▼Deadend act.4 |
目を覚ましても、やはり地底の闇の中。 寒さに凍えると同時に、汗をかいたせいか喉が渇く。 再び傍らの流れを手ですくい、口に運ぶ。 「せめてタバコが吸いたいところだな」 最後に飯を食ったのは何時間前になるだろうか? もはや確かめる術は無い。 出口まで歩いて空の色を見上げれば、多少は時間の経過が推し量れるかもしれないが。 加持はシャツのポケットを探り、意外にもそこにまだタバコとライターが残っている事に気が付いた。 「これも夢?……じゃないだろうな」 時間の経過が推測出来ないのも、目を開いても現実感に乏しいのも、どちらも自白剤の後遺症と、全く何も見えない闇のせいだ。 手探りでタバコの箱を開ける。 ハードケースのおかげで、中は濡れていなかった。 ライターはどうだろうか? ジッポはいつもどおり、指先一つで明るい炎を吐き出した。 口に咥えたタバコの先端の赤い光を、じっと見詰める。 こうして目に光が映るのは、何時間ぶりの事だろう? |
手を大きく伸ばして、再びライターを付ける。 周りを囲む岩肌を、初めて目にする。 手で触れて歩いていた時に感じた通り、鑿の跡、ツルハシの跡がそのまま残った、掘り抜いた昔の人々の執念がそのまま形をとどめた壁面だった。 箱根の山間に降る豊かな雨量を、新田開発のため外輪山を超えて静岡側へ引く難工事を、実に江戸の時代に人力だけで成し遂げた人々が居た証だ。 「まだ、歩ける」 大きく煙を吸い込んで、少しだけ頭の中の靄が晴れる。 考えると同時に言葉が出るのは相変わらずだが、思考力そのものは多少回復して来たと感じていた。 加持は膝に手をついて、立ち上がる。 水路の天井に頭がつかえるのは相変わらずなので、水流の中に足を踏み入れて背を伸ばして歩く事を選んだ。足首にまとわりつく冷たい水の流れが、暗闇に薄れそうになる意識を保つのに役立った。 そうしてどれだけ歩いたのか、前方に微かな明るさを感じた。 加持は再びタバコに火を付け、吸う。 ライターの明るさで、流れる煙に目を凝らせば、どうやら水流とは逆方向に風が流れているらしい。 もし、加持の逃走ルートが気付かれていて、水路の端で待ち伏せされていたら、臭いで感づかれた可能性がある。 しかし、ここまで来て入り口に引き返す気力も体力も、既に残してはいなかった。 やはりあの時あの場所で、素直に撃ち殺されていた方がいっそ楽だったかも知れない。 それは、自分が初めて犯した大きな失敗と同じだということに気付く。 加持の顔が自虐的な笑みを形作る。 「結局、振り出しに戻ったわけだ」 全てを失った十四年前。 あの時もただ、生き残る事を選んだ。 結果、自分自身の命は拾ったが、他の全てを捨てる羽目になった。 「ここらでケリを付けようじゃないか」 加持は開き直って大胆な足取りで、出口を目指し歩を進めた。 水音が狭いトンネルに反響する。 その音が、徐々に調子を変える。 反響が減っていく……出口が近い。 切り取られたように、狭い空が見えた。 やや赤味が掛かっていた。朝焼けなのか、夕焼けなのか。 どちらにせよ、明るいのは頂けない。暗くなるまで待つか、と思うが、これ以上この狭く寒い水路に止まれば、体力が持たない。 |
芦ノ湖から深良用水へと水を引き込む、深良水門。 今では水量の管理をする者も絶え、ただ機械的に決められた水位を超えれば用水へと水が流れ込む。 水門から続く水路が地下へと落ちていく入り口は、やはり鉄格子で仕切られていた。 点検用の扉に錠前があったが、鍵は掛かっていなかった。 鎖が幾重にも巻き付けてあり、その端が太い針金で結ばれる。 加持は鉄格子の間から手を伸ばして、結び目を解く。 針金の端で指先を切り、鮮血が滲む。 その痛みに、どうやらまだ生きているらしいと、水路に潜り込んで以来初めて実感する。 見上げる空は、徐々に赤味を増していた。 どうやら、丸一日を地底で過ごし、これから日が暮れるところらしかった。 「運が良いんだか、悪いんだか」 口の端から零れた言葉が耳に届いて、初めて自分の思考を知る。 もはや薬の影響は無視出来ない。 後遺症が確実に残る種類だったらしいな、とこれも口を突いて出る。 |
水門のすぐ裏に設けられた、幅の狭い梯子。 朽ちて危ういそれを昇りきれば、湖岸の道路が橋となって頭上を越える波打ち際に出た。 行き交う車の音は聞こえず、芦ノ湖の湖水はただ静かに、廃墟となった前世紀の遺物の上を覆っている。 加持は湖岸の浜辺沿いを歩き、谷間となった入り江の出口を目指す。 足元は既に暗い。 岬を回り込むと、対岸に夕暮れに沈む第三新東京市の灯りが見えた。 西に傾いた太陽の姿は、もう山に隠れて見えない。 しかし、人影を見分けられる程度には、空は明るさを残していた。 「誰だ?」 逃げることも、隠れることも思いつかなかった。 対岸の街の明かりと加持の間の何も無い水面に、浮かぶように白い人影が立っていた。 その人影が、ゆっくりと振り返る。 「幽霊じゃないだろうな?」 振り返ったのは……若い男、らしい。 シンジが身に着けていたのと同じ、白い半袖のワイシャツと、黒いズボン。 余りに白い肌と、白銀の髪と、赤い瞳を持った……。 「待っていたよ。予定より、一日遅れたけれどね」 「俺を、か?」 「もちろん」 夢か、幻か、それとも死神か。 その人影は、ヒトのカタチをしてはいるが、明らかにヒトでは無い。 歩み寄る男の足元に、静かな水面に、波紋が広がる。 ただ水面に触れているだけの爪先。 信じられないが、男は重力を無視して、宙に浮いていた。 「お前が、SEELEの……」 言葉が浮かばなかった。 思考がプツリと途切れた。 「そう、最後の使者だよ。加持、リョウジ君」 「何をっ」 唐突に、頭の芯に痛みが走る。 反射的に頭を抱えようとして腕すら、動かす事が出来なくなる。 その場に立ち尽くしたまま、加持は意識を奪われた。 |
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