽象を学ぶといえよう。

江戸の町人たちは、このようにしてものの理解の仕方を学んだ農民の出身なのである。そして、江戸の町人たちは、生存の根拠であり、ということは認識の根拠であるところの農業から切り離された<都市>の生活者であった。何らかの根拠が求められていたのである。

農業に結びついたものとしての土地は勿論さまざまな風景を持っている。それはまず水田であり、畑であり、そこに至るところの道である。微地形を知りつくされたものとしての風景である。そこで生き、労働しているものにとっては、風景は意味複合を伴う生活空間であって、労働と生活の場の所有の問題に深く関わりあうものである。(註6) 山はその山容によって、また水をもたらす所と観念されたことによって、また山中他界観によって信仰の対象とされて行くが、一次信仰圏としての山岳信仰の確立過程において、山は風景の象徴としての独占的地位を得た。

では都市において風景はどう観念されていたのであろうか。そこは依然として生活と労働の場であったが、自ら働きかける対象としての自然を喪っていた。都市において風景はまず家の集合であり(註7)、その家は移ろいやすい風景であった。連続して起きる火災と、絶えざる膨張による強制移転の町であった。(註8)

この不安定な家並を風景とした江戸町人たちの心情を考えるとき、そこに確固として依存できる二つの風景に気づくのである。ひとつは江戸城であり、これは後述する。(註9) もうひとつは富士であり、たとえば広重の風景画の中に江戸の人々が富士に寄せた思いをうかがうことができる。そこには江戸の町並みから富士が望見されるという構図が典型的である。(註10) 東都名所日本橋魚市、同日本橋の白雨、名所江戸百景神田紺屋町等々。特に東都名所駿河町の構図は典型的である。そもそも駿河町という名前自体が通りの真正面に富士が見える、すなわちここは富士山麓だから駿河町にしようということである。(これらの広重の風景画において)富士は誇張されて大きく、或は鋭い。わたしたちはそこに江戸町人の富士に対する思い入れを知ることができる。

こうして富士は江戸町人にとって典型的な風景であることによって、風景の持つ象徴性を一身に引き受けていたのである。

では、その富士をどうして模造したのか。これは別個に考察を要することである。先に引用した宮田氏の指摘のように、その背後に町人の経済的な実力を認めなければなるまい。しかしこれは前提条件である。

『江戸名所図絵』に高田富士について、

<厳石を畳んでその容を模擬す。安永九年庚子に至り成就せしめりとなり。此地に住める富士の大先達藤四郎といえる者これを企てり。>(註11)

とあることから窺えるように、富士講の先達が自己の基盤を確立しようとした要因も考えられる。しかし、問題はそれを受け入れた講中たちの意識にある。これを呪術的なものとして説明するのは簡単である。呪術の二つの法則、類似律と接触律によれば(註12)、類似律として富士を模倣した山をつくる、接触律として富士山上の石を運びさなえる、と説明すればよい。しかしわたしたちは、これを近世の江戸に特徴的なものとして説明しなければならない。

この点について宮田氏は富士塚における祭礼にふれて「したがってこれは同時に娯楽の対象ともなり得たわけでもあった。」(註13)と示唆的なことを述べている。江戸時代において宗教が娯楽化することは「開帳」などと併せて考えなければならない。石田一良氏の次のような指摘がある。

<さて大都市の生活と大都市の町人の生活感情を形成する重要な素因の一つに、都市の『雑踏』とそれへの共感が考えられる。大都市の雑踏に参加することの喜びは、なかんづく、大都市の生活の華であり、大都市町人生活の象徴である祭礼に現われた。>(註14)

<大都市生活にあっては群衆とともにある−−群衆になることに対する喜び、自己を群衆の中に埋没させることによって一種特別の自由の意識、生命解放の感情(生命の増大感)を味わうことに対する限りない喜びがある。>(註15)

<かくて大都市の町人にとって、都市生活は一種宗教的な意味さえもつに至ったことを思うのである。>(註16)

都市生活の中にある宗教性についての、この指摘は卓抜である。しかし、大都市の町人は都市生活の中に次第に宗教性を付与して行ったのであろうか。ことはむしろ逆である。農村の共同体生活において保持されていた宗教感情が、都市に移民したことによってその本来の表現形態を失い、祭礼における『雑踏』という形で奔出したのであろう。従って、そこで人々が味わったのは「自由の意識、生命解放の感情」ではない。それは近代的解釈に過ぎない。すでに共同体から離れ、もはや共同体を束縛としてしか感じなくなった人々が、共同体とともに喪った共生感をとりもどすための擬似共同体である。『雑踏』とは都市における孤独な人々の魂がよりそう擬似共同体であった。

富士塚が祭礼で賑わうことは以上のように説明できるであろうが、では富士塚は富士講の信者にとっては何であったのであろうか。

そもそも神である富士に登ることが何を意味していたかは村上重良氏が次のように指摘している。

<講中にとって登山の回数の多少は信仰の深浅を示すものと考えられていたし、とくに先達は登拝の回数によってその修行の度と呪力の効験を評価されるのが普通であったから、年に数回、一生百度の願も稀ではなかった。>(註17)

かように富士山に登拝することが一つの宗教的価値であるら模造富士が呪術的なものとして成立するであろうが、先達にとって富士登拝が自己の権威づけの根拠であるとしたら、富士塚をつくってそこに登ることも一つの宗教的価値であるとする考え方は、先達の権威をおとす結果になるのでないか。

柳田国男によれば代参・代願・代垢離等の風俗が神職や修験の地位を重要にしたのであるが(註18)、その風俗がなぜ生じたかというと、経済生活の変化によって物忌みが一般の人には負担になったからであるとし、その裏に次のような考え方の成立したことを指摘した。

<ある一人を代表者として、もっとも厳重にこの義務を守らせ、またはある一人が代わって祭の役を勤めると、皆の者が奉仕したと同じことになる。>(註19)

富士講もこのような考え方の上に立つ代参講としての性格を持っていたわけだが、模造富士の築造には、このような代参の思想を否定しようとするものがあるように思われる。講中の人々の側から模造富士の意義を考えれば、それは先達の代参という形で他人に預けてしまっていた自己の「信仰」を、少しでも自分の側に取り戻して行こうとしたものだといえる。先達による宗教の収奪をつきくずそうとするものであった。

およそ富士信仰は富士山という実体のあるものを神とすることによってついに普遍宗教たり得ないのであるが、富士塚は実体としての神を多数つくり出すことによって信仰の普遍化・内面化の可能性をわずかながら示し得たといえよう。


(2)富士中心の世界観

宗教は自己の教理の理論的支柱として何らかの世界観を持つものである。近世において、わたしたちはその代表的存在として仏教における須弥山説をあげることができる。(註1) それは高さ八万由旬と称する想像を絶した高山(須弥山)を中心に、人間界をはじめ、地獄道、餓鬼道などの六道の実在を説くものであり、この世界観から輪廻と解脱という仏教の中心思想が導き出されてくるのである。近世においては、この須弥山の実在・非実在をめぐって論議が戦かわされるのであるが(註2)、それは、この世界観の構造それ自体に宗教的世界認識と救済観が依拠しており、須弥山の実在・非実在が教義に深く係わっているからである。

富士講においても、須弥山説に倣って、世界観としての富士の実在が説かれる。これは須弥山説に触発されて成立したものであろう。

<御山世界の須弥とさして、国柱と言事、是不二なり>(註3)(六日)(下線引用者)

<名所仙水出口・山中の海・明見野海・舟津野海・西野海・庄司の海・本巣野海・志びれ野海通水して種となる事、皆須弥のかたちなり>(註4)(六日)(下線引用者)

では、この世界観と教義がどのように結びついているかを明らかにしながら富士講の教義の特徴をひろい出すことにしよう。

不二中心の世界観においては、教義との有機的な結びつきは弱く、富士山の実在が教義の絶対的な前提であり、権威の根拠・価値の源泉として捉えられている。

富士の神格化は当然のこととして民間信仰における山岳崇拝を基礎としている。たとえば、

<御山に牛がつぼという所有、名付て四季の節鳥といふ、(中略)此所の雪、春二月比鳥の嘴のごとく成かたちになるころ、是をしるるに此時米の種をおろす、云々>(九日)

これは農事暦としての山岳信仰であり、山岳信仰の第一次信仰圏にはよくみられるものである。(註5) 富士講においては民間信仰から宗教に転化しているから当然のこととして、これに教義的解釈が付け加えられる。

<如此農業のもとを御さづけ玉ふ、水の勢力にて知るべし、依て米を作りいとなみとする者、米を主君より請ずる、子孫相続するもの、何れも此御恩徳にあづからぬものなく、是則仙元大菩薩の御恩徳報じても報じ難き事を能々悟し発明して伝ふべし>(同前)

これは富士山の権威の根拠の説明であるが、米を媒介として権威づけをしているのが特徴である。封建社会においては米の収取関係が社会構成の原理になっており、封建支配者もこれを道徳として説いたから、民衆にとってうけいれやすいものであったろう。このような米を媒介とする教義は繰り返し説かれ、富士講教義の主要な特徴だから、後でまとめてとりあげることにしよう。

かくして富士は世界の中心として位置づけられる。たとえば、

<不二ハ葉ハ流裾野ハ湖明見山中舟津西之海精進本巣仙水志尾礼、是を以て湖水の内ハ海と云也。その外に外ハ海、有是を合せて八八六十四卦と成る、爰を以て扶桑国六十四州にあたる、右御山第一の宝也。>(八日)(注:明見は「あすみ」)

「外ハ海」とは伊藤本八日の条註解によれば(この註は安丸良夫氏のものである。)、琵琶湖・二見浦・芦ノ湖・諏訪湖・中禅寺湖・榛名湖・桜池・鹿島海の八海であるが、時代によって若干の相違があるそうである。本文には唐・天竺とか三国一などという言葉も出てくるが、富士講の世界観が包括したのはせいぜい日本だけであったといえる。その視野の狭さは須弥山説と比べると覆うべくもない。

<此御山世界ののすねとさす、不二の高山なり、御山のすねは此世界の立柱也、土は肉、岩は骨、水は血なり、是皆天地一体の元也>(六日)

ゆえに、

<此山へ一度登り拝礼奉り、内心の垢離精進せば、誠に生増ん事うたがひなし。尤登山して我体を見とどけ能き人間とも成べき種也>(同前)

と富士に登ることが宗教的価値となる。但し、唯登るだけでなく「我体を見とどけ」と個人の内省を要求することによって、単なる呪術からの脱却を求めている。

世界の中心であることは、世界創生の中心であることによって説明されるのが、神話的世界の通常であるが、富士講もまたその例外ではない。

<まず世界空々寂々たる時、水こりかたまり御山出現す、(中略)もと月日あらわれ、玉ふと仙元大菩薩出現し玉ふと同時、是一仏一体の元なり、よって万水よりはじまるなり>(六月十三日)

として、この後に水と米の縁起がつづき、そのおかげを蒙っている人間は仙元大菩薩に帰依しなければならないとされるのである。世界創生神話によくある混沌浮動という観念を利用して水を強調している。ここでも米と水という媒介項が富士の権威づけに利用されていることを強調しておこう。

では、この富士を中心とした世界観は富士講が組織した江戸町人の意識にどう対応するのであろうか。この問題を考えるためには、江戸町人の意識を別個に考察することが必要であるが、ここでは先に引用した石田一良氏の業績に依拠することにする。氏は城下町の構造および景観が町人の生活感情をどのように規制したかについて、独自の考察を行なっている。(註6)

以下紹介すると、「『階層的遠近法』的構造及び景観」として城下町が天守閣、領主の御殿、重臣の屋敷、町人(職人−商人)町と構成され、

<それらの地帯の最高・最奥の地帯に最高の政治的権力があり、それから順に権力が段階をなして逓減して行ったのである。すなわち遠さの中で権力が生じたのである。>(註7)

とし、それが町人にどのような影響をおよぼすか次のように述べている。

<このような城下町の空間構造は城下町の景観を構成するゆえんであるばかりでなく、城下町の生活の構造であり、論理であり、理念ですらあって、城下町に住む町人の生活態度や生活感情を強く規定して、封建的権力構造における町人の卑しさを涵養したのである。>(註8)(下線原文)

次に「『類型的地域別』的構成および景観」として、城下町における「同一の職業のものが一所に集中して生活している相」(註9)をあげ、そこから「権威に対する服従の類型」(註10)が成立し、「人並」「世間並」という意識が生じることを述べる。

以上の両者から次のような権威的因果の観念と権威的価値感情が生じるとする。

<専制君主が天守閣に登臨して城下に拡がる街々をそのすみずみまで見晴らし、また城下の町人が城下町の隅々から天守閣を朝夕仰ぎ見るという城下町の景観は、生活の隅々までも厳重に法度によって規制せんとした法度政治の体験とあいまって、城下の住人の日常の生活の心のうちに、一切の存在の可能にし、統制する権威の存在を信じ、あらゆる現象のうちにその権威の意志を見ようとする権威的因果性の観念をいよいよ育成させるものがあったであろう。>(註11)(下線原文) この権威的因果性の観念が近世に特有なものであったかどうかは問題であるが、城下町の構造及び景観がこれを「いよいよ育成させる」ものであったことは確かであろう。

さきに「三十一日の御巻」の引用文で例示した富士を神として信仰する態度が、石田氏の考察によるこの時代の町人の封建的支配者に対する態度に正確に対応することが理解されるであろう。富士山という神に対する自己の位置づけの仕方と、封建的支配者に対する自己の位置づけの仕方とは、正確に同じパターンを踏んでいる。およそ宗教がその時代の民衆の意識をどのように掬い上げるかを考えると、決してそれを批判的に掬い上げはしないことを理解するのである。宗教は民衆の意識を民衆が満足するようにしか掬い上げはしないのである。

<宗教はこの世の中の一般的な、慰めと正当化との根拠である。>(註12)

封建的支配者が巧妙に押しつけてくる、秩序の観念に人々が何かしら割り切れなさ、疑問を抱いたときに、信仰という形で同じ内容を違った名称で繰り返すことは、この割り切れなさ、疑問を巧みに打ち消してしまう思想の手妻であるといえよう。

<宗教は、この世の中の道徳的批准であり、それのもったいぶった補充である。>(註13)

しかし、宗教は時として反封建的たり得る。それは宗教が自らを何ものにもまさる権威として定立したときである。わたしたちはそれを後年の天理教や大本教に見ることができる。しかし富士講においては自体は逆である。つとに村上氏が指摘するように(註14)、身禄以降の富士講は権力に迎合していくのである。わたしたちはそれを近世の社会的な条件に帰さないで、その教義において説明しなければならない。この場合、教義は民衆の思考の総体的表現として理解される。

宗教の権威は、再三既に指摘したように、その世界観にかかわっている。そして、富士講においてはその権威は富士山の実在によってもたらされるものであった。富士山という自然的なもの(超越的なものとしての人格神でなくて)に権威の根拠をおいてしまった以上、より大きな権威であり、そして自然的なものであった将軍の権威を超えることはできなかったのである。

富士講はついに反封建たり得なかった。


(3)比喩と呪術

富士中心の世界観と関連して、教義展開における比喩的な思考法を指摘することができる。それはさきに引用した六日の項や、女性を救済の対象として捉えた二十五日の教説などに典型的にみられる。

<人間の体男女等しき中に、わけて女をすくいの御本願ことごとく講じ聞すべし、まず此頂の髪は神への通音也、よって髪也、遠山の霞をもって黛也、顔ばせに赤白を粧ふ是月日なり云々>(二十五)

宗教の教義は比喩的に展開されることが多いが、その場合多くは難解である。しかし、富士講の場合は、きわめて明快で日常的な場から発想されている。

この明快な比喩で教義を展開した富士講の宗派としての運命を、天理教・大本教などの教義を難解な比喩で展開した諸宗派の運命と比べてみることは興味あることである。天理教・大本教などは、その難解な比喩の中に独自な世界観を構想して本質的には体制の否定に向かって行ったのを考えるとき、富士講が体制に迎合して行ったことが肯定できるのである。

富士講の思想が反封建的たり得ないで、ついに通俗道徳・支配思想に迎合して行くのは、フィクションとしての独自な構想を持ち得なかったからである。それは先に指摘した教義の比喩的な展開が明快で日常的な立場から発想されていることと、一方「三十一日の御巻」が聞書という形で成立していることに原因があると思われる。

聞書というものは、一方では観念より事実の方が価値があるという考え方に立ち、一方では自分の体験として語るよりは昔の人の体験として語る方が信憑性があるという考え方に立っている。ここから独自の構想が育つはずがないのである。

身禄の思想が呪術を否定しているとはよくわれることである。しかし、富士山を比喩の本体として教義を展開するのは呪術的思考法であるといえよう。比喩が教義としての力を持つのは先に指摘した類感呪術に基づくのである。「三十一日の御巻」を読んでも明確に呪術を否定しているのは、垢離精進についてだけである。

<御山登山の者、信心の者ども垢離精進、我天より云聞す事は、内心の邪悪、邪れる者うはべ計あらひそそぎたれば、内心のこりけっさいにはならじ、(中略)これに依て垢離精進、心に悟し、清めには内心の邪意を除き、水一盃を以て体へ納るならば、はるかなる垢離精進に増る事げんぜん也、云々>(五日)

では、垢離精進とは何かについては宮田氏の適切な引用文が示している。

<富士垢離、今日より六月二日に至る富士行者山伏毎日河辺に出で富士垢離を修して富士権現を遥拝す、是則富士参詣に同じきとぞ、男女疾病平癒を祈り、或は福をもとめ、諸の所願ある輩、此行人を憑んで祈願すれば、行人紙符を願主に授く又願主自ら行人に雑りて垢離を修するものあり>(註1)

或はここでは、山に登る前の潔斎という意味かもしれない。一方では、行商を行い、富士登拝を続けていた身禄には厳重な潔斎をして山に登ることは負担であったろうし、内面の問題を重視した身禄には形式的な潔斎は厭うべきものであったろう。身禄は吉田口御師田辺伊賀、田辺和泉の宅を登拝のおりの宿舎としていたが、狂信の徒として疎まれたので田辺十郎左衛門に頼った(註2)という消息はこの間の事情を示しているかもしれない。

身禄が垢離精進を否定したのは決して精進一般を否定したものではないし、ましてや呪術一般を否定したものではない。さきに垢離精進を否定した「三十一日の御巻」の文を引用したが「(中略)」とした所にその根拠が示されているのである。

<是によって今日只今御室前に申上候に、鱸と云える文字ふたつと有所の員数被下置、是只今汝が見る所にあらずや、汝何にても魚献ぜよと申付候に、塩いわしといへる魚を持参す、我是をとつて一つを前へなげ衆生へ授け、一つをば後へ投げ打、御山へ以来留置所也、汝信心の者へしらしめ垢離精進の二つをゆるす、(以下先の引用文(中略)以後に続く)>(同前)

垢離精進を否定する根拠がかように呪術的なのである。

安丸良夫氏は身禄の思想が呪術を否定したとして次のように述べている。

<ひとたび、努力=通俗道徳の真摯な実践に至高の価値を置いてみれば、実践者としての人間こそが至高の存在となり、さまざまの呪術的権威は失墜せざるを得ない。(中略)こうした立場にたてば、富士山頂に仙元大菩薩がいるとか、山頂に浄土があるとかいうのも、せいぜい比喩にすぎないものとなり、自然的、呪術的存在から人間の心へと神性が移されてしまう。>(註3)

この考え方は疑問である。安丸氏は「呪術的存在」と「人間的存在」を対立概念と捉えているようである。しかし、これは氏が自らの全体験をかけて「日本近代化と民衆思想」において批判した近代化論者たちと同じ考え方ではないか。「呪術的存在」と「人間的存在」を対立したものと考えるのは近代合理主義者のドグマに過ぎない。

身禄の思想においては宗教を形式的行為から内面の問題に転換することが必要だったのである。そしてその際、方法的桿杆となったのは、合理的思考法などではなく、呪術的な思考法だったのである。身禄の思想の前進性は信仰を内面化しようとしたところにあり、その方法として呪術的思考法をとったところにあるのである。親鸞の信仰の内面化が仏典の摂取という外来思想の利用において行なわれたのに対し、そしてそれが今日までの日本の思想の一般的方法であったのであるが、身禄においては伝統を革新することによって新しい思想を革新したのであり、この点において画期的なものであった。

村上重良氏は、富士講は「近代宗教」としての萌芽を有しながら、明治維新の変革の不徹底と民衆の政治的・文化的成長の限界によって「近代宗教」への脱皮に成功し得なかったとしているが(註4)、これは疑問である。富士信仰の教義の前進性として「呪術への批判、四民の平等観、信仰の合理化−内面化、職業倫理的な思想」(註5)をあげている。別の所で「近代宗教」の内容として、政教の分離(政治権力からの独立)、信仰の自由(信仰の個人化−内面化)、教義の合理化(非呪術的な教義)を挙げているから(註6)、「前進性」=「近代性」と見て以下批判する。

まず、呪術への批判をあげているが、「三十一日の御巻」を読むかぎり垢離精進を否定しているだけであり、これが呪術の否定でないことは前述した。

次に身禄の思想に四民の平等観があつたとは考えられない。安丸氏もそう解釈している。

<だが身禄は、一方でこのように身分制秩序を自明のものとして承認しながら、他方では、身分制秩序のどこに位置しようと、人間は本質的に平等であると強く主張した。>(註7)

村上氏はここで信仰の内面化と四民の平等観を取り違えているようである。信仰の内面化は確かに身禄の思想の特徴であり、これは富士講の「前進性」を示している。宗教を「近代性」という範疇で捉えることの是非を問わなければ、「内面化」=「近代性」としてよい。ヨーロッパの宗教改革における信仰の内面化の主張は、パウロの思想の復古として出て来ることである。単に内面的な信仰は汎時代的に存在し得るのである。これを以て近代とすることはできない。それがどのような連関の中で提起されているかが問題である。

因みにパウロにおける信仰の内面化の問題は次のように語られている。

<17 ただ、各自は、主から賜った分に応じ、また神に召されたままの状態にしたがって歩むべきである。(18中略) 19 割礼があってもなくても、それは問題ではない。大事なのはただ神の戒めを守ることである。20 各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである。召された時奴隷であっても、それを気にしないがよい。もし、自由になることができるとしても、むしろ奴隷の状態を保ちなさい。主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされてものであり……(以下略)>(註8・補註)

これは各々が既存の秩序の中で最善を尽くすことが人間として貴いことだという身禄の主張と一致する。そしてこのような考え方は、パウロの主張に典型的に見られるように決して「前進性」を示すものではないのである。むしろ宗教はその内面性ゆえに無原則的に体制に荷担するものとなり得るのである。

次に職業倫理的な思想であるが、これは確かに身禄の思想の中にある。しかも著しく「近世的」にあるのである。

<四民其家々の業を昼夜懈怠なく勤め、其余慶少しき間も、一度なりとも仙元大菩薩の御名を唱え奉り拝さば、是を誠の信心ともいいつべし、(中略)四民夫々の業にうとき時は米にはなれ、士は知行をうしない、農工商は餓に及の類顕然也、云々>(十七日)

かように身禄においては身禄においては職業倫理は身分制秩序を前提として主張されているものであり、一方では金を至上の価値とせず(註9)、分をわきまえよと説いているのである。

これを「近代的」と言えないことは、資本主義と宗教改革の研究の水準において明らかである。(註10) 資本主義の精神は、利潤の追求(金もうけ)を自己目的とし、何のため(たとえば贅沢のためとか子孫に遺すためとか)というのではなく、ただ「貨幣のために貨幣を追求」する、しかもそれが倫理的にみて善きことと考えられ、日常生活を専らその目的のために合理化し組織する(註11)、というものであり、この資本主義の精神の成立に、プロティスタンティズムは「職業」倫理を以て寄与したのであるが、身禄の思想の職業倫理はそのようなものではないことは明らかであろう。

身禄の思想に投影されたのは、一方では資本の蓄積の資本主義的展開を阻まれたときに生じる贅沢の思想の逆表現であり、一方では庶民の日常的な経済倫理である。


(4)救済観の構造

わたしたちは富士中心の世界観において、各人がその「分」にふさわしく努力することが価値であるという倫理が成立することを見て来たが、ではその倫理の実践はどのような救済をもたらすのであろうか。

およそ宗教においては、救済の構造の中にその宗教が持つ機能の全てが託されていると言っても過言ではない。救済観はその宗教を決定づける。

一般にもっとも簡単で且つ説得力のある救済観は現世利益であると言ってよい。殆ど全ての宗教が現世利益を伴っているし、前近代的宗教になればなる程この傾向が激しい。富士講とてその例外でなく、吉凶を占う「焚上げ」や病に効験のある「お肉」「おあか」「おふせぎ」等々がその活動の中心をなしていた。(註1)

しかし、身禄においては単なる呪術的行法のみではなく、信仰を内面的な問題としたということは既に論じた。これによって、身禄派は江戸富士講の中に圧倒的な影響を持ち得たのである。

とまれ、信仰の内面化はその救済観においても単なる現世利益ではなく、世界観的なものを要求するのである。いや、ここにおいて「救済観」がはじめて成立するのである。

身禄の宗教が組織しようとした対象は、江戸の町人が中心であったから、当然救済観は町人を対象とした特色を帯びてくる。

<士農工商則その業を懈怠なく勤る時、今日より明日、貴き自在の身にて生まれ増こと分明なり>(十四日)=(1)

これは勤勉という通俗道徳をそのまま教理の中に取り入れたものである。当然、怠惰は戒められる。

<かくのごとく(前の引用を示す)当時目当のあることを得道せず、闇然と送る者、明日人非人ともなるべきなり、尤後世生れおとる、其わけ顕然なり>(同前)=(2)

ところでこの「生れ増」「生れおとる」というのは他界観なのであろうか。宮田氏はこれを再生観としている(註3)ので以下検討する。引用の(1)では「今日より明日」生れ増、であり、(1)の前では士の主君への忠勤を説いて

<誠をつくさば今日より明日、すぐに生れ増の利分明なり>(同前)(下線引用者)

としている。また、富者の奢侈をいましめて

<仮当時万宝を得る身と成とも、其貧をわすれ奢に移る志出る時は、其時より生れおとるの理也>(同前)

としている。これらの例をみるかぎり他界観ではなく、現世において報ぜられるという考えである。用例を全文にわたって調べてみると、「生れ増」十例の内、はっきり後世と限定されているのは六例、現世においてととれるのが三例、単に「生れ増の理」を強調しているだけのものが一例、である。一方、「生れおとる」(或は「生れおちる」)三例は、後世、すぐに、不明の各一例である。はっきりと現世においてととれるのは次の二例である。ひとつはさきに引用した十四日の条であり、もうひとつは(3)章で引用した六日の例である。

いずれも「生れ増」その内容は専ら内面の問題である。では、他の箇所ではどのように「生れ増」「生れおとる」のか、その内容をみてみよう。

<後世公家殿上人大夫にも生れ増の理うたがひなし>(三日)

「生れ増」先が公家殿上人大夫だというのは、あまりにも現世利益的であるといえよう。他の「後世生れ増、生れおちる」の内容を検討してみたいが、実はないのであるる「後世生れ増」のように、「後世生れおちざる」ようにするにはどうしたらよいかは繰り返し説かれているが、その後世の内容をヴィジョンとしては提出していないのである。「後世生れ増」は他界観を示していない。

では「生れ増の理」は何を意味していたのであろうか。どうすれば「生れ増」のか、その内容を見てみよう。

これには勿論宗教であるからして、行をつめばそれに対して「生れ増」という功徳が与えられるというパターンがみられる。

<我登山入定の日より五十七首の詠歌をつらぬ、前に詠し候十五首と己上七十二首と成、前十五首を唱へ御宝前へいさめ、祭り事として是を勤る時、差当り病難すくひと成、後五十七首は後世へ生増の所謂のしめし也>(十日)

しかしこれは例外であって(この一例だけである。)、他の殆どは通俗道徳の実践に対して「生れ増」という評価が与えられるのである。例えば、「士農工商その業を懈怠なく勤める時」(十四日、既引)、「父母への孝を尽くす事」(十六日)、「悪人を善人にしたらん者」(二十八日)、「仮まづしき身なりとも、志誠をもってつくさば」(一四日)等々である。

一方、「生れおとる」理由を見ても、「其貴き身を請ながら、無道にして其貴我体を知らず、邪をなすの衆」(十四日)、「仮当時万宝を得る身と成とも、其貧をわすれ奢に移る志でる時は」(十四日、既引)、「むゑきの殺生このむ者」(二十七日)、日と邪意邪癡にして情を知らず、慈悲を知らずして其身を行ず」(三日)等々通俗道徳と表裏をなしている。このような通俗道徳が社会的にどのような役割を果たしたかについては既に安丸良夫氏の卓抜な指摘があり、それについては序に述べた。ではこの通俗道徳が宗教という衣装をまとって現われるのはどいうことであろうか。

通俗道徳の実践が社会的成功として報われなかったとき、或は通俗道徳の実践にもかかわらず貧窮化して行くとき、人はどのように考えるだろうか。一つには自己の実践を不十分とみなし、更なる努力を重ねるだろうし、一つには通俗道徳の理念に疑いをさしはさむことになろう。さらにもう一つの道として、それを観念的に補償することが考えられよう。それは一方では幕府による顕彰という形をとり、一方では宗教的価値づけ(宗教的顕彰)という形をとる。現実には支払われない、通俗道徳の実践の対価が「後世生れ増」と仙元大菩薩によって支払われるのである。従って通俗道徳の対価が現実に支払わなければ支払われないほど、富士講はその信者を拡大して行くのであった。

しかし、わたしたちはここに通俗道徳の実践には、その対価を要求する人々の願いが宗教的にではあれ、切なるものであったことを知るのである。安丸氏は「近世後期から明治にかけての民衆的な立場からの社会批判は、儒教道徳や通俗道徳の純粋化という観点からなされることが多かった。」(註4)としているが、通俗道徳の宗教的顕彰は、一時的にはこうした批判的な芽をつみとるものであれ、宗教的構想力と結びつけば、大きな批判力に転化し得るものであったろう。事実わたしたちはその例を天理教や大本教に見ることができるのである。しかし、富士講においてはそれはついに未発の契機であった。

近世においては「親の因果が子に報い」式の因果的世界観が多くの人々を支配していたであろう。また、石田一良氏は先に引用したように城下町町人に「権威的因果の観念」が生じることを指摘している。富士講においても当然このような考え方を受け入れているが、そこには富士講独自の展開がなされている。

<人の子として親よりきように多芸なりと誉称美する事あり、是皆其親に有、親の罪業少なき者の其子身の上、上げ用いらるる事也>(二十六日)

この観念から親はよく子を撫育し、子は親を敬えという論理が強調されるわけである。ここで富士講において注目すべきことは、親を敬うことが仙元大菩薩を尊ぶことになるという論理があるということである。

<父母への孝、仙元大菩薩御感応し玉ふ一つなり、父母への孝を尽くす事、是我を尊の元なり、我祖として守り居るなれば、後世生れ増の理顕然なり>(十六日)

一方、この因果観は親→子という世代的なものではなく、よい事をすればよい結果に報われるという単純化した形で出てくる。それを内面の問題として出していることに注意しなければならない。

<凡人間の境界善事をのぞまば能事うかむべし、悪事を望ば悪事におもむく、つねづね心掛に寄所也>(二十八日)

因果観が内面の問題に転化されるということは、仏教的な雄大な世界観からはなれて、日常的な次元にまで矮小化されることかもしれない。しかし、生活に根ざした実直な世界観になることである。そこから次のような注目すべき教義が生まれる。

<人間一人相続したらんには、堂塔伽藍寄附したらんよりははるかにすぐれたる大善なり>(二十八日)

因果的観念は仏教が流布されて以来、遍く存在したものであろうか、わたしたちはここに紛れもない近世町人の思想の刻印を請けた因果的観念のありようを見るのである。

商業によって生計をたてる町人にとっては、未来が予測し得る安定性を持つことが大切なことである。今日の労働が社会の安定によって確実に明日の収入をもたらすことが保障されねばならない。社会が計算可能性を持っていなければ資本主義社会は成立しないというのが、マックス=ウェーバーの論理であるが、近世の封建社会においては、国家はこの計算可能性を保障するものとしては存在しておらず、むしろその恣意的な政策によって町人社会の経済をしばしば混乱に陥れたのであった。この時、町人の社会の安定を願う心が因果的観念の支持となって現われるのである。そして、それは富士講において宗教的衣装をまとって現われるのである。

単に因果的観念のみをとりあげれば、それは汎時代的に存在したであろうが、因果的観念がこのような論理に支えられて存在するとき、それは「近世的」であると言えるのである。


(5)観念性の倒錯

身禄の思想においては米が特異な地位を占めているということは、すでに第2章で富士中心の世界観の構成原理になっているとして指摘した。水も同じように重要な概念として登場するので併せて考えてみよう。

およそ日本においては米は神または神に近い存在として尊重されてきた。そもそも何故米が寒冷地という困難を排して栽培範囲が広がって行ったかということや振り米の伝説等を思い浮かべると明瞭である。近世においては米は貢租の対象として社会構成上重要な役割を果たすことは、身禄の世界観の中における米の役割と照応している。

以下、身禄が米をどう考えていたか「三十一日の御巻」によって追ってみる。

まず、米=「神の菩薩」とみなす立場が次のように説明されている。

<元来、米、水より出、芽を生じ、昼は日の陽気を受そだち、夜は月の陰気を得て露をもつてふとりて後みのる事、誰ゆへぞや、月日仙元大菩薩の加護ならずや、しからば神の菩薩外になし>(十八日)

とし、この米を毎日食べている人間は(「体に菩薩(=米)納るゆへに」)仙元大菩薩と一仏一体であるとしている。次の十八日の項においては、四民それぞれの役割と米の関係に触れ、同じように「米を真の菩薩」を説明している。従って、善事をすれば米に報われ、悪事をすれば米に戒められる、これは次のような比喩によって説かれる。

<極る所悪不忠不幸の科、神仏扱玉ふべきや、いねの穀藁の縄にていましめられ、斬罪する事顕然なり>(十六日。十五日にも同じような表現が見られる。)

一方、水も真の菩薩である。それは次のように説明される。

<水を元とする米、真の菩薩なれど、苗水をもって葉茂り実のりても元水の徳なり、人間の体も元露の水より五体はじまる也、其体へ朝夕水をのみ、水の水の添力と成て、真の菩薩いますの理顕然なり>(二十日)

そもそも仙元大菩薩は水を司り、その水から人間は生まれるのだから一仏一体であるという論理に展開する。

<仙元大菩薩月の体なり、月は水を体とす、御山北を表とすること、水をもつゆえなり、人間の胎に含る時、まろき露なり、その露かたまって人となるゆへ、人間とても仙元大菩薩の御胤、一仏一体のひらき、是にて発明すべし>(六月二十三日)

では、富士講におけるこのような米や水の重視は一体何を意味していたのであろうか。

概して事物が極度の抽象性を帯びて登場してくる背景には、その事物との具体的な接触を失っているという事情が存在するであろう。たとえば、わたしたち日本人は他民族との接触が極端に少ない故、日本民族の民族性という問題について、抽象的な「理念」の問題としてしか考えることができない。

民間信仰における「田の神」や「山の神」を祭る習俗を考えるとき、そこには具体的な儀礼の展開によって神そのものは目に見えないながら、神を極めて具体的な存在とみなしている心意が存在していることがうかがえよう。すなわち「田の神」や「山の神」は、濃厚生活の具体的な展開に密接に結びついた、農耕儀礼の具体的な展開に伴って存在したのである。たとえば、田の神迎えにおける、種蒔きには苗代に苗印を立て、水口に季節の花を挿し、焼米を供えて田の神を迎える(註1)という種々の具体的な行為に伴って存在したのである。

では、人々が農耕生活から切り離され、その生活が「都市化」したとき、「田の神」や「山の神」はどのような変容をこうむるのであろうか。神々は具体性を失ったとき、はじめて抽象的な存在として登場する。「田の神」や「山の神」は富士講という農村から切り離された都市の宗教に、極度に観念的な「米」や「水」の神性として登場するのである。そして、この「米」や「水」の観念的な神性は、一度獲得した抽象性ゆえに普遍的な神として農村に逆流することが可能なのである。

しかし、この観念的な神性としての「米」や「水」は、なお「米」や「水」という具体的なものの観念化したものとして、抽象性の発展が限界づけられていると言えよう。


<結論>

市井三郎批判−−結論にかえて

以上、「三十一日の御巻」を中心に富士講について考察してきたが、いささか非難に過ぎたであろうか。わたしたちが思想史的課題を取り上げるとき、わたしたちはそこに何らかの積極的意味とりあげる一般であろうが、この富士講の考察においては、そのようにとりあげなかったようである。そこで、わたしたちは富士講が高く評価されている典型を取り上げて、それについて二・三のコメントを加えることもまた意義のあることだと思う。

それは『展望』72年1月号に載った市井三郎氏の

「民衆信仰と出版」(P84〜87)

という小論である。市井氏は宗教史の専門家ではないし、またこの小論も「出版時評」という形で書かれたものであり、厳密に追求すべき性質のものではないかもしれないが、それだけに富士講に対する肯定的な評価の典型をなしている好都合な存在といえよう。

市井氏はかつてキリスト教徒であったが、「キリスト教のみが地球上すべての人類にとって唯一の普遍的宗教である。」(下線原文)ということに疑問を抱いたことを理由の一つとしてキリスト教と訣別した。そして、富士講もキリスト教に匹敵し得る普遍宗教たり得るとして、「それを普遍宗教とみなすことをさまたげたものは、ただ偶然にも、身禄の死語において、パウロに匹敵する人物が現われなかった、こういう事情によるのではないか」としている。では何ゆえに富士講が普遍宗教たり得るかというその理由を、救済神信仰(ミロク信仰)=終末観思想に求めている。

この問題を検討するためには、普遍宗教とは何かを問いなおさなければならないが、ここでは通説(註1)や市井氏の指摘にならってパウロ主義として捉えることにしよう。

パウロ主義の特徴は信仰義認にある。救済されるかどうかは神によって義とされるか否かにかかっている。神に義とされれば信仰において本質的な自由を獲得する。このように信仰を高い抽象性において捉えるパウロの思想によってキリスト教は普遍宗教として発展したのである。一方、主において自由であるという論理によって、さきにコリント人への第一の手紙の引用で示したように、例えば現実的に奴隷であるかどうかは無視されてしまい、あらゆる支配体制を肯定してしまうのである。

これに対して富士講の信仰は、既にわたしたちが具体的にみてきたように、ある程度の抽象性を獲得しながら、なおまだ具体性(呪術性・日常性)をより多く抱えていたのである。殆ど外来の思想の助けを借りないで、これだけの抽象性を獲得したことは評価してよいことであろうが、やはり富士講が普遍宗教たり得るためには、一人のパウロが必要だったのかもしれない。しかし、富士講が日常性・呪術性を色濃く残しているところにキリスト教を超える(普遍宗教たり得る、という意味ではない。)根拠があるように思える。

とまれ、日本の諸宗教が民間信仰的な習俗をふりはらって「近代」宗教に脱皮するには、まだまだ長い苦闘の時間が必要だったようである。

ここでひとつ大胆な展望を述べさせてもらえば、日本においてパウロたり得るものは、実は<天皇制>だったのではないか、ということである。キリスト教が「近代」の誕生に立ち会えたのはその高い抽象性において、近代の普遍主義的イデオロギーの基盤を与え得たからである。では日本において「近代」の誕生に際して普遍主義的イデオロギーを担い得たものは何か。それは<天皇制>であるようである。日本の民衆諸宗教が明治維新以後<天皇制>イデオロギーになだれこんでいくのは、日本において普遍性を担い得る唯一の存在が<天皇制>だったからである。民衆諸宗教は純教理的に考えて(弾圧などの外部事情がなくても)自らを普遍宗教たらしめるためには<天皇制>イデオロギーが必要だったのである。この間の事情は、教祖はさておき、二代目・三代目の教団組織には理解されていたのではないかと思う。


参考文献一覧

<序論>

  1. 以下にあげる五つの論文は、これ以降の註においてそれぞれ、(1)は「富士信仰」、(2)は「ミロク信仰」、(3)は「世直し」、(4)は「富士講解説」、(5)は「民衆思想」と略記することにする。
  2. 『ミロク信仰の研究』序論 P33
  3.  同前 P14
  4. 「ミロク信仰」P166
  5. 「民衆思想」(日本史研究78号)
  6.  同前 P5
  7. 『日本の近代史学』(日本評論社昭和32年所収)
  8.  同前 P108
  9.  同前 P111
  10. 「富士講解説」 P641
  11.  同前
  12. 以下それぞれ伊藤本、三田村本と称することにする。

<本論>

(1)模造富士の構想

  1. 「ミロク信仰」 P164
  2. 同所碑文に大正13年4月初甲、改善修築とある。
  3. 「ミロク信仰」 P165
  4.  同前 P166
  5. 藤本進治『認識論』(青木書店1957年) P56
  6. 益田勝実「民俗空間としての風景」『伝統と現代 第4号 風景論』1971年3月
  7. この家の集合がどのような形態であったかは、次章において詳述する。
  8. 西山松之介「江戸町人総論」(『江戸町人の研究』第一巻所収) また、同氏「江戸文化の基底−−江戸市街発展過程よりみたる−−」 (史潮62・63合併号)所収による。
  9. 註7に同じ。
  10. 皮肉なことに、広重や北斎がその数々の名作の中に富士を描きこんでいたときは、富士講がもっともきびしく弾圧されていた時期であった。「富士信仰」P76参照。
  11. 『江戸名所図会』角川文庫版第4巻 P113
  12. フレイザー『金枝編』岩波文庫第1巻 類似律とは似たものは似たものを生じること、接触律とはかつて互いに接触したことのある事物は、相離れながらなおお互いに影響しあうことである。
  13. 「ミロク信仰」P166
  14. 石田一良『町人文化』(至文堂昭和36年) P56
  15.  同前 P57
  16.  同前 P59
  17. 「富士信仰」P69
  18. 柳田国男『日本の祭』角川文庫 P109
  19.  同前 P170

(2)富士中心の世界観

  1. 定方晟『須弥山と極楽』講談社昭和48年
  2. 排仏論の論拠として須弥山の非実在が説かれる事情については、日本思想大系57『近世仏教の思想』(岩波書店1973年)所収解説「近世の排仏思想」による。
  3. テキストは三田村本としたが、該本には用例がないので、伊藤本から引用した。以下註記がないかぎり三田村本からの引用である。原典は、六月十三日より七月十三日までの日付で項目だてられているので、十三日以外は日付のみで出所を示すことにする。
  4. 伊藤本。三田村本には概して伊藤本に比べて仏教用語の借用が少ない。これは後期の富士講において仏教臭を嫌ったためであろうか。
  5. 「ミロク信仰」 P168に詳しい。
  6. 前掲『町人文化』第一章第一節「城下町町人の生活態度」、特に第二項「城下町の構造及び景観と町人の生活意識」参照。
  7.  同前 P29
  8.  同前 P30
  9.  同前 P38
  10.  同前 P42
  11.  同前 P51
  12. カール=マルクス『ヘーゲル法哲学批判序論』(国民文庫版P330)
  13.  同前
  14. 「富士信仰」、「不二道の展開と幕府の禁圧」の章参照。

(3)比喩と呪術

  1. 「ミロク信仰」P157 氏はこれを『諸国図会年中行事大成』五月二十五日の条よりとっている。
  2. 「富士信仰」P63註(1)
  3. 「世直し」P12
  4. 「富士信仰」P85〜P86
  5.  同前 P85
  6.  同前 P77 註4
  7. 「世直し」 P13
  8. 田川健三『思想的行動への接近』(呉指の会昭和47年11月発行)第5章「パウロ批判の視点」参照 → 補註9
  9. 「三十一日の御巻」序に「金銀富けんぞく多くかしづき、然れども人間八十八の寿命米一粒なり、金銀はかへってあだなる事を見開き、云々」とある。
  10. 大塚久雄『宗教改革と近代社会(四訂版)』(みすず書房1964年)参照。
  11.  同前 P8より引用。
  12. 補註 コリント人への第一の手紙、第7章第17・19・20・21・22節、日本聖書協会1954年改訳による。但し、第21節の後半は誤訳なので田川健三訳によった。

(4)救済観の構造

  1. 「富士講解説」 P636
  2. 「富士信仰」 P63
  3. 「ミロク信仰」 P180 以下
  4. 「民衆思想」 P57

(5)観念性の倒錯

  1. 桜井徳太郎「日本民間信仰論」(弘文堂昭和47年)、大塚民俗学会編「日本民俗事典」(昭和47年弘文堂)等々参照。

<結論>

  1. 荒井献「原始キリスト教の成立」(「岩波講座世界歴史2古代2」)参照。
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