第三新東京市の中心市街地から、少し離れたところに建てられているマンション「コンフォート17」。

このあたりも平日であれば、通勤通学者で結構な通行量があるのだが、今日はほとんど人通りがない。

なんといっても、今日は日曜日。
人通りがないのも当然といえる。



あくしでんと

written by プロップ


日本では一年中夏の輝きを持つようになった太陽も、この時間の日差しはまだ柔らかい。

普段の日曜日なら、ここ、葛城家の住人達は全員柔らかい日差しというのを感じることはないのだが、どうやら今日に限っては、その柔らかい日差しを感じている人間がいるようだ。


 ゴウンゴウン、ブォー、ゴウンゴウン、ガーガー


その証拠に洗濯機や掃除機の音が家中に響きわたっている。




そんな中、葛城家の住人の一人である少女――惣流・アスカ・ラングレー――は、未だベッドで微睡んでいた。

当然、柔らかい日差しなど感じようもない。
確かに、カーテンの隙間からは柔らかい日差しが差し込んではいるのだが‥‥‥


アスカの意識は半分夢の中であったが、寝ている間は聞くはずのない家電製品の騒々しい音によって、徐々に夢の国から現実へと引きずり出されてきていた。


心地よい微睡みを妨げる騒音に抗議するかのように、何度か栗色の髪を揺らす。

そして、それが無駄だと分かると今度はずるずるとタオルケットを引き寄せ、頭からすっぽり被ることで更なる抵抗を試みる。

それもあまり効果がないのか、タオルケットを被ったままゴロゴロと何度も何度も寝返りをうつ。


しばらくすると、不意にピタッとその動きが止まった。
タオルケットの固まりがぶるぶると震え出す。

そして‥‥‥


 「う、う、う・る・さ〜〜〜い!!!」


アスカは、さっきまで共に騒音と戦ってきたタオルケットを無下に足で蹴り飛ばし、がばっ!と跳ね起きた。

全身に怒りのオーラを纏いながらベッドの上に仁王立ちになる。顔も怒りのせいで真っ赤になっている。もし彫刻にでもしたら、作品名は「怒れる女神」といったところか。


 「せっかくの日曜だって〜のに!!」

枕をがしっと掴んで、ベッドから飛び降り、

 「なんだって、朝っぱらからっ!!!」

思いっきり振りかぶって、

 「こんなに、騒がしいの、よっっ!!!!」

襖に向かって投げつける。


 ボスン!ドサ!


はぁはぁ、と息を切らしながら、投げつけた枕を目で追いかける。
何の罪もないタオルケットと枕に怒りをぶつけたことで、取り敢えずは落ち着きを取り戻すことができた。

少し落ち着いたところで、改めて時計に目をやると、長い針は6を、短い針は7と8の間を指している。


 ―は、はちじはん〜!?
  バカシンジめ〜、とっちめてやるんだから!―


一度は収まりかけた怒りのオーラを、また全身から放ちながら襖に手をかける。

ふと、そのとき、視界の隅にアスカお気に入りのちょっと小さめな姿見が目に入った。

ちょっとだけチェック、そう思いながら改めて姿見の前に立つ。
そして‥‥‥鏡の中の自分の姿を見てアスカは愕然とした。


   暴れたせいで、髪はぼさぼさ。
   瞼は腫れぼったく、目は充血している。
   おまけに寝間着代わりのタンクトップはよれよれ。


はっきり言って、我ながら酷いありさまだ。
百年の恋も醒める、という言葉の意味がイヤと言うほどわかってしまう。

こんな格好をシンジに見られるのは――同居しているとはいえ――さすがにはばかられる。


 「くっ!!‥‥‥命拾いしたわね‥‥‥シンジ!」


何かを押さえつけるかのようにグッと拳を握りしめると、転がっている枕を脇へけっ飛ばしながら‥‥‥
アスカはバスルームへと向かっていった。






「ふぅ、これでお終い!っと」

シンジは、最後の洗濯物をベランダに干し終えて一息ついた。

毎日少しずつ掃除洗濯はしているのだが、時間が無くてどうしても洗えない洗濯物や掃除していない場所が残ってしまう。そうなると必然的に、日曜日には一週間溜まった分の掃除洗濯をしなくてはならない。
今、ようやく、その週一の作業を終えたところなのだ。


 ―あ〜あ、アスカかミサトさんが手伝ってくれればなぁ‥‥‥―


などと、かなり無理めなことを考えながら、リビングのソファーに腰を下ろしテレビをつける。

時間は9時ちょうど。
今日は、これから始まる新番組のために、わざわざいつもより早起きをして、早めに掃除洗濯を終わらせたのだ。(ちなみに、いつもは9時頃起きて朝食の準備、アスカが起きてくる10時頃に掃除洗濯を始めるようにしている)


番組はクラシック音楽番組なのだが、司会者がその曲にまつわる様々なエピソードを紹介したり、アレンジしたバージョンを演奏したりと、他の音楽番組とはちょっと違った趣向が凝らされているらしい。

クラシック音楽は好きだがS−DATで聞ければ十分、と常々考えているシンジが、何故わざわざテレビを見ているかというと、曲のアレンジをしてみたくなったからだった。


先週の日曜日、一人で久しぶりにチェロの練習をしていると、たまたまそこにアスカが帰ってきた‥‥らしい。というのも、アスカが帰ってきたことに気付いたのは、1曲終えたところで背後から拍手が聞こえてきたからなのだ。その時のアスカの褒め言葉が、ストレートな褒め言葉が、たった一人分の拍手が‥‥‥とても嬉しかった。

もしまた、聞いて貰えることがあったら、その時には自分の少ないレパートリーでも楽しんで貰いたい。それで、アレンジの仕方を知っておきたいと思ったのだ。


司会者の紹介等が終わり、いよいよ演奏が始まる。新聞によると、今日はピアノソナタが主題となっている。

曲がスピーカーから流れ出すと、シンジは時折目を瞑りつつ心地よい音の波に身を任せていった。





2曲ほど演奏が終わったところで、シンジはリビングの入り口の方に人の気配を感じた。どうやら、いつもより早く起きてシャワーを終えたアスカが、リビングに顔を出したようだ。

アスカは、肩に掛けたバスタオルで髪に残る水分を吸い取りつつ、ゆっくりとこちらへと近づいてくる。

シンジは、ちらっと目だけでそちらを窺う。

そこには、いつものタンクトップとショートパンツという出で立ちのアスカ。だが、あまり機嫌は良くなさそうである。


 「あ、アスカ、おはよう。」

 「その番組、なに?」


挨拶も無しにつっけんどんに質問を返してくる。思っていたより機嫌が悪そうだ。

質問への答えはすぐに頭の中で用意出来た。
しかし、見始めた理由が理由だけに、視線をテレビに固定したまま少々上擦った声でしか答えられない。


 「これ、今週から始まったんだ。クラシック音楽の番組。
  セカンドインパクト前にあった番組のリメイクなんだって。」

 「ふう〜ん。
  もしかして、これ見るために掃除とか早く終わらせたの?」


 ―ヤバイ‥‥‥それで怒ってるのか‥‥‥―


相変わらずの声音で問いかけてくるアスカに対し、シンジは顔だけ振り向くような格好になって‥‥‥

‥‥‥とりあえず謝ってしまうことにした。


 「う、うん、そうなんだ。なんか面白そうだったから‥‥‥。
  ごめん、も、もしかして起こしちゃったかな?」

 「ぶぅぇっつに〜〜」


しかし、その謝罪の言葉の効果はまったく無く、しかも火に油を注ぐ結果しか生まなかった。

アスカは、ぶすっとふくれっ面になったかと思うと、もういい!とでも言いたげに回れ右をして、ドスドスと大きな足音を響かせながらキッチンへと向かって行ってしまった。


背中に冷たい汗を感じながら、その後ろ姿をただ見送るしかないシンジ。

近頃、シンジが謝ると必ずと言っていいほど、アスカは怒りだしてしまう。

理由はよく分からない。だが、怒らせてしまうと分かっていても、ついつい謝ってしまう。



自己嫌悪‥‥‥



はぁ〜

思わずため息が出てしまう。

テレビの音が耳に入ってこない。いや、聞こえてはいるのだが、音が左から右へと素通りしていってしまう。
代わりにさっきのアスカの足音だけがやけに頭の中で響いていた。






『アスカ専用!飲んだら殺すわよ!』

冷蔵庫の扉を開けると、ミミズが這ったような筆跡で、必要以上に物騒なことが書かれている小さなプラスチックのプレートが目に付く。アスカは、そのプレートがぶら下がっている低脂肪乳500mlパックを手に取ると、直接口を付け一気に半分ほど飲み干した。

 んぐ、んぐ、んぐ、ぷはぁ

はぁ〜、やっぱり風呂上がりは牛乳に限るわね〜などと、彼女のクラスメートあたりが聞いたら頭を押さえかねないようなことを考えてしまうあたり、随分と保護者の影響が出ているようだ。そんなこと本人は、まったく気付いていないようであるが。


 ふぅ〜

飲みかけのパックを手に持ちつつ、一つため息。
牛乳のおかげかちょっと冷やされた頭の中で、さっきのやりとりを思い出していく。


  ソファに座ったまま、振り向きもせずに言葉を返すシンジ。

 ―なによ!バカシンジのくせに!人が折角聞いてやってるのにあの態度は!―


  自分の顔色を窺いながら、『ごめん』と謝るシンジ。

 ―謝っても、あんまり誠意が感じられないのよ!シンジの場合は!―


  日曜日だというのに、朝から家事に追われているシンジ。

 ―だいたい、人が気持ちよく眠っているって〜のに叩き起こすなんて、何考えてるのかしらっ!―



飲みかけの牛乳パックを手に持ちながら思考の海を漂っていると、心の中にだんだんと色々なシンジの様子が浮かび上がってくる。



  シンジをキッと睨む自分。おどおどと目を逸らすシンジ。

 ―アタシの事なんだと思ってるのアイツは!?‥‥さっきだってアタシの事‥ロクに見ようともしないし!―


  風呂上がりのミサトにからかわれ、真っ赤になっているシンジ。

 ―アタシ、魅力‥‥‥無いのかな‥‥‥‥お風呂上がりで結構、自信‥‥‥あったのにな‥‥‥‥‥―


  目をつむり上気した顔で、自分を待っているシンジ。

 ―この前だって‥‥キスも‥‥‥‥‥してやったのに‥‥‥―


  自分に優しげな笑顔を向けてくれるシンジ。

 ―シンジ‥‥‥アタシの事‥‥‥どう‥‥思ってるんだろ‥‥‥‥‥‥―



いつの間にか、迷子になった子供のような顔にだんだんと朱が差してくる。

自分への照れと戸惑いと、シンジに対する怒り、そしてそれ以外のなにかが混ざり合い、そのせいで顔が真っ赤になっているのがわかる。

パックを持った手がわなわなと震え出すと、胸のもやもやを吐き出すかのように、小さな声ながらも強い口調で言葉を紡ぎ出す。


 「何、バカな事考えてるのよ!!アタシはっ!!!」


やけくそ気味に残りの牛乳を一気に飲み干し、空になったパックを叩きつけるようにシンクに置く。


しかし、それは思ったより軽い音しか出なかった。





真っ赤になっていた顔が、ちょっと赤いかな?というくらいまでになったところで、自分の部屋に戻ろうとする。

と、どこか懐かしい旋律がアスカの耳に流れ込んできた。

まるでその旋律に引き寄せられているかのように、足は自然とリビングへと向かっていく。


そこには、曲にまつわるエピソードを字幕で紹介しながら曲を流しているテレビと、さっきと同じようにテレビに見入っているシンジがいた。



 ―‥‥なんか‥‥懐かしい感じ‥‥‥‥いつ聴いた曲だろう‥‥‥―


それほど昔ではないはず。とにかく、日本に来てからじゃないのは確かだ。
記憶をたぐり寄せるための糸が、頭の中でどこかに引っかかってしまったような感覚。
いくら引っぱり出そうと思っても、その糸はビクともしない。


糸を引っ張りすぎて切れてしまう前――思い出すのを諦める前――に、辛うじて言葉を紡ぎ出すことができた。


 「シンジ、これ‥‥‥なんて曲?」


さっきみたいな投げ遣り気味な声にならず、普段の調子で問いかけることができた。

たったそれだけの事なのに、嬉しいようなくすぐったいような気持ちになる。

一方、問いかけられた方のシンジは、アスカの声音がさっきよりも柔らかくなったのを感じたのか、今度は身体ごと振り向いてアスカを見ながら答えてくれる。

アスカの心の中には、もうもやもやした気持ちやイライラした気分は影も形もない。


 「ん、これはショパンの『別れの曲』って言う曲だよ。
  アスカ聞いたことあるの?」



 ―‥‥‥別れの‥曲‥‥か‥‥‥‥‥‥

  ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

  ‥‥‥‥‥‥



  !!!

  そうだ!!

  あれ、ドイツを離れるときにもらった‥‥‥どこにしまってあったっけ!?―



シンジの答えを聞くやいなや、自分の部屋へと駆け出す。
目的地は、クロゼットの上に備え付けてある小さな押入れだ。






アスカは自分の部屋にはいると、まず、勉強机に備え付けの椅子をクロゼットの前に持ってきた。

そして、椅子の上に乗り、背伸びをしてクロゼットの上に付いている小さな扉を開ける。


目標であるその木製の小箱は、押入のちょっと奥まった所にあった。試しに手を伸ばしてみるが、ちょっと 届きそうにない。アスカの位置からではよく見えないが、どうやら別の大きめの箱が下にあるようだ。

そこで、下にある箱ごと引っぱり出してみることにする。

手探りで下の箱を掴み、ずるずると引っぱり出していく。

十分引き出した所で、更に背伸びをして上に乗っている小箱に手を伸ばした。


 「へ!?」

両手で小箱をしっかりと掴んだその時、足元の椅子が一瞬揺れた。
と、思った瞬間、アスカの視界が一気に、激しく回転する。


 「きゃあ!!!」


アスカには叫び声を上げることと手にした小箱を手放さないようにすること、それしか出来なかった。





『別れの曲』

その単語を聞いて、じ〜〜〜っと考え込んだかと思うと、いきなり自分の部屋へと駆け出していったアスカを「またか」と思いながら眺めていたシンジ。

正直、アスカの突発的な行動にはいいかげん慣れてきている。


 ―アスカ、いつもの調子に戻ってたなぁ―


どうしてだかは理由はさっぱり分からないが、とにかくアスカの機嫌が直ったようなのでほっとした。

シンジは、ついさっきまでは上の空で見ていたテレビに視線を戻す。
胸のつかえが取り除かれた今は、意識を集中して見ていられる。


ゆったりとした静かな旋律に身を任せ、見始めたときのようなのんびりとした気分になりかかっていた時、
突然、アスカの部屋から「きゃあ!」という悲鳴と共に、何か落っこちたような鈍い音が聞こえてきた。



!!!

考える前に身体が動いていた。

戦闘時以外では絶対聞くことが無いはずのアスカの悲鳴。それを聞いた時、シンジは考える前に悲鳴が聞こえた方向へと駆け出していた。

ものの数秒でアスカの部屋の前にたどり着く。
襖は開けっ放しになっていた。


 「ア、アスカ!どうしたの!?だ、大丈夫!?」
 「っ〜〜〜〜〜〜」


シンジが見た物はひっくり返った椅子と、押入から落ちてきたであろう箱が大小1つずつ。

そして、声も出せずにペタンと座り込み、俯きながら左手で額を押さえているアスカ。


何が起きたのかはっきりとしないが、状況から見て、押入から物を取ろうとしてバランスを崩し転倒したのだろう、ということは分かる。
しかし、アスカに声をかけても反応はなく、痛みを堪えているのか俯いたままだ。

シンジは、幾分オロオロしながらもアスカに近づいて行き、アスカのそばにひざまづいた。
そして、心配そうな顔でアスカの顔を覗き込む。


 「アスカ、どこかぶつけたの!?ちょっと見せてみてよ?」


そう言って、アスカの左手を掴もうとそっと手を伸ばす。

しかし、シンジの右手が届く前に、アスカの手は額から離れてしまった。



 あっ‥‥‥


行き場を失ったシンジの右手が宙をさまよう。

落胆。
何に対して落胆しているのか自分でもわからない。だが、その対象がアスカだということだけはわかる。

そして‥‥‥それを自覚している自分に戸惑ってしまう。




アスカがゆっくりと顔を上げた。

シンジの目に映ったのは、いつもの勝ち気な少女の顔だった。

しかし、その額にはわずかに血が滲んでいる。アスカがいつも通りに振る舞っているためなのだろうか、シンジにはとても痛々しく‥‥感じられた。


 「いったたたた〜〜‥‥‥アタシともあろうものが、ちょ〜っとドジっちゃったわね〜。
  ほらっシンジ!ぼけ〜っとしてないで何とかしなさいよ!」

 「う、うん、わかった。ちょっと待っててね。」


シンジは弾かれたように立ち上がり、救急箱が置いてあるリビングの方へと走っていった。





ドタドタとリビングへと駆けていくシンジの背中がアスカの視界から消え、
はっと思い出したように、すぐそばに転がっていた小さい木箱を手に取り、中身を調べてみる。


 「よかった‥‥壊れてないみたい。」


言葉と共に安堵のため息が漏れる。


安心したせいか、さっきまでの勝ち気な表情は太陽が雲に隠れるようにゆっくりと輝きを失い‥‥‥痛みに顔をしかめつつ、アスカは再び俯いてしまった。


 ―せっかく心配してくれたのに‥‥‥また、やっちゃった―


こんな時でも意地を張って強気に振る舞ってしまう自分がイヤになってくる。
そして傷の痛みが、そんな負の感情に拍車をかけていく。


 ―ちょっとだけ素直になれば‥‥‥わかってはいる。でも‥‥やっぱり無理‥‥‥―

 ―こんなことを考えている自分はもっとイヤ!―


半ば自己嫌悪のようなとりとめのない思考が、頭の中で何度も何度も繰り返される。


そんな考えを断ち切るため、ふと、さっきまで額を押さえていた左手をじっと見つめてみる。


だが、よく見ると手のひらには、少しだけだが血が付いていた。

それを見た途端、アスカの瞳はみるみるうちに潤み始めてくる。


 「傷、残っちゃうかな‥‥‥‥」


それは自分の耳にも届かないくらい、弱々しい呟きだった。





シンジはリビングに常備してある救急箱をひったくるように掴むと、がチャガチャと音を立てながらアスカの部屋へ駆け戻る。

そこにはアスカがさっきと同じように俯いて、さっきと同じような表情で待っていた。


 ドキンッ!


ところが、アスカのその表情を見てシンジの心臓が跳ね上がる。


 ―え?な、なに?―


いきなり鼓動を速めた自分の心臓に戸惑いを隠せない。
さっきと変わった様子はないのに‥‥そう思いながらアスカをジッと見つめる。

俯き加減のアスカの顔を覗き込んでみると、その瞳は今にも涙がこぼれ落ちそうなほど潤んでいた。


 ―か、かわいい‥‥‥―


そこには、いつも勝ち気で、いつも我が儘で、いつも自分に文句ばっかり言っている少女はいなかった。痛みのせいか、目に涙を浮かべている可憐な美少女がいるだけ。

今までシンジが見てきた中でも、とびきり可愛いアスカがそこにいる。

変に意識してしまい、更に心拍数が上がっていくのがわかる。


 「‥‥‥なに‥してんのよ。」


シンジはアスカの声ではっと我に返る。

救急箱を片手にぶら下げたまま、ぼけっと突っ立ってアスカに見とれてしまっていた。


 「はやくしなさいよね!」

 「あ、ご、ごめん、ちょっと待ってて。」


シンジは照れを誤魔化すように引きつった微笑みを浮かべ、アスカと目を合わせないようにしながら、救急箱から消毒液や脱脂綿などを取り出していく。

どこかぎこちない沈黙の中で、ごそごそという音だけがお互いの耳に届くだけ。

そんな沈黙を破ったのは、またもアスカだった。


 「も〜!何ぐずぐずしてんのよ!」


言葉の内容とは裏腹に、声には涙が混ざっているように聞こえ、その表情には不安げな滲み出ている。

シンジが初めて見る不安そうなアスカ。

こんなアスカもいいなと思いながらも、はやくいつもの明るいアスカに戻って欲しい、そんな想いが沸き上がってくる。
とにかくこれ以上アスカを不安にさせたくないので、なるべく明るく振る舞おうと心に決めた。

そのおかげか、シンジはぎこちないながらも、笑顔でアスカに答えることが出来た。


 「ご、ごめん。もうちょっとだから‥‥‥‥‥‥
  ‥‥‥‥‥‥
  ‥‥‥‥
  よし!準備できた!
  じゃ、じゃあ、始めるよ?アスカ。」

 「遅いわよ!」

 「う、うん、ごめん‥‥‥。
  それじゃ、アスカ。‥‥顔、上げてくれる?」

 「‥‥‥うん。」


落ち着きを取り戻しかけていた心臓が再び跳ね上がる。

溢れそうなほど涙をたたえて不安げに揺れる蒼い瞳。きゅっと真一文字に引き結んでいる唇。そんなアスカの姿が目に焼き付き、だんだん意識がぼ〜っとしてきて頭がくらくらしている。


 「前髪、‥‥‥上げるよ?」

 「‥‥‥ん」


アスカが素直に返事をしたことにちょっと驚いた。いつもなら何かしら文句を言って来るのに‥‥。アスカは、身を委ねたかのように瞼を閉じてシンジを待っている。

そっとアスカの前髪をかき上げると、さらさらとした柔らかい髪の感触が手のひらから伝わってくる。

傷口をよく見てみる。血は滲んでいるものの、ちょっと皮がはがれている程度で3日もすれば治るような傷だ。
シンジは、心の中で安堵のため息をついた。

ところがアスカはその沈黙を逆の意味に捕らえたようだ。
いつものアスカからは想像できないくらいの、小さなとても弱々しい声でシンジに訊いてきた。

 「きず‥‥‥残っちゃうかな?」

 「え、ううん!
  全然大丈夫だよ!これくらいだったらすぐに治るよ!!」

 「‥‥‥‥‥ホント?」


わずかに濡れた睫毛がふるふると震えている。今にも泣き出してしまいそう。
シンジはアスカのあまりの愛おしさに、思わず抱きしめてしまいそうな衝動を必死に押さえつける。


 ―今日は初めてみるアスカが多いな‥‥―


シンジは、ほとんど冷静な部分が無くなっている頭の中で、そんなことを思いながら消毒を始める。
ゆっくりと丁寧に丁寧に傷口を消毒していく。


 ―僕も小さな頃は、転んだりしてよく怪我したっけ―

   小学校1、2年生の頃だったか?
   学校帰りに転んで泣いていると、どこからか女の子がやってきた。
   その子の顔も声も覚えていないけれど、『おまじない!』と言って‥‥‥
   チュッ、と傷口にキスをしてくれたのだけは覚えている。



ぼんやりとした頭の中でそんな思い出に浸りながら、シンジの顔はそろそろとまるで引き寄せられているかのようにアスカの額へと近づいていった。





おでこに、何か暖かくて柔らかいものが触れた感覚。

なんだろう、これ?そう思って、瞼をそっと持ち上げてみると、すぐ目の前には呆けたような表情で自分を見つめているシンジの顔があった。

シンジと目が合う。するとシンジは、バッと目を逸らし、顔を真っ赤にして慌てて救急箱の中を漁り出した。


 ―えっ、な?な、な、な、何?

  そ、そそそそんな、ま、ま、まさか!?―


それが意味するところはすぐに悟ることが出来た、が、にわかにはとても信じられない。


 ―シ、シンジが‥‥‥あ、あ、アタシに‥‥‥キ、ス?―


何度も、何度も、この言葉だけが頭の中を駆けめぐり、他には何も考えられない。

シンジが救急箱から絆創膏を取り出し、傷口に張ってくれて、「じゃ、じゃあ、僕、あ、朝ごはんの用意してるから!」と言って、 まるで逃げ出すかのようにキッチンへと向かって行くのを見届けるまで、ずっとぼけっとしてた。


シンジの背中が視界から消えたところで、やっとアスカは我に返った。


そっと額に手を当ててみる。

しばらくして手を離し、手のひらをじっと見つめてみる。

そして、何かを繋ぎ止めるかのように、軽く握りしめたその手を胸に当ててみる。


 ‥‥‥あったかい‥‥‥


どこか安心できる暖かさ。
その暖かさのおかげか、アスカはいつもの自分を取り戻していった。


 「ふん、何よ。カッコつけちゃってさ!」

 「そんなことされても、ち〜〜っとも嬉しくなんかないんだから!」

 「たかが、キス、くらいで顔を真っ赤にするんじゃないわよ!」

 「まぁ〜ったく‥‥‥ホントにお子さまなんだから!」


いつものようにシンジの悪口がポンポンと口から飛び出してくる。しかし、その言葉とは裏腹に、声音はとても甘く優しく、ほんのり赤くなった顔には優しげな微笑みが浮かんでいた。


 「へへ、ばぁかしんじっ!!」


傷の痛みも、傷跡の不安も、いつのまにか全然無くなっていた。





 ―はぁ‥‥なんであんなこと‥‥‥アスカ怒ってるかな‥‥‥―


リビングには救急箱をしまうため、中身を整理しているシンジがいた。
いまだに、顔どころか首や手まで真っ赤に染めている。

頭を使わない作業をしているためか、頭の中にはさっきの場面が何度もあざやかに甦ってくる。


 ―さっきは‥‥‥気が付いたら‥‥アスカの顔が目の前に‥‥‥‥‥―

 ―‥‥‥どうしちゃったの‥‥かな?‥‥アスカのこと、かわいいって‥‥‥思ってから‥‥僕、ずっと変‥だった‥‥‥―

 ―‥‥昔を思い出したから?‥‥‥それとも、この前のキスのせい?―


いくら考えても、はっきりとした答えは出せそうになかった。でも、なんとなく満たされたような嬉しいような感じ。顔を赤くしながらも、思わず微笑みが浮かんでしまう。

はっ、と気付くと、救急箱の中身はさっきよりも混沌を増している。
慌てて整理し直し、救急箱を元あった場所にしまいこんだ。


 「ふふ‥‥。」


何故か、笑い声が漏れ出てしまう。


テレビを見てみると、さっきの番組は既に終わっていて、わけのわからない子供向けアニメが放送されている。

テレビを消すと、リビングを満たしていた音がさーっと引いていき、後には心地よい静寂が残るのみとなった。


 「さてと!朝御飯の用意、しなくっちゃ。」


お腹を空かせたアスカが、シンジの作ったご飯を待っているだろうから。





すすっ、と音もなくアスカの部屋の襖が開いていく。

ちょっと間をおいて、わずかに開いた襖からそそっと音もなくアスカが姿を現した。

アスカが耳を澄ましてみると、キッチンの方からトントンコトコトと様々な物音が聞こてくる。どうやら、すでにシンジはちょっと遅めの朝御飯の準備に取りかかっているようだ。



そっと足音を忍ばせてキッチンの方へと近づいていき、入り口のあたりから様子をうかがってみる。

いつもの様に黙々と料理をしているシンジ。

しかし、いつもの手際の良さは影を潜め、時々包丁を持つ手を止めて考え込むような仕草をしたり、ぼ〜っと宙を見つめながらお鍋をかき回したりしている。

そして、はっと気付くとまた料理に集中しようとしているのだ。
耳とうなじを真っ赤に染めながら。


 ―な〜にやってんだか、あのバカは―


アスカは、そんなシンジの様子につられて、また頬が染まってきてしまうのを感じる。

しばらくその様子を見つめた後、更に足音を忍ばせてゆっくりとシンジに近づいていった。



シンジの真後ろまで来たところで歩みを止める。どうやらシンジにはまだ気付かれていないようだ。気付かれないようにゆっくりと深呼吸をし、そして、再びシンジの手が止まったときを見計らって声をかける。


 「シ〜ンジっ!」
 「っっっっ!!!なぁ、ア、アスカぁ!?」


ビクン!と、目に見えるほど身体をびくつかせるシンジ。思いっきり上擦った声でマヌケな答えを返すのが精一杯のようだ。よほどびっくりしたのか、包丁を取り落としそうになっている。

予想通りの反応を見て、アスカはにんまりと満足そうに笑みを浮かべた。


 「なぁんでそんなに慌ててるのかな〜?シ〜ンちゃん?」

 「な、なんでって、アスカが驚かすからだろ!」

 「ふ〜ん、じゃぁあ、なぁんでそんなに赤くなってるのかな〜?」

 「あ、赤くなんかなってないよ!」

 「へぇ〜、でも耳が真っ赤になってるわよ〜」

 「えっ、あ、う‥‥‥‥‥」


それっきり沈黙してしまったシンジ。アスカもつられて真っ赤に茹で上がってしまう。
二人を沈黙がつつむ。ぐつぐつと鍋が沸騰している音だけがあたりに響いている。

そんな静寂を押しのけるように、アスカが囁くような照れたような声でそっとシンジに話しかける。


 「シンジ‥‥‥これで‥‥‥」


シンジの背中に寄り添うように立ち、両手を肩に置き。


 「貸し借り‥‥‥」


背伸びをして、シンジの肩口から顔を出し。


 「なしだからね‥‥‥」


そして‥‥‥桜色の唇をシンジの頬に押し当てた。



アスカは、シンジの背中に寄り添ったまま目を閉じておでこをシンジの首筋に押しつける。
うっとりとした表情でしばらくシンジの体温を確かめている。

そして、パッと離れるといつもの調子で「朝御飯!早くしてよね!!」と言ながら、トタトタと自分の部屋に走っていってしまった。



シンジはというと‥‥‥‥‥焦点の定まらない瞳を見開いたまま、その場に固まっていた。

シンジが再び動き出せたのは、盛大に鍋が吹きこぼれた後だった。





 かちゃかちゃ、ぱくぱく、ずずー

お互い目を合わせず―照れくさくて合わせることが出来ず―何となくギクシャクした雰囲気の中、ちょっと遅めの朝食をとっている。食器がふれ合う音と料理を口に運び込む音以外は、全くない。

先にそんな雰囲気を破ったのは、意外なことにシンジだった。


 「ね、ねぇ‥‥アスカ‥‥‥さっきさ、何取ろうとしてたの?」


アスカは無言で席を立ち、部屋に行ってしまう。

う、また怒らせちゃったかな?と内心ビクビクしているシンジ。

しかし、アスカは手に小さな木箱を持ってすぐに戻ってきた。
無言のまま再び椅子に腰掛け、箱のふたを開ける。静かに流れ出すメロディー。


 「さっきの箱‥‥‥オルゴール‥‥だね。よかったね、壊れて無くて。
  ‥‥‥へぇ、『別れの曲』なんだ。」


こくん、とうなずくアスカ。


 「これ‥‥‥どうしたの?」


アスカが怒っているわけではないことがわかり安心するシンジ。
問いかけるシンジの口調には優しさの微粒子が含まれているようだ。

今まで無言だったアスカがゆっくりと口を開く。はにかんだような照れくさいような表情で話し始めた。


 「んと、これは‥‥‥
  アタシがドイツを離れるときにね、お別れにって向こうのネルフのみんなから貰ったの‥‥‥」

 「へぇ‥‥‥」

 「一緒にカードが入っていて、『別れはつらいけれども、新しい出会いの始まりでもある。どうか、あなたに良い出会いが訪れますように』って‥‥‥

  その時は別に何とも思わなくって‥‥‥‥綺麗な曲だなって思ったけど、曲名も知らなかったし‥‥‥‥
  メッセージの意味がわからなかったの‥‥‥‥

  それで、ただ、ありがとう大事にするわ、って‥‥」

 「そうなんだ‥‥‥。」

アスカはまた、こくんとうなずいた。

 「でも、今は‥‥‥。」

 「‥‥‥今は?」

 「今は‥‥‥‥‥‥メッセージの意味‥‥‥‥少し‥‥わかった気がする。」


顔を上げてシンジの方を見やると、穏やかな顔でアスカのことを見つめている。

視線が絡み合い、お互いの瞳に吸い込まれそうな感覚。

静かな心地よい沈黙の中、じっと、見つめ合う二人。


アスカの唇から、いたわるような口調で言葉が紡ぎ出される。


 「ねぇ、シンジ‥‥‥」
 「なに?アスカ‥‥‥」


シンジも愛おしげな声で言葉を返す。

その言葉を聞き‥‥‥‥‥アスカの表情は一瞬のうちに悪戯っ子それへと変化した。
面白い物を見つけだした子供のような顔へと。

そして、勢い良く自分のおでこの絆創膏を指し示す。


 「さっきのは、なあに?」


カァ〜。
一気に真っ赤になるシンジ。さっきまでのいい雰囲気はどこへやら、しどろもどろになってしまう。


さ、さっきのは、え、ええっと〜。んふふ〜、な〜にかな〜。お、おまじまい‥‥。
おまじない〜?怪我が早く治るようにって‥‥。そんなの誰から教わったのよ!?
僕が小さい頃、怪我した時に女の子が‥‥。へぇ〜、シンジくんの初恋ってわけだ。
そ、そんなんじゃないよ!じゃあ、なんなのよぅ。



ちょっとした事故が引き起こした、ちょっとした進歩。

お互い次の一歩を踏み出せたこと。今の二人にはそれだけで十分だった。


< FIN >

【自己解説】

「あくしでんと」 1998/6/7 初出:トヂアの密秘

 初めて書いたSSです。
 はい、恥ずかしいです。とっても。
 転載するにあたって誤字脱字をチェックしたのですが…その時でさえモニタの前で悶絶しておりました。
 このときのシンジはスカ入ってませんでしたね。アニメと貞本版を足して2で割ったような感じでしょうか(ようは中途半端?)

▲Reprinting old work.へ戻る
up date 2001/1/16
ご意見・お問い合わせなど、メールはこちらへ
SoS主宰
杜泉一矢 編集長斉東深月 Web担当けんけんZ