ケムの世界一周旅行

1999年(平成11年)11月2日〜26日  海外教育事情視察派遣

11月1日 11月2日 11月3日 11月4日 11月5日

11月6日 11月7日 11月8日 11月9日 11月10日

11月11日 11月12日 11月13日 11月14日 11月15日

11月16日 11月17日 11月18日 11月19日 11月20日

11月21日 11月22日 11月23日 11月24日 11月25日

開設日:2003年1月1日  

アクセス数   


このページはケムが文部省(当時)の海外教育事情視察で世界一周旅行をしたときの個人的な記録です。そのときのメモを元にまとめたものですが、その後、通信制大学院に入ったり、仕事にかまけたりして、遅れに遅れましが、3年ぶりにやっとまとめました。

まったくの個人的な記録です。2003年元旦を目標にまとめました。

このホームページについてのご意見、ご感想をお寄せください。ケム まで,メールをいただけると嬉しいです。

出発の前日は大雨

第0日 11月1日(月) 大雨

1.宿泊地 日本 成田
2.日 程 国立教育会館 リムジンバス

大雨の中、紙袋に報告書の資料とスーツケースに入れ忘れた荷物を入れて、家を出る。風が強く、秋葉原で乗り換えのときに、次の電車がビニールが架線にひっかっかって、とまっているという放送があった。

国立教育会館で最終打ち合わせ、団の荷物を分担して持つ。文部省の前で記念写真。リムジンバスで成田へ。全日空ホテル。吉田さんと同室。何とVAIOを持っている。奈良へアクセスしている。旅行中はNIFTYで日本へアクセスする予定とのこと。このホテルの水道栓はアメリカ製で、日本と反対に栓を引くと水が出る。はやくも外国へ来た気分。団で会食。中華料理。

答礼懇談会で使うお土産で、日本らしいものを買ってなかったので、「“祭”マーク入りの手ぬぐい」を買う。300円×6。旅行案内書を見てお土産に電卓を買ったのは失敗! やっぱり今の時代電卓はありふれている! 外国であげて一番喜ばれたのは『6カ国語対訳会話集』。お土産ならこれが一番!

エールフランスは座席が狭い

第1日 11月2日(火) 晴れ しかし雲が低くたれ込めている

1.宿泊地 機内
2.日 程 飛行機で移動

ホテルの10階の窓でメモを書く。

朝食はバイキング。ホテルから空港にバスで移動。搭乗手続きをした後も買い物ゾーンがある。たばこや酒を買い込んでいる人も。

12時30分、無事離陸。飛行時間13時間。行っても行っても夜にならない。太陽を追いかけて飛んでいる。機内で昼食、夕食。両方ともワインを飲む。エールフランスは座席が狭い。苦しい。

エールフランスの飛行機 
エールフランス−この飛行機に乗りました

パリ、シャルル・ドゴール空港に着く。5時半。日本では夜中の11時30分。はじめてのヨーロッパは空港の中だけ。

時計を現地時間に合わせる。+8時間して、日付・曜日を戻す。

乗り換えの待ち時間が2時間。ブタペストへ2時間。この飛行機は小さくて座席はもっと狭い。苦痛だった。夕食が出るが米の味付けが違って食べられなかった。

通訳のラッツオーさんが空港にまっている。日本語の発音はうまい。しかし「〜でございます」を連発して、なんだかバカ丁寧な日本語。

ブタペストのホテルに着く。ホテルの階の表示が日本と違う。客室のある階から1階、2階と数える。フロントのある階はC階。

ラッツオーさんの説明はくどい

第2日 11月3日(水) 晴れ

1.宿泊地 ジェール
2.日 程 ブタペスト観光と移動

朝、吉田さんとホテルの裏手にあるドナウ川を散歩。

ドナウ川
ホテルの裏にあるドナウ川の朝景色
ホテル近くの住宅街の朝

1ドル=240Ft、1Ft=0.6円。50$両替。国際テレホンカード800フォリント(Ft)。日本のテレカに比べたら分厚い。中にICチップが入っている。

ホテルの中に国際電話のできる公衆電話がないので、外の公衆電話から家に電話する。分厚いカードを電話機に押し込んで、また引き抜く。日本のように薄いカードをうまくロードする技術がないので、分厚いカードを使うんだとのこと。

水道水は飲んでもよい。ミネラルウォーターはガス抜きで頼むこと。(ハンガリーでは普通は炭酸ガス入りを飲んでいる。)

運転手、ゾルタさん。

ハンガリー国旗の真ん中(ソ連の部分)をくり抜いた国旗(ソ連時代のをくり抜いて使っている)を見かけた。

英雄広場。ソ連から独立した後で、建国の英雄達をたたえる銅像を建てる。ラッツオーさんは発音はうまいが、「とにかくも」が口癖で、敬語を使いすぎて、説明がくどくて閉口。

街中をトロリーバスが走っている。昼間なのにライトをつけて走っている車が多い。日本車も多い。マツダ、スズキ(工場がある)、三菱。

聖イシュトバーン大聖堂 絵はがき 20Ft、30Ft

王宮の丘、三位一体の広場。トイレに50Ft。ヨーロッパではトイレは有料だ。朝は水分を控えて、トイレがどこにあるか絶えず確認する。トイレに行けるときはとにかくいっておく。トイレが近い身には旅行は苦痛だ。Tシャツ2,980Ft、これはよかった。ハンガリーの歴史の本1,100Ft。

聖母マリア教会。漁夫の砦。ドナウ川のそば。

「ブタ」は日本で言えば「太郎」のような名、「ペスト」は「炉・かまど」の意味。元は別の2つの街が一緒になって「ブタペスト」。

バスで街の中に移動して昼食。2,000Ft(団共通費)、生ビール500Ft。グヤス、スープ、サラダ、子牛の肉、アイスクリーム。ミネラルウォーター(400Ft)、コーヒー(300Ft)は別で、支払いのときにもめる。レストランの近くの本屋で英語で「手話の本はないか」ときくが通じない。「手話の本はありませんか」を英語とドイツ語とフランス語で書いた紙を持ってくればよかったと後悔。

市内のビルは落書きが多いのでびっくり。ビルの高さはだいたい5階建てにそろっている。

数字に書き方が違うので注意。特に「1」「7」。「1」は最初のはらいが妙に長い。「7」は「F」180度回転させたような形。

バスで、ジェールに移動。ホテルは2部屋ある豪華さ。204。トイレも2つ。内線電話は2+部屋番号。

夕食は散歩してレストランを探して、地下のお店で3,500Ftの豪華なディナー。楽団付き。AMSTEL BEER

初訪問

第3日 11月4日(木)

1.宿泊地 ジェール
2.日 程 午後:教育委員会 午後:KAZICZY FERENG SECONDARY SCHOOL 

朝食7時、9時集合、正装(ネクタイ)。9時45分、教育委員会、歌集、荷物持参。

(午前)市の教育局

ホテルのすぐそばの市役所(美術館のイメージ)の中にある教育局にいく。案内役・副教育局長(女性)教育局長はオラシエさん。説明の場所は市会議場。

【説明】工業化で失業は少ない。ジェールはハンガリー第3の町。児童・生徒3万1千人。市役所は102年前に建てられた。議場は、議会だけでなく、国際会議や文化的な催しもやる。34mの塔があり、周囲30qが見える。(後でのぼる。)

6歳になっても入学できる水準になければ1年間待つ。義務教育は16歳まで。9月1日の憲法改正で18歳まで。16歳からは職業教育。

昼食はマクドナルド。イメージカラーの黄色に色合いが日本よりくすんでいる。カウンターにいるのは成人男性が多い。ビッグ・マック・メニュー(セットとは言わない。コーラとフライドポテト付き)520Ft。てりやきバーガーはない。

なぜか忘れて来てしまったので、半袖の下着を探すが見つからない。代わりにTシャツ adidas 499Ftを買う。(夕方、別のデパートで下着を見つけるがハンガリー人仕様で丈が長い。仕方がない(^_^)v 1,199Ft。後日もう一つ買う。)

数字の表し方:立てた親指が「1」
親指と人差し指で「2」←日本手話では「6」

(午後) KAZICZY FERENG SECONDARY SCHOOL

もともと女子校として創立されたが今は共学。860人(男260人、女600人)規定では35人だが、希望者が多いため40人学級になっている。

図書室で歓迎、コーヒー、ガス入りミネラルウォーター、お菓子。
ハンガリーの詩人でスロバキヤに住んでいる人の詩の朗読、祖国統一の思い。500万人のハンガリー人が外国に住んでいる。
YAMAHAの笛でハンガリーの曲をひいた。

図書室での歓迎会

45分授業、7時45分までに登校、7時50分から授業開始。2時15分に下校。3校時の後、20分の休憩があっておやつを食べる。学校で昼食を食べるのは生徒の約半数(860人中450人くらい)。

卒業生の写真が展示してありました
パソコンの授業をしています

寮あり、100人(女80人、男20人)。寮費はなし、食費は材料費のみ。4時までに帰る。7時まで勉強。月に2回の外出日があり、9時まで外出できる。金曜日の午後には帰宅。相互に教え合うので寮生の方が成績はよい。

制服(セーラー服)は、国と学校の祭日のときに着る義務がある。

教員は20コマの授業(45分授業でも1時間とカウント)と準備時間20時間で計40時間労働になる。

PATIOというお店で団の会食会。団共通費。

夜、日本に葉書を書く。

校長が学校の責任をもつ!

第4日 11月5日(金)

1.宿泊地 ジェール
2.日 程 学校訪問2校 

朝(6時→7時)、市街を散歩。久山、井上、吉田、竹村。久山さんは歩くのが速い。昨日訪問した学校のそばで右折してドナウ川、ほぼ四角く一周する。コンビニみたいなお店、安そうなお店にあたりをつける。

8時30分集合、8時40分バス発車

(午前)ADY ENDRE ALTALANOS ISKOLA

そろばん教育をしている。最初SOROBANと書いてあってなんだろうと思ってしまった。算数で。7年前から。この学区では唯一だが、全国的には他の地区にもある。計算能力、記憶能力を開発。dyslexia失読症の研究をしている。

ガスなしのミネラルウォーター、ケーキ、紅茶で歓待してくれる。日本ではこんなことはない。我々が特別なのか、ハンガリーの風習なのか。ドイツでも同じようだったから、こちらの風習なのかもしれない。

新興住宅地(団地)に新しく建てられた学校(1969)。教員34人、司書はパートタイム。ジェールは河の町。

学校の活動範囲は、自治体の教育局によって決められているが、両親は自分の子どもの学校を自由に選べる。学校に教育プログラムは違う。(外国語中心、スポーツ、音楽。)スポーツは週3回。サッカーとバレーが好き。活動範囲の生徒が優先入学。定員オーバーになった生徒には別の学校を提案する。

「学校評議会」年3回開く。(自治体3人、学校3人、両親3人、生徒3人) 年2回PTAがある。

1年〜4年(下科)すべての学科を一人の先生が教える。
           例外:外国語とスポーツ、音楽(4年)

 5年〜8年(上科)教科別、一人で2つの教科を教える。
           例:ハンガリー語と外国語、数学と物理学

(午後)ADY ENDRE PRIMARY ISKOLA

英語の授業をみた。自然法で教えていた。6歳で1時間、7歳で2時間、8歳で3時間教えている。教科書、ノートのたぐいはいっさい使わない。黒板におおきな象さんの絵を描いて、周りに食べ物の絵カードをたくさん張り付けて、その絵カードの単語を確認した後で、絵本を使って象さんの話に入っていく。童話の読み聞かせをしながら、英語を教えていく。若い女性の先生だったが、その間いっさいハンガリー語を使わなかった。話は最後に用意してあるお菓子とジュースに結びつけて終りになった。児童数は6人くらい、聾学校みたいな人数だった。一つのクラスを分けていて、別のグループはドイツ語をやっている。

英語の授業−自然法

25人の参観者を5つのグループに分けて、それぞれのグループにじっくり見学させてくれたこの学校の参観方法は一番ていねいなものだった。そのためには参観の引率者を5人もつけなくてはならないが……

玄関のところが大きなホールになっていて、そこで歓迎のアトラクションをたくさん披露してくれた。

最後の教員との懇談会では、コーヒーとブランデーが出た。ブランデーにびっくり!

新興団地の中にある。創立10周年。生徒数840人、33クラス。1クラス20人〜33人。先生70人(内男12人、教師の給料は安いので男性は少ない。校長は女性、副校長2名は男性。) スタッフ30人。外国語は英語とドイツ語を教えている。

校長64,000Ft、(大学教授75,000Ft)、平均33,500Ft 残業手当あり。クラス担任は1,300Ftの手当てがつく。定年は55歳から62歳にのびる。

校長は任期5年、市長が以下のところの意見を聞いて決める。教師団体、両親、生徒自治会、従業員、公務員評議会、学校評議会、教育局評議会、自治体の代表。(通訳が教育問題を余り得意としていないので、この辺は不正確です。)

しかし、校長は、次の任期も校長になれるように、学校の特色づくりに努力するので、校長のパーソナリティが色濃く学校に出るようです。再任されれば都合10年やることになる。(3選禁止かどうかは聞かなっかた。)「管理職は3年で異動が当たり前」という、どこかの国の校長みたいな無責任体制にはなりようがない! ここの女性校長は自信にあふれていた。

物価:マクセルのCD-R 800Ft、映画のDVD 4,000〜8,000Ft、女性のスーツ12,000Ft(ただし、ジュエールの中心街なので、これは日本で言えば銀座の値段)

ジェールの朝市・ワークショップ

第5日 11月6日(土)

1.宿泊地 ジェール
2.日 程 午前中は自由、午後はワークショップ。

午前中は日程なし、ゆっくり寝ている。同室の吉田さんは、久山さん・井上さんと朝の6時から散歩。

朝の8時半に食事して、両替70$して、吉田さんの案内で散歩に出る。ジェールの朝市。ドナウ川沿いに衣料品を売る店が多い。散歩はとても気持ちがいい。スーパーにも行く。パプリカ6袋、クリスマスカード35枚(貞静保育福士専門学校の生徒たちへのお土産)。カレンダー3つ(380Ft)。下着も買う(1,190Ft)。ハンガリーは物価が安い。

朝の風景 1 朝の風景 2
朝市 1 朝市 2

ウィーンの地下鉄は乗りやすい

第6日 11月7日(日)

1.宿泊地 ウィーン(Wien)
2.日 程 移動日 ウィーンへ

9時荷物、12時チェックアウト、1時出発。

地図でみた博物館を探してみんなで散歩。散歩の途中有料トイレに入る(30Ft)。昼もレストランで1,500Ft、コーヒー付き。しかし食べ過ぎで、きつい。

バスでウィーンへ 。高速道路。窓からずっと外の景色を眺める。国境の通過も高速道路の料金所を通過する感覚。会計係は両替が大変。団全員のまとめて面倒をみてくれる。

高速道路からの眺めはよかった。人家のほとんどない丘陵が続く。ヨーロッパに来たなと感じる。大戦中はここをドイツ軍の戦車が駆けめぐったのかと感無量。それにしても人家のない畑が続くということは、それだけ土地が貧しい(日本みたいに単位面積あたりの人口を養う力が少ない)ということか。

1シリング(ATS)=11円(JPY)、Ftからだと1ATS=15円。

ホテルの枕銭は10ATS、オペラ座の席の案内は20ATS。レストランはサービスチャージがあれば不要、なければ10%〜15%。地下鉄はウーバンという。

治安はいい、オーストリアは人口900万人、ウィーン150万人。ウィーンでウィーナコーヒーと言っても、ウィーンのコーヒーは全部ウィーナコーヒー。メナンジュと言う。子牛のカツレツ(ウィンナシュニツェル)がおいしい。

有料TVがあるので注意、PAY-TVはクレジットカードのインプリントが必要。インプリントとは、あらかじめクレジットカードで支払う用紙を記入しておいて、チェックアウトのときはサインをすればいいようにしておくこと。

ホテルに着く。部屋は別館でフロントから遠い。古い。中庭に面している。

200$両替。1ATS=12円?。ホテルのフロントで明日のコンサートのチケットとウィーンカード(210シリング)を買って、地下鉄で出かける。

地下鉄に改札はない。最初の乗るときにウィーンカードに年月日時刻を入れるだけ。72時間有効。駅の券売機で買っても改札はしない。日本なら自動改札機があるところに、ここから駅だよと示す棒がたっているだけ。観光案内にはときどき検札があると書いてあるが、団員の誰も検札されていない。

市の中心に出て、吉田さんのもっていた観光案内に従って日本語のメニューのあるレストランに行くが、客は日本人ばかりウィンナシュニツェとビール。

帰りに地下鉄の構内の本屋さんでドイツ語のコンピュータ雑誌を2冊買う(106シリング)。

シェーンブルン宮殿

第7日 11月8日(月)

1.宿泊地 ウィーン(Wien)
2.日 程 午前はシェーンブルン宮殿、午後は自然史博物館、夜はコンサート。

朝はコンチネンタルブレックファーストと言われたが、行ってみるとバイキング。

9時週発、5分前集合。案内はアイツンガーふみ子さん、シェーンブルン(美しい泉)宮殿を見学。ふみ子さんの案内は機関銃のよう。宮殿の部屋の来歴の一つひとつをよく覚えている。ただしほとんど右から左へ抜けるだけ。

最後に庭へ出る。記念写真。遠くに丘があるので何人かでそこまで往復する。時間ぎりぎりで疲れた。出口でまた記念写真。

午後は自然史博物館、歩き疲れる。興味がないが説明は聞く。

伊勢丹で買い物。高いのでびっくり。そこで解散、浜田先生と吉田先生と行動。ステハン大聖堂の塔にのぼる。疲れた。小さい部屋で展望台になっている。売店もある。売っているのはもちろんキリスト教関係の小物。眺めがよい。ウィーンが見渡せる。ここに登ったことは自慢できる。

ワインのおいしい店に入る。ビールはない!

ホテルのひとつ前の駅で降りてシェーンブルン宮殿でのコンサート。趣向のある楽しいコンサートだったが、疲れてほとんど眠ってしまう。

ウィーンの午後は単独行動

第8日 11月9日(火)

1.宿泊地 ウィーン(Wien)
2.日 程 午前は市内観光、午後は自由行動。

午前中はバスで市内観光、中央墓地。名誉墓地(モーツアルトはお墓がどこにあるか分からないので、記念碑になっている。他の有名人はここに墓を移動した。)お葬式の写真は撮ってはいけない。

ウィーン市は建物の高さ制限があって中心街は14mまで、その周りは21mまで。新ドナウ、21q、水門で閉ざされている。郊外にはWeekendハウスがある。

美術史博物館、歩き疲れる。そこで解散、午後は自由行動。ただし雨。

単独行動で、王宮にいき、そこでコーヒーを飲む。

テレカ100ATS、家に電話、浩希が出る。環状線の電車で移動。オペラ座の観光案内は60ATS。BODYSHOPがあった! 石けんの小さな壜が39ATS。ガイドさんの紹介のあったマルクトというバイキング形式の店で食事。ビール、ステーキ、野菜で193ATS。

環状線の電車の窓から
ボディショップもありました

最後は地下鉄に乗る。郊外の駅まで行ってみる。U4、U1。日本人らしい人と乗り合わせたがお互いに無視。現地で働いている人かな?

地下鉄

両替20$=240ATS

国境はチェックなし

第9日 11月10日(水)

1.宿泊地 レーゲンスブルグ ホテル・マリオット
2.日 程 移動日 オーストリアからドイツへバスで移動

朝、少し雨、シェーブルン宮殿を一人で散歩。公園の入り口で家に電話をかける。庭は広い道で幾何学的に区切られていて、まばらなに植樹されていて、なかなか散歩にはよかった。

高速道路で移動、ほとんど防音壁がないので風景がよく見える。街に近づくと防音壁あり。日本みたいなサービスエリアはあまりない、パーキングエリアは日本より多いが、20台くらいの駐車できるスペースと簡易トイレのみで売店はない。

高速道路−バスの窓から

土地が広い。途中、メルクという街で休む。各自昼食。団長、副団長、添乗員と一緒に定食を食べる。定食60ATS、ビール33ATS、チップと合わせて100ATS。

オーストリアとドイツの国境はチェックなし。バスに乗ったまま知らぬ間にすぎてしまう。

レーゲンスブルグ着、ホテルマリオットは街外れ、フロントでDM(ドイツマルク)に両替できない。フロントは現金を持ってるだけしか両替してくれないし、両替のために銀行から現金をもって来る気はさらさらなし。

DMがない、街から遠い(バスは30分に1本、街まで2DM)、雨が降っている!で、大部分の団員はホテルのレストランでクレジット・カードで食べる。ドイツ、パリが同室の大原さんと食べて、大原さんのカードで払う。後で聞いた話では、久山さんたちは街まで買い出しにいった。

1DM=1.88$、1DM=60円。枕銭1DM。

レーゲンスブルグ市の賓客

第10日 11月11日(木) 晴れ

1.宿泊地 レーゲンスブルグ(ホテル コートヤード マリオット)
2.日 程 レーゲンスブルグ市教育委員会 Von Muller Gymnasium

ドイツでの視察は、レーゲンスブルグ市長の表敬訪問から始まった。セカンド・マイスターの歓迎の挨拶。旧市役所は帝国議会の会場。(1663〜1806年、神聖ローマ帝国の議会の常設開催地。) レーゲンス(川の名)ブルグ(砦)。

帝国議会の会場−王の王の玉座

教育委員会での質疑や、Von Muller Gymnasium の訪問は視察報告に譲って、この日の課題もいかに現地通貨を獲得するか。ホテルにはわざわざ両替のための現金を用意しようなどという親切心はない。視察の合間を縫って銀行に駆け込むが、トラベラーズチェックは高額の手数料が必要と言われて、最後に残っていた日本円1万円をドイツ・マルクに両替する。

夕方にはそのお金を持って、お酒にあんまり強くはないがビールだけは大好き、勇んでビアホールへ。庶民のビアホールなので英語が通じない、隣の席やカウンターを見て注文。ところがそのカウンターでジョッキを洗っているようすを見て8人みんながびっくり! ほとんどジョッキが入るだけの穴が2つあいていて、一方には洗剤、もう一つにすすぎ水が入っていて、そこに一回ずつジョッキを入れるだけ、もう次のお客へのビールを注いでいる…

それでもおいしくビールを飲んでいると、ドイツのおじいさんからいきなり握手を求められた。今朝の市長の表敬訪問でいただいたレーゲンスブルグ市の記章を胸に刺しているのが見えたらしい。言葉は通じなくても、我々はレーゲンスブルグ市の賓客だ! ビヤホール,ビール一人3杯,おつまみはまとめて8人分,パンで,一人260DM。

通訳は西沢さん、ミュンヘンから来た。企業通訳が多いとのこと。この人は旅行の中で一番まじめで力のある通訳だった。市役所の人、ホルツ・バウアーさん。

キンダーハウス幼稚園

第11日 11月12日(金)

1.宿泊地 レーゲンスブルグ(ホテル コートヤード マリオット)
2.日 程 キンダーハウス幼稚園 レセプション

キンダーハウス幼稚園
幼稚園と保育園、学童保育が同一施設内にある。建物の中が区画されている訳ではなく、日本の感覚で言えば、1組の教室が幼稚園、2組の教室は保育園、3組の教室は学童保育という感じである。

クラスは異年齢で15名、障害者が混じっている。幼稚園と保育園は厚生省の管轄である。バイエルンでは保育園が多く、そのほとんどは市立であるが、ここの建物は厚生省が管轄している。(モデル校か?)

ドイツ、バイエルン州レーゲンスブルグでは幼稚園は義務教育ではない。従って幼稚園は子どもを養育する場であると捉えられている。しかし州の教育委員会では、小学校入学前の準備を目的とし、そのカリキュラムを提示し、就園を親に呼び掛けている。園長は「就学前の準備 として学習能力を高めるプログラムはあるが、子ども達は遊びの中で学んでいる」と述べた。

日本と違って、床がかたい。子どもがけがをしないように防護策は?と聞いたら、「人間はいたるところに危険があるのだから、それを大切にしたい。」という返事だった。

養護教諭をおくところはない。小学校でも養護教諭をおくところはない。障害児の多いところは、看護婦をおく。先生の資格はとくにない。

8月、クリスマスからお正月まではお休み。他はあけておく。8時から受け入れる。5時15分まで。金曜日は5時まで。共働き。物価が高い。また片親も多い。弁護士、医者、外国人(ドイツ語を教えるため)。親が希望すれば入れる、あいていればOK。重要度を判断する。私立幼稚園はない、市立、カトリック立が多い。

夜はレセプションだった。メインの席を割り当てられ、通訳の佐藤さんもいるので、かえって話しにくい。お土産の電卓をもって来たのも失敗だった。やはり日本のお土産の方が話題を作りやすい。「祭の手ぬぐい」はよかった。話題を見つけるのが大変だった。こういうのは苦手。

レセプションが終わった後、庶務係のご苦労さん会につきあう。街へ往復ともタクシー。片道100DM、店を探すが、時間が遅くて、開いている店がない。やっと見つけた店はコックが帰っていて、料理が出ない。ウエイトレスの権限で出せるのはパンとポッキーのみ。通訳の佐藤さんの紹介で小麦のビールを飲む。薄味だがうまい。

レーゲンスブルグ最後の日

第12日 11月13日(土)

1.宿泊地 レーゲンスブルグ(ホテル コートヤード マリオット)
2.日 程 SINIOREN WORKSTATT と SINIOREN HEIM

朝、一人で散歩して、バス停のところにある石像の写真をとった。

ホテルの周囲には石像がたくさんありました
印象に残りました

視察は、SINIOREN WORKSTATT と SINIOREN HEIM(高齢者の高齢者による高齢者のための事業所と老人ホーム)であった。これは同じところにある。

「老人施設」といっても、「若い老人」は45歳で入る、最年少は34歳! 要するに仕事を引退した人を「老人」といっているらしい。法的には60歳定年だが、テレコムなどではリストラ。陸軍は52歳で定年。年金生活に入ったけど、働ける人を「高齢者のための事業所」は、老人は知識を持っているので、それをボランティアで生かしていく。

1.家具の修理など ただし、専門の店を圧迫しないように、お客と老人が一緒にやることになっている。最小限の費用、経費相当分の費用を請求。

2.講座 鳥の巣箱を作る
      木の表面をみがく。

利用は、1日5〜6人、年間1,000人

「老人ホーム」

この施設の来歴 1720建築 富裕な商人の庭付きの城 → 1722 帝国議会の派遣団の宿泊所、→プロテスタントの教会 → 1829カトリックに買収 →1833老人ホーム→ 1883修道院 Sister が老人の世話 1894 新しい建物(新ロココ様式) 1967大火事 → 現在

運営はカトリック財団、管理は市。98人。74人は要介護。 スタッフ54人(パート含む) スタッフの半分は要資格。24時間サービス。説明してくれた施設長は、ドイツの貴婦人であった。

バスで街を一周して、石橋のところに移動、記念写真を撮って解散、自由行動。焼きソーセージ。郵便局でテレカを買って電話。ドイツのテレカはIC式。ハンガリーと同じ。12DM。3分くらいで終わってしまう。

石橋での記念撮影

デパート。ビジネス情報科の生徒のためのクリスマスカードを買う。APSフィルムを買う。 Fuji ASA400 40枚 9.99DM。デパートの食堂で食事。

石井、藤原、志賀、久山先生と一緒に市立博物館を探すが休館日。志賀先生と一緒にケプラー博物館。そこで吉田、浜田先生と一緒になってビアホールに行くが現地通貨がない、カードが使えない。仕方がなく、昨日昼食をとったレストランに行く。竹村がまとめて払う。4人分で142DM(8,946円)は日本に比べたらバカ安!

2,810$(290$両替)+1万円+VISAカード142DM(8,946円)

パリに移動

第13日 11月14日(日)

1.宿泊地 パリ
2.日 程 レーゲンスブルグからミュンヘンにバスで移動。140q。
    飛行機でパリに移動。

新大陸へ移動するためにパリに2泊する。

両替にあたって「枕銭は5フラン。ショーは1万3千円(夕食込み・2人シャンペンが1本)。クレージーホースは別です。」という説明があった。

どこかの女子校が修学旅行に来ている。豪勢な女子校だ!

ホテルのロビーで説明を聞いた後、部屋に移動するときに、小さい鞄を置き忘れてしまった。パニック。幸い飯島さんがしっかり預かってくれていた。翌日の昼食にビールをおごる羽目に。

ホテルは朝食あり。6時から10時半まで。明日は9時に集合して、10時15分にルーブル美術館を見て、午後は三越デパートによって自由行動という説明があった。

夕食2回分の費用として、200$を1,166フランスフラン(FF)に両替する。1フラン=18.43円。

吉田さん、志賀さんと地下鉄でオペラ座の近くのハリューズ・バー(harry's Bar)にいく。現地人しか入れない雰囲気なのであきらめる。オペラ座は改築中で幕に覆われていた。近くの海鮮料理店へ。HAPPY HOURという店。アドベンチャーコースを3人で1つ頼む。オイスター、貝、かき、ロブスターの??で、とてもおいしかった。(しかし翌日下痢になったのはこのせい?)200FF。ワインは40FF。

シャンソンで有名なハリューズ・バー

通りを歩き、10時30分にホテルに帰る。行動はすべて地下鉄。1回乗るのに8F。駅間隔が狭い。

10時半(日本時間朝6時半)に、ホテルからKDDのカードで家に電話。

パリの単独行…

第14日 11月15日(月) 

1.宿泊地 パリ
2.日 程 新大陸へ移動するための中継地での1日のホリディ

パリに行ったら是非モンマルトルの丘へ行ってみたい、シャンソンを聞いてそう思っていた。パリのホテルに着いたら、日本人団体向けの掲示板に「モンマルトルの丘は危険地帯!」と書いてあったのにがっくり。でもガイドの佐藤さんに聞いたら「置き引き、ひったくりで、危いといえばどこでも危いですよ」と言われて行ってみることにした。

パリは乗り継ぎ地なので、2泊はするが、ドイツからパリ、パリからメキシコへの移動の間に1日のみが教育文化施設訪問にあてられているのみ。バスによる市内観光の後、ルーブル美術館、ノートルダム寺院を見て、みなさんが日本の百貨店に買い物に繰り出す瞬間に単独行動開始。昨日の夜の行動でパリの地下鉄の乗り方は分かった。パリの地下鉄は初乗り運賃8Frのみで改札を出なければ何度乗り換えてもいい(1Frは約18円)。駅と駅の間隔はバス停感覚(間隔!)。パリの地下鉄で困ったのは、駅の看板に両隣の駅名の表示のないこと。地図を片手に一つひとつチェックしていないと降りる駅を見落としてしまう。

地図で見当をつけてサクレ・クール教会に向かう。地下鉄を出て少しうろうろ、坂の登り口に有料トイレありとの看板(男性用は2Fr、女性用はキャビンとあって2.7Fr。パリでは地下鉄の駅にトイレはない。日本の倍の幅のある歩道の所々に有料(2Fr)の公衆トイレがあって、トイレがあれば観光地に違いないと思って登って行くと日本人の女性がいて、みごとサクレ・クール教会でした。パリを一望に見渡せる丘の上、少し曇っているのが残念だけど、世界各国から来ている大勢の観光客と一緒にパリ市街を眺める。

モンマルトルの丘

画家がたくさん集まっているモンマルトルの丘は実はその寺院のすぐとなりだったけれど、そこで道を間違えてしまう。地図を片手にうろうろしていると、パリの老婦人が近づいてきて道を教えてくれました。フランス語が分からなくてもちゃんと通じてしまう。観光マニュアルには「地図を見ていると観光客だと一目で分かって狙われる」と書いてあったけど、地図を見ていて正解でした。

モンマルトルの丘は観光客がたくさん、日本人の観光客もたくさんでどうして危険地帯か分からないような完全な観光地でした。絵描きさんがたくさんいて「似顔絵を描きませんか?」と行って来る。藤田嗣治のような将来の巨匠もいるのでしょうが、自分の顔のことを考えて遠慮しました。喫茶店でコーヒー(21Fr+2Fr)をゆっくり飲んで、シャンソンの楽しさを教えてくれた同僚へのお土産を買いました。

モンマルトルの丘を登ったのとは反対側に徒歩で降りたら、そこは怪しげな歓楽街だった。ストリップ劇場がたくさん並んでいて客引きが多い。早足で歩く。スカーフを売っている店があるので、お土産に買う。丘の上の半額。まあ、丘で買ったといってもいいだろう。売ってる人から「日本人か」と英語で聞かれた。バングラディッシュから来ていると言っていた。

モンマルトルの丘を反対側へ降りて地下鉄を乗り継いで、サルトルとボーボワールがよく通った喫茶店レ・ドゥ・マゴに行く。デミタスカップにミニコーヒーポット、角砂糖が6個付いているのに感激(23Fr+2Fr)。日本の喫茶店と違って水は出ない。

喫茶店レ・ドゥ・マゴ

しばらくカルチェラタンを行ったり来たり。カルチェラタンで有料公衆トイレに入る。歩道の真ん中に円筒形でたっていて、最初はなんだか分からかった。お金を入れるとドアが開く。しかし歩道の真ん中なので恥ずかしい。

また地下鉄を乗り継いで、昼間市内観光のバスの窓から見た国立パリ聾学校へ行く。もう夜の8時で真っ暗だったが門の格子越しに聾教育の創始者ド・レペ像を見てパリの単独行は終わりました。

パリ聾学校 これは、昼間バスの窓から

ガイドは佐藤さん。バスの運転手、フィリプスさん。バスはドイツ製でネオプラン。朝7℃、昼5℃。

パリの人口は210万人で東京の6分の1。周囲36qの城壁都市。400年前から耐火建築で、一戸建て禁止。パリ市内は海抜平均23m、圧力をかける水道を採用しているので、屋上の給水タンクなし。水質は弱アルカリ性で、石けんでは肌がかさかさになる。パリのカタコンペ。

学校の先生は、クラブ活動や卒業式等の式典はやらない。

犬は吠えないようにしつけられている。飼い主は犬の糞の世話はしない。それは市の清掃局の仕事。プラスチック製のほうき、散水車をつかってやっているのがバスの窓から見える。

自動販売機はコンドームのみ認められている。中学校のトイレにもおいてある。酒・たばこは年齢制限なし。

8時半にホテル着。非常食の五目ご飯を食べる。2個目ラーメンは半分消費。同室者は11時頃クレージーホールより帰る。寝付かれない。朝の5時半には目が覚めてしまう。

T/C  2,810 → 490(50,000)

パリからメキシコのグァナファトへ

第15日 11月16日(火) 

1.宿泊地 グァナファト
2.日 程 パリからメキシコへの移動日

シャルル・ド・ゴール空港。チェックは厳しくてノートパソコンは起動して確認。待ち時間にクレジットカードで家に電話。

エールフランス機(438便)でパリからメキシコへ移動。13時45分に出て18時20分に着くが時差が7時間ある(パリGMT+1、メキシコGMT-6)ので、11時間35分飛行機に乗っていることになる。 

飛行機の中でビールを飲んだのは失敗。お腹の調子が悪くなり、この後、2〜3日苦しむことになる。

空港に到着。通訳の川原さんが出迎える。讃岐の人だがメキシコに帰化している。文部省の派遣団の通訳を何度も引き受けている。

フランスフランはメキシコで両替可。空港で両替をする。1円=9.15ニューペソ。 1ペソ=100センターボス。1$=9ペソ。105円=9ペソ。11.6円=1ペソ。枕銭は10ペソ。両替700FF=966ペソ。テレカを50ペソで買う。

メキシコ・シティは標高2,240mで酸素は14%不足、沸点は83℃。

バスでグァナファトに向かう。362q。トイレ休憩を入れて5時間。途中で川原さんの讃岐屋によっておにぎり弁当を調達。5$(50ペソ)は団の共通費から。着いたのは夜中の1時過ぎ。胃が痛く、水を我慢したので脱水症状。

ホテルは、設備は古いが、えらく大きな立派のホテル。

グァナファトの1日目は休養日

第16日 11月17日(水)

1.宿泊地 グァナファト
2.日 程 休養日でした!

トーマス・レンドン課長。8時から午後1時まで公式訪問。ビブラード・アセベート小学校を公式訪問。全校生徒が歓迎会を用意しているとのこと。午後1時〜4時 移動・食事 4時〜7時 州教育委員会表敬訪問

胃が痛い。熱(36.3)がある。何より下痢なので休養日とする。石井団長より薬をもらう。東大病院より処方してもらって持って来ているもの。セルベックス(胃薬)とロペミン(下痢止め)。

おかげで胃痛がなおる。午前中はシャワーと洗濯。昼は14時に団と一緒に食事するが少しだけ。午後も眠る。

夜は部屋で、浜田、久山、志賀、吉田先生と携帯食を食べる。

マヌエル ロペス ダウィラ 身障者センター

第17日 11月18日(木)

1.宿泊地 グァナファト
2.日 程 学校視察 7時30分より、答礼懇談会

朝の2時半ごろからうつらうつらする。ヨーロッパからメキシコに移った時差ぼけがとれない。それでも6時には起きて,グァナファトの街の中を散歩する。朝の7時には家に電話。家は夜の10時で疲れたようす。メキシコの電話代は高い。

パトカーに先導されて,午前中はマヌエル ロペス ダウィラ 身障者センターを視察する。バスを降りて山道を少し歩いたところに,山の中の起伏が激しいところに,わずかの平地を利用して建物が建てられ,階段でつながれている。

日本人の留学生がいた。入り口で,歓迎の手作りリボンと“哀れみではなく,公平さを持って”と書かれた「心得」を渡される。

11月20日が革命記念日とあって,歓迎の式典は,国旗掲揚式典(革命記念日<1910年>の11月20日に行う),国旗への誓い,国歌で行われる。

通訳では,ここは「多目的アテンドセンター」。盲はいないけれど,聾,脳性麻痺,肢体不自由,ダウン症,生徒の症状を診断する,言語学者,心理学者,医者はボランティア,保護者同伴のもとに診断する。言語障害マルセラ先生,診断と同時に指導もする。保健室にはグァナファト大学から看護士が当番できている。健康管理,栄養・衛生の指導。医者から当センターに連絡が入る。ここに来るのは義務。

まだタイプライターが現役で使われている。ビデオ室には20インチのテレビとビデオデッキ。

機能訓練室では平衡機能の訓練をしていた。 鏡 自分のアイデンティティを認識させる。笑う表現を教えるための鏡←障害者は笑うことが少ないので。

木工実習室 14〜25歳 卒業して木工所で働いている。ここでは基礎のみ。政府から奨学金が出て、働きながら学べる。

保護者控え室 父の日、母の日、クリスマスの3回は必ず親を指導。保護者には情報提供と健康管理の指導をする。40qも離れているところから来ている保護者もいる。ここで待っている間に家庭で使えるものを作っている。

調理実習室

早期教育 就学前の子どもたち。僻地と都会の違いを認識。

視覚確認教育 お父さんが娘と一緒にやっている。

45分授業 鏡の前で自分を確認する。歌−聴覚を発達させる。

先生もDIFの指導を受ける。

教室 音楽を流している。重複障害児 アヒルゲーム 背の高い聴覚障害児がいるが補聴器はしていない。マリオ君。メキシコの手話(スペイン語圏共通の手話)を使う。年収60$くらいの地帯から来ている。

3人の子ども。補聴器は一人。先生も難聴、州の手話の指導員をしている。他は診断中で、補聴器は持っているけど電池がない。

就職先は、夜警、大工、木工自営、子守、絵画、セラミック、鉱山などで、政府の就職の援助がないので、難しい。

チョコレート工場 祭日が多いので、チョコレートを作って、普通の小学校へ行って、許可を得て売る。子どもたちからプレゼントにチョコレートをもらう。


Q.目の見えない人は?
A.弱視の人がいるのは知っているが、ここでは扱っていない。レオン・シティに盲学校あり。(ここから車で1時間)

Q.話し言葉が先か、手話が先か?
A.ある程度聞こえる子は、まず話し言葉で。まったく聞こえない子は、手話から。

Q.言語障害とは?
A.話し言葉の障害の理由は、聞こえない、脳、口のまわりの神経

Q.寄宿舎は?
A.公立ではない。教員や看護婦、医師の寄付金で運営しているのがモンテレートにあり。

ここで「奉加帳」を回していたら、メキシコの学校の先生に「よく見てからサインしろ!」と注意された。さすが契約社会。石井団長の言葉に名前を続けてサインすると、石井団長の言葉に同意したとみなされる。

Q.退所の条件は?
A.全専門家が集まって採点して、普通の学校に入れて様子を見る。それでOKなら。大人になった場合、できる仕事を見つけるのは難しい。失業率は60%。資源は観光。鉱山の金脈がつきている。障害者を雇うと、企業の社会保険の負担が普通の人より非常に大きい。

Q.先生になる資格は?
A.小・中・高を出て、特殊教育の専門を選択して5年間勉強する。養護学校を減らして、普通の学校に統合していくという州の方針がある。給与 1,500ペソ  校長2,752ペソ 普通の企業は同じ学歴なら3,180ペソで、半分。


国立大学・学部附属学校等教官海外教育事情視察派遣団(A団)報告
メ キ シ コ の 印 象
−−−−−−−−筑波大学附属聾学校PTAだより−−−−−−−−−

昨年(1999年)の11月に25日ほど,文部省の派遣で,海外の教育事情を視察して来ました。主な視察国は,ハンガリー,ドイツ,メキシコです。

国立大学の附属学校の先生方の視察団で,24名中養護学校の先生が5人,聾学校は竹村だけでした。団長は文部省高等教育局大学課教育大学室長の石井稔先生です。

視察は普通の学校が中心でしたが,メキシコではグァナファトにある「マヌエル ロペス ダウィラ 身障者センター」を訪問することができました。

グァナファトは山あいにある街で,平地には人家がひしめき,新しい住宅や施設は,山の斜面を切り拓いて建てられています。市街は,世界遺産に指定されていて,環境保全のために大型車の乗り入れが禁止されています。

視察団の一行の観光バスは,特別の許可を得,パトカーに先導されて,身障者センターに向かいました。バスを降りて山道を少し歩いたところにセンターはありました。「障害者のセンターなのに,こんなに起伏が激しいところに」と驚きました。

入り口では,先生方が待ち受けていて,歓迎の手作りリボンと“哀れみではなく,公平さを持って”と書かれた「心得」を渡してくれました。日本語で書かれているのでびっくりすると,グァナファト大学に留学している日本人3人がボランティアに来ていて,その協力で「心得」を日本語に訳し,また歓迎の横断幕も日本語で用意したそうです。われわれ視察団を迎えるに当たって相当な準備をしたようで,迎えれれる方が心苦しいくらいでした。

訪れたのは11月18日ですが,20日がメキシコ革命記念日とあって,歓迎の式典は,国旗掲揚式典,国旗への誓い,国歌斉唱でした。

このセンターではさまざまな障害を持った子どもたちが,日常生活の自立ができるよう支援をしています。生後45日から23,24歳までで,聴覚・知的障害,肢体不自由,ダウン症等の子どもたち136人を,初期教育(2),就学前教育(2),小学校段階(3),実習段階(1)の4段階8グループで指導していました。

校長先生の案内で,各教室を参観しました。どの教室にもかすかに音楽が流れ,リラックスした雰囲気でした。

校長先生が強調していたのは「鏡を使った指導」です。「鏡は自分のアイデンティティを認識させるのに有効で,障害者は笑うことが少ないから,笑う表現を教えている」

「この教室で聞こえない人の教育をしています」という校長先生の説明に,通訳の人に聞いてもらうと,「あの背の高いのがマリオ君です」と教えてくれました。補聴器はつけていませんが,先生が手話で話しかけています。

他の子どもたちより背が高いのは,耳が聞こえないことの発見が遅れたからです。年齢ではなく発達レベルでクラスが決められています。年収が60ドルくらいに僻地から来ているそうです。

メキシコでは,電気があって,車通行可の道があり,農耕可を中間僻地といい,車は入れず,農耕もできないところを僻地と言います。マリオ君は僻地から来ていますから補聴器など望むべくもありません。

他に教室では2人の聞こえない子がいましたが,1人は補聴器をつけていました。この教室では,難聴の女の先生が手話を使って指導していました。メキシコの手話は,スペイン語圏共通の手話です。アルファベットの指文字は読みとれました。

メキシコの手話を使って指導

メキシコでは,学校の設備が就学児童数に対応できず,多くの学校が午前・午後の2部制なっています。

午前の部(8:00〜13:00)は,経済的にゆとりのある家庭の児童を,午後の部(14:00〜19:00)は,家庭の都合で学校に生かせにくい家庭の児童を対象としており,いずれも5時間授業です。生徒と一緒に先生も入れ替わるので,午前と午後ではまったく別の学校になってしまいます。

今度の視察では多くのことを学びました。特にメキシコは経済的にみれば日本よりは遙かに貧しい国です。しかし,その中で国も先生たちも創意工夫をこらし,子どもたちは生きる力に満ちていました。このような機会を与えていただいたことを感謝しています。

ミイラ博物館を見て、メキシコ・シティに移動

第18日 11月19日(金) 日本は20日(土)

1.宿泊地 メキシコ・シティ
2.日 程 グァナファトからメキシコ・シティに移動日

この日は朝の2時頃、3時頃目が覚めてしまう。時差ぼけのせいか。

ダウンタウンにあるミイラ館(モセオ<博物館> モニヤス<ミイラ>)に行く人は7時にロビーに集合、出発の準備をして鍵は井上さんに預ける、ということで、起床5時半で、朝食はパンと非常食。グァナファトの世界遺産のミイラ博物館に徒歩で出かける。有志。半分くらいの人数か。

ミイラ博物館は20ペソ。この20ペソはグァナファト市内で唯一使ったお金。この辺は乾燥しているので、普通に土葬してもミイラになってしまう。墓の一部を公園にするとき出たミイラを公開している。ミイラというとエジプトの王のミイラを思い出してしまうが、そういう豪華なイメージはなくて、あまり気持ちのいいものではない。そうそうに出てしまう。ミイラ飴まで売っている。

徒歩で帰って来るとホテルの裏手の高台。線路の跡がある。かつてここに駅があっった。西部劇(マカロニウェスタン)の舞台のような荒涼としたところだった。

テレカ50ペソを買って9時半(日本時間12時30分)に電話。

10時出発。昼食は通訳の川原さんの讃岐屋でお弁当を買う。文部省の一行を空港に送って貴金属店で買い物をして、ホテルに入るという日程。

バスの中での眺めは荒涼としていて、最高だった。しかしこの僻地の中でも人間が生活している。

バスの窓から見た僻地

バスの中での川原さんの話。
メキシコシティの治安は悪い。運転免許は警察や空港で販売している。領収書を必ずもらうこと。「お勘定」は手話「横に書く」のしぐさを2回繰り返す。両手の指文字「テ」で10、両手の指文字「ホ」で20を表す。遺跡の中の立ち売りでは買い物をしないこと。地下鉄は1日乗っていても15円。時刻表のあるのは飛行機と長距離バスのみ。壁画と先住民の写真は禁止。魂を抜かれると思っている。メキシコは車の輸入を禁止している。メキシコ産のフォルクスワーゲンは60万円。2ドア車なので、助手席を外してタクシーに使っている。現地生産に日産車が走っている。旧型サニーで「ツル」という名前。ノーカーディーがある。ナンバーの末尾の番号で走ってはいけない日が決まる。違反したら最低賃金1ヶ月分の罰金。信号が少ない。横断歩道が少ない。国鉄は今年(1999年)の8月31日に解散した。メキシコ・シティは外輪山に囲まれている湖。地盤が弱い。地震に弱い。地下鉄が壊れる。水不足で1日1,100リットルで朝6時から12時までの給水のときもある。

ホテル着。このホテルは近代的で明るい。泊まったのは11回の部屋。風呂にシャワー、カーテンなし。シャワーは別についている。コーヒーメーカーあり。

近くのデパートで買い物。ピエール・カルダンのネクタイ2本で200ペソ(教務へのお土産)。水を買った。夕食250ペソ。

テオティワカンのピラミッド

第19日 11月20日(土) 革命記念日

1.宿泊地 メキシコ・シティ
2.日 程 テオティワカン見学

ホテルの朝食はバイキング。

9時出発 通訳:川原 ガイド:モンソン 運転手:リカルド

革命記念日のため、バスがホテルの近くに来られないので、歩く。

テオティワカン見学は、メキシコ訪問最大のイベントだった。やはりこういうところを見に来なければ。観光コースになっているけど、古代遺跡のロマン十分。

太陽のピラミッド
月のピラミッドから太陽のピラミッドを望む

太陽のピラミッドと月のピラミッドにのぼる。「日本の国会議員がきて、この二つのピラミッドにのぼることができると必ず大臣になれる」と昨日のバスの中での川原さんの話。それを目指してがんばって2つのピラミッドにのぼるが、頂上にいるときにそのことを祈念するのを忘れてしまった!

買い物 帰途の土産物センター
  バンダナ10枚で150$、キーホルダー(8$)29個×232$
  インカ暦の置物79$×2 540$ 
合計540メキシコ$ ×9.15 59アメリカ$  T/C60$を使って、お釣り現金1$

ホテルで両替 50アメリカ$→455メキシコ$(ペソ) 1$=9.1ペソ

国立人類学博物館

第20日 11月21日(日)

1.宿泊地 メキシコ・シティ
2.日 程 国立人類学博物館

9時、ホテルを出発。

国立人類学博物館を見学。 マウスパッド 30ペソ×4枚

王宮

中華料理

市内見学

テキーラパーティ  食べ過ぎたため、夕食抜き。

アメリカでケムの本を発見

第21日 11月22日(月)

1.宿泊地 アメリカ合衆国 リトル東京
2.日 程 アメリカに移動日

5時30分モーニングコール、6時荷物出し、6時30分出発。

アメリカでの3日間は、日本に帰るための体・精神の調整と、お土産を買うためにもうけられているらしい。

<アメリカでのチップ>
枕銭1$、タクシー15%、レストラン15%、ポーターは団で一括払い。

アメリカでのツアーコンダクターは吉村さん。ホテルは12時チェックアウト、3時チェックイン。朝食は6時から ホテルは食事別。

ホテルのすぐ近くに紀伊国屋書店があった。日本の本があるのでうれしくなる。『手話・日本語辞典』もおいてあったので、うれしくなって写真を撮ったら定員(日本人の女性)に注意された。男の店員も日本人です。文庫本2冊と新聞を買った。本の値段は日本の1.5倍くらいです。すぐ近くに旭屋書店もあった。こちらの方が大きい。

ケムの本が2冊ありました
『手話入門・会話編』『手話・日本語辞典』

ラーメン 6.75$ やっぱアメリカのラーメン。おいしくない(-_-;) お土産用のチョコレート10$×2

リトル東京の夜景

夕食はホテルの近くのお寿司屋さん、ここは日本と同じ味。

I was there UCLA

第22日 11月23日(火)

1.宿泊地 アメリカ合衆国 ロサンゼルス
2.日 程 観光 UCLAとユニバーサル・スタジオ

朝は、昨日の寿司屋でサンマ定食。同室の浜田さんは2匹のサンマを骨がきれいに見えるように食べる。こちらはぐちゃぐちゃ。この店は団の一行でにぎわっていた。

観光バスで、ビバリーヒルズや????などを市内見学をしてからUCLAへ。ガイドさんが「UCLAの時間を短くしてユニバーサル・スタジオの時間を長くしましょうか」などと余計なことをいうが、今日はUCLAが楽しみ。

本当にきれいな大学だ。東京教育大学は廃校寸前できたない大学だったから、比べても意味がないが、手入れの悪い筑波大学も比べものにならない。建物は外観を見ただけだが、新築直後みいたいにきれいに手入れされている。庭も日本では有料で入る庭園みたいにきれいに手入れされている。リスが遊んでいたので写真に撮る。こんな大学にいられるのなら……

お店があったのでUCLAのグッズを少し買い込む。T/Cが使える。なごり惜しく帰るときに「I was there UCLA」というバッチをガイドさんがくれた。こういうのを大学(?)が用意しているとはびっくり。

I was there UCLA

次はユニバーサル・スタジオ。デズニーランドの映画版とは知らなかった。もっと映画の製作現場みたいなものを見せてくれるのかなと思ったら、映画の中に入り込む体験をさせるということらしい。またまた胃の具合が悪くなって、あんまり過激なコースには乗りたくない。昼食はパーナッツだけにして体調を維持。バック・ツーザ・フュチャーはよく見た映画なので挑戦。これは胃が変になった!

夜はNBAにほとんどの人が参加。石井団長と随行員の井上さんとホテルのレストランでロブスターを食べる。日本レストランの出店で、板前も女中(和服なので、このことばがぴったり)も日本人。50$。

サンタモニカ

第23日 11月24日(水)

1.宿泊地 アメリカ合衆国 ロサンゼルス
2.日 程 自由行動日

過食気味なので、朝は浜田先生とインスタントラーメンで済ませた。

オプショナル・ツアーでグランド・キャニオンに行く人が8人(飛行機)、ディズニーランドに行く人が2人、同室者は1日お土産買いに狂奔! 知り合いに会うために単独行動の人も。

残りはバスで市内観光(参加自由)。9時出発。オルベラ街。チャイニーズ・シアター。車窓から、サンセット・ストリート、ビバリー・ヒルズ、ロディオ・ドライブ、センチュリー・シティ。

サンタ・モニカで、浜辺で休んで(映画「フォレスト ガンプ 一期一会」の舞台だった)、ショッピング・モールの本屋さんで手話に本を1冊買い、フード・コートで食事。フード・コートはチップ不要。

サンタ・モニカの浜辺で

バスは1時20分発。乗って帰っても帰らなくても自由。吉田さんに映画を見て行こうと誘われたけど、体力ないし、ユニバーサル・スタジオの英語の洪水に辟易していたので、バスで帰る。少し休んでリトル東京を散歩。

お別れの懇親会。6時50分集合。7時からくししゃぶ。日本系のお店。ミネラルウオーター飲み放題というところがおもしろい。

帰国

第24日 11月25日(木)

1.宿泊地 帰国
2.日 程 飛行機で帰国する

成田に着いて飛行機から出て、税関を通る前に携帯で家に電話をかける。旅の途中一ニ度電池の状態をチェックしただけで使わなかったら(使えないのだけど)、電池はちゃんと24日間の旅に耐えた。

税関はノー・チェック。残った$を両替。後は京成に飛び乗る。

 

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