離れられない
薄暗い室内。部屋の奥、ドアの向かい側に、デンと部屋に不釣り合いなほど大きなスチール机が、鎮座ましましている。その天版の上にはおびただしい数のファイル、ファイル、ファイル。書類とおぼしき紙が幾重にも積み重なって、不可思議な前衛芸術の様相を呈している。よく崩れないなと思わせるほどの高さ。だがなぜか崩れそうにない安定感。 その頂上に置かれていた紙きれが一枚、空調の風にあおられ、舞った。重力と空気抵抗の微妙なバランスが、紙をふわりと主のいないひじ掛け椅子へと運ぶ。でかでかと『抗議書』と銘打たれたその紙はゆっくりと椅子に腰を下ろした。ぱさり、と軽い音がつかの間、空調の低い音をかき消す。 「う〜〜」 その音が合図となったのかスチール机とは反対側、ドアの横合いから低いうめき声が発せられた。 「う〜〜〜〜」 一呼吸置いた後、再びうめき声が部屋に響きわたる。苦悩に満ちた、さながら獣のような声。 ため息のような音を残して空調が呼吸を止める。空気が停滞し沈殿していき、一気に部屋中の時間にブレーキをかける。しかしこの部屋の主でもある、先ほどのうめき声の主はそれを許さなかった。 「う〜〜〜〜〜〜がぁ! ダメだぁっ!」 後半、なかば叫び声を上げて時間を通常の流れに引き戻す。いや、本人にそのつもりは無いのだが結果的にそうなった。 どさっ、と重い音がした。 そこにはテレビモニタの明かりに照らされながら、大学ノート片手に安物のソファーに倒れ伏している人影。ゆるくウェーブのかかった深紫色の髪がソファーからはみ出して床に届かんとしている。もう片方の手はモニタの明かりが届かないところまで伸ばされ、その影の中で荒く削った鉛筆を握りしめている。座った姿勢のまま横に倒れ込んだためか投げ出された脚が苦しそうだ。 すぐに規則正しい呼吸音がソファーの上から聞こえてきた。時折、人影がぴくりと震え、しばらくしてまた、ぴくっ、と動く。どうやらモニタの明滅に反応しているようだ。映像が切り替わり明るさが変わるたびに、びくっびくっ、と身を震わせるその様はまるで電気ショックで蘇生中の重病人のよう。 ピピッ、という電子音。 シュッ、と音がしてソファーの横の床が台形に切り取られた。 ソファーの上で、髪がわずかに持ち上がる。 二つ三つ、カツカツと堅い足音が響き、白く浮かび上がった台形の中にいびつな人影が姿を表した。 「ミサト」 そう呼びかけながら堅い足音は部屋に入り、一直線にソファーを目指す。 「いろいろ大変でしょうから細かいことは言わないつもり」 床とソファーの間に浮かぶ髪を蹴り上げんばかりにひときわ足音を高く響かせ、白衣の腕を組んだ。 「でもね、内線もインターフォンも切って、なおかつドアロックを暗号化するのは少しやりすぎだとは思わない? ねぇ、ミサト?」 影の中から鉛筆を握った右手が上がる。うぃー、とくぐもった返事が聞こえた。 白衣の上に乗っているセミロングの金髪はじっとそれを見下ろしていたが、やがて呆れたように息を一つ吐き、組んでいた腕を白衣のポケットに移した。 「ほら、こんなとこで寝ちゃ風邪引くわよ。まだ全然進んでないんでしょ?」 その言葉でようやく、倒れ込んでいる背中に意志が見えるようになった。 のろのろと体を起こす。焦点の合っていない目に、よだれ。髪は乱れるままで手櫛で直そうとする素振りもみせない。端的に言えば、ひどい顔。それでいて手にしているノートと鉛筆は片時も離そうとしない。 それが、八月一日金曜日午前七時十二分三十五秒現在の、葛城ミサトのありさまだった。 |
□ 「だぁってさー、どうにもこうにも頭に浮かんでこないのよー」 眠気覚ましのコーヒーを両手で包み込むようにして持っている。それだけなら幼い子供のような持ち方であるし、口調もまあかわいい感じはする。しかし、未だ整っていない深紫色の髪と徹夜でよれよれになった服がそれを台無しにしている。むしろ滑稽ですらある。 葛城ミサト二十九歳 そろそろいろいろと考えなければならないお年頃だ。 「ねぇーリツコぉ、なんかいい考えなーい?」 コーヒーを片手にミサトの前に立つ白衣の女性はわずかに眼差しを上げた。綺麗に染め抜いた金髪が空調にあおられ、かすかに揺れる。真っ赤に引かれたルージュが開きかけて、閉じ、また開き、そしてその隙間からため息がもれた。 ミサトはほんの少しの期待を込めて彼女の口元を見ていた。大学時代からの友人である彼女――赤城リツコの唇は動きを止めたままだ。リツコの瞳は、眼鏡が照明の光を反射してミサトからは窺うことができない。だが、ミサトにはリツコが今なにを考えているかよくわかっている。腐れ縁――そう腐れ縁で、もう十年も付き合っているのだ。こんなときリツコの言うことはただ一つ。 「ないわ」 冷酷で身も蓋もない言葉。予想していてもかなり堪える。それでもミサトは気を取り直してもう一度リツコにすがった。 「そんなこと言わないでさー、リツコさまぁ。なんかあるでしょう?」 「無いったら無い」 身も蓋もない返答にミサトは上目遣いになる。 「あー、もしかして怒ってる?」 「責任者を呼び出そうとしたら全然連絡がつかなくて、仕方なく部屋まで足を運んだらドアの鍵が暗号化されていて、開けるのに二十分もかかっても怒らない人間がいたら、是非会ってみたいものだわ。……でも、それはそれで別として、いいアイデアが無いのは本当よ」 残りのコーヒーを一気に飲み干して、マグカップを持ったまま器用に腕を組むリツコ。本日、何度目になるかわからないため息をつく。 「私だってなんとかしたいわ、もちろん。でも、今まででだいたいのパターンは使い尽くしたし…」 そう言ってリツコはひとり物思いに沈んだ。こうなるとリツコは長い。 ミサトはリツコをあてにするのをやめた。両手で持ったコーヒーを口に運び、ぐーっと傾ける。ぬるくなったコーヒーを一気に胃へと流しこみ、マグカップをそのへんにうっちゃり、傍らに置いておいたノートと鉛筆を手に取った。 こうやって鉛筆片手にノートと悪戦苦闘するのは何年ぶりだろうか。大学に入るまで、絵はそれなりに好きだったが、他人に発表するために描くことはまるで考えていなかった自分が、本格的にマンガを描くようになったのは大学である女性に出会ったからだった。 赤城リツコ。 いま目の前で物思いにふけっている、その人だ。 加持と付き合い始めて間もない頃、たまに大学に出てみたらリツコから無言である小説を渡された。読む気はほとんどなかったが、さわりだけと思って読み始めたら止まらなくなり、徹夜で読み切ってしまった。それほどまでに強烈な、新たな世界を体験した。いやおうなく創作意欲が刺激され、イメージイラストを二、三描いてリツコに見せたところ、一緒に本を作らないか、と誘われたのだ。 あれからもう十年になる。大学時代は年二回、必ず本―ミサトがマンガ、リツコが小説―を作っては大きな会場でちまちまと売っていた。いわゆる超大手に比べれば、そんなにたくさん売れたわけではないが、自分で作ったものを売るのは楽しかった。 大学を出てからはリツコと離ればなれになったこともあって、それ以来、本は作っていない。だからこうして鉛筆を手にしたのは七年ぶりくらいになるはずだ。久しぶりの感触はなつかしく、楽しい。 しかし今は、いいストーリーが思い浮かばない。ノートを睨み付ける時間が長くなる。 「あら? ミサト、見るようになったのね」 ノートから意識を引き剥がし、声を発したリツコを見ると、彼女の視線はソファーの横に設置した一定間隔で切り替わるテレビモニタを向いていた。 「ああ、うん」 歯切れの悪い答え。それも無理はない。そのモニタには、いま現在の葛城家内部が映っているのだから。 ミサトは、自宅にまで隠しカメラを設置して子供を監視することに当初から反対していた。しかし、以前サードチルドレンである碇シンジが一時行方不明になった際、諜報部からの報告書に初動捜査が遅れた原因の一つとして室内監視カメラが設置されていないことがあげられ、立場がかなり苦しくなった。それに加えて、セカンドチルドレンたる惣流・アスカ・ラングレーが葛城家に住むことになり、さらに監視の必要性が強くなってしまった。さすがのミサトも諜報部の圧力に負け、隠しカメラを設置することに同意したのだ。 ただし最低限のプライバシー保護を盾に、室内カメラは玄関、リビング、キッチンの三ヶ所のみとし、室外は赤外線センサと監視員だけで対応することで合意させた。これでもかなり諜報部からは突き上げをくらったのだが、ミサトとしてもこれ以上は譲れなかった。 子供達と、自分のプライバシーのために。 ミサトは、はなっからその映像を見るつもりはなかった。会議の席で、そんな胸クソ悪いもの見るもんか、とまで言い放った。その翌日、ミサトの部屋に届いたのは古ぼけた十四インチのテレビモニタ。諜報部の連中が気を回したのだろう、超高解像度カラー液晶全盛のこの時代にわざわざブラウン管を掘り出してきたのは、ある意味敬意に値する。 宣言通り、ミサトはモニタの電源すら入れなかった。が、しばらくして諜報部からモニタの電源だけは入れるようにと連絡があった。誰かがチクッたのかはじめからモニタにセンサが付いてたのか知らないが、それから電源だけは常時入れておくようにしたのだ。もちろんモニタは自分の席から一番見づらいところに置いてある。 そして今、そのモニタにはキッチンの様子が映し出されていた。その画面には横斜め上から映されているシンジの姿がある。角度からいって、カメラはきっと冷蔵庫の上あたりに偽装して設置してあるのだろう。 多少だぶついた白い半袖ワイシャツに青いエプロン。その手元は背中に遮られているが包丁で何かを刻んでいるのがわかる。リズミカルな動き。音がないというのに、幼いころ布団の中で聞いた懐かしい音が耳によみがえってくるようだ。 リツコがすっと手を伸ばしてモニタの横にあるスイッチを『固定』に切り替えた。 「なかなか…イイわね…」 その低い呟きをミサトは聞き逃さなかった。さっすがリツコ長いだけあってツボは押さえてるわね、などと内心ニンマリしながら、いっちょ自慢話でも聞かせてやろうと口を開きかける。眼鏡の横から覗くリツコの瞳が愉しそうに細められた。その視線に、ただならぬものを感じ、慌ててモニタに目を移す。ミサトの目に入ってきたのは流し台に寄りかかるようにして立つ制服姿の少女。画面端の色が変わっているようなオンボロブラウン管でも、その可愛らしい顔に笑顔が浮かんでいるのがわかる。 ミサトは慌てて立ち上がり、モニタの上でうっすらと埃をかぶっているヘッドホンを手に取った。急いで片方だけを耳にあてモニタを凝視する。すぐにリツコが横に来て、もう片方を耳にあてた。 サーというホワイトノイズをBGMにモニタの中の音が聞こえてくる。 『ねーねー、今日のおべんとは?』 『生姜焼きとスパゲッティサラダと、あとはきんぴらかな』 |
「ねーねー、今日のおべんとは?」 「生姜焼きとスパゲッティサラダと、あとはきんぴらかな」 僕がそう答えると、彼女はあからさまに不満を口にした。 「えーっ! それって全部昨日の残りじゃん!」 「そうだよ」 トントンと大根を細切りにしながら簡単に返事をする。こういうときに手元から目を離すのが一番危ないんだ。油断大敵油断大敵と自分に言い聞かせる。 「なによそれ、かんっぜんに手抜き!」 手抜きじゃなくて生活の知恵っていってもらいたい。ちらっと横目で見てみると見事なくらいふくれっ面の彼女。 ん、と、細切り完了。 鍋はもう煮立ってるから、だしの素を入れて、かき混ぜたところで大根を投入する。 あ、豆腐切るの忘れてた。 「……返事くらいしなさいよ」 「忙しいんだからちょっと待ってよ」 冷蔵庫から豆腐を取りだして水を切る。 そういえばアスカも一緒に暮らすようになってから結構経つけど、朝にちょっかい出してくるようになったのは最近だな、と思う。それまでは呼ぶまで部屋にいるか、テーブルに座ってぼーっとテレビ見てるだけだったのに。どうせなら手伝ってくれればと思うけれど、それは無理な話だろうし。 僕は手に持った豆腐と包丁に意識を集中した。ここは注意しないと。 豆腐を手のひらに乗せたまま、まず横に包丁を入れていく。力加減に注意しながら…よ、よ、よ、よいっと、そして縦にも、よ、よっと、できた。しめて十五個。そのまま鍋に投入する。ちょっと大きかったかもしれない。 「ちょっと、人が話してるんだからコッチ向きなさいよ」 「味噌とかすまでちょっと待ってね〜」 意識は鍋に向いていて、口だけが自動的にアスカに返事してる感じ。 おたまに取った味噌をお湯に入れて菜箸で溶かしていく。菜箸を動かしながら、ちらっと横をうかがうとかなり不機嫌そうなアスカの顔があった。しかも腕まで組んでる。これはちょっとマズイ。これ以上ご機嫌を損ねると後が怖いんだよな… 火加減を調整し終えたところで、僕はアスカの方に向き直った。 「で、あたしはいつまで待てばいいの?」 「うん、もう大丈夫だよ。それでなんの話だっけ?」 「お弁当が手抜きって話よ! ぜんっぜん話聞いてないじゃないの!」 「ご、ごめん。でも包丁つかってるときにあまり話かけないでよ。危ないからさ」 「オーケー、わかったわ」 意外とあっさり肯定の言葉が聞けたことに、僕はびっくりした。素直なアスカなんてアスカじゃない、とまで心の片隅で思ったりして。 すぐに厳しい追及が始まるとも知らずに、我ながらのんきなことを… 「でもさっき包丁つかってないときも、あんたテキトーな返事してたけど」 「それは…」 「それはどうして?」 思わず口ごもってしまう。 アスカは腕を組んだまま動こうとしない。 「料理してるときって、ほら、集中しちゃうからさ。ほ、包丁つかってないときも火をつかってたり、あ、熱いお湯とかもあるしさ」 う……心臓がバクバクしてうまくしゃべれない。どうしてもどもってしまう。 どうも僕は、アスカのこの細めた目に弱いらしい。蒼い瞳が深みを増したように見えて、視線を合わせられない。すごくドキマギしてしまう。 「シンジ、あんたさっき包丁つかってるときは話しかけるなっていったわよね」 「う、うん、言った」 「じゃあ、それ以外のときは話しかけていいわけよね?」 「え、っと、集中してるときはなるべく話しかけないでほし…」 「いいわけよね?」 腰に手を当てたアスカに僕の言葉は消し去られた。 「ねっ?」 アスカの手に力がこもるのを見て、僕は力無くうなずいた。 うう……ほとんど脅迫だ。 「…はい」 「そうそう、はじめっから素直にいうこと聞いてりゃいいのよ」 途端にアスカは上機嫌になった。 くくっ…勝ち誇った笑顔がなんとも憎たらしい。でも、こんな笑顔でも可愛いかもと思ってしまう、くやしいことに。もとが可愛いからなぁ…ま、性格は最悪だけど。 「集中しててもそうじゃなくても、人に話しかけられたらちゃんと相手の方を向いて目を見て話すもんよ。これ世界の常識ね。中学生にもなってそんなことも身に付いてないんじゃ、この先やってけないわよ」 得意げに語り出すアスカ。下手に口出しするとまた不機嫌になるから、はいはいと適当に相づちを打ってあげないといけない。 僕は今いったいどんな顔してるんだろ。やっぱり死んだ魚の目になってるんだろうか。 「だいたいね、あんた最近お弁当にせよなんにせよ、愛が足らないのよ、愛が」 あ、い? いきなりの爆弾発言に僕は呆然とした。頭の中が真っ白になる。 アスカの口から、愛が足らない、なんて言葉が出てくるとは爪の先ほども予想してなかったから。あい、というコトバが、『センセ愛妻弁当ならぬ愛夫弁当やな』、なんていう昨日のトウジの冷やかしを思い出させてくれてしまったから。 一気に自分の顔が赤くなっていくのがわかる。もうまともにアスカの顔なんて見れやしない。 「な、なによ、いきなり顔真っ赤にして…馬鹿じゃないの?」 困惑したような呆れたようなアスカの声。僕が言うのもなんだけど、ときどきアスカって馬鹿みたいに鈍い。もしかしたら、日本語のニュアンスがいまいちよくわかってないのかもしれない。いや絶対わかってない。 とりあえずゆっくりと顔を上げてみる。 困ったように宙をさまようアスカの手、制服のリボン、そしてきょとんとしたアスカの表情。そこまで見たあとで、ばっちりアスカと視線が合ってしまった。 彼女に、伝染った。 みるみるアスカの顔が赤くなっていく。 「あっ、…あ、あ、愛じゃなくて『気づかい』! そう気づかいよ! 気づかいが足らないのよ!」 そんなにうわずった声で言われても…それに耳たぶまで真っ赤になってると、むしろ逆効果だと思う、個人的に。 僕はもう自分の足元を見つめることしかできない。 「な、に…よ」 それっきりアスカも黙ってしまった。 なんとか視界に入っている白い靴下の爪先がもじもじしてる。あーもーそういうことするからこっちも回復できないんだってば。 こ、こういうときには深呼吸。何はともあれ、深呼吸。 僕はゆっくりとアスカに気づかれないように、深く息を吸い、ゆっくり吐きだした。 よしよし、だいぶ落ち着いてきた。さっきまで自分の心臓の音しか聞こえなかったのに、今じゃ鍋が煮立つ音も聞こえるようになった。 あれ? 鍋? しまった! まだ味噌汁つくってる途中だった 急いで火を落とし、鍋のふたを取ってみる。うっ…かなり煮立ってる。中にはぐだぐだになった大根と豆腐。食べられないことは無いと思うけど、とりあえず味見してみる。 あちちっ。でもまあ、味自体は大丈夫みたいだ。 ヒリヒリする舌を気にしながら振り向くと、顔を赤らめたままのバツが悪そうなアスカの姿。もしかして心配してくれてるのかな? できるかぎりの笑顔をつくって、とりあえず今、僕が言えることだけを言うことにする。 「あのさ…そろそろ朝御飯にしようか」 「…そ、そうね」 |
『あのさ…そろそろ朝御飯にしようか』 『…そ、そうね』 「あらあら、平和だコト」 リツコはそう言ってヘッドホンを離した。その口調はこれ以上なく穏やかだが、目は笑っていない。いや、どちらかというと、どこか遠くにある何かを殺さんばかりの目つきだ。 「ミサト、こういうものは予備知識を持たせてから見せて欲しいもんだわ。正直言って目の毒よ、コレ。あなたの家じゃあの二人、いつもああなの?」 「……これだ」 零下を感じさせるリツコの言葉などまるで耳に入らずミサトは呟いた。ヘッドホンを放り出し荒々しくノートをめくる。そしてものすごい勢いで鉛筆を紙面に走らせはじめた。 「これよ!」 今度は熱にうかされたような呟き。 瞬く間にノートに枠と直線が引かれ、その中にラフな人物と背景が描かれ、フキダシに台詞が書き込まれる。 「あら」 リツコはまた愉しそうに目を細めると、ミサトの手の中でどんどん埋まっていくノートを凝視する。しばらくするとその真っ赤な唇の端がいやらしく吊り上がった。 「ふふ、なかなかイイわよ。ミサト。さすがだわ」 「これ、これよ! 無自覚ならぶらぶ! 妄想とは微妙にちがうライブ感覚! これこそわたしが求めていたものっ!」 もはや熱病にかかったといってよかった。創作意欲という熱病に。血走った目、振り乱した髪、止めようと思っても止まらない勢いで右手の鉛筆が動き続ける。 のちの証言によるとこの日一日中、葛城三佐の自室から断続的に怪しげな笑い声が聞こえてきたという… |
□ 「ねー、シンジ。このハロー警報ってなに?」 リビングから声がかかった。僕は、料理の手を止めて濡れた手をタオルでふきふきリビングに向かう。そこにはテレビの天気予報とにらめっこしているアスカがいた。 「どれどれ……ああこれは波浪警報っていって、海の波が高くなるって警報だよ」 画面を指差しながら教えてあげる。夜から雨が降り出すようで、警報は静岡県と神奈川県にも出ている。明日は雨の日曜日になってしまいそうだ。 「これで『はろう』って読むものなの?」 「うん、この『波』は音読みすると『は』だし、こっちは浪人の『ろう』。合わせて『はろう』だよ」 「はー、そうなんだ。あたしてっきり…」 珍しくアスカが口を滑らした。 いつもならこんなツッコまれ放題なこと言わないのに。せっかくだからツッコんでみる。 「英語のハローかと思った?」 アスカの頬にさっと朱が差した。 「う、うん、ちょっとだけ。ほら、日本語って当て字ってのがあるし。でもすぐに違うなって思ったんだからね。だからシンジに訊いたんだから」 思ったよりかわいらしい反応が返ってきてびっくりした。いつもなら、うっさい!とかいってむくれるのに。 僕はただ黙ってうなずいてキッチンに戻った。せっかく穏便に済んでいるのに余計なことをして逆鱗に触れたくない。 「ねー、シンジ。波浪って出てこないよ」 包丁を手にしたところで、またアスカに呼ばれた。リビングにとんぼ返りすると今度は手のひらサイズの電子辞書とにらめっこしている。 「どれどれ」 肩ごしに小さな液晶画面を覗き込む。 そこには『はろお』と表示されていた。 「あ、これじゃ出てこないよ。最後は『お』じゃなくて『う』だよ」 「そっか、なるほど」 両手の人差し指がたどたどしくキーを叩いて『お』を『う』に変えて漢字変換キーを押す。今度は無事に『波浪』と表示され、その下に意味が出てきた。 「はー、なるほど、れっきとした日本語なんだ」 そりゃあね、と曖昧に答えておく。というか、他に答えようがないんだけど。 アスカが、今度は隣においてあるローマ字表とにらめっこをはじめた。 「このさー、ローマ字入力ってやつ、もうちょっと何とかならないの? アルファベットと音のつながりがいまいちピンとこないんだけど」 「そういわれても…それなら、あいうえお順のキーボードがついてる電子辞書を探せばいいんじゃないかな」 「それじゃ、パソコンのキーボードの配列と違っちゃうじゃない。これに慣れとかなきゃいけないんだから。あーあ、日本語って入力がメンドー!」 じゃあどうしろっていうのさ、とは口に出さずにおとなしくキッチンに戻ることにした。なおもぶつぶつと呟いている背中に一言だけかけておく。 「もうすぐご飯だからね」 「はーい」 珍しく素直な返事。やっぱり素直なアスカはらしくないな、と思ってしまった。 |
夕食が終わると手分けして宿題を片づける。最近じゃこの時間に一緒にやるのが恒例になっていて、僕はアスカがわからない日本語の担当、アスカは僕がわからないところ担当だ。これが思ったよりうまくいっている。さすがに大学を卒業してるだけあって国語以外はよく知ってるし、なにより教えるのが上手い。ときどき日本語でなんて言うのかわからなくなって英語やドイツ語が混じるのが玉に瑕だけど。 お風呂も入ったしあとは寝るだけ。と思っていたら、アスカがテレビゲームをやろうといってきた。なんでも洞木さんにハードとソフトを一緒に借りてきたんだそうだ。 「今日は徹夜よ!」 なんて、やたら張り切ってる。 僕はちょっとげんなり。いや、家事を手伝ってくれるならいいんだけど、どうせ明日は僕一人で掃除とかするんだろうし。で、その時アスカはぐっすり寝てるんだろうし。 まず2D格闘ゲーム。よくゲームセンターとかでトウジやケンスケとやるやつの移植版だけど、実はこの手のゲームは苦手だ。どうにも素早くタイミング良くコマンドを入れるっていうのができない。アスカは結構得意なのか、やたらとタコ殴りにされる。キャラを変えてもダメで十回やって一回くらいしか勝てない。三十回もやったところで僕はギブアップした。 次にサッカーゲーム。でも、アスカも僕もあまりサッカーに詳しくないから、当然ゲームもどうすれば上手くできるのかよくわからない。結局、一回やっただけで終わってしまった。 そして今は、落ちものパズルの対戦をしている。これは僕が得意なゲーム。ときどき携帯ゲーム機でも遊んでるやつだからコツはつかんでる。おかげで格闘ゲームと逆でほとんど僕が勝ちっぱなしだ。アスカは予想通り悔しがって何度も何度も再戦を挑んでくる。 とうとう対戦回数は五十回を超えてしまった。 「えー、まだやるのー?」 時計を見るともう二時を過ぎている。さすがに眠気で頭がぼーっとしてきた。 「もう一回だけ、ね?ね?」 「わかったよ。その前にちょっとトイレ」 負けず嫌いなアスカの性格からしてこうなることはわかってた。けど、わざと負けたりしたら烈火のごとく怒るのも予想済み。さてどうすれば解放されるか、と考えながらトイレから戻ってみると、アスカがコントローラを握ったまま、ぱたりと横に倒れていた。 一度、自分の部屋に戻ってタオルケットを持ってくる。 「しょうがないな、風邪ひいちゃうよ」 タオルケットを横倒しになった体にかけてあげる。それに気付いたのか目を覚ましてしまった。アスカは寝ぼけ眼をこすりながらゆっくりと身体を起こす。 「ごめん、起こしちゃったね」 「んー」 アスカは頭を横に振った。どうやら気にするなということらしい。 「もう眠いんでしょ。そろそろ寝よ」 「いいからやるのー」 体を起こし、半分寝ぼけた声でもう一つのコントローラを渡してくる。やれやれと思いながらそれを受け取り、アスカの隣に座った。 「ホントにやるの?」 隣からは返事のかわりに静かな寝息が聞こえてきた。見ると、スタートボタンに親指をかけたまま、まぶたを閉じているアスカの姿があった。 可哀想だけど、もう一回起こして自分の部屋で寝てもらおう。 そう思って立ち上がりかけたそのとき、アスカの身体が僕のほうに倒れかかってきた。 とっさに抱きとめる。はずが、止めきれなくて抱きかかえたままごろんと横になってしまった。 目に入ってくるのは、いつものリビングなのに、見慣れない天井。そっと見下ろすと、僕の腕の中にはあどけないアスカの寝顔。そして胸に感じる、温かい重さ。 どれくらいの時間そうしていただろう。 僕はどうするか、決めた。 まず身体をずらして、アスカの上半身を絨毯の上にゆっくりと横たえる。その横に自分の場所を確保してから、今度は二人一緒になるようにタオルケットを掛けなおす。寝乱れた髪を少し整えてあげて、ちょっと苦しそうな首の下に腕を入れてあげる。 眠くてぼーっとしていたせいかもしれない。 でもたまにはこんなのもいいと思う。 どうせ明日は休みだし、ミサトさんも帰ってこない。それに誰も見てないし誰も聞いてない。 「おやすみ、アスカ」 そう口の中で呟いて、僕も目を閉じた。 |
『おやすみ、アスカ』 リビングに仕掛けられた高性能マイクは、そのほんの小さな呟きすら聞き逃さなかった。 「はあ〜、シンちゃんもなかなかやるもんだわ」 耳にかけていたヘッドホンを外してノートを膝の上に置き、パイプ椅子に座ったまま伸びをすると、バキバキと背中や首から盛大な音がした。うあーいたー、と自分の気の抜けた声を合図にして立ち上がる。 「リツコー、二人とも寝たわよー」 ぅん、と可愛らしい声とともにソファーに寝ていたリツコが起きあがった。ミサトはさっさとその手に封が開いていないビデオテープを持たせる。 「それじゃ私も仮眠取るから、あとよろしくね」 「……まったく、諜報部に言って録画させればいいじゃない」 「それはできない相談ね。こっちから頭下げるなんて、わたしのプライドが許さないわ」 ここには最低限の設備しかない。モニタとヘッドホンだけ。録画再生する設備は皆無だ。 そうするとどうなるかというと、シンジ達を二十四時間チェックしようと思ったら、ずっと起きていなければいけないのである。そこでミサトは、起き続けなくてもいいようにビデオデッキをどこからか発掘してモニタにつないだのだ。 が、今では遺物となったテープでの録画は、テープの交換が必要になる。一回替えてしまえばしばらくは大丈夫だが、二人とも寝てしまうと寝過ごしてしまう可能性があるため、どちらか一方が起きていることにしたのだ。 おかげで二人ともミサトの部屋に詰めっぱなし。当然のように寝不足だ。 「減俸になったりしたらあなたのせいよ、ミサト」 「しーらなーいもーん。じゃ、おやすみ〜、三時間経ったら起こしてね〜」 リツコを押しのけるようにしてソファーに寝そべり、頭から毛布をかぶるミサト。諦めのため息をついたリツコは、さっきまでミサトが座っていたパイプ椅子に座り、携帯端末を取り出すと、ものすごい勢いでキーを叩きはじめた。 |
□ 「クェー」 どこか遠慮がちなペンペンの鳴き声に起こされた。 なぜか耳元でペンペンが鳴いている。 薄目を開けるとすぐ目の前に何かがあり、そして部屋の中はすっかり明るいようだ。 きっと朝ご飯が欲しいんだろう。けど、どうしてあたしの部屋の枕元にペンペンがいるのかがわからない。 シンジ、ペンペンがお腹空かせてるわよ、と思いながら目をこする。 しばらくして目の焦点が合うと、目の前にあるそれがシンジの寝顔だとわかった。 はい? 一体何が起こっているのかさっぱりわからない。 しばらく記憶を掘り起こして、今いるのがリビングで、ゲームをやってる途中で意識が落ちたのは思い出した。シンジの向こう側でゲームのデモが延々と流れているのがその証拠だ。 それはまあいい。 が、なんでシンジがすぐ横にいるのか。なんで一緒のタオルケットにくるまってるのか。しかも自分の頭の下には、シンジの左腕と思われる温かくて柔らかい物体。 どういう説明があればこれらが合理的に説明できるというのか。 結論。これは夢。 これでいっさいがっさい合理的に説明可能だ。 そう、これは夢。 だからもうドキドキしなくていいんだぞ、あたしの心臓! だけど、子供のようなシンジの寝顔からなんか目が離せない。目を離さないとドキドキが収まりっこないってわかってるのに。 ん、とシンジの唇から声が漏れた。今度は唇から目が離せなくなる。 触れてみたい。 そう感じたときには、左手が勝手に色の薄い唇に伸びていた。もうちょっと、もうちょっとで… シンジの目が開いた。最悪のタイミングだった。慌てて指をひっこめる。 お願いシンジ、まだ寝ぼけてて! 「あ、あすか。おはよ」 祈りかなわず、あっさりとシンジの瞳は焦点を合わせてきた。心臓が掴まれたかと思った。タオルケットを蹴り飛ばし、まだ眠っている身体に鞭打って起きあがり、後ろも振り返らずに自分の部屋へと駆け込んだ。 なんであんなタイミングで起きんのよ、バカァ! あたしは、心の中で叫んでベッドに突っ伏した。 自宅待機の日曜日。雨降りの日曜日。 いつもならずっと家でゴロゴロして退屈で退屈で仕方のない日曜日。 でも今日はあまり退屈しなかった。 ご飯食べて、テレビ見て、シンジが掃除して、ご飯食べて、お昼寝して、ゲームして、ご飯食べて。ずっとだらだらごろごろしてたけど、退屈はしなかった。 そして、朝の復讐の機会を窺うのも楽しかったし。 お風呂上がりが最大のチャンスなのだ。 リビングに顔を出すと、シンジはペンペンとならんでテレビを見ていた。 「またそんな格好で…ちゃんと服着てから出ろよなー」 シンジはこっちをチラッと見たあとですぐにテレビに視線を戻した。 きっと見えたのは、あたしのバスタオルを巻いただけの姿。ううん、耳が赤くなっているからぜったい見えたはず。 濡れた髪をタオルでまとめながら、シンジからちょっと離れたところに腰を下ろす。 朝にあんな恥ずかしい思いさせられたんだもん。ここでお返ししなきゃ嘘ってもんよ。 「別にいいじゃん、減るもんじゃなし」 「バスタオル落ちたら、とか思わないの?」 もちろんバスタオルの下はちゃんと服を着ている。ネルフでユニゾンの特訓をしていたときと同じ格好だ。でも、わざわざそれを教えてやることもない。 シンジの顔を下からのぞき込むように言ってやる。 「別に。あんたに見られたって恥ずかしくなんかないもん」 「こっちが恥ずかしいの!」 シンジは必死にこっちを見ないようにしている。ふふっ、思い通りにコトが運ぶのは愉しいものね。 あのときと同じように、四つん這いになって胸元を強調しながらシンジににじり寄る。 「じゃあ今度おフロ一緒に入ろっか? 一回ちゃんと見れば慣れちゃうかもよ」 ブンって音がしそうな勢いでシンジがあたしの方を振り向いた。視界いっぱいに広がるシンジの真っ赤な顔。その瞳はどこをみればいいのか迷って、泳ぎに泳いでいる。 「なっ…」 そんなシンジを見ていたらもう耐えきれない。ぷっ、と吹き出してしまう。 どうしても漏れてしまうくすくすという笑い声をなんとかこらえながら、最後のトドメ。 「なーんちゃって。本気にした?」 顔を赤くしたままシンジは自分の部屋へ、だだだっと逃げていってしまった。 少しして、バシンと勢いよく戸が閉まった音が聞こえてきた。 「ちょっとやりすぎたかしら」 ね? とペンペンに尋ねたら、首をかしげながらペンペンも自分の家へ帰ってしまった。 えっと… 仕返しもバッチリ決まったし、髪乾かしてさっさと寝よっと。 |
『ちょっとやりすぎたかしら』 そんなアスカの呟きを耳にして、ミサトは大きく息をついた。 「ふー、今日は大漁だったわねー」 「あら、まだ今日は終わってないわよ。もしかしたらもう一波乱あるかもしれないわ」 目以外で笑いながらリツコが茶化した。目だけが笑っていない、はっきりいってとても恐い貌なのだが、ミサトはノートになにやら書き付けながらしれっと答えを返した。 「シンちゃんにそんな度胸があると思う?」 リツコは一瞬考えるそぶりを見せたが、ゆっくりと首を横に振る。あんまりといえばあんまりな評価。だが非常に的確でもある。 「ま、深夜に荒い息遣いが聞こえてくる可能性は高いけど」 シンジが聞いていたら追い打ちになるようなリツコの言葉。それに対しミサトはイヤらしい笑みで続ける。 「あ、そういうのがあってもいいわね。っていっても、これは今までのパターンに含まれるか。それに二人の部屋には何も仕掛けてないから確かめようがない、と」 とりあえず会話はそこで終了した。 モニタの中に人影がなくなり、音も聞こえてこない。ノートの上を鉛筆が走る音だけが部屋を支配している。 ふいにリツコが疑問を口にした。 「前から訊こうと思ってたんだけど、ミサト、あなたどうして直接マシン上で描かないの?」 ミサトが手を止め、顔を上げる。そのちょっとやつれてきた顔に微苦笑が浮かんでいた。 「その方が楽ってのはわかってるんだけど、タブレットとかだとどうしてもうまく描けないのよ。線の修正くらいなら大丈夫なんだけど。慣れかしらね、やっぱ」 ふうん、とリツコは気のない返事をして、ぬるいコーヒーを口元に運んだ。 |
□ 「あんまり面白くならないものねー」 ミサトは、モニタの中に自分のマンションの全景を見ながら独り呟いた。エントランスホールに消えていく二人の後ろ姿を目だけで追う。 今日は朝からずっと見ていたが、ネタは少ない。 起きてから出かけるまでは変わりばえしない朝の風景。 登校時にトウジ君や洞木さん達と合流すると、同性の友達と話し込んでお互い目も合わさなくなるのが面白いといえば面白いくらい。 結局、諜報部に頭を下げて設置した教室の隠しカメラもあまり意味はなかった。二人ともマジメに中学生している。二人きりの会話の場面なんてほとんどない。 帰りは別々だ。友達同士で街で寄り道をするなら当然だろう。 お互い友達と別れてから途中の公園でばったり出くわしたりしたが、これは待ち合わせをしたわけじゃなくて単なる偶然。面白くも何ともない。 あとは夜に賭けるしかない。 久しぶりに入れたての熱いコーヒーを飲んでいると、インターフォンが鳴った。 ドアを開けるとリツコが颯爽とした足どりで部屋に入ってきた。諜報部に記録を取ってもらうことにしたので寝不足が解消したのだろう。 「ミサト、今日の収穫は?」 力無く首を振るしかない。 「そう、残念ね。まあ、まだ夜があるわ」 このことになるとリツコは結構優しい。残念なことにこれ以外、特に仕事のことになると優しさとか妥協とかいう単語が辞書から消え失せてしまうのだが。 「そうね。夜に賭けるしかないわ」 もうちょっとネタがないとページが埋まらない。適当に埋めてもいいが、それだとその数ページだけなんとなく浮いてしまう。いまいちストーリーの流れが良くないのだ。 こればかりはどうしようもない。 気を取り直してできることを先にやっておくことにする。 「あのね、リツコにお願いがあるの。あそこの端末で作業できるように、スキャナとタブレットの手配をしてくれないかな、って」 軽く両手を合わせてウインク。断るわけはないと思いながらも、つい低姿勢になってしまう。 リツコが本当に懐かしそうな顔で笑っていた。 「高くつくわよ。といっても、同人なんだし助け合わないとね」 「やったぁ! さっすがリッちゃん、愛してるわー!」 ふざけて抱きつこうとしたら、やんわりと拒否されてしまった。 「ちぇー、ケチ」 わざとむくれてみる。それでもリツコは楽しそうな笑顔を浮かべていた。 |
□ シンジがまたジジむさい番組を見ている。ペンペンとならんで、体育座りで。 水曜日は宿題が出ることはまずない。だからシンジはテレビを見ていられる。二人で宿題をやらなくていいから。 だけど、その姿を見ているとなぜかムカつく。どうしても何かいってやらないと気が済まない。だいたい『これで簡単!コレステロール対策』なんて番組がいますぐ役に立つの? きっとあたしが文句を言えば、別の番組に変えてくれる。でもそれじゃ胸のムカつきは収まらない。どうしてかわからないけど。 「シンジ、音おっきい」 「あ、ごめん」 イラ立ちまぎれについ文句をいってしまった。すぐにテレビの音は小さくなる。 ちがう。 あたしがしたいのはこんなことじゃないのに。 すこしだけ静かになったリビング。心の中でため息をつきながら、なんとなくそのまま、ぱたりと横になる。髪が顔にかかってちょっとうっとうしい。けど、そのまま横向きになったシンジの背中から目を離さないでいた。 ふいに、ぐるるー、とかきゅー、とか不思議な音が耳にとどいた。 体を起こして音のしたシンジのほうに近づく。 「ねぇ、今の何の音?」 「えっ…」 聞こえちゃった? というような表情でシンジがこっちを向いた。顔がちょっと赤くなっている。また、ぐるきゅー、とシンジのお腹から音がした。 「どうしてこんな音するの?」 「ええっと…食べた物を消化してるからじゃなかな、たぶん」 なるほど言われてみればそうかも。 なんだか、がぜん興味がわいてきた。よく聞きたくてシンジの背中に耳を当てる。 すると、さっきまでくぐもっていた音がはっきりと聞こえてきた。 ぐるるるー きゅー 「わー、おもしろーい! 体の中でいろんな音がする」 「ちょ、ちょっとアスカぁ、やめてよー」 そうシンジが言うと、今度は体の中でシンジの声が変な感じに響く。 おもしろい、おもしろい! ちょっと上にずれてよく聞くとシンジの呼吸に合わせて、ごごごごって音も聞こえるようになった。きっと聴診器で聞くのと同じなんだろうな。 「もっとなんかしゃべってよ」 「えー、なんでだよ」 それだけでもシンジの声が体の中で反響して、押しあてた耳に伝わってくる。 もっと耳を澄ますと別の音も聞こえてきた。 ドン、ドンともトン、トンとも聞こえるような、音。 同じリズムで力強く刻み続ける、音。 それは心臓の、音。 「アスカ、そろそろはなれて…」 「ちょっと静かにしてて」 シンジはあからさまに不満たらたらな顔をしてるはず。でも離してあげない。 せっかくシンジの心臓の音が聞こえるんだもん。離れるなんてもったいない。 目を閉じて、規則正しいリズムに耳を傾ける。 なぜかとても安心する。 でも、とてもドキドキしてくる。 素早くシンジのおなかに両腕を回す。今、何も言わないで逃げようとしたでしょ、あんた。ちゃんとお見通しなんだから。 いいじゃない、たまにはこんな時間があっても。 それともシンジもあたしの心臓の音、聞いてみたい? なんてね! |
『ちょっと静かにしてて』 アスカがそう言ったあと、二人の動きが止まってしまった。 今日のところはここまでかもしれない。しかし、このアスカがシンジを背中から抱きしめている絵だけでも十分ネタになる。数時間前のネタの無さからいえばお釣りがくるほどだ。 さっそくノートに今の場面を書き付けていく。 これでネームはあらかた終わった。まだ埋まってないところもあるけど、まあ週末まで時間はある。とりあえずはネームを端末に取り込んでおかないと。これからはコンピュータ上での作業だ。 リツコが調達してくれた高解像度スキャナとちょっと古めのタブレットは、すでに端末に接続してある。スキャナは倉庫に『置いてあった』のを拝借、タブレットは知り合いから借りてきたんだそうだ。わたしには、ちょっと古い方が使いやすいでしょ、とのこと。 まだ試していないからよくわからないが、リツコの話によると昔の頃とは画像ファイルのフォーマットも進化していて、だいぶ扱い方も違うそうだ。まずはそのあたりに慣れないといけない。 リツコがなにやらお手伝いソフトを作ってくれているから、きっとそれを使えばお茶の子さいさいなんだろうけど。本当にリツコ様様だ。 一つ伸びをして、作業を始めることに決めた。 まずは一ページ一ページ、スキャナで丁寧にノートを読み込んでいく。 読み込んだ画像の傾きや歪みを確認して、うまくいってなかったらやり直し。 この調子だと、また徹夜になるかもしれない。 だがそれもまたいいのだ。 思わず鼻歌を歌いながら手を動かしてしまう。 結局、この単調な読み込み作業が終わったのは夜明け前のことだった。 |
□ 「なによあれ。あれじゃ全然使えないじゃない」 ミサトはイラだちを隠そうともしない。ついさっきシンクロテストが終わったばかりだ。これからはいつも通り、赤城博士の部屋でのテスト評価だ。そのへんの空いている椅子に適当に腰を下ろす。 思い出してもムカつく。二人っきりならあんなにじゃれついてるシンジとアスカが、ネルフにいる間ずっとそんな素振りを見せもしなかった。あれじゃまるでお堅い会社の社内恋愛みたいなものだ。 「仕方がないわよ。衆人環視の中じゃ」 「でも、もっといちゃついてもらわないとこっちが困るわ」 「問題発言ね」 笑いを含んだリツコの声。咎める様子は微塵も感じられない。リツコは目にもとまらない速さでキーボードを叩きながら続ける。 「実際、あのコたちにパイロットとしての自覚が出てきたのは喜ばしいことよ。結果として、私達が勝つ可能性が高くなるわけだし」 「ま、そりゃそうなんだけどさ」 ミサトは頬杖をつく。 リツコの言い分が正しい。 それはわかっているが、せっかく自分の目で実際にアレを見られると思ったのに、という悔しさが残る。それに、もうちょっとネタを提供してもらわないと苦しいのだ。 いっそのこと『いちゃつき許可令』でも出してやろうかなどと、ミサトの頭に変な考えが浮かんでしまう。 「なるようにしかならないわ、他人のことなんて。で、そっちの進捗はどう?」 「ネームのスキャンは描きかけ以外全部終了。いちおうマシン上でペン入れ開始したわ。あのお絵かき支援アプリがあると楽ね。昔の苦労がウソみたいよ」 リツコがたった一日で作った支援アプリは、ネームの状態から完成一歩手前までマンガを仕上げてくれるうえに、写植もいじれる優れモノだ。 リツコによると、なんでも描き手のクセを見抜けるらしい。サンプルとしてその人が描いたマンガがあらかじめ必要になるが、それについては以前の作品があるので問題なかった。MAGIの上で走るから速いし、まさに文句なし。あとはタブレットで線を直して、トーンを貼り付ければおおよそ完成だ。 アプリの便利さはともかく、才能と技術と時間の使い道がすこし間違っている気がしなくもないが、ミサトはあえて指摘しないでおいた。 「今回はカラーじゃないのよね」 「ええ、さすがにそんな時間はないわ。ホントは色つけたかったけど…」 「じゃ、私のほうで表紙と奥付は作っておくわ。ちなみに、残りは何ページくらい?」 「あと一エピソード、四ページくらい入れたいと思ってるんだけどねー」 「それなら問題ないわね。落とす心配はなし、と。ネットに新刊情報上げておくわ」 休んでいたリツコの両手が再びキーボードを叩きはじめる。 「で、何部、刷る?」 ポン、と最後のキーを叩くと、リツコは椅子を回転させてミサトと向き合った。 ミサトが足を組みかえる。腕を組んで瞑想するようにまぶたを静かに閉じ、数瞬後ゆっくりまぶたを上げた。 「千五百ってところかしら。復帰第一弾だし」 それにしては若干強気な設定に、リツコの眉がぴくりと上がった。が、すぐに小さな笑みが浮かぶ。 「そうね。それでいきましょう。前と違って置き場所に困ることもないし」 売れ残った段ボールを安アパートに持って帰り、次の機会まで埃をかぶるままにしておくのは物理的にも精神的にもかなり堪えたものだ。そんな時代を懐かしくさえ思う。 それにネルフの印刷機と製本機を使えば印刷代もタダだし、ぎりぎりまで原稿を遅らせることができる。手間はかかるが。 「売り子の手配は?」 「マヤに休みを取らせてあるわ。彼女の友達も手伝ってくれるそうよ」 「まったく問題ないわね」 「ええ、まったく問題ないわ」 「完璧ね」 「完璧よ」 ニヤリとイヤな笑みを交わす二人の美女。 いよいよ今度の日曜日。現場に行けないのは残念だが、充実感が削がれることはない。むしろ、あの高揚感を少しでも味わえるのかと思うと知らず笑顔になってしまうのだ。 どちらかというとイヤな笑顔になってしまうのがちょっとご愛敬だが。 |
□ ふすまを開けると、淀んだ空気が流れ出てくる。勇気を出して部屋の明かりを点けた。青白い光に照らされ雑然とした部屋が浮かび上がる。一歩、足を踏み入れ、そして少年は盛大にため息をついた。 「まったく…掃除する方の身にもなってほしいよ」 シンジは独りごちると、しわくちゃのままになった布団を抱えて部屋から運びだす。 バラバラと布団の上に置いてあった雑誌や脱ぎ散らかした服が落ちるが、まったく意に介さない。持ち出した布団をバルコニーの物干し竿にかけると、再び部屋に戻ってくる。 「ミサトさん、もうちょっとなんとかしてよ…」 シンジはもう一度ため息をついた。雑然とした部屋。男の一人暮らしと間違われても仕方のない乱雑さ。車雑誌があちこち所狭しと積み上げられ、その上にCDやMDが何枚も置かれている。車のパーツと思わしき金属の塊。ビールの空き缶が入ったコンビニの袋。わけのわからないキャラクターが描かれたわけのわからない小物。脱ぎ散らかした服の中にブラジャーが混じっていることでようやく女性の住人がいる可能性が出てくるありさま。シンジでなくても思わず愚痴も出ようというものだ。 おまけに今日は日曜日。 できればこんな部屋の掃除なんぞで貴重な時間を潰したくない。 しかしシンジとしては、今回ばかりは仕事に免じて許してあげたい。ミサトは先週ずっとネルフに詰めっぱなしだったのだ。 昨日の夕方、目の下にくまを作ってふらふらになりながら帰宅してきた姿を見てさすがに心配になった。思わず、あまり無理しないで下さいね、と言ったら、心配してくれてありがとう、と弱々しい答え。よけい心配になった。 もっともその直後、部屋で着替えたと思ったら、部屋の掃除を押しつけたあげく、これから打ち上げだ〜、と言い残して家を出たまま今もって帰ってこないというのはどうにも納得がいかないのだが。 愚痴はさっきので打ち止めということにして、部屋の整理にかかる。 シンジから見てガラクタと思えるものは、原材料別に分別して大きなゴミ袋にまとめる。こうすればモノはまとまるし、必要とあればすぐに捨てることも可能だ。 雑誌はとにかくビニール紐で縛ってはじっこへ。服はもちろん洗濯機行き。畳の上があらかた片づいたところで掃除機をかける。 一応、これで下はおしまい。 次は机の上だ。 書類やらなにかのマニュアルやら車のハンドルやら部品やらが雑然と積み重なった上に、ノート型端末が乗っている。 いまは閉じられているその上に、一冊の大学ノートが置いてあった。 シンジの呼吸が一瞬止まった。 忌まわしい記憶が甦る。ここに住んで間もないとき、同じように『サードチルドレン監督日誌』というノートを机の上に見つけ、中を覗いてしまった。あのときの喪失感失望感をどう言い表すことができるだろうか。 今ではミサトを信頼している。 それでも、いや、だからこそ、ノートの内容が気になる。 表紙には何もないそれを手に取る。 他愛のないことが書いてあればいい。仕事用のノートでもいい。ちょっとヒくけど自作詩集でも、まあいい。 もし、そうじゃなかったときは? どうする? シンジは震える指先を押さえながら、ゆっくり表紙をめくり―― 「ねぇー、シンジ。そっちは終わった?」 シンジに頼まれたリビングとキッチンの掃除は終わった。掃除機を片づけてミサトの部屋に歩いていく。 納得いかない。まったくもって納得いかない。 あのぐーたら女が昨日呑みにいったまま帰ってこないことも、その部屋の掃除を頼まれたことも、シンジがそれを快く引き受けたのも、自分がそのあおりでいつもシンジが掃除しているところを掃除しなくちゃならないことも、全部ぜ〜んぶ納得いかない。 納得できたのは、ミサトが忙しかったという事実と、シンジの『手伝ってくれたらそのあとどこへでも付き合う。僕のおごりで』という言葉だけだ。一時間におよぶ粘り強い交渉の結果ようやく得られたシンジの言葉には非常に満足している。 しかし、しかししかし、忙しかったというだけでなんでも免罪できると思っているぐーたら女の存在自体についてはイマイチ納得いかない。 納得いかないことだらけだ。 「ねーってばー」 時計を見るともう十一時半を回っている。どんなに急いでもいまからじゃ午前中に家を出ることは無理だ。はぁ。なんだか力が抜ける。 ぐーたら部屋の入口に立つ。 「返事くらいしなさいよっ」 ぼーっと突っ立っているシンジの背中にそういってやった。 いつものように、ごめん、ってこっちを振り向くと思った。 ところがシンジは、手に持って見ていた何かを背中に隠すようにしてこっちを向いて、な、なに? なんていいやがる。加えていうなら、かなり慌てた様子で。 何も言わずにシンジに近づく。その慌てっぷりからして、あたしには絶対に見せたくないモノを持っているのは確実。だから絶対見る。見てやる。 ア、アスカ、そっちの掃除は終わったの? なんて愛想笑いを浮かべてもあたしに効かないのはわかってるでしょ。アスカ、バンダナも結構似合ってるね、なんて…掃除するからバンダナで髪を押さえておいたんだけど……ちょっとぐっときたかも。いやいや、それとこれとは別問題。シンジ、覚悟。 シンジの瞳をのぞき込みながら抱きつくように両手をシンジの背中にまわす。そしたら、ひっ、なんて悲鳴を上げた。失礼ね! 取って喰いやしないわよ! 大した抵抗もなく奪い取ったそれを目の前に持ってくる。 なんの変哲もない大学ノート。 顔を上げてシンジを見ると、腕を組んでどことなく面白くなさそうな表情。あれ、もしかして怒ってる? でも、あたしに怒っているわけじゃないらしい。 改めてノートの表紙を見てみる。その空色の表紙には特に何も書かれていない。 シンジの態度からして、なんだかさっぱり見当つかないけどかなりの内容なのだろう。 しかもあたしに見せたくないような類のもの。だからか、シンジの顔を見てるうちになんだか見たくなくなってきた。でも、奪い取った手前、そのまま返すのもなんかヤダ。でもでも… さんざん迷ったあげく、あたしは、思い切って表紙をめくった。 そこには――枠線と、迷い線だらけの絵と、手書きの台詞がならんだ―― マンガがあった。 ともに両親の仕事の都合で 同じ屋根の下で暮らすことになった 二人の中学生 シンジとアスカ はじめのうちは反目していたが 時が経つにつれ互いに理解しあい いつしか惹かれあうようになる二人 家のリビングで 台所で お互いの部屋で 学校で 街中で 公園で 河原で もどかしい触れ合いを重ねる 突然の親からの無情な別離の宣告 お互いの気持ちを確かめあい もう離れない そう誓った二人 そして二人は禁断の扉を――― その先はとても読めなかった。 このマンガには、実際に自分が体験した場面があまりに多い、多すぎる。 なぜか? そんなのはわかりきってる。ヤツの仕業だ。葛城ミサト… いつのまにか視界が紅く染まっていた。演技でも、一時の癇癪でもなく、純粋な怒りが胸の奥底から沸き上がってきて、それが視界を紅く染めている。 こんな気持ちになったのは生まれて初めて。 「ア、アスカ、落ち着いて、ね?」 言われなくてもわかってるわ、シンジ。 我ながらものすごい勢いでシンジを脇にどけると、机の上にミサトのノート型端末が置いてあるのが目に入った。 試しにそれを立ち上げてみる。 ここにこんなラフが無造作に放ってあるなら、きっとこっちには清書したデータが入っているに違いない。以前、ちょっと失敬したミサトのパスワードでログインする。数秒後、端末は無事立ち上がった。 「あのー、それってさすがにマズイんじゃないかな」 るっさい! バレなきゃ構いやしないわよ! あとはファイルの更新履歴を調べるだけ。すぐに目的のファイルが見つかった。画像ファイルが連番で六十四個。日付はばらつきがあるけど、全部この一週間の日付。一番から順に表示していく。間違いない、さっきのラフの清書だ。白黒だけど、枠も線も絵も文字も綺麗になって、雑誌に載っているマンガと同じよう。しかも表紙まである。とても凝ったつくりだ。これであたし達そっくりな『シンジとアスカ』が出てこなけりゃ、心底感心したと思う。 半分から後ろは、とてもシンジと一緒に見れるような内容じゃなかった。ざっと目を通しただけでもハダカのヒトがアレやらコレやらしてるのがわかる。 なんとなく気まずいものを感じながら最後のファイルを開く。 それは本の奥付になっていた。今日の日付とよくわからない漢字の名前が記されている。 そしてその背景に大きくこう書いてあった。 十八禁 こめかみの辺りで何かが壊れた。 「うふ」 さっきまで声なんて出せなかったのに、今では笑いが勝手にこみ上げてくる。不思議よね。 「うふふふ」 心と口が直結して、感じたことがすぐ言葉になる状態ってやつかしら。愉しいわ。 「うふふふふふふふふふ――」 いまはとにかく笑え、嗤え、とココロが叫んでいるのよ。 もう止まらない、もちろん止めるつもりもない。 「あはははははははははー! ミサト! ころす、絶対コロス、殺してやるぅ!」 「ああああ、アスカ! ダメだって、落ち着いてってば!」 玄関に向かって駆け出したあたしの身体にシンジがしがみついてきたところまでは記憶している。 そのあとの記憶はあまり、ない。 |
□ 「いい、アスカ。冷静に冷静に、ミサトさんと話し合ってね」 さっきからシンジは同じ言葉を繰り返していた。ネルフに着いてミサトの部屋に向かっている途中、何度も何度も。 「わかった、わかってるってば。しつこいなー」 「…そりゃ、しつこくもなるよ……」 愚痴るようにそう言ったシンジの右目の周りは青く腫れている。さっきアスカの肘がクリーンヒットした場所だ。シンジは無言で左腕をさする。さっきアスカが噛み付いた場所だ。 「だーかーらー、さっきからごめんっていってるでしょ。おごりの約束もチャラにしてあげたんだし。シンジ、あんたちょっと心が狭いわよ」 アスカに言われたかないよ、となおもブツブツ言っているシンジを、アスカはさらりと無視する。 ミサトの居場所を特定するのは骨が折れた。 携帯に電話しても当然のように繋がらないし、発信器を持たせてあるわけでもない。ミサトの姿を求めて二時間以上街を駆けずり回った。行きそうな飲み屋やカラオケ屋やブティックを回ってみたが手がかりは無し。あてもなくネルフに来て、当直で発令所にいた日向さんに聞いてみたら、あっさりと居場所が判明したといった次第だ。 「はじめからネルフに来ればよかったね」 「……うるさいなー」 いよいよ葛城三佐――いや、葛城ミサトの部屋の前まで来た。 アスカはドアの正面に立つ。そして一つ深呼吸。意を決してインターフォンのボタンを押す。 『はぁ〜い、どなたぁ』 だらしなく陽気な声が小さなスピーカから聞こえてくる。アスカは額に手をやり一息おいてからでないと返事ができなかった。シンジはそんなアスカの背中をはらはらしながら見守っている。 「アスカよ。話があるの」 『どぉ〜ぞ〜』 シュッ、という音とともにドアの幅だけ視界がひらけた。書類に埋もれた机のさらに向こうにミサトの顔がのぞいていた。やや化粧が落ち、疲れがみえるそれは呆けた表情。有り体にいえば間抜けな表情をしている。 それを認めてアスカの顔がいっそう引きつった。その顔を隠そうとせず、アスカはつかつかとそこへと近づく。 「ミサト。これ、なに?」 ノートを前に突きだす。 机の向こうから手招きされる。アスカは伸ばしてくる手がギリギリ触れないところで止まる。必死にノートを掴もうとする手を冷めた目で見ながら、アスカはもう一度訊いた。 「ミサト。これは、なに?」 ミサトの顔にごまかし笑いが貼りつく。 「えへへー、なんでしょー?」 「あたしとシンジをモデルにしたマンガの下描きでしょ」 あったりー、と冷や汗をかきながらも軽く答えるミサト。アスカの背中でシンジが即応体制に移った。 「悪いけど、清書のほうも見せてもらったわ」 ミサトの顔がはじめてはっきりとこわばった。みるみる血の気が引いていくのがわかる。 「どうしてあんなもの描くのかわからないし、わかろうとも思わないわ。それにどうやってあたし達のことを覗いていたかもだいたいわかるし、そのことに関してはそんなに怒ってない。それも仕事の内だし。でもね…」 「わ、悪かった。二人をネタにしたのは悪かったわ。でもほら、恋愛物には十八禁のシーンはある意味、必要悪ともいえるわけで…」 「そんなことで怒ってるんじゃない。あたしが怒ってるのは――」 蒼い瞳がこれ以上ないくらい危険な色を帯びる。 「なんであたしが男になってんのかってことよっ!」 「なんだ、そんなことか」 さも当然といった風に、しかもつまらなそうにミサトは即答した。 襲いかかろうとするアスカをシンジが慌てて羽交い締めにする。落ち着いて落ち着いて、とシンジが必死になだめるが効果はない。 「そんな、こと、っての、は、どう、いう、イ、ミ、よ」 怒り心頭に達したアスカの口からは、もはやまともな言葉が出てこない。 「意味もなにも、そりゃあ…」 「需要がないからよ」 とつぜん背後からハスキーな声。アスカもシンジも自分達がどういう状態か忘れて声のした方に振り向いた。そこには、きれいな金髪にばっちり寝ぐせをつけ、よれよれのジャケットとタイトスカートを身にまとった赤城リツコの、あらゆる意味で珍妙な姿があった。 「需要?」 心底わからないようすのシンジ。 ミサトがそのあとを受けた。 「そう、男女の恋愛ものなんて商業誌にはたくさん転がってるわ。はっきりいって食傷気味。いや、もうすでに飽きられているわ。今、時代の最先端にいる女子が求めるものは、美男子同士のアブノーマルな禁断の恋なのよ! これすなわち、YA・O・I! ヤオイこそ我らが同人界に棲息する者のオアシス! 楽しんだら楽しませる! ギヴ・アンド・テイク! これを供給できない輩は生きる価値無しっ!」 だんだんと興奮の度合いを高めながらミサトは短い演説を終えた。おそらく子供達にとって理解の範疇外の演説を。 「言い残すことは――」 あっけにとられていたシンジの動き出しが致命的に遅れた。アスカはすでにモーションに入っていた。思いっきり左足を踏み込み、振り上げた右手を、机の向こうに振り下ろす。 「それだけかぁっっっっっ!」 渾身の右フックがミサトの左こめかみを捉えた。深紫色の髪が振り乱され、大量の書類を巻き込みながらもんどりうって吹っ飛ぶ。その身体は、すぐに机の影になって見えなくなってしまった。 「あんたも、同罪っっっ!」 アスカはすぐに体勢を立て直し、ぼーっとつっ立っている金髪との距離を一気に縮め、右ハイキックをお見舞いした。体重の乗り切ったキックが、これまた左のこめかみにクリーンヒットする。ゆっくりと、スローモーションのように崩れ落ちる金髪。膝から落ちているあたりにダメージの深刻さを感じさせる。 「シンジ! 帰るわよ! こんなとこにいたら、あたしまで腐る!」 ずんずんと足音を轟かせながら部屋を出ていく後ろ姿を、シンジはため息をつきながらゆっくりと追いかける。 ドアのところまで来ると、部屋の中を振り返って一言。 「自業自得ですからね」 そういって去っていった。 |
□ 「エライ目にあったわね」 メンソールを燻らしながら、しみじみとリツコが呟いた。左手に握られたアイスノンがこみかみに当てられている。ちなみに寝ぐせはついたままだ。 「そうね。エライ目にあったわ」 嬉しそうにそう答えるミサトの頭には大きなアイスノンが巻き付けられている。どうやら吹っ飛んだ際に右側頭部を強打したようだ。体を動かすと痛みが走るのか、ときおり顔をしかめて頭を押さえている。 「でも、ま、予想の範疇内の反撃ではあったし、まだ被害は軽いほうだと思うわ」 「そうね、確かに」 それを聞いたリツコの顔に痛々しくも嬉しそうな微笑み。こちらもときどき顔をしかめているところからダメージが抜けきっていないようだ。 実際、アスカとシンジに製本したものを見られていたらと思うとぞっとする。 ミサト作のマンガはすでに全部読まれているから構わないにしても、リツコ作の十八禁小説を読まれていたらどうなっていたかわからない。マンガの続きということで、一線を越えたアスカ(男)とシンジが怠惰で淫靡な日常を過ごす様を、あますところなく、それこそ一片の妥協もなく、徹底的にリツコが書いたのだ。たった三日で。しかも、レイがモデルとおぼしき男の子まで登場してドロドロの関係になっていたりする。さすがに中学生に読ませられるような内容ではない。 突然、部屋に電子音が鳴り響いた。リツコがハンドバックの中から携帯電話を取り出す。 「もしもし」 『もしもし、伊吹です。連絡が遅れてすいませんっ! 発信制限がかかっちゃって』 周りの人混みから発せられるざわざわという音が携帯電話のスピーカーを通してもよく聞こえてくる。マヤの声が少々聞き取りづらい。 「首尾はどう?」 『はい、特に問題なく無事に終わりました。本の方も十四時には完売しました。あと、予約された方でまだ取りに来てない方がいますが、それ以外はもう残部なしです』 「わかったわ、どうもありがと。今日は朝早くから悪かったわね」 『いいえ! 先輩のお役に立てて嬉しいです。それに本もタダでいただけましたし!』 マヤの声がより一層大きくなった。 『あれ、さっそく読みましたけど、すごくよかったです。最近では一番かもしれないです。先輩も葛城さんもこの世界でスゴイ方だったなんて、わたし全然知りませんでした。友達もすごく喜んでます』 「喜んでもらえるとこっちも嬉しいわ」 すごいすごいを繰り返すマヤに思わず苦笑が漏れてしまう。 「それじゃ、あとは撤収だけね。よろしくお願いするわ。それから、かかった経費は後で請求してね。帰ってきたら打ち上げしましょ」 『はい、わかりました。楽しみにしてます』 そうして電話は切れた。 ミサトが右手を差し出してきた。リツコががっちりとそれを握る。志を同じくする者の心の通い会った握手だった。 「リツコ、一本もらえるかしら」 「あら、珍しいわね」 「ま、久しぶりに同人やったんだし、記念にね」 「やめてから、もう何年経つの?」 「大学出てからはほとんど。だから七年くらいになるのかしら」 リツコが紙箱を叩いて器用にメンソールを一本差し出す。ミサトがそれを取り口元へ運ぶと、ジッポを持ったリツコの手が伸びそれに火を付ける。ミサトは深く深くメンソールを吸い込むと、胸の中の達成感を味わうようにゆっくりと紫煙をはきだした。 「ありがと」 「どういたしまして」 しばらく無言でメンソールを愉しむ二人。灰皿から細く煙がたなびき、肺から吐き出された薄い煙が天井の近くにたまっていく。空調が動き出すと、たまっていた煙がかき乱され、渦を巻き、しだいに薄れて消えていく。 と、不意にミサトがくくくっ、と忍び笑いを漏らしはじめた。 「やっぱりやめらんないわね、同人は。この感覚は仕事じゃ絶対味わえないわ」 リツコはメンソールを灰皿でもみ消した。微苦笑が漏れる。 「そうね。仕事とはひと味違うわね」 「やめられんない」 「ええ、やめられないわ」 「次もやる?」 「当然ね」 二人の笑い声はしだいに大きくなっていき、部屋の外へと漏れていく。 この後、葛城三佐の自室に近づく者はほとんどいなくなったという。 ごくごく一部の女性職員を除いて。 < FIN >
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