▼Deadend act.1

 第三新東京市から湖尻峠を過ぎ、静岡側へと山を越えた片田舎。
 前世紀には工業団地として使われていた廃墟群を見下ろす峠道に、オープンボディの小柄なスポーツカーが佇む。
 以前はロータス・エランと呼ばれていた英国産のタイトなツーシーターは、キャブレターとガソリンエンジンの代わりに、バッテリーとモーターを搭載していた。
 車重はいささか増えたが、低速トルクは豊かになった。
 エンスト、息つきの心配も無く、ダブルクラッチを踏まずとも繊細なミッションを痛める事も無い。
 車の持ち主、加持リョウジは、新世紀方式にモディファイされたこの小粋なスパイダーを気に入っていた。
 ダッシュに埋め込まれた古臭いクォーツの盤面に目をやる。

「そろそろ、時間か」

 大きく傾いた太陽が雲に色を付け、風景を黄昏色に染め始めた。
 加持はサングラスを外してバイザーに挟むと、サイドブレーキをリリースして静かに車を走らせる。

Web版描き下ろし挿し絵 その1 加持

 廃墟に続く坂道は産業道路と呼ばれていたが、今では物流を担う大型トラックが行き交う事はほとんど無い。
 稀に山奥の田畑に向かうトラクターが走る程度で、歩道付き対向二車線の高規格道路は、無駄に贅沢な農道として機能していた。
 その通りからも見る事が出来ない奥まった一角まで、ほぼ無音で進む電気仕掛けのFRPボディを滑らせる。
 建ち並ぶ工場跡地には、どれも中身が無い。
 高価な産業機械は売り払われ、誰も見向きもしなくなった建て屋だけが錆付くままに放置されていた。
 居並ぶシャッターの番号を順に目で確認しながらゆっくり進み、似たような廃工場の一つの前に車を停める。
 イグニッションは抜かない。ギアもローに入れたままサイドブレーキを引く。
 そろそろ潮時だと、長年過ごした裏の世界で磨かれた勘が囁いていた。
 こんな辺鄙な場所に好んで立ち入る人間は居ない。
 最も近い宅地まで数キロ、周囲は緑の濃い山と農地のみ。例え派手な銃撃戦が行われたとしても、官憲が到着するまでに死んだ人間以外は跡も残さず立ち去るだろう。
 トランクの中には二脚とスコープ、そして308口径のライフルが有ったが、それを持ち出す事は躊躇われた。
 左胸のホルスターには、愛用のSIGがいつものように収まる。けれど、それも外してグローブボックスに収める。
 尻のポケットに入れた、携帯端末と変わらぬサイズのスタンガンだけが、身を守る武装の全てとなった。

 相手が本気なら、どんなに用心を重ねようが身を守る努力自体が無意味だという事を、加持は嫌と言うほど知っていた。
 抵抗するそぶりを見せれば、問答無用で殺される。
 だが丸腰であれば、逃げるチャンスが掴めるかも知れない。
 ギリギリの所で甘い、という自覚は有った。けれどその飄々とした軽薄さで、今日までを生き延びてきたようなものだった。

 締め切られたシャッター脇の、傾いたアルミの扉を引く。
 鍵は掛かっていなかったが、ドアノブすら今にも外れて落ちそうだった。

「誰にも気付かれないまま白骨化しても不思議じゃない」

 そんな呟きを飲み込んで、廃工場の中へと足を踏み入れる。
 内部は柱の見当たらない、一続きの巨大なスペース。
 天井からぶら下がった錆びついたクレーンの鎖だけが唯一残った設備だった。
 やはり、こんなところで撃ち合う羽目になったら生き延びるのは不可能だ。身を隠す場所も無ければ、即座に外に飛び出せる出入り口も数少ない。

 加持は壁際のタラップをゆっくりと登った。
 カツン、カツンと、錆びた鉄板を踏みしめる音が虚ろな空間に長く尾を引いて響く。
 天井までは二十メートル近くあるだろうか。
 壁にはおよそ高さ三メートル毎にキャットウォークが水平に伸び、建屋内を一周している。
 タラップは折り返しながら、三つのレベルを通過した。照明は無かったが、各レベルに明かり取りと換気の為の窓が並び、廃工場の巨大なフロアは隅々まで見渡せた。
 四つ目のキャットウォークが最上階となり、それ以上はタラップが無い。
 切妻屋根の頂点近くの壁面に、巨大な換気扇が残されている。
 それを回していたであろうモーターは見当たらない。恐らく何か別の用途に転用されて久しいのだろう。
 自力で動くことも止まることも無い、只の風車と化した換気扇がゆっくりと回りながら、西からの斜光に長い影を落とす。

 加持は換気扇から漏れる明かりを背に振り返る。
 天井に近いこんな場所も、工場が働いていた前世紀には休憩スペースか何かに使われていたのだろう。一斗缶の灰皿と折りたたみ椅子が、埃を被ったまま残されていた。
 錆と、埃と、染み付いた機械油の匂い。
 空中に漂う塵の粒子を浮かび上がらせる、低い太陽の斜光。
 それ以外には何も無い空間だった。

 加持は換気扇を支える鉄骨に背中を預けると、上着を脱いで手に下げた。
 武器は何も手にしていないという、恐らく何処かで様子を伺っている誰かに対するサインだ。
 しばらくすると、反対側の壁面のタラップから、足音も立てずに一人の男が現れる。
 男はゆっくりと、だがまっすぐに加持に向かい歩を進めた。

「よう……遅かったじゃないか」

 やはり、普段とは違ったある種の緊張感を感じる。
 何度か『連絡員』として加持と接触をもった事のある男。名前はもちろん、所属している組織すら知らない。
 男のジャケットは、隠された鍛え込まれているであろう身体に対して、さらに一回り大きい。そして、懐のホルスターを示す左脇の膨らみを隠しもしないで近づいて来る。
 加持はジャケットは手に持ったまま、シャツのボタンも二つ外してネクタイすら締めていなかった。
 サングラスに隠された男の視線がこちらを捉えると、ズボンのポケットからも手を出す――武器は持っていないという合図――相手も同じように掌を見せるはずだった。

 何回繰り返してきたか分からない『儀式』の作法は、今日に限って破られる。
 男は手を上げない。
 反射的に加持は横に飛ぶ。
 その瞬間、耳元を音速の飛礫が通過し、後ろで派手な金属音が上がった。

「勘が良いな」
「おかげさまでね」

 加持はタラップに向かって身を翻した。
 フロアを一つ飛び降り、次のフロアに向かう階段を目指す。
 しかし、手すりに掴まって向きを変え、飛び降りようと振り返った肩の後ろに冷たい衝撃を感じた。

「くそっ」

 撃たれたと思った瞬間には、身体は既に宙に投げ出されていた。
 弾みでバランスを崩し、鉄の階段を転がり落ちながら、目の前が真っ暗になった。


 頭の上からバケツの水を浴びせられて、加持は目を覚ます。
 気が付けば、パイプ椅子ごと後ろ手に縛り上げられている。
 僅かに動く指先で尻のポケットを探る……が、当然そこにスタンガンは無い。

「無用心極まりないな」

 無表情な声に顔を上げる。
 『連絡員』とされていた男が、レーザーポインタ付きの拳銃で、加持の眉間に狙いを付ける。

「エランは調べた。ライフルも拳銃も持ち歩きながら、車に残してスタンガン一つ……随分舐められたもんだな、俺達も」

 口の中で血の味がした。撃たれて転がった時に切ったらしい。
 しかし、転倒した衝撃で昏倒したわけでは無かった。至近距離で背中を撃たれたのに、身体の前には貫通した傷も無い。

「何を打った?」
「説明する必要があると思うか?」
「無いだろうな」

 考えるより先に、言葉が口を突いて出る。
 頭の中に白い霞か靄のような、ハッキリしない眠気に似た気怠さが詰まっていた。

「自白剤かい」
「ま、そんな所だ」

 男はもう一つ、水の入ったバケツを用意していた。
 気を失えばもう一度、頭から冷水を浴びせられる事になるのだろう。
 自らも埃を払ったパイプ椅子を広げて、後ろ向きに座って加持と向き合う。

「どっちだ?」

 何とかサングラスに隠された目を睨み付けようと目を凝らしながら、加持が問う。

「何の事だ?」
「委員会か、NERVか、それとも国連か日本政府か」
「そんな区分に何か意味が有るのか? 上は全部繋がっている」

 その通りだな、と答えて加持は薄く笑った。
 どのルートから向こう側を覗こうとしても、結局は同じ所で壁にぶち当たる。

「お前は知りすぎた……歯車は言われた通りに回っていれば良い。理由はそんな所だ」
「なら、早く終わりにしたら良い」
「ふん、薬で喋ってる割には普段と変わらんな」
「根が正直なんでね」
「減らず口ってのはお前みたいな奴を言うんだろう」
「お褒めに預かり恐悦至極」

 軽口を叩きながらも余裕が無くなってきた事を自覚する。
 かなり強力な薬物だ。
 恐らく葛城に渡したデータが、思っていた以上に厄介な代物だったという事だろう。

「自白剤に対する訓練を受けた事が有るのか?」
「さあ、どうだろうね……昔の事は覚えて居ない」

 何を聞かれるか、何を話してしまうのか。ひたひたと忍び寄る恐怖に、加持の鼓動は不規則に高まった。
 耳の中でドクドクと血が流れる音がする。
 徐々に意識が混濁してくるのを自覚する。

「思い出す方法を教えてやるよ」

 男は立ち上がると改めて銃を構えた。
 レーザーポインタが、今度は右膝を狙う。
 加持の返事を待つ間も無く、引き金を引く。

「がぁっ」

 今度は撃たれる瞬間をハッキリと目にした。
 短い半透明の弾頭の中が空洞になって、薬液が満たされていた。
 先端に短く細い突起が数本有り、身体にぶつかった瞬間に筋肉の中へと無理矢理薬剤が拡散する。
 撃たれた衝撃ももちろん大きいが、しかしそれはせいぜい思い切り殴られた程度の痛みだ。
 しかし膝から先が痺れ、冷たく感じられる。

「五本で致死量だそうだ。試してみるか?」
「そうかい……自分で試したらどうだ」
「いや、お前で試す事になってる。これも仕事だ」

 嫌な汗が全身から吹き出し始める。
 それは恐怖とも痛みとも違っていた。
 己を見失ってしまいそうな感覚が、足先から全身に広がる。

「幽体離脱ってのは、こんな感じなのかい」
「オカルトには興味が無い」

 男は表情を変えずに再び狙いを付ける。
 今度は左腿を撃たれ、同じように弾が突き刺さった場所が冷たく痺れる。

「これで全部だ。運が良いな」

 男は小ぶりなリボルバー――銃身の短いチーフスペシャル――の弾倉を外し、撃ち尽くした薬莢を捨てる。
 そして加持の目に見せ付けるように、ゆっくりとリロード。
 今度は普通のホローポイントだ。

「フルメタルジャケットじゃないのかい?」
「防弾チョッキを着ない主義なのは知ってる。キレイに貫通したんじゃ痛みが足らんだろう?」
「良い趣味してるな」
「そう誉めるな」
 レーザーポインターで眉間を狙いつつ、男が椅子に座り直す。

「今すぐ撃てよ、勿体付けるな」
「なに、まだ時間は有るさ……」

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制作・著作 「よごれに」けんけんZ

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